2008年05月20日

No.126

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.126 2008/05/10


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その9)

バースのアデラードのテキストから項目を拾ってまとめてみましょう。ま
ず、アデラードは基本前提として、運動するものはすべからく何かによっ
て動かされていると述べます。動かす当のものとは、能動的形相(forma
agens)だといい、たとえば火が上昇するのは「軽さ」という形相が原因
をなしているから、また石が下降するのは「重さ」という形相が原因をな
しているからだ、と説明づけています。このあたり、アリストテレスの見
解とはすでにして異なりますね。以前触れましたが、ラングの『アリスト
テレス「自然学」とその中世の異本』によると、火の上昇、土の下降は、
それらの「本来の場所」に向かうこととして説明されていて、その場合の
動因そのものは曖昧になっているということでした。

アデラードはまた、動かされたものが別のものを動かす条件として、その
動かす運動が円運動であることを挙げています。運動が最初の地点に戻っ
てくるのが、別のものを動かす条件だというのですね。なんだか天球の動
きが連想されます。で、その一例として風の動きが挙げられています。風
の動きは(水の動きと違わず)円運動をなすと述べています。ただしそれ
が一つの永続的な動きにならないのは、それを逸らせる何かの別の力
(inpulsus)があるからだといいます。ここで風への言及は唐突に立ち消
え、話はその拮抗する力の話へと流れていきます。バーネットの解説にも
ありますが、アデラードの場合、ある話がほかの話に振るための枕詞であ
るかのように使われることが多々あるようです。ただしここでちょっと面
白いのは、これが粒子(athomos)の力の話になっていることです。粒
子論の萌芽が散見されるというサレルノの学派を彷彿とさせる感じ……な
のでしょうか?

アデラードの説明では、風の動きはようするに空気の動きだということの
ようですが、これはアリストテレスが『気象論』において、間違った説明
だとして排除するものに相当します。『気象論』の邦訳(泉治典訳、岩波
書店)の注によれば、風を空気の動きとするのはヒポクラテスの説とされ
ています。ヒポクラテスはガレノスやディオスコリデスと並んで、医学関
係文献を中心にアラブ世界で盛んに研究されたといいますから(レイノル
ズ&ウィルソン『古典の継承者たち』)、アデラードがアラビア文献経由
で参照していることは十分に考えられます。ところでアリストテレスの風
の説明はどうだったでしょうか?風とはつまり、地上から上がるという二
種類の蒸発物のうち、乾いた蒸発物のことなのでした。それが風の実体を
なしているとアリストテレスは述べています。

次に今度は雲や雷、雹についての説明を見てみましょう。アデラードはこ
う説明します。地表から立ち上る霧(霧すなわち水分です)のうち濃いも
のが、上空の寒さと接触すると雲になり、その雲が極地からの風にあおら
れ収縮すると氷になる。で、それが反対方向からの風と衝突したり、夏の
暖気に接触したりすると、氷は水平方向の一体性を保てなくなり、破損も
しくは融解し、一気に落下してくる。このときの衝突音が雷鳴で、衝突の
際に生じるのが雷光で、破損し落下する氷の粒は徐々に小さくなるもの
の、下界に寒気がある場合には再び収縮して雹になる……。

この説明はそれなりに一貫性をもって合理的に出来ていますね。対するア
リストテレスのものはどうでしょうか。地表を囲む水分(湿った蒸発
物?)が太陽光線その他の熱で霧状になり、上空に運ばれ、熱が失われる
とその水分は冷却し凝結する……と、ここまでは図式的にそれほど変わり
ません。ですがその先は違っていて、湿った蒸発物が霧、乾いた蒸発物が
雲になるとされます。雹については、熱と冷との相互作用であるとしてい
ます。熱した水のほうが早く凍るのだと言い、雲が暖かい空気の中に降り
てきて急激に凍結するのが雹であると。雷はどうでしょう。アリストテレ
スによれば、それもまた蒸発物が原因です。一部の冷たくなったの雲の中
に閉じこめられていた乾いた蒸発物が、雲の凝結にともなって外に投げ出
され、まわりの雲に衝突するのが雷鳴、投げ出された蒸発物が燃えるのが
雷光、というわけですね。

