2007年11月07日

No. 114

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.114 2006/11/03


------短期連載シリーズ-----------------------
アヴィセンナの影響について〜ゴアションの講義から(その5)

存在をめぐるアヴィセンナの理論は、ラテン中世に伝えられてからの2世
紀にわたって影響を与え続けるわけですが、その受容のメルクマールの一
つにはアルベルトゥス・マグヌスその人があります。彼は天使をめぐる考
察から(天使に質料を認めないという立場から)、アヴィセンナ的な
quod est(本質)とesse(存在)との区分の議論へと向かいます。天
使、すなわち純粋な知性的存在は、果たして本質と存在から成っているだ
ろうか、というわけです。

何度か前に触れたように、ボエティウスのid quod est(何性=本質)と
quo est(存在)との区別は、具体的な事物(質料と形相から成る)を対
象としたもので、しかも両者の区分は実はさほど明確でもありませんでし
た。そこでアルベルトゥスは、アヴィセンナの考え方を採用して、両者の
定義を明確化しようとします。そもそも天使の場合には存在はおのずと必
然なものではないかもしれないと考え、そこから、quod est(本質)は
あくまで可能態であって、quo est=esse(存在)によって実在にいたる
のだと解釈します(これはまさしくアヴィセンナの分析です)。こうする
ことで、両者の区別はいっそう明確なものと位置づけられたのでした。

とはいうものの、アルベルトゥスの用語法もまた揺れているようで、ゴア
ションは、quo estが「形相的原理」として用いられるケースも見られる
ことを指摘しています。で、そうした用語をさらに整理し確定するのがト
マス・アクィナスということになります。トマスもまた、ボエティウスの
用語法を厳密に定義しようとします。ボエティウスにおいては、quod
estは存在を有する主体、quo estはその形相だと解釈するトマスは、純
粋な知的存在(天使)にはそのままでは適用できないとして、むしろquo
estを一般化することで、知性的存在にも質料・形相から成る事物にも適
用できるようにするという方途を探ったのでした。

こうしてquo estは「存在」(esse)という用語に置き換えられ、一方の
id quod estのほうも、「本質・何性」(essentia、quidditas)に置き
換えられることになります。トマスの場合、本質と存在に可能態と現実態
を絡めたアヴィセンナの分析をさらに厳密化しています(本質の可能態の
有りようが、質料の可能態の場合とどう違うかなど)。そのため、たとえ
ばアヴィセンナが本質に対して存在を偶有にすぎないとして低く見ている
のに対し、トマスは、存在を単なる偶有性と見なしてよしとはしません。
天使論から議論を進めていることが大きく影響していて、天使においても
主体(すなわち本質)は具体的に(質料から成るわけではないにせよ)存
在すると考えるからです。ゴアションは、トマスにおいても(アルベル
トゥスもそうですが)アヴィセンナ同様、本質と存在の区別は単に論理的
なものではなく、現実的なものとして考えられていると述べています。そ
の上で、存在の意義を重視するトマスの現実理解は、アヴィセンナのもの
より深いとの評価を下しています。

アヴィセンナは、「存在」は感覚的な経験から得られるものとしているよ
うですが、一方で、仮に感覚がなかったとしても、人間の精神はやはり存
在を捉えることができるだろうとも述べています(デカルトの話ついでに
よく引き合いに出される、有名な「空中人間」の思考実験ですね)。存在
が人間精神においてある種のプライオリティを持っているというこの考え
方から、中世のもう一つの趨勢ともなるドゥンス・スコトゥスの「存在の
一義性」の議論が出てくるわけですが、そのあたりは次回(笑)。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ピンポイント文法復習(その1:冠詞)

今回から20回くらいを目処に、ギリシア語の文法事項の整理をピンポイ
ント的に行ってみたいと思います。前回まで約10回ほど「ハリー・ポッ
ター」古典ギリシア語版を読んでみましたが、英語からの訳として様々な
技法を駆使していました。少しでもその域に近づきたいところです
(笑)。というわけで、ここでは英国のパブリックスクール用のギリシア
語作文テキスト、North & Hillard, "Greek Prose Composition",
Duckworth, 2003
を用いることにします。毎回、ここからトピックスと
例文を抽出してまとめていきましょう。

