2004年08月24日

No.39

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.39 2004/08/21

残暑お見舞い申し上げます。早く暑さや悪天候が落ち着き、秋の過ごしやすい季
節になってほしいと切に願いつつ、本号をお届けいたします。

------クロスオーバー-------------------------
夏はやっぱり展示会?

夏の暑い最中、二つほど展示会を見てきました。一つは長岡で開催されている
「ルーヴル美術館展:中世フランスの秘宝」。彫像を中心に100点以上が出品さ
れていました。ルーヴル所蔵品によるフランス中世美術展は約30年ぶりなのだ
とか。しかも開催場所が首都圏や関西圏でもなく、新潟の長岡と九州の福岡だと
いうところにも新鮮味があるかもしれません。長岡の新潟県立近代美術館は、市
の中心からやや外れた場所にあり、落ち着いた感じの贅沢な空間を形作っていま
す。

展示品は11世紀ごろから16世紀初頭までと時代的なスパンが長く、それだけに
展示内容にはやや散漫な感じもないわけではありませんが(もとのルーヴルの中
世ものの展示もそうですが)、それでもこれだけのものが日本国内にいて一挙に
見られるというのは貴重な機会です。言うまでもなく、個別には興味深いものが
いろいろとありました。ロマネスク美術関係では、柱頭の様式美が味わえるほ
か、聖遺物箱の七宝細工が見事でした。ゴシック期のものでは、木彫りの像、特
にブルターニュ公妃ブランシュ・ド・シャンパーニュの横臥像、司教杖などが見
ものです。また14世紀ごろの聖母子像の数々はどれも秀逸です。特にこの聖母
子像のテーマは、当時の信仰の重きがどこにあったのかなどを考える上でも重要
でしょう。表現の技法的な面を追っていっても面白そうです。やはりこうした一
般的なコレクションの公開は、よりテーマを絞った個別の展示会への布石にして
いってほしいものです。

その意味では、先週終わってしまいましたが、東京の国立西洋美術館で開催され
ていた「聖杯:中世の金工美術展」は興味深いものでした。ちょうど映画『キン
グ・アーサー』なども公開され(未見ですが)、なかなかタイムリーな企画でも
あります(?)。とはいえこちらは、実際のミサで使われていた聖杯を集めたも
ので、ドイツ・ザクセン地方のプロテスタント教会所蔵の品63点を展示してい
ました。時代も12世紀から16世紀初頭と、テーマを絞っているだけに時代ごと
の変遷(複雑さを増していく形状、線刻などの細工の技巧的進歩など)がよくわ
かる点で、実に意義深い展示会になっていました。技術への言及もきっちり抑え
てあり、パネル解説も的確でした。

今までこういう美術展を見た後、いつも思っていたのは、同じ時代やテーマに関
する資料や書籍、CDなどの販売、あるいは講演会、演奏会などとのタイアップ
がもっと行われてもいいんじゃないかなということでした。今回、ルーヴル展の
関連では新潟でも東京でも関連する講演会があったようですし、聖杯展の方でも
古楽演奏などがロビーで行われたりしたようです。残念ながらそれらには参加で
きませんでしたが、そういう試みはこれからもっと増えていってほしいですね。
また、上でもちょっと触れたように、全般的な展示会と個別的・テーマ別の展示
会には、両者それぞれに意義と特徴があるわけですけれど、長いスパンでよいで
すから、どこかで両者が連動していってほしいものだと思います。ルーヴル展は
9月12日までが長岡、9月28日から11月28日までが福岡です。お近くであれ
ば、ぜひご覧になってみてください。


------新刊情報--------------------------------
夏休み前の7月に出た新刊情報です。

○『中世ヨーロッパの歌』
ピーター・ドロンケ著、高田康成訳
水声社、?7350
ISBN:4891765216

中世の吟遊詩人が歌った歌謡に関する総合的な論考のようです。大著ですが、こ
れはある意味画期的です。内容説明文から引用しておくと、「今になお残る数多
の中世歌謡を、汎ヨーロッパ的な伝統のうちにとらえ、多様性を秘めた『ひとつ
の統一体』としてラディカルに読み解く」とあります。 もうこれだけでワクワ
クものですね。

