2008年02月14日

No.120

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.120 2008/02/09


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その3)

引き続きレッティンク本に即した概要のまとめです。ギリシア語圏の注解
者に続き、『気象論』の注解を精力的に進めたのはアラブ世界の思想家た
ちでした。まず登場するのは、8世紀末から9世紀ごろに現在のイラクで
活躍していた翻訳者たちです。ギリシア語ないしシリア語、ペルシャ語か
らアラビア語への翻訳を行ったキリスト教徒たちで、そのテキストは9世
紀半ば以降のアル=キンディなどによって活用されていたといいます。
『気象論』の注解本を残している者としては、8世紀末のイブン・アル=
ビトリークと、9世紀のフナイン・イブン・イシャークです。ちなみに両
者の翻訳スタイルは対照的だと言われています(前者が逐語訳、後者が意
訳を重視したのだとか)。

アル=ビトリークのテキストは、もとのアリストテレスのテキストをかな
り雑然と翻案したものらしく、アリストテレスには見られないパッセージ
などもあるようです(蒸発物の種類を2種類ではなく3種類としたりと
か)。準拠した元のテキスト(アリストテレスのテキストではなく、逸名
のギリシア語著者がいて、そのテキストがシリア語訳からアラビア語に重
訳されたらしいのですが)がすでにアリストテレスを変形したものだった
という説をレッティンクは紹介しています。また、単純に誤解している点
などもあるのだそうですが、その一方でこのビトリークの本は、後のア
ヴェロエスやイブン=ティボンなども参照しているといい、重要なテキス
トになっているようです。

一方のフナインが残している『Compendium』は、レッティンクによれ
ば、上のアル=ビトリークの注解の概要のように見えるものの、それでも
内容的には様々な異同があり、どうやらアル=ビトリークがベースとして
いたギリシア語テキストの別の短縮版をベースにしているのではないか、
ということです。

また、アラブ世界の『気象論』注解に大きな影響をもたらしたものとし
て、偽オリュンピオドロスの気象論も挙げられています。これもフナイン
がアラビア語に訳したものなのですね。こちらはオリュンピオドロスの注
解を抜粋し、より体系的にしたもの、とされています、オリュンピオドロ
スやもとのアリストテレスにはない部分も散見されるといい、レッティン
クは、フナインが訳したのはオリュンピオドロスほかをまとめたギリシア
語もしくはシリア語のテキストだったのではないか、と述べています。こ
のように、どうやらアラビア語に流入する前の段階で、アリストテレス、
あるいはその注解本の要約・解説テキストのようなものが、いろいろ出
回っていた可能性があるのですね。それらはいずれも失われてしまってい
るのだそうですが、将来、ひょっこり見つかったりしないとも限りません
ね。
(続く)

------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その6:代名詞)

ノース&ヒリアード本にもとづくこのシリーズ、今回は代名詞についての
まとめです。代名詞でまず代表的なものといえば、autosがありますね。
単独で斜格(主格以外)に用いられる場合に三人称を表します。名詞とと
もに用いられる場合には「〜自身、〜そのもの、同じ〜」の意になり、単
独で主格に使われる場合(ho autosなど)には、「同じもの、同じこ
と」の意味になります。例文を挙げましょう(ギリシア語表記はこちら
http://www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.6.html)。「王
みずからが私に金銭をくださった」「私は彼らに同じ報酬を授けた」

1. autos ho basileus edo^ke moi to argyurion.
2. edo^ka autois ton auton misthon.

指示代名詞としては、houtos(これ、あれ)、hode([空間的に近接す
る]これ)、ekeinos([空間的に離れた]それ、あれ)などがあります。そ
れぞれの格変化は確認しておいてください。ギリシア語の冠詞はもともと
指示代名詞だったという経緯があり、その名残として、men〜de(一方
は〜他方は)と合わせた慣用句もあります。例文です。「残る者もあれ
ば、去る者もあった」

3. hoi men emenon hoi de ape^lthon.

所有代名詞については、一人称、二人称はそれぞれ冠詞+emos(複数は
he^meteros)、sos(humeteros)を使いますが、三人称は上のautos
の属格autouか、あるいは再帰代名詞heautosの属格heautouを用いま
す。両者はちょっとニュアンスが違って、前者が「彼の」、後者が「彼自
身の」となるのですね。例文です。「私は自分の家に戻った」「彼は自分
の家に戻った」「彼らは彼の家に行った」

4. ape^lthon eis te^n eme^n oikian.
5. ape^lthen eis te^n heautou oikian.
6. e^lthon eis te^n oikian autou.