今回は1回目ということで冠詞の復習です。冠詞のポイントの一つに、英
語などでは関係代名詞的な意味で表すものを、冠詞を同格的に用いて表す
という用法がありました。たとえば「私たちは都市国家のために命を落と
した兵士たちを讃える」という場合、次のようになります。

1. timo^men tous stratio^tas tous huper te^s poleo^s
tethne^kotas

「都市で命を落とした兵士」の部分ですが、tous stratio^tasを冠詞で同
格に受けて、それに分詞句をもってきています。もう一つ例文を上げてお
きましょう。「アテナイ人たちは国を裏切った女を殺した」

2. hoi Athe^naioi apekteinan tas gunaikas tas te^n polin
prodousas.

ここでも名詞の後に冠詞が繰り返され、分詞句が続きます。これが通常形
ですが、一方でギリシア語の冠詞は、冠詞単独+分詞(または形容句)で
「〜する人」を表すことができるのでした。hoi legontesというと「話
す人」、oi tethne^kotesで「死んだ者(=死者)」という感じです。分
詞句に目的語などを入れれば、先行詞が不特定多数を表す関係節も同じよ
うな形で表現できることになります。「私たちはギリシアを解放した人々
を讃える」を上と比較してみてください。

3. timo^men tous te^n Hellada eleuthero^santas.

「通りに立っていた人々は逃れた」ならこうなります。

4. hoi en tais hodois heste^kotes eksefugon.

先行詞が関係節の目的語になっているような場合に相当する文はどう作れ
ばよいでしょうか。たとえば「私たちが従う将軍は勇敢だ」というような
場合です。こういう場合には、やはり普通に関係詞を用いるのがよいよう
です(笑)。ここではpeitho^が補語として与格を取るので、関係詞は与
格になっています。

5. ho strate^gos ho^i peithometha estin andreios.

ギリシア文字での例文表記は、http://www.medieviste.org/blog/
archives/GC_No.1.html
に掲載しておきます。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その12)

今回からアルベルトゥスの「原因および第一原因からの世界の発出につい
て」第1書第4論の最終章、第8章に入ります。壮大なコスモロジーの一端
ですね。ではさっそく取りかかりましょう。

# # #
De ordine eorum quae fluunt a primo principio, secundum omnem
gradum entium universorum

His itaque praelibatis ordinem universi esse secundum omnes
gradus existentium, secundum quod fluunt a primo principio, non
est difficile videre. Nemo autem arbitretur, quod de ordine
temporis aliquid loqui intendamus, -- opiniamur enim omnia simul
facta esse -- sed loquemur de ordine naturae, quo inferius semper
casus quidam est superioris et inferius incipit, ubi lumen aliquo
modo occumbit superioris. Supponentes autem propositionem,
quam omnes ante nos philosophi supposerunt, scilicet quod ab
uno simplici immediate non est nisi unum secundum naturae
ordinem. /

Hanc enim propositionem nemo umquam negavit nisi Avicebron in
Fonte vitae, qui solis dicit, quod ab uno primo simplici immediate
duo sunt secundum naturae ordinem eo quod in numeris binarius
sequitur unitatem. Supponimus etiam, quod intellectus
universaliter agens non agit et constituit res nisi active
intelligendo et intelligentias emittendo. Et dum hoc modo
intelligit, seipso rem constituit, ad quam lumen sui intellectus
terminatur. Dum ergo primus intellectus universaliter agens hoc
modo intelligit se, lumen intellectus, quod est ab ipso, prima
forma est et prima substantia habens formam intelligentis in
omnibus praeter hoc quod ab alio est.