○『中世ヨーロッパ万華鏡 1巻:中世人と権力』
ゲルト・アルトホフ著、柳井尚子訳
八坂書店、?2940
ISBN:4896947371

先に第2巻「中世の聖と俗」が出ていたシリーズ。3巻本の第1巻です。いわゆる
近代的な意味での国家がまだ亡かった時代、政権がどのように運営されていたか
を論じるもののようです。中世の政治システムを描き出すというのは、かなり大
変な作業だと思いますが、どのようにまとめているのか楽しみです。

○『エックハルト ラテン語著作集2:出エジプト記註解、知恵の書註解 』
エックハルト著、中山善樹訳
知泉書館、?8400
ISBN:4901654330

エックハルトは個人的にも注目している思想家です。日本語で読めるものとして
は岩波文庫版の説教集(ドイツ語のものから訳出)、創文社のラテン語説教集な
どがありますね。そして今回はこの注解書二編が加わりました。嬉しい限りで
す。原典も見たい気がするので、対訳本とかも出ないかなあ、なんて思ったりも
します……。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その4

今回は都合により、ちょっと短縮版にいたしました。3章から4章へと移る箇所
を見ていきます。前回の箇所では、人間の潜在力はその知性にこそある、という
ことが述べられていました。ここでは、その現実化こそが人間のなすべき所業
だ、と続いていきます。

               # # # # # #
9. Et huic sententie concordat Averrois in comento super hiis que De anima.
Potentia etiam intellectiva, de qua loquor, non solum est ad formas
universales aut speties, sed etiam per quandam extensionem ad
particulares: unde solet dici quod intellectus speculativus extensione fit
practicus, cuius finis est agere atque facere. 10. Quod dico propter agibilia,
que politica prudentia regulantur, et propter factibilia, que regulantur arte:
que omnia speculationi ancillantur tanquam optimo ad quod humanum
genus Prima Bonitas in esse produxit; ex quo iam innotescit illud Politice:
intellectu, scilicet, vigentes aliis naturaliter principari.

9. この見解には、アヴェロエス(*1)も『魂について』の注釈において同意し
ている。私が述べている知的潜在力は、普遍的形相あるいは類にのみ関わるので
はなく、なにがしかの延長によって個別にまで関わる。それゆえに、思弁的知性
は、延長によって、行動し実行することを目的とする実践的知性にもなると言わ
れるのだ。10. 私が語るうち行動の可能性に関するものは、政治的配慮によって
制御されており、実行の可能性に関するものは、技巧によって制御されている。
それらはすべて、思慮に仕えている。いわば「第一の善性」が人類を存在せしめ
た最善の目的に仕えているのだ。そこから『政治学』の次の一節(*2)が知ら
れるようになったのである。すなわち、知性において力をもつものが、他のもの
を自然に支配するのだ。

IV. 1. Satis igitur declaratum est quod proprium opus humani generis
totaliter accepti est actuare semper totam potentiam intellectus possibilis,
per prius ad speculandum et secondario propter hoc ad operandum per
suam extensionem. 2. Et quia quemadmodum est in parte sic est in toto, et
in homine particulari contingit quod sedendo et quiescendo prudentia et
sapientia ipse perficitur, patet quod genus humanum in quiete sive
tranquillitate pacis ad proprium suum opus, quod fere divinum est iuxta illud
"Minuisti eum paulominus ab angelis", liberrime atque facillime se habet.
Unde manifestum est quod pax universalis est optimum eorum que ad
nostram beatitudinem ordinantur.