両者の見解は、ある意味で対照的です。アデラードの説明はどこか巨視的
で、たとえば雷のもととして氷を考える際にも、それを一定の広がりで想
定しようとしていますが、アリストテレスはどちらかといえば微視的で、
蒸発物が投げ出されると言う際にも、どこか最小単位のメカニズムを考え
ている嫌いがあります。もちろんアデラードにも物質をめぐる議論はあ
り、アリストテレスも広がりのスパンで考える局面もあるわけですから、
一概には言えないかもしれませんが、こと気象論関係での議論に限って言
えば、両者の説明から、そうした巨視的・微視的の「志向上の」コントラ
ストを取り出せるような気もしなくはありません。もちろん、見方を変え
れば、両者の基本的な考え方にそれほど大きな違いはないと言えるかもし
れません。ですが、とりあえずの作業仮説としてなんらかの対照性を考え
ることで、アリストテレス思想が、少なくとも学者たちの間でアデラード
などの考えに置き換わっていった事実についての見通しを、多少とも明る
くできないか、きっかけくらいにはならないか、とも思うのです。「微細
なメカニズム、極小的な機能性への着目といったあたりが、そうした思想
的受容の変化の動機付けに、多少とも関与していたのでは?」なんて、論
証可能かどうかはともかく、面白そうな見方ではないでしょうか?
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------
ギリシア語文法要所めぐり(その11:属格の用法1)
(based on North & HIllard "Greek Prose Composition")

今回と次回は、格の用法のうち属格についての大まかなまとめです。所有
を表す通常の用法ではなく、特定の動詞に続いて補語をなす場合の用例で
すね。これはまあ、どういう動詞が属格を取るのか、個別に押さえておく
のが一番よいのでしょうけれど、大枠の傾向みたいなものはあるわけで、
それをまとめようというわけです。

まず、「目標、望みの対象」を表す場合があります。動詞としては
tugchano^(打つ)、hamartano^(しくじる)、aptomai(触れ
る)、archo^(始める)、epithumeo^(欲する)、deomai(必要とす
る)など、重要なものばかりです。

「分離、停止の対象」を表す場合もあります。apecho^(離れる)、
pauo^(止める)、apallasso^(離す)などに続けて、その離れる(止
める)対象を言う場合です。

「非難の理由」を表す場合もあります。aitiaomai(なじる)に属格を続
け、非難のワケを示します。ただし、katagigno^sko^(とがめる、有罪
とする)の場合には、とがめる相手を属格にし、とがめるワケ(あるいは
有罪の内容)を対格にします。

「知覚対象」を表す属格は広く使われます。知覚を表す動詞に続きます。
aisthaomai(知覚する)、memne^mai(思い出す)、epilanthanomai
(忘れる)などなど。ただし、akouo^(聞く)の場合には、聞くものが
モノなら(音楽とか)対格、人(の話)なら属格を取るのですね。

例文です。。「彼らは食料を必要としている」「彼らはを軍を卑怯だとな
じった」「彼らは軍を卑怯ととがめた」「彼らは、将軍の話を聞かないだ
ろうと言った」「彼らは、音を聞いたと言った」「祖先の行いを思い出
せ」「彼らはテーバイ人の戦闘を止めた」

1. deontai sitou.
2. e^itiasanto ton straton te^s kakias.
3. kategno^san tou stratou te^n kakian.
4. ouk ephasan tou strate^gou akousesthai.
5. ephasan psophon akousai.
6. memne^sthe to^n hupo to^n progono^n pepragmeno^n.
7. epausan tous The^baious te^s mache^s.

ちょっと今回は、サイクロン被害後のあまりにひどいミャンマー情勢な
ど、時事問題で使える感じの例文になりましたね(ギリシア文字での表記
はこちらを参照→http://www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.
11.html
)。


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの「神の存在証明」を読む(その3)

『神学大全』第一部問二を読むシリーズです。今回は異論とトマスの見解
を示した部分を見ていきます。ではさっそく。

# # #
Sed contra, nullus potest cogitare oppositum eius quod est per se
notum, ut patet per Philosophum in IV Metaphys. et I Poster. circa
prima demonstrationis principia. Cogitari autem potest oppositum
eius quod est Deum esse secundum illud Psalmi 52.1 : Dixit
insipiens in corde suo, non est Deus. Ergo Deum esse non est per
se notum.

