2004年09月28日

No.41

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.41 2004/09/25

------新刊情報--------------------------------
少しずつ秋が近づいている今日この頃ですが、新刊も秋に向けていろいろ出てき
ていますね。

○『中世初期フランス地域史の研究』
佐藤彰一著、岩波書店、?9,870
ISBN:4-00-023825-6

中世初期のフランク王国(7世紀から9世紀)に関する多面的な地域史のようで
す。「司教支配と王権」「領域支配と所領構造」「経済活動と植民」の三部構
成。個人的には、2番目の領域支配の問題などに、特に興味を引かれます。

○『剣と愛と—中世ロマニアの文学 』
中央大学人文科学研究所編、中央大学出版部、?3,255
ISBN : 4-80-575325-0

この論集は目次の見出しが実に刺激的です。「フランス中世における『恋愛』と
『戦争』—シャンパーニュ伯ティボー四世をめぐって 」「フランス中世叙事詩
と年代記における、十字軍の英雄ノルマンディー公ロベールに対する毀誉褒貶」
「動かぬ規範が動くとき—十三世紀古仏語韻文物語『アンボー』の描くゴーヴァ
ン像」「ガウェインの誕生と幼年時代 」「伝統、インスピレーション、そして
幻視像—ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの「愛」の像をめぐって」 「プロメ
テウス神話—メソポタミア神話の余波」。ぜひ読んでみたいですね。

○『中世ヨーロッパの時空間移動』
原野昇ほか著、渓水社、?2,310
ISBN:4-87440-833-8

こちらも論集。広島大学での公開講座の記録ということで、旅と巡礼をテーマに
し、それを通じて中世ヨーロッパの時空間把握の問題を検討するという内容で
す。チョーサーが大きく取り上げられている感じでしょうか。これもちょっと楽
しみです。

○『中世パリの生活史』
シモーヌ・ルー著、杉崎泰一郎監修、吉田春美訳、
原書房、?4,200
ISBN:4-562-03792-X

著者のルーはパリ第10大学ナンテール校の名誉教授で、中世パリの都市研究の
第一人者なのだそうです。多種多様な人々が集ったという中世の国際的都市パリ
について、民衆の生活を描き出す一冊。13世紀から15世紀が中心になっていま
す。

○『中世修道院の世界−使徒の模倣者たち』
M.‐H.ヴィケール著
朝倉文市監訳、渡辺隆司、梅津教孝訳
八坂書房、?2,940
ISBN:4-89694-847-5

4世紀から13世紀までの修道院の歴史を辿っていくというものです。使徒の模倣
がキーワードということで、整理の着眼点が優れていそうです。メッスの司教座
聖堂参事会会則が付録として訳出されているということで、これにも要注目です
ね。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その6

最近、歴史ミステリーが元気なようですが、話題作の一つに『ダンテ・クラブ』
(マシュー・パール)というのがあるのですね。未読ですが、『神曲』地獄編を
模した殺人事件に、実在した文学者集団が挑むというものらしいです。面白そう
ではありますが、それにしても、地獄編ばかりがこうして取り上げられる風潮は
どうだろうか、という気もします。前回ご紹介した今道友信氏の著書でも、『神
曲』の真骨頂は、詩と哲学とが融合する天国編にある、といった趣旨のことを述
べられています……。

さて、今回は5章の残り部分です。集団において単一の指導者が必要、と説く部
分の続きを見ていきましょう。

               # # # # # #
4. Si enim consideremus unum hominem, hoc in eo contingere videbimus,
quia, cum omnes vires eius ordinentur ad felicitatem, vis ipsa intellectualis
est regulatrix et rectrix omnium aliarum: aliter ad felicitatem pervenire non
potest.
5. Si consideremus unam domum, cuius finis est domesticos ad bene vivere
preparare, unum oportet esse qui regulet et regat, quem dicunt patrem
familias, vel eius locum tenentem, iuxta dicentem Phylosophum: "Omnis
domus regitur a senissimo"; et huius, ut ait Homerus, est regulare omnes et
leges imponere aliis. Propter quod proverbialiter dicitur illa maledictio:
"Parem habeas in domo".