世界の全存在の等級にもとづく、第一原理より発するものの秩序について

以上のことを吟味したからには、全存在の等級にもとづく世界の秩序があ
り、それにもとづいて第一原因からの流出がなされることは容易に見てと
れるだろう。しかしながら、私たちが多少なりとも時間の秩序について述
べようとしていると考えてはならない−−私たちとしては、あらゆるもの
は同時に創られたのだと考えているのだから。そうではなくて、私たちは
自然の秩序について述べているのだ。そこでは下位のものは常に上位のも
ののから下り、下位のものは上位のものの光がなんらかの形で翳るところ
から始まるのである。しかしながら私たちは、私たちに先立つあらゆる哲
学者たちが考えていた命題を前提としよう。すなわち、単一のものから直
接もたらされるのは、単一の自然の秩序以外にない、ということを。/

この命題をこれまで否定したのは、アヴィセブロンの「生命の泉」をおい
て他にはない。彼は唯一、原初の単一のものからは、自然の秩序にもとづ
いて直接に二がもたらされると述べている。数字においては二性は一性に
続くからである。私たちはさらに次のように考えよう。あまねく働きかけ
る知性が、働きかけをなし事物をしつらえるのは、能動的に知解するとと
もに(各種の)知性を放出することによってでしかない。また、そのよう
な形で知解する際、その知性はおのずと事物をしつらえ、それによってそ
の知性の光は果てにまでいたるのである。さらに、あまねく働きかける原
初の知性が、かようにみずからを知解する際、それ自身から生じる知性の
光は、第一の形相、第一の実体をなし、他より生じたものを除く一切にお
いて、知解のための形相をもつのである。
# # #

便宜的に改行しています。原文が改行していない場合には、スラッシュを
入れることにしました。この冒頭の一節を読むと、第一原因からの流出は
時間の中で展開するのではなく、秩序だったものとして一度に空間的に構
成される、ということになりそうです。スラッシュで区切った一段落目の
最後の部分は、一からは一しか生まれないという発出論のテーゼです。
「同種のものからは同種のものしか生まれない」というアリストテレスの
テーゼに、新プラトン主義的なデミウルゴス的宇宙開闢論が融合した格好
のテーゼで、プロティノス以降の中心的な思想としてラテン中世へと伝え
られていくものでした。

これに異を唱えた者としてアヴィセブロンの名が挙がっています。ちょう
ど最近、イタリアの人文系の老舗ボンピアーニから羅伊対訳で『生命の
泉』が刊行されたそうで、マンセッリやリーヴスの本を邦訳されている大
橋氏のブログで紹介されています(http://blog.livedoor.jp/
yoohashi4/archives/51782882.html
)。アヴィセブロンは、11世紀
にスペインで活躍したとされるユダヤ人哲学者・詩人、サロモン・イブ
ン・ガビロールのラテン名で、『生命の泉』はその主著です。

エティエンヌ・ジルソンの『中世の哲学』によると、同書はもとはアラビ
ア語で書かれたということですが、現存するのはヘブライ語の抄訳と、そ
のラテン語訳(エスパーニャのヨハネス、グンディサリヌスによる)のみ
とのこと。実際、ユダヤ世界では完全に黙視されたものの、13、14世紀
のラテン西欧では、『生命の泉』はよく知られていたといいます。思想内
容としては、精神的なものまでふくめ、あらゆる被造物は質料と形相から
成るとし、神と世界との間に中間的な「意志」を置くというのが特徴的だ
とされますが、ジルソンの解説では、神そのものと「意志」とがどういう
関係にあるのかを特定するのは難しいとしています。上のアルベルトゥス
のテキストでは、一者から一ではなく二が生じるとした唯一の人物となっ
ていますが、そのあたりと関連づけて考えると興味深いですね。ちなみ
に、今年新版となって再び出た箱崎総一『カバラ−−ユダヤ神秘思想の系
譜』(青土社)
にも、『生命の泉』で展開する質料形相論と後世への影響
について簡便に要約されています。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は11月17日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2007年11月07日 01:06