2008年05月05日

No.125

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.125 2008/04/26


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その8)

『気象論』が伝わる以前の西欧では、自然現象はどのように捉えられてい
たのでしょうか。その一端を探ってみたいのですが、ここでは『気象論』
流入前夜に相当する12世紀前半の自然学的な動きとして、バースのデ
ラードを取り上げたいと思います。バースのアデラード(1080〜
1152)は翻訳者として活躍した人物で、フランスはトゥールやランで学
業を積み、イタリア南部、とくにシチリア、さらにはタルソスやアンティ
オキアなどにも旅をした、と言われるのですが、詳しいことはわかってい
ないようです。いずれにしても1120年頃にはイングランドに戻り、アラ
ビア語の天文学書を初めとする膨大な量のラテン語訳を作っています。

また、甥に語るという形式の対話編など自著もいくつかあり、とりわけ有
名なのが『同一と多様について』『自然の問題』『鳥類論』です。とくに
このうちの2番目が、当時の自然学的な知見をいろいろと示してくれてい
て有用です。手頃な参照版としては、チャールズ・バーネット編・訳の校
注版("Abelard of Bath : Conversations with his Nephew",
Cambridge Univ. Press, 1998
)があります。この『自然の問題』は76
の問いから成り、それぞれについて甥が質問しアデラードが答えていくと
いう形式を取っています。気象に関するものはそのうちの48から76まで
で、あまり多くはありません。

バーネットの解説によれば、同書が扱う問いは、当時人気を博していたら
しいサレルノの問題選と類似していて、おそらくアデラードの着想源とし
てサレルノの影がありそうだといいます。実際に、サレルノの大司教だっ
たアルファノがギリシア語から訳したネメシウスの「人間の本性につい
て」を、アデラードは直接引用しているのですね。サレルノといえば、ア
リストテレスのテキストが本格流入する以前の11世紀、コンスタンティ
ヌス・アフリカヌスのアラビア語テキストなど、医学・自然学関係の文献
がアラビア語から訳されて入る中継点の役割を果たしていた町だったよう
です。

アデラードのテキストは12世紀に好評を博したようで、パリのサン=ヴィ
クトールやシャルトルなど学僧の間で読まれたようですが、その後12世
紀の後半からは学僧たちの世界にアリストテレスの文献が流通するように
なり、アデラードのテキストは人気を失っていきます。とはいえ、今度は
世俗語に翻訳されて14世紀ごろまで伝えられていきます。さらにルネサ
ンス期にも短命ながらテキストの再評価の時期があったのだとか。

というわけで、私たちもアデラードのテキストを『気象論』との比較で少
しばかり見てみたいと思います。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その10:間接文あれこれ)
(based on North & HIllard "Greek Prose Composition")

引き続き今回も間接文ですね。まずは間接命令文。これは簡単で、英語と
同じく不定法で表します。否定の命令ならme^を付ければよいのですね。
例文を見てみましょう(ギリシア文字表記はこちら→http://
www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.10.html
)。「彼は彼ら
に家に入るよう命じた」「私は君がその金を使うのを許さない」「私に彼
を解放するよう促すものは何もない」「男たちに、船に戻り町の中にはこ
れ以上とどまらないよう命ぜよ」
1. ekeleusen autous eis te^n oikian eisienai.
2. ouk eo^ se touto^i to^i argurio^i chre^sthai.
3. ouden me peisei apheinai auton.
4. keleuson tous andras apelthein pros tas naus me^de diatribein
me^keti en astei.

続いて間接文内の従属節(関係代名詞で導かれる節)についてですが、こ
れも基本的には主文の動詞が一次時制(現在・未来・完了)なら従属節内
の動詞は直説法のままでオッケーなのですね。歴史時制(未完了過去、大
過去、アオリスト)の場合には従属節内の動詞は希求法にもできますが、
これは任意で、直説法のままでもよいとされます。

例文を挙げましょう。「私は自分がもつ本を使う」を、間接文「彼は、自
分がもつ本を使うと言っている」にします。
5. chro^mai tais biblois hais echo^.
6. phe^si chre^sthai tais biblois hais echei.