4. 一人の人間を考えてみるならば、その者の中にもそのこと(長が必要だとい
うこと)が見て取れるだろう。というのも、その者のすべての力を幸福に向けて
組織する場合、知性の力が他のすべての力を統括し支配するからだ。それ以外で
は幸福には達しえない。
5. 家族がよく暮らせるよう準備することを目的とする一つの家を考えてみるな
らば、統括し支配する人物、つまり家父と呼ばれる者、あるいはその場所を維持
する者が必要になる。哲学者(アリストテレス)も次のように述べている。「家
はすべて最年長者によって管理される」(*1)。そしてその者は、ホメロスが
述べるように、すべての決まりを作り、他の成員を規則に従わせる(*2)。そ
のために、格言として次のような誹りもある。「おまえの家に同等の者がいると
は」。

6. Si consideremus vicum unum, cuius finis est commoda tam personarum
quam rerum auxiliatio, unum oportet esse aliorum regulatorem, vel datum
ab alio vel ex ipsis preheminentem consentientibus aliis; aliter ad illam
mutuam sufficientiam non solum non pertingitur, sed aliquando, pluribus
preheminere volentibus, vicinia tota destruitur.
7. Si vero unam civitatem, cuius finis est bene sufficienterque vivere, unum
oportet esse regimen, et hoc non solum in recta politia, sed etiam in
obliqua; quod si aliter fiat, non solum finis vite civilis amictitur, sed etiam
civitas desinit esse quod erat.

6. 人と財の適切な扶助を目的とする一つの村を考えてみるならば、一人が他の
人々の統治者になるか、あるいは他の者から、ないしは村そのものから、他の者
の合意にもとづく優位の立場を譲り受ける必要がある。それ以外では、相互の充
足には至らないのみならず、多くの者が優位を望むようになれば、村はすっかり
解体してしまう。
7. 充足した形でよく生活することを目的とする一つの都市を考えてみるなら
ば、一つの政体が必要になる。それは直系の政府だけでなく、傍系の政府におい
てもそうである。それ以外の形では、市民生活の目的が失われるだけでなく、都
市はかつての姿を留めなくなってしまうだろう。

8. Si denique unum regnum particolare, cuius finis est is qui civitatis cum
maiori fiducia sue tranquillitatis, oportet esse regem unum qui regat atque
gubernet; aliter non modo existentes in regno finem non assecuntur, sed
etiam regnum in interitum labitur, iuxta illud infallibilis Veritatis: "Omne
regnum in se divisum desolabitur".
9. Si ergo sic se habet in hiis et in singulis que ad unum aliquod ordinantur,
verum est quod assummitur supra; nunc constat quod totum humanum
genus ordinatur ad unum, ut iam preostensum fuit: ergo unum oportet esse
regulans sive regens, et hoc 'Monarcha' sive 'Imperator' dici debet.
10. Et sic patet quod ad bene esse mundi necesse est Monarchiam esse sive
Imperium.

8. 最後に、都市の場合と同じで、その平穏により大きな信頼が寄せられること
を目的とする一つの個別の国を考えるなら、支配し統治する一人の王が必要にな
る。それ以外では、王国に暮らす者たちが目的を達成できないばかりか、王国は
滅亡へと向かっていくだろう。無謬の真理が述べる通り、「みずからのうちに分
割される王国はすべて解体する」。(*3)。
9. このように、もしこれらの各々(の状況)において、何か一つの目的に向け
て組織するのであれば、上で述べたことは真となる。すでに論じたように、すべ
ての人類が一つの目的に向かって秩序づけられるのは今や明白である。したがっ
て一人が統括し支配する必要があり、この者を「王」もしくは「皇帝」と呼んで
しかるべきなのだ。
10. 世界が善に向かうためには、王政もしくは帝政が必要になるのは明らかであ
る。
               # # # # # #