4章
1. 以上十分に述べたように、全体的に捉えた場合の人類固有の所業とは、可能
な知的潜在力のいっさいを、まずは思弁に向けて、次に延長によってその実践に
向けて、たえず実現していくことにある。2. 部分のあり方は全体のあり方と変
わらないのだから、また、個別の人間においては、動かず平穏に過ごすことで、
慎重さや聡明さを完成に至らしめるのであるから、人類もまた、平静または平穏
の中にあってこそ、それ固有の所業、つまり「あなたは天使より少し低く作り」
(*3)との言葉によるならば神的な所業に、最も自由かつ容易に至りうるので
ある。ゆえに、普遍的な平和こそが、われわれの幸福のために命じられた最良の
ものであることは明らかだ。
               # # # # # #

注1のアヴェロエスは12世紀にアンダルシアに生まれたイスラム哲学者です。ア
ヴェロエスはラテン名で、アラビア名はイブン=ルシュドです。アリストテレス
の注釈で特に有名で、西欧中世におけるアリストテレスの再発見に大きく貢献し
ました。面白いことに、アヴェロエスは注2のアリストテレスの『政治学』だけ
は注釈を付けていないんですね。ですが、同書はダンテの時代にはすでに流布し
ていたようで、ほぼ同時代人のニコル・オレームなども『貨幣論』で盛んに引用
したりしています。『政治学』は理想国家を倫理的側面から論じていて、共通善
を実現できる高徳の人物が国政を担当すべきだとしています。注の箇所で挙げら
れている一節は、同書の冒頭、1252aの31行、「思考力に優れたものが人々を
支配し、君臨する(to men gar dunamenon teh dianoia prooran arxon phusei
kai despozon phusei)」です。

アンダルシアのイスラム世界は、様々な文化的融合を果たし、東方からの遺産を
西欧に伝えたという点で大いに評価されますが、その中心にはトレドなどで行わ
れていた翻訳作業がありました。アラビア語文献が大量に訳されて西欧に伝えら
れていくのですが、そうした作業にはユダヤ教徒の貢献も大きかったようです。
ダンテとの関係でいうと、『神曲』に影響を与えたという『階梯の書』などもそ
の地で翻訳されたといいます。

その次の注3は、『詩篇』の8「創造」の6節からです。前回の箇所でも人間との
対比で天使について言及されていました。天使といえば、やはりトマス・アクィ
ナスが論じた、天使は純粋形相である(質料が含まれない)という議論が思い起
こされますが、ダンテもやはりそれを踏襲しているように思われます。

次回も4章の続きから読んでいきたいと思います。

投稿者 Masaki : 07:29

2004年08月02日

No.38

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.38 2004/07/31

------お知らせ--------------------------------
本メルマガは隔週での発行ですが、8月と9月は夏休みということで多少不規則
な発行になります。発行日は以下を予定しています。
   No.39−−8月21日
   No.41−−9月11日
No.42からは通常通りとなります。どうぞよろしく。


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青の色

掛け合わせで作るのはきわめて困難とされている青のバラを、先頃サントリーが
遺伝子組み替えで作ったそうですね。写真で見る限り、まだ紫という感じです
が、これからさらに改良するのだとか。ちょっと反則、という気がしないでもな
いですが、それにしても色彩もまた技術の賜物であることを改めて考えてしまい
ます。

特に青色は不思議な存在です。フランスの歴史家ミシェル・パストゥローの著書
に「ブルー:ある色の歴史」という本があります("Bleu - histoire d'une
couleur", Editions du Seuil, 2002)が、それによると、古代から中世初期に至
るまで、青色はまったく重要視されない色だったといいます。青色が本格的に
「プロモート」されるのは12世紀で、教会のステンドグラスの背景色に使われ
るようになるのですね。サン=ドニ聖堂の再建で知られるシュジェなどは、教会
内部を色で満たすことに腐心していたそうで、盛んに青色に言及しています。さ
らに青色は七宝焼きや聖具などにも浸透していき、絵画でも使われるようになり
ます。当時盛んだったマリア信仰とも結びつき、13世紀にはマリアの衣服が従
来の黒に代わって青で描かれるようになります。さらにマリアがフランスの守護
者とされたことで、青(紺)は王家を表す色にもなっていきます。