Respondeo dicendum quod contingit aliquid esse per se notum
dupliciter : uno modo secundum se et non quoad nos; alio modo
secundum se et quoad nos. Ex hoc enim aliqua proposito est per
se nota, quod praedicatum includitur in ratione subiecti, ut homo
est animal; nam animal est de ratione hominis. Si igitur notum sit
omnibus de praedicto et de subiecto quid sit, proposito illa erit
omnibus per se nota: sicut patet in primis demonstratonum
principiis, quorum termini sunt quaedam communia quae nullus
ignorat, ut ens et non ens, totum et pars, et similia. /

しかしながら異論もある。「おのずとわかること」の逆は誰も認識できな
い。ちょうど、哲学者(アリストテレス)が『形而上学第4巻』『後分析
論第1巻』で、第一原理の論証について述べているように。ところが「神
が存在すること」の逆は認識できる。『詩篇』52.1にはこうある。「愚
か者は心の中で言った。神は存在しないと」。したがって、神が存在する
ことはおのずとはわからない。

私は次のように述べて答えとしよう。何かが「おのずとわかる」という場
合は二つある。一つは、それ自身としてはおのずとわかるものの、私たち
にとってはそうでない場合、もう一つはそれ自身としておのずとわかり、
かつ私たちにとってもそうである場合だ。実のところ、任意の命題がおの
ずとわかるのは、述語が主語の概念に含まれているからだ。たとえば「人
間は動物である」の場合がそうで、「動物」は「人間」の概念の一部をな
している。したがって、述語と主語の何たるかがすべての者にわかるので
あれば、その命題はすべての者にとっておのずとわかるということになる
だろう。第一原理の論証に明らかなように、その場合の名辞は、「存在す
るもの」と「存在しないもの」、全体と部分などのように、知らない者は
いないような共通のものである。/

Si autem apud aliquos notum non sit de praedicato et subiecto
quid sit, propositio quidem quantum in se est, erit per se nota:
non tamen apud illos qui praedicatum et subiectum propositionis
ignorant. Et ideo contingit, ut dicit Boethius in libro “De
hebdomadibus”, quod quaedam sunt communes animi
conceptiones et per se notae, apud sapientes tantum, ut
incorporalia in loco non esse.

Dico ergo quod haec propositio, Deus est, quantum in se est, per
se nota est: quia praedicatum est idem cum subiecto; Deus enim
est suum esse, ut infra patebit (q.3, a.4), Sed quia nos non scimus
de Deo quid est, non est nobis per se nota, sed indiget
demonstrari per ea quae sunt magis nota quoad nos et minus
nota quad naturam, scilicet per effectus.

しかしながら、ある人々において述語や主語の何たるかがわからないなら
ば、命題それ自体としてはおのずとわかるという場合であっても、その命
題の述語と主語がわからない人々にとってはその限りではない。ゆえにボ
エティウスが著書『デ・ヘブドマディブス(創造の七日間について)』で
述べているように、「非物体的なものは場所には存在しない」の場合のよ
うに、知恵ある者においてなら魂の共通概念をなし、おのずとわかるもの
もある。

したがって「神は存在する」というこの命題は、それ自体としてはおのず
とわかると言える。というのも、そこでの述語は主語と同一であるから
だ。すなわち、後に見るように(問三、四項)神とはその存在なのであ
る。けれども、私たちは神についての何たるかは知らない以上、私たちに
とっておのずとわかるものではなく、私たちにとってはより明らかで、本
性からすればより明らかではないもの、すなわちその(神のもたらす)結
果によって論証されなくてはならない。
# # #