5章が興味深いのは、人間(人体)から家族、村、都市を経て国にいたるまで、
すべて相似的に扱われていることです。ここには、ミクロコスモスとマクロコス
モスとの照応という、中世を貫いていた新プラトン主義的な思想の残響も響いて
いそうです。頭が身体を支配するように王は国は統治すべし、という考え方は、
例えば12世紀のソールズベリーのジョンなどにも見られます。いずれにしても
一神教の体系において、唯一者を頂点とする構造は、ごく些細な細部にまで宿っ
ていくのかもしれません。

もちろん、前回読んだ部分に明示されているように、直接的にはアリストテレス
の『政治学』がベースになっています。上の注1は『政治学』1巻の最初のとこ
ろ(1252b、 21)からの引用です。注2もそれに続く箇所の引用ですが、実は
これ、もとの出典はホメロスの『オデュッセイア』9巻114〜115の一節「各人
が子と妻を支配する」という部分です。本文でそれに続いている誹りの一文は、
出典は不明ですが、要するに家を統治できないふがいなさを咎めているのでしょ
う。注3は、『マタイによる福音書』12章25節からのものです。

今回の箇所は、各節が同じ「もし〜を考えてみるならば」で始まり、同じパター
ンの構文が繰り返され、音としても調子がよい気がします。このあたり、散文で
はあってもダンテの詩人としての感覚が冴えているところかもしれません。
ちょっと脱線しておくと、ダンテは普通、その思想よりは詩才において語られる
わけですが、とりわけ有名な清新体(麗しき新しき調べ)は、シチリアのフリー
ドヒリ2世の宮廷以来綿々と継承されていたプロヴァンス詩の伝統に対立する、
擬古典的な作風であるとされています。清新体についてピーター・ドロンケの
『中世ヨーロッパの歌』(高田康成訳、水声社)は次のように述べています。
「(……)言葉が言わば機能的に働き、無駄な形容や修辞的誇張がないというこ
とである。愛のテーマを扱うとき、新たな精神性と畏怖の感情をもってするので
あり、この比類なき直接性において愛の思いを伝えようとし、愛の心情から直に
流れ出ることのない事柄には言葉を浪費しない、とダンテは主張する」
(p.343)。

文体と内容の有機的統一こそが、他のプロヴァンス詩の伝統(構成の規則を重視
する)から分かれる指標だというわけです。ドロンケは、これはチマブーエ
(13世紀後半のイタリアの画家)の絵画に匹敵する麗しさだと述べています。
一方で、エーリッヒ・アウエルバッハの名著『世俗詩人ダンテ』(小竹澄栄訳、
みすず書房)では、ダンテにおける哲学と詩の和合を高く評価し、法則的なもの
と特殊なものとが現象の中で融合する様がジョットの絵画に似ていると述べてい
ます(p.151)。ちなみにジョットはチマブーエの弟子ともいわれる人物です。
このあたりの芸術の並行関係にも、興味深いものがありますね。

次回は6章を見ていきます。内容的には全体と部分の関係について論じているく
だりです。どうぞお楽しみに。

投稿者 Masaki : 07:33

2004年09月14日

No.40

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.40 2004/09/11

------クロスオーバー-------------------------
「野蛮さ」

あの9.11のテロから今日でちょうど3年目です。テロルの原義は「恐怖・不安・
驚愕」ですが、なんだか本当にそうした負の感情が一般化する世の中になってき
ています。先日も北オセチア共和国の惨劇があったばかりですし、ジャカルタで
もテロがありました。この危機的で「野蛮な」現代世界の状況を指して、時に中
世が引き合いに出されたりもします。「新たな中世」といった言い方がされるこ
ともあります。

最近でも、例えば『現代思想』(青土社)の8月号(特集:いまなぜ国家か)
に、山内進氏が「帝国の移転」という論考を寄せています。アメリカが中世以来
の帝国概念をどう取り込み継承したかという興味深い内容の論考ですが、その途
上で、ホッブズの自然状態(万人の万人に対する戦い)ではアメリカと並んで中
世がモデルとしてあったといい、アメリカが「中世的」だという諸説がいくつか
紹介されています。その際の中世とは「暴力と衝突の世界」として想定されてい
ます。一方、「新たな中世」といえば、フランスのエセイスト、アラン・マンク
(アラン・ミンク)が、93年にその名もずばり『新たな中世』という書籍を刊
行しています("Nouveau Moyen Age", Gallimard, 1993)。同書はいわゆる現
代批評ですが、「中世」はそこでキーワードとして用いられていて、体制の崩壊
による全体的流動化(無秩序化)、日常化する危機と紛争を指して「新たな中
世」と称しています。

