2008年03月13日

No.122

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.122 2008/03/08


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その5)

8世紀末のイブン・アル=ビトリークによる訳業の影響はさらに後代にま
で続き、11世紀初頭に活躍したアヴィセンナ(イブン・シーナー)など
もそれを参照していたといいます。と同時に、アヴィセンナは偽オリュン
ピオドロスなども活用していたようで、レッティンク本によれば、そのた
め気象現象に関するアヴィセンナの記述は、アリストテレスをベースとし
つつも、個々の議論ではそこから逸脱していくことになります。アヴィセ
ンナは大著『治癒の書』で気象現象について取り上げているのですが、
レッティンクはそこでの議論全般を、「独立心をもち、自分自身で行った
観察を述べ、あり得ないと思った見解に従うよりも現象の説明がつかない
ことをあえて認めようとする」学者像の印象を受けると評価しています。

この最後の、説明がつかないことを率直に認めようとする潔い態度の例と
して、暈輪や虹の色をめぐる議論が挙げられています。アリストテレスは
それらの現象を反射現象とし、雲が鏡のような働きをして太陽などの光線
を反射するのが虹で、雲と太陽が逆の位置になければ虹は生じないと述べ
ています(『気象論』第3巻第4章)。つまり太陽を背にして前方に雲が
あり、その手前に虹が生じるような場面を考えていて、虹は雲が太陽光線
を反射したもので、色の変化は雲の密度の差に由来するというのですね。
逍遙学派は総じてこの説明を継承するようなのですが、これに対しアヴィ
センナは、雲のない状況で虹が出ることがあるといった観察をもとに、そ
うした逍遙学派の説明を不十分だと断じているというのです。基本的にア
ヴィセンナは、虹は雲による反射ではなく、多量の水滴を含んだ湿度の高
い空気による反射ではないかと考えているようです。まだ屈折の考え方に
は至っていないのですね。

アヴィセンナの弟子筋の代になると、今度はアヴィセンナ自身とも見解を
異にするようになっていくようですが、そこでも援用されるのはやはりア
リストテレスです。レッティンクの挙げているアブー・ル=バラカット
(この人物の詳細はちょっと不明なのですが)は、暈輪や虹といった現象
の原因は地上のみにあらずとし、これまたアリストテレスの論を下敷き
に、ある種の天空の力を想定していたらしいのです。流星などと同じ括り
にしていたわけですね。こうして見ると、アリストテレス思想は一種の縛
りとして機能していたような感じにすらなってきます。たとえば、光学論
で有名な11世紀初めのアルハーゼン(イブン・アル=ハイタム)にしても
そうで、屈折概念を盛んに研究していながらも、暈輪や虹の原因について
はアリストテレスの反射説を蹈襲してしまっているのですね(もちろんか
なり精緻化されてはいるようですが)。そうなると、時代が下っていくに
つれてアリストテレス説の縛りがどう脱却・克服されていくのかという問
題も気になってきます。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その8:間接文2)

間接文についての続きとして、注意点を挙げておきましょう。それはつま
り、動詞によって、どういった形の句を取るかが規則として決まっている
ものがある、ということです。まず、希望や約束、誓約などを表す動詞
(elpizo^、hupischneomai、omnumi)は、その動詞の性質上、未来形
の不定詞を取ります。例文を見てみましょう(ギリシア語表記はこちら
http://www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.8.html)。「彼
らはそれを行わないと約束した」「彼らは誰にも見られないことを望ん
だ」

1. hupeschonto me^ touto poie^sein.
2. e^lpizon me^dena sphas idein.

知覚や認識などを表す動詞(oida、gigno^sko^、aisthanomaiなど)の
場合には、分詞ではなく不定詞を取ります。分詞の主語は対格で表します
(目的語になるので)。ほかにも、aggelo^、punthanomaiなど、この
ように分詞を取る動詞は結構あるみたいですね。「私は彼が到着したこと
を知っている」「私は自分が間違ったことを自覚している」「彼らは門が
開いていたのを見てとった」

3. oida auton aphikomenon.
4. sunoida emautoi hamarto^n.
5. e^isthonto tas pulas aneo^igmenas.

間接文の話はまだ間接疑問文や間接文内部での従属節など、いろいろト
ピックがありますので、あと何回か続けましょう(笑)。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その20)

いよいよこのテキストも最終回です。さっそく見ていきましょう。

# # #
Si quis autem nobis obiciat, quod istum fluxum rerum etiam
sequitur, quod non unum ab uno est tantum, quia intelligentia,
quae primum effectum est a primo principio, non simpliciter unum
est, sed tria quodammodo, ut diximus, dicemus ad hoc, quod
intelligentia quidem unum est secundum substantiam et esse, sed
ad hoc quod facta est, tira habet consequentia et concomitantia;
scilicet intelligere se, secundum quod a primo est; et intelligere se
secundum ‘id quod est’; et intelligere se, secundum quod in
potentia est. Et haec non variant substantiam, sed virtutes eius, et
concomitantur ipsam, in quantum ipsa secundum est. Propter
quod haec tria inveniuntur in omni ea comparatione qua
secundum comparatur ad prius.