まず今回の箇所に入る前に一言。前回のところでアンセルムスの議論が出
てきましたが、これは『プロスロギオン』のほうにそのまま出ている議論
でした(第二章)。ちょっと訂正しておきます。また、この同じ箇所に、
上のテキストにも出てくる『詩篇』52の1(または2)の一句が引用され
ていて、それに続き「その同じ愚かな者は、<それ以上大きなものが考え
られないもの>と私が言えば、それが何か知らなくとも、それが自分の知
性の中に存在することを理解するだろう」と続き、知性に存在するもの
と、事物が存在することの理解とは別ものとした上で、「しかしながら、
<それ以上大きなものが考えられないもの>は、知性のみあるのではな
い、なんとなれば、知性だけに存在するのであれば、それ以上に大きなも
のが考えられることになってしまうからだが、それはありえない」という
ふうに続いています。トマスのテキストよりも端折らずに議論が展開して
いるのですね。このアンセルムスによる神の存在証明は、ア・プリオリな
証明(原因からの証明)と呼ばれています。これは長い系譜をなしている
議論なのですね。

たとえば前回出てきたダマスクスのヨアンネスの『正統なる信仰につい
て』の3節でも、「神が存在するという認識は、私たちにもとより内在し
ている」とされ、そこでもまた、上の『詩篇』の同じ箇所が引用されてい
ます。もっとも、そちらでは、そうした愚か者を神の認識へと導くために
聖書があるのだという話になっていき、あまり「証明」という感じではあ
りません……。また、トマスのほぼ同時代人で在俗教師だったガン(ヘン
ト)のヘンリクスも、自著『スンマ』の中で、アンセルムスやヨアンネス
をそのまま引用しています。ヘンリクスの場合、アンセルムスの議論に対
しては、「それ以上大きなものが考えられないもの」は無限であり、無限
とはあらゆるものに及ぶ(有限な知性をも含めて)のだとして、知性の世
界と事物の世界の区別はもはや問題にされていません。

さて、対するトマスの証明はア・ポステリオリな証明(結果からの証明)
と言われます。その基本方針は今回の箇所に示されています。一番最後の
ところ、神がどんなかはわからなくとも、それがもたらす具体的な結果か
ら論証しなくてはならない、というところですね。そういえば、上に挙げ
たヘンリクスが引用しているのですけれど、アウグスティヌスの『三位一
体論』(15-4.5)に、「聖書のほか、人間を取り囲むすべての被造物
が、この上なく優れた創造主の存在を示している」という記述があるよう
です。トマスの言う「結果」とはつまり被造物のことだとすると、トマス
の論証の方針もアウグスティヌスを蹈襲していることがわかります。で
も、連続性の相で見るのももちろん大事ですが、やはりどちらかといえ
ば、トマスの革新性のほうに目を向けるような読み方のほうが面白そうな
気はしますね……。

ところで、この箇所の"quae sunt magis nota quoad nos et minus
nota quad naturam"というのは微妙にわかりにくいですね。底本の独訳
はnaturamを「神の本性(Natur (Gottes))」としていますが、「神の
本性からすればより明らかでないものによって……」というのでは今一つ
よくわかりません。『世界の名著』(中央公論社)シリーズ所収の山田晶
訳では、「本性的には知られる度合いが少ない」とし、注釈において、神
は「本性上」最高度の知られうるものであるのに対して、人間にとっては
最も知られにくいものであり、逆に人間にとってより知りうる神の結果
(被造物)は、それらの「本性上」は知りうる度合いが低い、という解釈
を示しています。なるほど、被造物の本性と取るわけですが、こちらのほ
うがはるかに意味の通りがよいと思われます。

トマスは検討する命題の「おのずとわかる(per se notum)」の部分
を、二つの意味に分解しています。こうした分解はトマスが非常に多用す
る分析手法なのですね。定義の厳密化は論理学的アプローチの第一歩とい
うわけです。その後に出てくるボエティウスの『デ・ヘブドマディブス』
は、タイトルとはあまり関係のない「在る」をめぐる命題の数々で構成さ
れた興味深いテキストで、トマスはこれの注釈書を書いています
("Expositio libri Boetii de ebdomadibus")。『中世思想原典集成』
のトマスの巻に邦訳が収録されています。これもそのうち取り上げてみた
いところですね。また、今回の箇所には、『神学大全』の先の部分(問
三、四項)へのリファレンスもあり、その内容もまとめておこうと思った
のですが、ちょっと長くなってしまったので、次回に繰り越しということ
にしたいと思います。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は05月24日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2008年05月20日 22:37