なるほど中世には、確かにフェーデ(私戦)もありました。けれども、中世が単
に暴力に彩られるだけの世界だった、と考えてしまっては単純化の罠に陥ってし
まいます。最近刊行されたゲルト・アルトホフ『中世人と権力』(中世ヨーロッ
パ万華鏡1、柳井尚子訳、八坂書房)では、冒頭でフェーデについて取り上げ、
それが中世を暗黒世界と見なす見方を大きく後押ししたとしています。けれども
実際のフェーデは、人命を軽んじる側面は確かにあったとはいえ(特に農奴など
の身分の低い人々への侵害)、戦う当の相手同士(貴族、都市など)で見れば、
武力行使に至る前の駆け引きや、一端戦闘が始まってからも交渉の余地があった
こと、降伏に際してはただちに包囲を解くことなど、一定のルールが存在してい
たのだといいます。フェーデは決して、抑制を伴わない野蛮な闘争ではなかった
のだということです。交渉のチャンネルが開かれている……これが中世の衝突の
特徴なのだと同書は説いています。

このような観点からすると、中世の武力衝突や統治の実態が、近・現代的な紛争
や統治以上に野蛮だったとは必ずしも言いきれないようにも思えてきます。なに
せ後者の場合には、一度紛争が始まると、一方が決定的な力の差を見せつけるま
でなかなか交渉のテーブルが用意されませんからね。また、例えば脅迫の手段と
して人質を取るという行為は、メディアの発展に結びついているという意味でき
わめて現代的なものかもしれません。中世では敵対する相手国の使者に不当な扱
いをすることがあっても、その使者は生かして帰します。いかに不当な扱いがな
されたかを、相手国に知らしめなくてはならないからです。今なら、ビデオで
撮って送りつければすむわけで、相手国の使者など生かしておく必要すらないか
もしれません。

中世を無秩序が支配する世界と断じるのも早計です。もちろんまだ主権概念も確
立されておらず、行政権の及ばない「灰色の地帯」(マンクいうところの)が大
きく広がっていたことも確かでしょう。とはいうものの、内政的な場において
は、やはり協議をベースにした暗黙のルールが敷かれていたこともまた事実のよ
うです。約束と報酬から成る、いわばゆるやかなシステムで、行動の余地、交渉
の余地も、もちろん領主や貴族に限られるとはいえ、多く残されていたといいま
す。もちろんいわゆる封建制ですから、下位の者が訴えを起こすには上位の者に
取り入る必要があったりもするわけですが、それは近代以降もなくならない身分
制度上の問題です。ここで大事なのは、とにかく近代的な行政機構の萌芽、ある
いは原初形態は、中世初期から中期にすでに見られるということでしょう。中期
以降の自治都市(コムーネ)などの組織化には、古代ローマが手本になっている
といいます。それ以前には、アラブ世界などの社会的組織形態からの影響もある
のかもしれません。そういう意味での連続性もまた見過ごせません。

内政でも外交でも、紛争やそれに類する「野蛮な」状況は今も昔もさほど変わり
ません。ただ、そうした負の価値をどう処理するのか、という発現形態は時代ご
とに大きく変わっています。現代を「新たな中世」などと見なすとなれば、中世
から近代を経て現代にまでいたる綿々たる流れを断ち切って、ありもしない断絶
を性急に想定してしまうことにもなりかねません。そうではなく、そうした連続
性を見据えた上で、改めて時代的な差異をも視野におさめるのでなくてはいけな
いと思うのです。それは、現代世界についての単にキーワード的な理解を得るた
めではなく、「野蛮さ」を封じる、より優れた現代的な手段を探るために必要な
スタンスだと思われます。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その5