注意すべき点は、heautouなどは冠詞と名詞の間に置きますが、autouは
間には置かないということ。autosが名詞とともに用いられる場合や、指
示代名詞が名詞とともに用いられる場合も、それらは冠詞と名詞の間には
置かれないのですね。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その18)

このテキストも大詰めです。今回を含めあと3回くらいですね。では、
さっそう見ていきます。

# # #
Quanto enim producitur commixtio ad aequaliorem complexionem
et aequalitati caeli magis convenientem, tanto ab intelligentiae
lumine accipit formam nobiliorem; et quanto remanet citra hoc,
formam accipit ignobiliorem eo quod necesse est in tali intellectus
lumen magis occumbere, ita scilicet quod in omnibus his forma ad
lumen intelligentiae referatir, virtus autem ad generans proximum,
quod est formativa ipsius habens virtutes caelestium immissas et
commixtas in materiam et qualitates elementorum. Motus autem
et operationes distinguuntur secundum virtutes eorum. Et in tali
commixtione necesse est, quod elementum ad elementum
moveatur et elementum ab elemento comprehendatur et teneatur,
sicut in naturalibus a nobis determinatum est. Et dissolutio talium
virtutum et comprehensionum causa corruptionis est. Hic igitur
modus est, quod Peripatetici omnia dicunt produci ex primo.

均質な結合に向けて、また天空の均質性にいっそう相応しくなるよう混成
が生じるほどに、それは知性の光からいっそう高貴な形相を受け取り、逆
にこちら側(下界側)にとどまるほどに、いっそう低位の形相を受け取
る。というのは、かかる結合には知性の光が降り注がなくてはならず、つ
まりあらゆるものにおいてその形相が知性の光を参照し、一方でその力が
近接する生成者を参照する必要があるからだ。生成者は、そのものを形成
する力のことであり、質料に送り込まれ混成した天空の力を宿し、諸元素
の性質をも併せ持つ。運動と作用はそれらの力によって異なるのである。
また、かかる混成においては、私たちが『自然について』で論じたよう
に、ある元素は別の元素に向けて動かされ、ある元素は別の元素によって
包摂され保持されなくてはならない。かかる力と包摂との解体が、消滅の
原因をなすのである。以上は、第一原因からすべてのものが生み出される
とする逍遙学派の説明である。
# # #

前回触れたヘレン・ラング『アリストテレス「自然学」とその中世の異
本』
は、アルベルトゥスにも一章を割いて論じています。ちょうどそこ
で、上のテキストにも出てくる「生成者」(generans)の話が出てくる
ので、少しだけ紹介しておきましょう。

よく知られているように、アリストテレス思想の根幹には世界は永続する
というテーゼがあり、『自然学』8巻で展開されるような運動の永遠性と
いった話もその中に位置づけられます。ところがアルベルトゥスは、運動
の永続そのものは認めるにしても、根幹においては神による世界の創造と
いう反アリストテレス的テーゼを手放すわけにいきません。そのため、運
動の永続をめぐる議論一つとっても、議論はすでにして逸脱していきま
す。

前回も触れたように、ラングによれば、アリストテレスの議論では元素に
おける動因とは潜在の現実化にあります。ところがアルベルトゥスはこれ
をまったく別様の議論にしていきます。アリストテレスの場合、潜在は形
相を指向する質料に存するとされるのに対し、アルベルトゥスでは「動か
されるものの中にある、動かすものの萌芽的形相」にあるとされます。こ
の違いにより、運動における形相の役割も変わってきます。アリストテレ
スはそもそも「現実態」としての一種類の形相しか認めませんが、アルベ
ルトゥスは、動かされる側の形相、動かす側の形相というふうに、形相を
二重化して考えています。動かすもの(動因)が第二の形相を第一の形相
(萌芽的形相)に重ねることによって、潜在態としての動かされるものは
現実態になるのですね。これがすなわち運動ということになります。

これら二重の形相は創造と生成の違いに対応します。被造物はまず質料と
第一の形相から構成され、それが第二の形相を取ることによって完成する
という図式です。そしてこの第二の形相をもたらすのが、いわゆる「生成
者」というわけです。事物に「存在」が与えられるのはこの第二の形相に
よってであり、それを与えるのが「生成者」なのですね。元素は一番はじ
めに創造されるものですが、最初に第一の形相と質料によって創造された
後に、第二の形相が「天球と場所(位置)」によって与えられるとアルベ
ルトゥスは考えています。天球からの一定の距離が生じると火が生成さ
れ、また別の距離が生じると空気が生成され……というふうにして四元素
が現実態になっていくわけです。アリストテレスが、「本来の場所へ向か
う」という意味での現実態を元素の動因としていたのに対し、アルベル
トゥスは、天球からの距離こそが元素の「自然の中で作用する」形相(す
なわち動因)だとします。ということは、元素の完成をもたらす生成者は
天球ということになりそうですね。

以上は『自然学』がらみでのラングによる読解の大筋です。アルベルトゥ
スの『自然について』は、今読んでいる『原因および世界の発出につい
て』よりも前に書かれています。自然学の注解書は1251年から52年ご
ろ、後者が1264年から67年とされているので、おそらくその間に、アル
ベルトゥス自身の思想的にも少ならず変化が生じていると思われます。そ
の意味で、ラングの「生成者」解釈がそのままこちらに適用できるかどう
かは微妙なところでしょうね(実際、上のテキストでは、形相の種類は
もっと細分化されているような印象も受けます)。そのあたりを詰めるに
は、やはりアルベルトゥス思想の変遷の全体像が検討される必要がありそ
うです。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は02月23日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2008年02月14日 23:50