2004年07月24日

No.37

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.37 2004/07/17

------ミニ書評--------------------------------
指輪をめぐる冒険

日本では梅雨のいや〜な季節の6月も、欧州ではからっと晴れた日の続く気持ち
のよい時期で(最近は異常気象で、必ずしもそうとも言えないようですが)、ま
さに「ジューン・ブライド」などに相応しい季節という感じですが、この「6月
の花嫁」も中世以降に盛んになる風習です。とはいえ、そのルーツは古代ローマ
にあるのだそうで、6月は幸運の月といわれ、農耕生活の実りなどと関係する風
習なのだとか。とはいえ、古代ローマではまだ指輪を贈る風習はなかったといい
ます。

この話は、浜本隆志『指輪の文化史』(白水Uブックス、2004)に出ていま
す。もとは99年に出た書籍で、この春に新書化されました。トゥールキンの
『指輪物語』の映画化が3部作で完結したり、東京の新国立劇場では4年かけて
ワーグナーの『ニーベルングの指輪』のツィクルスが完結したりと、指輪関連の
話題が目立っていた頃合いだけに、タイムリーな新書化でした。この本では、歴
史的な指輪の変遷や指輪にまつわるフォークロア、そのシンボリズムなどを多角
的に、多くの図版を交えて紹介しています。あまり類書がないと思われるので、
その意味でも貴重な一冊かもしれません。指輪には大きく印章としての機能から
発展していく権威の象徴の系譜と、婚礼指輪にいたる呪術的象徴の系譜があるよ
うですが、本書はその両者について時代的な変遷や伝説・伝承、関連する事項
(神権授受や婚礼の儀式など)などを織り交ぜて、そうした系譜を浮かび上がら
せています。紹介される個々のエピソードも興味深いものばかりです。

それにしても、指輪という一見小さなテーマを辿っていくだけで、中世や古代に
いたる壮大な世界が立ち上がってくるというのがやはり興味深いですね。文化論
的な探求はとても刺激的な研究領域であることが改めてわかります。こういうア
イテム指向の研究というのももっと読みたい気がします。本書では最後に日本と
の比較文化研究の視点がごく簡単に示されていますが、あるいはそれも、より大
きな論考へと発展させていけるかもしれない重要な部分かもしれません。

○『指輪の文化史』
浜本隆志著、白水社(白水Uブックス)
ISBN 4-560-07368-6


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「王政論」その2

ダンテ「王政論」(帝政論)を読むシリーズの2回目です。今回は2章4節から3
章2節までを見てみます。

               # # # # # #
4. Verum, quia omnis veritas que non est principium ex veritate alicuius
principii fit manifesta, necesse est in qualibet inquisitione habere notitiam
de principio, in quod analetice recurratur pro certitudine omnium
propositionum que inferius assummuntur. Et quia presens tractatus est
inquisitio quedam, ante omnia de principio scruptandum esse videtur in
cuius virtute inferiora consistant. 5. Est ergo sciendum quod quedam sunt
que, nostre potestati minime subiacentia, speculari tantummodo
possumus, operari autem non: velut mathematica, physica et divina;
quedam vero sunt que, nostre potestati subiacentia, non solum speculari
sed etiam operari possumus: et in hiis non operatio propter speculationem,
sed hec propter illam assummitur, quoniam in talibus operatio finis.

4. 原理ではない真理もすべて、なんらかの原理をなす真理から示される以上、
どのような探求であっても原理の理解は必要になる。以下に示す議論のいっさい
を確かめるには、分析によって原理へと戻ればよい。本論考はそのような探求な
のであるから、なによりもまず、以下の議論が拠り所とする原理について検討す
べきであることは当然である。5. とはいえ、事象のうちには、数学的事象や自
然的事象、あるいは神的な事象などのように、われわれの力では捉えきれず、思
惟することはできても操作することはできないものもあれば、われわれの力で捉
えられ、思惟できるだけでなく操作もできるものもある。その場合、思惟のため
に操作があるのではなく、操作のために思惟があると考えられる。そうした場
合、操作が目的であるからだ。