こうした社会的背景を下支えするものとして、技術的な進歩もありました。青色
の染料はタイセイという植物から取りますが、増大する需要に応えるため、
1230年頃からは組織的に栽培されるようになったといいます。加工も手間暇が
かかります。葉を摘んでつぶしパテ状にし、2〜3週間発酵させ、搾りかすを作
り、数週間かけて乾燥させます。これがいわゆる「パステル」と呼ばれるもの
で、当時は専門の商人もいたのですね。タイセイ自体はどこにでもある植物でし
たが、こうした手間暇のせいでパステルは高価だったといいます。1240年ごろ
からタイセイの栽培地域は限定されていったようで、14世紀半ばには南仏がそ
の一大中心地になりました。トゥールーズはそれで栄え、「タイセイの地方
(pays de cocagne)」と呼ばれるようになります。ちなみにpays de cocagne
はフランス語の「桃源郷」の意味にもなります。より時代が下って、アンティル
諸島や新大陸からインディゴが伝えられると、タイセイを用いた染色は下火に
なっていきます。とはいえ、トゥールーズでは今なお伝統工芸としてタイセイの
染色が受け継がれているようで、それに関するレポートを、少し前のフランス2
(フランスの第2チャンネルです)のニュースで放映していました。

海などの連想からか、青色はこの暑い時期、涼しさを運んでくる色でもありま
す。でもそれは近代以降の海水浴などのレジャーがあって初めて成立するものの
ような気もします。こうして見ると、色の認識にまつわる様々な意味合いはどこ
まで歴史的なものなのかが気になりますね。例えば、時に青色には何か神秘的な
意味合いが込められたりもしますが、それにも歴史的な起源があるのでしょう
か。以前何かの本で読んだのですが、嘘か本当か、胎児が最初に認知する色は青
色なのだともいいます。うーん、そうなってくると、これはもう、まさに哲学
的・認識論的な問題になってきます。色一つ取ってみても、いろいろな問いを引
き出すことができそうですね。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その3

今回は3章の3節から7節までを見てみましょう。 前回の箇所では、それぞれの
形態には固有の目的があるのだという話がなされていました。その続きです。

               # # # # # #
3. Propter quod sciendum primo quod Deus et natura nil otiosum facit, sed
quicquid prodit in esse est ad aliquam operationem. Non enim essentia ulla
creata ultimus finis est in intentione creantis, in quantum creans, sed
propria essentie operatio: unde est quod non operatio propria propter
essentiam, sed hec propter illam habet ut sit. 4. Est ergo aliqua propria
operatio humane universitatis, ad quam ipsa universitas hominum in tanta
moltitudine ordinatur; ad quam quidem operationem nec homo unus, nec
domus una, nec una vicinia, nec una civitas, nec regnum particulare
pertingere potest. Que autem sit illa, manifestum fiet si ultimum de
potentia totius humanitatis appareat.

3. そのために、まずは次のことを知らなくてはならない。神と自然は無為なる
ものを作ってなどおらず、それが存在へと至らしめるのは、いずれもなんらかの
操作のためなのである。創造されたものの本質は、創造者が創造する限りにおい
ての、その意図の最終目的なのではなく、その本質に固有の操作が最終目的であ
るからだ。ゆえに固有の操作が本質のためにあるのではなく、本質が固有の操作
のためにあるのである。4. したがって人間一般にもなんらかの固有の操作があ
り、それに向けて人間の世界は、かくも多様な形で秩序づけられているのだ。そ
の操作をなすには、一人の人間だけで十分ではないし、一つの家族、一人の村、
一つの町、一つの王国だけで十分ではない。だが人類全体の究極の潜在力が表出
するならば、まさにその操作が明らかになるだろう。

5. Dico ergo quod nulla vis a pluribus spetie diversis partecipata ultimum est
de potentia alicuius illorum; quia, cum illud quod est ultimum tale sit
constitutivum spetiei, sequeretur quod una essentia pluribus spetiebus
esset specificata: quod est inpossibile. 6. Non est ergo vis ultima in homine
ipsum esse simpliciter sumptum, quia etiam sic sumptum ab elementis
participatur; nec esse complexionatum, quia hoc reperitur in mineralibus;
nec esse animatum, quia sic etiam in plantis; nec esse apprehensivum, quia
sic etiam participatur a brutis; sed esse apprehensivum per intellectum
possibilem: quod quidem esse nulli ab homine alii competit vel supra vel
infra.