もし誰かが私たちに反対して、「そうした事物の流出の結果、一からは一
が生ずるのではない、なぜなら第一原理から最初に生じる知性は純粋に一
つなのではなく、なんらかの形で三層であるからだ」と、先に私たちが述
べたようなことを持ち出すならば、私たちはそれに対しこう述べよう。確
かに知性は実体および存在においては一つなのだが、それが創られたもの
であるという点に関して、結果的・随伴的に三をなすのである。すなわ
ち、第一のものから生じたものとして自己を知解し、「本質」において自
己を知解し、潜在態であるものとして自己を知解するのだ。それらは、そ
の知性の実体ではなく力能のほうを変化させ、その知性が二番目である限
りにおいてその知性そのものに随伴する。そのため、それら三層は、二番
目のものが一番目のものに結びつくあらゆる関係に見い出されるのであ
る。

Ordines autem intelligentiarum, quas nos determinavimus, quidem
dicunt esse ordines angelorum et intelligentias vocant angelos. Et
hoc quidem dicunt Isaac et Rabi Moyses et ceteri phisophi
Iudaeorum. Sed nos hoc verum esse non credimus. Ordines enim
angelorum distinguuntur secundum differentias illuminationum et
theophaniarum, quae revelatione accipiuntur et fide creduntur et
ad perfectionem regni caelestis ordinantur in gratia et
beatitudine. De quibus philosophia nihil potest per rationem
philosophicam determinare.

Explicit liber primus de causis.

私たちが論じてきた知性の秩序を、ある人々は天使の秩序だといい、知性
を天使と呼んでいる。イサクやラビ・モーゼスほかユダヤ教の哲学者たち
は確かにそう述べている。けれども私たちは、それが正しいとは考えな
い。というのも、天使の序列は照明と神の顕現の度合いに即して区分さ
れ、啓示を通じて受け入れられ、信として仰がれ、恩寵と至福のうちに天
の支配の完成に向けて秩序づけられるからだ。そのような叡智について
は、哲学の議論ではなんら論じることができないのである。

原因論第1書、了
# # #

上に出てたイサクとは10世紀半ばごろケルアン(チュニジア)のカリフ
の宮殿で医師として活躍したイサク・イスラエリのことです。ラビ・モー
ゼスはご存じマイモニデスですね。

今回のところはいかにもまとめに相応しく、再び「知性」の三種の自己認
識が取り上げられています。この三種の自己認識は、知性が階層として形
作られていく上での原理をなしているのでした。実はこれも原型はアヴィ
センナの流出論に見いだされるものです。フランスのイスラム学の大家と
されるアンリ・コルバンは、『アヴィセンナと幻視譚』という論考の中
で、その流出論を三層から成るものとして描いています。自己の原理の理
解、自己の必然性の理解、自己の非必然性の理解という三種の「次元」
が、第一知性以下のいわば原中心柱をなしていて、それが「反復」される
ことによってすべての序列が成立するというわけです(ただしそれは同時
的になされるものだとされます)。

アヴィセンナのこうした知性の序列は、天使の序列とイコールだとされて
います。ですが上のテキストからもわかるように、アルベルトゥスは知性
の流出論自体ではアヴィセンナに即していても、それを天使の序列と同一
視することは受け入れていません。このあたりは、コルバンの述べる東方
と西欧とでのアヴィセンナ思想の受容の違いを反映していそうです。西欧
キリスト教の世界では、創造はあくまで神の所産とされ、中間的な存在が
下位の存在を生じさせるといった話は受け入れられず、アヴィセンナ思想
のその部分には、たとえばオーベルニュのギヨームなどによる批判が浴び
せられてきたのでした。ギヨームのほぼ同時代人であるアルベルトゥス
も、そうした批判的な部分を蹈襲していると見ることができそうです。

少し脱線になりますが、コルバンの指摘によると、このような分離知性の
自己認識的な流出論に対して異を唱えるのがアヴェロエスです。流出論は
基本的に「一からは一しか生じない」という原理の縛りがあるため、一連
の知性は上から下へトップダウンで創造されるしかなく、上位の知性は下
位の知性の実質因になるわけですが、アヴェロエスはその従属関係・因果
関係を逆転させた体系を考えます。各天球が動くのは固有の知性に同化し
ようと欲するからだというアリストテレスのテーゼを敷衍し、各天球の動
因となる知性は最高位の天球の動因である知性を欲する(指向する)と考
えるのですね。これにより、作用因だった第一知性は目的因となり、かく
して内包されるものが内包するものの原因となって、一から多が生じる契
機が生まれるというわけです(ちょっとそのあたりの理屈は端折っていま
すが)。一と多の関係性は大きな問題ですが、アヴェロエスのこの解決策
はちょっと興味をそそられますね。そちらも影響関係などを含めて辿って
みたい気がしますが、それはまた別の機会に取っておきましょう。

さて、20回にわたり、アルベルトゥス・マグヌスの「原因論」注解をご
く一部ですが見てきました。少し訳出の不備もありましたが、13世紀の
コスモロジーの一端に触れることはできたかなと思います。それにしても
これはきわめて形而上学的な世界ですね。そのあたりの壮大な世界観につ
いては引き続き探っていきたいところです。で、それとの関連もあって、
次はアルベルトゥスの弟子筋でもあるトマス・アクィナスをかじってみた
いと思います。『神学大全』から、存在論がらみのごく小さな部分を読ん
でみましょう。エティエンヌ・ジルソンがハイデガーのはるか源流のごと
く位置づけた存在神学の問題を、多少とも復習できたらと思っています。
次回は一回お休みし、4月からスタートしたいと思います。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は03月22日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2008年03月13日 00:56