6. Cum ergo materia presens politica sit, ymo fons atque principium
rectarum politiarum, et omne politicum nostre potestati subiacet,
manifestum est quod materia presens non ad speculationem per prius, sed
ad operationem ordinatur. 7. Rursus, cum in operabilibus principium et
causa omnium sit ultimus finis—movet enim primo agentem—, consequens
est ut omnis ratio eorum que sunt ad finem ab ipso fine summatur. Nam alia
erit ratio incidendi lignum propter domum constituendam, et alia propter
navim. 8. Illud igitur, siquid est, quod est finis universalis civilitatis humani
generis, erit hic principium per quod omnia que inferius probanda sunt erunt
manifesta sufficienter: esse autem finem huius civilitatis et illius, et non
esse unum omnium finem arbitrari stultum est.

6. 本書で扱う主題は政治、つまり正しき国家の源や原理ということになるだろ
うが、政治的なものはすべてわれわれの力で捉えることができる以上、この主題
が思惟のためにではなく、操作のために優先的に秩序づけられることは明らか
だ。7. 加えて、操作においては、あらゆるものの原理と原因はその最終的な目
的、つまり行動を最初に動機付けるものにあるのだから、結果的に、目的へと向
かうすべての理由は、まさしくその目的から生じていることになる。木材を切る
行為の理由は、家を建造するためか、船を建造するためかで同じではない。8.
人類の市民社会の普遍的な目的が仮にあるとするならば、それは原理をなし、以
下で考察するいっさいが、それによって十分に示されることになるだろう。それ
ぞれの市民社会に個別の目的があるとし、すべての市民社会の単一の目的がある
のではないと考えるのは愚かしいことである。

III. 1. Nunc autem videndum est quid sit finis totius humane civilitatis: quo
viso, plus quam dimidium laboris erit transactum, iuxta Phylosophum ad
Nicomacum. 2. Et ad evidentiam eius quod queritur advertendum quod,
quemadmodum est finis aliquis ad quem natura producit pollicem, et alius
ab hoc ad quem manum totam, et rursus alius ab utroque ad quem
brachium, aliusque ab omnibus ad quem totum hominem; sic alius est finis
ad quem singularem hominem, alius ad quem ordinat domesticam
comunitatem, alius ad quem viciniam, et alius ad quem civitatem, et alius
ad quem regnum, et denique optimus ad quem universaliter genus
humanum Deus ecternus arte sua, que natura est, in esse producit. Et hoc
queritur hic tanquam principium inquisitionis directivum.

第3章
1. ここで人間社会全体の目的とは何かを考えなくてはならない。これを検討す
れば、『ニコマコス倫理学』で哲学者(アリストテレス)が言うように、仕事の
半分は片づいたも同然だろう(*)。2.探求しているものが明確になるよう、次
のことに留意しなければならない。つまり、自然が親指を生み出したことになん
らかの目的があり、手全体を生み出したことに別の目的があり、さらに腕を生み
出したことにいずれとも異なる目的があり、人間全体を生み出したことにそれら
すべてと異なる目的があるように、個人を据える目的、共有の家を据える目的、
隣人を据える理由、市民を据える理由、王国を据える理由、そして最後に最も優
れた目的、つまり永遠なる神がその技をもって、つまり自然によって、人類を普
遍的に存在たらしめた目的もまた異なっているのである。そのことを、ここでは
探求の指針になる原理として検討する。

*『ニコマコス倫理学』、1097 b33
               # # # # # #

今回訳出した箇所では、政治的な事象は操作可能な対象なのだという指摘と、社
会が目的とするところは一つなのだという点が重要なポイントになるかと思いま
す。目的を軸に国家を説いていくというスタンスは、アリストテレスが下敷きに
なっているのは容易に察しがつきますが、それとは別に、そうした考察の背景に
は、ダンテが生きた時代のフィレンツェの情勢も当然関わっているはずです。