上の間接命令文との組み合わせを見ておきましょう。「君が書いた手紙を
読むよう彼に伝えるよ」「彼は何が起きたか報告するよう命じられた」
7. keleuso^ auton anagigno^skein te^n epistole^n he^n su
egrapsas.
8. kekeleustai apaggeilai hoti egeneto.

間接文の流れで従属節の話になりましたが、当の関係代名詞などについて
も復習しておきたいところです。


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その2)

今回からがいよいよ本論ですね。『神学大全』の各節は当時のスコラ学の
論述方法を反映し、ほぼ三段論法的な構成になっています。まず論じる
テーマについてのテーゼが掲げられ、次いでそれに対する反論が挙げら
れ、さらに解決としての持論が示され、とくに異論などへの反論として若
干の補足的なコメントが添えられます。今回の箇所では、「神が存在する
ことはおのずとわかるか」というテーマについてまずはテーゼが掲げられ
ます。

# # #
Articulus 1
Utrum Deum esse sit per se notum

Ad primum sic proceditur. Videtur quod Deum esse sit per se
notum
1. Illa enim nobis dicuntur per se nota, quorum cognitio nobis
naturaliter inest, sicut patet de primis principiis. Sed, sicut dicit
Damascenus in principio libri sui, omnibus cognitio existendi Deum
naturaliter est inserta. Ergo Deum esse est per se notum.

2. Praeterea, illa dicuntur esse per se nota, quae statim, cognitis
terminis, cognoscuntur : quod Philosophus attribuit primis
demonstrationis principiis, in I Poster.: scito enim quid est totum
et quid pars, statim scitur quod omne totum maius est sua parte.
Sed intellecto quid significet hoc nomen Deus, statim habetur
quod Deus est. Significatur enim hoc nomine id quo maius
significari non potest : maius autem est quod est in re et
intellectu, quam quod est in intellectu tantum : unde cum,
intellecto hoc nomine Deus, statim sit in intellectu, sequitur etiam
quod sit in re. Ergo Deum esse per se notum.

3. Praeterea, veritatem esse est per se notum : quia qui negat
veritatem esse, concedit veritatem esse : si enim veritas non est,
verum est veritatem non esse. Si autem est aliquid verum,
opportet quod veritas sit. Deus autem est ipsa veritas, Io. 14,6 :
Ego sum via, veritas et vita. Ergo Deum esse est per se notum.

第一節
神が存在することは、おのずとわかるか

最初の議論に進むことにする。神が存在することはおのずとわかることを
検証する。
一.おのずとわかると言われるものは、第一の原理について明らかである
ように、その認識が私たちに自然に内在するもののことである。しかる
に、ダマスクス(のヨアンネス)が著書の冒頭で述べているように、存在
する神の認識はあらゆる者の中に自然に入り込んでいる。したがって、神
が存在することはおのずとわかるのである。

二.加えて、おのずとわかると言われるものは、概念の認識によって即座
に認識されるもののことである。哲学者(アリストテレス)は後分析論一
巻において、それを第一の論証の原理としている。すなわち、人は全体と
部分を知るや、ただちに全体が必ず部分より大きいことを知る。しかる
に、神というこの名が何を意味するかを理解するや、ただちに神がいかな
るものであるかを会得する。この名は、それ以上のものを意味することは
できないということを意味するのである。しかるに、事物と知性とに存す
るものは、知性にのみ存するもの以上のものである。したがって、その神
の名を理解するとき、神は知性の中に存し事物の中にも存するということ
がただちに導かれる。したがって、神が存在することはおのずとわかるの
である。

三.加えて、真理が存在することはおのずとわかる。というのも、真理が
存在することを否定する者といえど、真理が存在することを認めざるを得
ないからだ。真理が存在しなければ、真理が存在しないことは真になる。
しかしながら、もしなんらかのものが真であるのなら、真理が存在しなけ
ればならないのである。しかるに神は真理そのものである。ヨハネによる
福音書14の6にはこうある。「私は道であり、真理であり、生命であ
る」。しかるに、神が存在することはおのずとわかるのである。
# # #