5. ゆえにこう言おう。複数の異なる種によって分割される力は、そのうちのい
ずれかが持つ潜在力の究極のものではない。なぜかというと、そのような究極の
力は種を成立させるものである以上、一つの本質が複数の種に類別されることに
なってしまうからだ。それはあり得ない。6. したがって、人間が持つ究極の力
は、単純な存在自体にあるのではない。もしそうなら、様々な要素が関係するか
らだ。複合的な組成にあるのでもない。それなら鉱物でもよいからだ。生命にあ
るのでもない。それなら植物でもよいからだ。捕捉性にあるのでもない。それな
ら野獣も関係するからだ。そうではなく、知性による捕捉(理解)が可能である
ことにこそ、究極の力はあるのである。それは(人間より)上位か下位かのいず
れを問わず、人間以外にはできないことだ。

7. Nam, etsi alie sunt essentie intellectum participantes, non tamen
intellectus earum est possibilis ut hominis, quia essentie tales speties
quedam sunt intellectuales et non aliud, et earum esse nichil est aliud quam
intelligere quod est quod sunt; quod est sine interpolatione, aliter
sempiterne non essent. Patet igitur quod ultimum de potentia ipsius
humanitatis est potentia sive virtus intellectiva. 8. Et quia potentia ista per
unum hominem seu per aliquam particularium comunitatum superius
distinctarum tota simul in actum reduci non potest, necesse est
multitudinem esse in humano genere, per quam quidem tota potentia hec
actuetur; sicut necesse est multitudinem rerum generabilium ut potentia
tota materie prime semper sub actu sit: aliter esset dare potentiam
separatam, quod est inpossibile.

7. 他にも知性を本質とする種はあるにせよ、それらの知性は人間の場合のよう
な可能性をもってはいない。そのような種の本質はひたすら知性的である以外に
なく、自分たちが何者かを理解すること以外には存在しえないからだ。それは変
化することがない。さもなくば永遠ではなくなってしまうだろう。ゆえに人間の
究極の潜在力そのものが、知的な潜在性または力であることは明白である。8.
そうした潜在力は、一人の人間、あるいはより上位の特定の共同体によって完全
かつ同時に現実化することはできない以上、人類には多様性がなくてはならな
い。多様性を通じてこそ、潜在力は全面的に現実化するのだ。また、産出の可能
性をもった事物の多様性も必要になる。第一の質料の潜在性が全面的に現実態の
もとに常に置かれるように、である。さもなくば、潜在力の分割を認めることに
なってしまうが、それはあり得ない。
               # # # # # #

7節に出てくる知性を本質とする他の種とは、天使のことを言っているのでしょ
う。それにしても、知性的でありつつ、外界に向けて開かれているのが人間固有
の究極の力だ、というのが興味深いですね。なにせ「外界に向けて開かれてい
る」という点では、上位に置かれる天使をも凌いでいるのですからね。しかもそ
の潜在力を開花させるには多様性が必要だとも指摘しています。このあたり、な
んだかとてもアクチャルな問題を孕んでいて、私たちにとっても省察に値する文
言であると言えそうな感じがします。ダンテがある意味できわめて先見的とされ
る所以かもしれません。

ちょっと先走りになりますが、これとの関連で、仏訳本(Belin社刊、1993)の
クロード・ルフォールによる解説にも少しばかり触れておきましょう。それによ
ると、ダンテの革新性は、「人間の修復しがたい欠陥」というキリスト教的テー
ゼを覆し、「地上世界の価値を復権させようとし」、さらには地上の生に、「死
すべき存在という条件を超越し塗り替える」企図を見いだしたところにあるのだ
といいます。政治体制についても、単一の君主による統治を擁護しつつも、それ
に共同体側からの制限をかけようとするところが斬新なのですね。そのための下
敷きになる概念「可能なる知性」を、ダンテはアリストテレスから持ってきま
す。とはいえ、そうした「可能なる知性」の実現には人類全体の協働が必要だと
している点で、限定されたポリスをめぐるものにすぎなかったアリストテレスの
議論を、いっそう広い領域、歴史的に実現されている「市民社会」へと開いてい
るともいいます。今回の箇所はまさにそれを論じた部分です。

次回は引き続き3章の9節、10節を見、次いで4章に入ってきたいと思います。

投稿者 Masaki : 07:27