12世紀に自治都市(コムーネ)となっていたフィレンツェは、地理的な条件
(ローマとフランスをつなぐ道から少し逸れていたのです)のせいで、中世都市
として他よりも立ち後れていたといいます。それが急速な成長を遂げたのは、
13世紀に教皇派の中心都市になったためでした。教皇庁の後ろ盾を背景に、金
融業やフランドルとの交易(毛織物)が盛んになり、この毛織物産業は14世紀
に入ると南イタリアに広がり、さらには地中海貿易にまで発展していきます。
14世紀初頭で約10万人の人口がいたといいますから凄いですね。ペストが流行
する前のフィレンツェは、経済的にも文化的にも大きな繁栄を謳歌していたよう
です。

ところがその一方で、フィレンツェは政治的に混乱をきたし、教皇派内部で対立
が表面化し(チェッキ家とドナーティ家)、後に白党(市民寄り)と黒党(貴族
寄り)との戦いが起こります。ダンテは双方に距離を置いていたようですが、名
目上は白党に属していました。1300年にはフィレンツェの6人の統領(プリ
オーレ)の1人にまでなったものの、同年秋、教皇ボニファティウス8世がフィ
レンツェ内紛の調停役としてシャルル・ド・ヴァロアを派遣しようとしているこ
とを受けて、ダンテなど3人がその計画をやめさせようとローマに赴いている間
に、ヴァロアの軍隊がフィレンツェに入城、黒党は白党の追放を決議します。
1302年1月、法廷への出頭を拒否したダンテは、欠席裁判の形で市街追放と罰
金刑を課せられ、さらに3月には罰金を払いに来なかったとして永久追放(捕
まった場合には死刑)を言い渡され、こうして亡命生活が始まったのでした。

政治的な混乱さえなければ、高い経済・文化水準を享受していたはずのフィレン
ツェ。この『王政論』にも、そうした町の状況をつぶさに目にしていたダンテの
痛恨の思いが込められているかもしれませんね。そのあたりも念頭に置きつつ、
次回も3章の続きを読んでいきましょう。

投稿者 Masaki : 07:25

2004年07月10日

No.36

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.36 2004/07/03

------新刊情報--------------------------------
梅雨時には本もカビたりすることがありますが、今年は大丈夫でしょうか?なに
はともあれ新刊情報です。

○『十字軍の精神』
ジャン・リシャール著、宮松浩憲訳
法政大学出版局
?3,360
ISBN:4-588-02221-0

十字軍関連の研究で著名な著者による、十字軍の諸相についての手堅い概説と、
十字軍に関係した諸文書(史料)を集成した一冊。特に後半の史料がいいです
ね。これだけのものが日本語で読めるのは貴重かもしれません。法政大学出版局
はずいぶん頑張っている気がします。

○『エロイーズとアベラール−−ものではなく言葉を』 (叢書・ウニベルシタス
630)
マリアテレーザ・フマガッリ=ベオニオ=ブロッキエーリ著、白崎容子・石岡ひ
ろみ・伊藤博明訳
法政大学出版局
?3,990
ISBN:4-588-00630-4

これも法政大学出版局ですね。アベラールとエロイーズの書簡は岩波文庫で読め
ますが、こちらは両者の家庭環境や時代背景を含めて実像を論じた一冊のようで
す。アベラールは逸話や伝説も多く、政敵も数知れずで、どこか破天荒な感じの
イメージを抱いてしまいますが、神学論などをみて、ちょっとギャップを感じて
しまうこともあります。エロイーズの方はというと、小説作品などはともかく、
そもそも取り上げられることが少ないですよね。そういう意味ではちょっと覗い
てみたい一冊です。

○『イデア−−美と芸術の理論のために』(平凡社ライブラリー 504)
E.パノフスキー著、伊藤博明・富松保文訳
平凡社
?1,575
ISBN:4-582-76504-1