のっけからいきなり認識の内在論が出てきますね。第一段落に出てくるダ
マスクスのヨアンネスは8世紀前半ごろに活躍したとされるシリア出身の
ギリシア教父です。第二回ニカエア公会議前の偶像破壊論に反駁した人物
として知られていますが、その主著の一つに「正統なる信仰について」が
あり(11世紀にラテン語に訳されています)、この冒頭部分に「神は言
葉で表せないし理解もできないが、それでもなお、みずからを知らしめ
る」という内容の一節があります。この不可知の知というパラドクスを、
ヨアンネスは次のように述べて回避します。「神に関する知は創造から派
生するものであり、神はみずからを知らしめ(最初は律法や預言を通じ
て、後にはその唯一の子を通じて)、その知は私たちにまで伝えられ、私
たちはそれを受け取っている」(参考:アンドリュー・ラウス『ダマスク
スの聖ヨアンネス』(オックスフォード、2002)
)。

第二段落では、アリストテレスの『後分析論』が引き合いに出されていま
す。言及されているのは、1巻1の2(72a5〜10)「論証の第一原理は直
接的な前提であり、直接的な前提とはほかの前提をもたないものをいう」
というくだりのようです。このトマスのテキストの底本としている羅独対
訳本では、ホルスト・ザイドルという人が解説をつけていますが、それに
よると、続く「神という名が、それ以上のものを意味することはできない
ということを意味する」というくだりは、アンセルムスの議論だとされて
います(『モノロギオン』の第1章などでしょうか)。さらに第三段落の
論理学的な議論(「何かを真と認めるならば、真理が存在しなくてはなら
ない」)はプラトンの『テアイテトス』171bからのものです。テーゼの
部分は、こうした引用の数々で織りなされているのですね。

ちなみに、認識の内在論そのものは、プラトンにまで遡ることができま
す。たとえば『メノン』の有名なくだりですね。上のアリストテレス『後
分析論』の同じ箇所でも、その『メノン』への言及があります。ですが、
トマスの場合には、むしろアヴィセンナ経由、あるいは師匠のアルベル
トゥス・マグヌス経由でもたらされた知性論が通底している感じです(こ
のあたりの話はまた今度)。

「事物と知性に存するものは、知性にのみ存するものよりも大きい」の部
分は、まあ集合論的に考えればわかりやすいかもしれません。実在(事物
に属す)と概念(知性に属す)は概念だけの存在よりも外延として大きい
というわけですね。で、「神は最も大きいものだ。したがって神は事物と
知性とに存する」と論証が展開するのですが、これ、「存在は事物と知性
の中以外にはない」「最も大きいものは事物と知性に存する」という命題
の論証がないという意味で不完全なものです。ということは、逆に言うと
当時の基本認識として、存在するものは事物の中か知性の中にしかない、
言い換えれば、事物と知性とは「何かが存在する」という意味では対等で
ある、ということが共有されていたのかもしれませんね。考えてみれば、
いわゆる普遍論争というのも、知性でもって解される「本質」「共通概
念」が、知性の外に存在しうるかどうか、というのが問われたのでした
(知性の外とはつまり事物ということでしょう)。

最大のものは事物と知性に存する(=知性にのみ存するものが最大になる
ことはない)ということも、命題として明証されているわけではないので
すが、これまた基本認識としては折り込み済みということなのでしょう
か?あるいはここで、トマスが若き日に論じたように「神における存在と
本質は同一」ということが前提になっているのでしょうか?でもそうする
と、私たちからすれば、ここでは神性の超越性(最大であること)が論点
として先取りされていることになってしまいますね。あるいはこれは、超
越性の実在と知解が、当の超越性を事由として論証されるという巧妙な仕
掛けと言えるのかもしれません……。

次回はこのテーゼに続く反論部分からです。お楽しみに。


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投稿者 Masaki : 2008年05月05日 22:05