美術史家パノフスキーによる「イデア」の歴史。新訳だそうです。パノフスキー
の作品としては初期のものとか。そういうのが文庫で読めるのは実にありがたい
ですね。本文とほぼ同量の注釈がすごいです。

○スコトゥス「個体化の理論」への批判 『センテンチア註解』
L.1,D.2,Q.6より
G.オッカム著、渋谷克美訳註
知泉書館
?4,725
ISBN:4-901654-31-4

オッカムのウィリアムとドゥンス・スコトゥスとの対比……これはいろいろなと
ころで取り上げられているし、取り上げ続けていくべきテーマですが、本書など
はまさにその核心部分かもしれませんね。オッカムの『大論理学』の邦訳を手が
けている訳者による羅和対訳本です。テキストとしても最適かも。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「王政論」その1

さて、今回からダンテ・アリギエリの『王政論』(Monarchia)第1巻を読んで
いきます。13世紀から14世紀への世紀転換期を生きたダンテによる政治論で
す。『神曲』であまりにも有名なダンテですが、その生涯は文学とならんで政治
活動にも彩られています。30歳の頃からフィレンツェの市政に参加していたダ
ンテは、教皇支持派と神聖ローマ皇帝派との政争(後にいわゆる黒党と白党の戦
いになります)に巻き込まれ、フィレンツェから追放される憂き目に遭います。
その後の放浪生活から『神曲』などの一連の著作が編まれていくのですが、この
『王政論』もその一つで、諸都市が林立する当時のイタリアについて統一の必要
を説いた点がすこぶる近代的だといわれたりもします。中世盛期の政治感覚を探
る上でも、この作品はとても面白そうです。

例によって訳文は時に大雑把、時に字義通りでなかったりするかもしれません
が、「とりあえず中身がわかること」を第一に考えて訳出していきたいと思って
います。第1巻の分量から、20数回程度になる予定です。今回は第一章と第二章
の始めの部分を見ていきます。

               # # # # # #
I. 1. Omnium hominum quos ad amorem veritatis natura superior impressit
hoc maxime interesse videtur: ut, quemadmodum de labore antiquorum
ditati sunt, ita et ipsi posteris prolaborent, quatenus ab eis posteritas
habeat quo ditetur. 2. Longe nanque ab offitio se esse non dubitet qui,
publicis documentis imbutus, ad rem publicam aliquid afferre non curat;
non enim est lignum, quod secus decursus aquarum fructificat in tempore
suo, sed potius perniciosa vorago semper ingurgitans et nunquam
ingurgitata refundens. 3. Hec igitur sepe mecum recogitans, ne de infossi
talenti culpa quandoque redarguar, publice utilitati non modo turgescere,
quinymo fructificare desidero, et intemptatas ab aliis estendere veritates.

1章
1. 高貴なる自然によって真理への愛を刻印されたすべての人間にとって、次の
点はすこぶる重要なこととされる。すなわち、古代の人々の労苦によって自分た
ちが豊かになったのと同じように、自分に続く世代に対し、繁栄をなしうるだけ
ののものを委ねることだ。2. 世間の教訓に浸りきり、なにがしかの公務に携わ
ろうともしない者が、義務から遠くかけ離れていることに疑いの余地はない。そ
の者は、例えば「水の流れに沿ってあり、しかるべき時に実を付ける木」(*)
ではない。むしろ、いつも何かを呑み込んでいるものの、呑み込んだものを吐き
出すことのない危険な深淵だ。3. こうしたことにたえず考えを巡らし、私は、
タラントを埋もらせた(**)との咎めを受けないためにも、他の誰も示そうとし
ていない真実を開示し、世間にとって有益であるよう、単に膨らむだけではな
い、(真の)実りをなしたいと思うのだ。

* 『詩篇』1-3
** タラントはギリシアの貨幣。『マタイによる福音書』25章14〜30の逸話が
暗示されている。

4. Nam quem fructum ille qui theorema quoddam Euclidis iterum
demonstraret? qui ab Aristotile felicitatem ostensam reostendere
conaretur? qui senectutem a Cicerone defensam resummeret
defensandam? Nullum quippe, sed fastidium potius illa superfluitas tediosa
prestaret. 5. Cumque, inter alias veritates occultas et utiles, temporalis
Monarchie notitia utilissima sit et maxime latens et, propter non se habere
immediate ad lucrum, ab omnibus intemptata, in proposito est hanc de suis
enucleare latibulis, tum ut utiliter mundo pervigilem, tum etiam ut palmam
tanti bravii primus in meam gloriam adipiscar. 6. Arduum quidem opus et
ultra vires aggredior, non tam de propria virtute confidens, quam de lumine
Largitoris illius "qui dat omnibus affluenter et non improperat".

4. ユークリッドの定理をいくつか改めて示したところで、一体どのような実り
をもたらすというのだろう?アリストテレスによって示された幸福論を繰り返し
てみたり、キケロによって擁護された老いを再び擁護してみたりしたところで?
いかなる実りもない。そういう退屈な繰り返しはむしろ不快感をもたらすだろ
う。5. 秘された有益な真実のうち、世俗の王政についての知見こそが最も有益
で、最も知られていないものだろう。即座の利益につながるわけではないため
に、誰からも示されていないのだ。よってここでは、その内実をつぶさに明らか
にしてみたい。世間にとって有益な警告をなすため、また、そうした勝利の誉れ
を、初めてわが栄誉として手にするためでもある。6. 確かに難しく、自分の力
を越えてもいるこうした作業に着手するのは、自分の力を信頼しているからでは
なく、むしろ「すべての人に惜しみなく与え、咎めもしない」(*)施与者の救
いの手によるところが大きい。

* 『ヤコブの手紙』1-5

II. 1. Primum quidem igitur videndum quid est quod 'temporalis Monarchia'
dicitur, typo ut dicam et secundum intentionem. 2. Est ergo temporalis
Monarchia, quam dicunt 'Imperium', unicus principatus et super omnes in
tempore vel in hiis et super hiis que tempore mensurantur. 3. Maxime
autem de hac tria dubitata queruntur: primo nanque dubitatur et queritur
an ad bene esse mundi necessaria sit; secundo an romanus populus de iure
Monarche offitium sibi asciverit; et tertio an auctoritas Monarche
dependeat a Deo inmediate vel ab alio, Dei ministro seu vicario.

2章
1. まずは「世俗の王政」といわれるものが何かを、いわばその形式と、意図に
即して見ておかなくてはならない。2. 「帝政」ともいわれる世俗の王政とは、
時間の中にあるすべての事象の上にある、あるいは時間で計ることのできる事物
の中にあって、それらの上に君臨する単独の帝位のことをいう。3. これに関し
ては大きく3つの問題が問われるだろう。まずは人々の善き生活のためにそれが
必要かどうかが問われる。2番目に、ローマの民が王政における義務を権利とし
て引き受けていたかどうか、そして3番目に、王政の権威者は直接神に、あるい
は他の者、すなわち神の使者もしくは代理の者に依存するのかどうかである。
               # # # # # #

『王政論』は、イタリア統一の期待の星だったルクセンブルク候ハインリヒ7世
が1313年に急死したことを受けて、その追悼を捧げつつイタリア統一を改めて
説くという目的で書かれ、1318年まで執筆が続けられた作品です。2章の3のと
ころに示された三つの問題が、各巻で一つずつ論じられていきます。これから読
んでいく1巻では、帝政の必要性が論じられるわけですね。ちなみにテキストは
http://www.thelatinlibrary.com/dante.mon1.htmlのものを使用します。注に
ついては羅仏対訳本("La Monarchie", trad. Michele Gally, Belin, 1993)を
ベースに、場合によっては別のソースも利用しながら、確認を取っていきたいと
思います。

投稿者 Masaki : 07:23