ちょっと切り方が悪く、今回は4章の3節からです。ここまででダンテは、人類
はその潜在力の発現のためにあり、それは恒久的な平和があって初めて実現でき
ると述べてきました。4章の残りの部分ではそのことをまとめ、5章からはいよ
いよ王政の具体的な話に入っていきます。

               # # # # # #
3. Hinc est quod pastoribus de sursum sonuit non divitie, non voluptates,
non honores, non longitudo vite, non sanitas, non robur, non pulcritudo, sed
pax; inquit enim celestis militia: "Gloria in altissimis Deo, et in terra pax
hominibus bone voluntatis".
4. Hinc etiam "Pax vobis" Salus hominum salutabat; decebat enim summum
Salvatorem summam salutationem exprimere: quem quidem morem
servare voluerunt discipuli eius et Paulus in salutationibus suis, ut omnibus
manifestum esse potest.

3. ゆえに、羊飼いたちに高々と響いた言葉は、富でも、欲望でも、名誉でも、
余命の長さでも、健康でも、勇気でも、美でもなく、平和だったのだ。天の兵士
はこう述べている。「いと高きところ、神に栄光あれ、そして地上では、善き意
志をもった人間に平和を」(ルカ、2章13〜14)。
4. ゆえに、人類の救いの言葉は「平和であれ」と述べているのだ(ヨハネ、20
章21)。至上の救世主は、相応しい至上の救いを表した。すなわち、あらゆる
者に示せるようにと、弟子たちおよびパウロがその救いにおいて継承した慣習で
ある。

5. Ex hiis ergo que declarata sunt patet per quod melius, ymo per quod
optime genus humanum pertingit ad opus proprium; et per consequens
visum est propinquissimum medium per quod itur in illud ad quod, velut in
ultimum finem, omnia nostra opera ordinantur, quia est pax universalis, que
pro principio rationum subsequentium supponatur.
6. Quod erat necessarium, ut dictum fuit, velut signum prefixum in quod
quicquid probandum est resolvatur tanquam in manifestissimam veritatem.


5. ここまで述べたことからも、人類が何によればより良く、何よれば最も良
く、その固有の所業に至るのかということは明らかである。そして結果的に、そ
れは、究極の目的であるかのようにわれわれの所業すべてを秩序づけるものへと
至るための、最も手近な手段だと考えられる。というのも、恒久的平和こそが、
この後の推論の原理として想定されるからだ。
6. すでに述べたように、記号の接頭辞のようにそうした原理は必要とされてい
た。その原理においてこそ、確証すべきすべてのことが、この上なく明白な真理
として明らかにされるのである。

V. 1. Resummens igitur quod a principio dicebatur, tria maxime dubitantur
et dubitata queruntur circa Monarchiam temporalem, que comuniori
vocabulo nuncupatur 'Imperium'; et de hiis, ut predictum est, propositum
est sub assignato principio inquisitionem facere secundum iam tactum
ordinem.
2. Itaque prima questio sit: utrum ad bene esse mundi Monarchia temporalis
necessaria sit. Hoc equidem, nulla vi rationis vel auctoritatis obstante,
potissimis et patentissimis argumentis ostendi potest, quorum primum ab
autoritate Phylosophi assummatur de suis Politicis.
3. Asserit enim ibi venerabilis eius autoritas quod, quando aliqua plura
ordinantur ad unum, oportet unum eorum regulare seu regere, alia vero
regulari seu regi; quod quidem non solum gloriosum nomen autoris facit
esse credendum, sed ratio inductiva.

5章
1. 最初に述べたことを繰り返すなら、世俗の王政、より一般には「帝政」とい
う言葉が用いられるものについては、大きな問題が3つあり、疑念を生じさせ
る。先に述べたように、ここではそれらについて、指定された原理のもと、すで
に示した順番に従い検討していくことにする。
2. まず最初の問題は、世界が善へと向かう上で世俗の王政は必要かどうかとい
うことだ。この点については、いかなる理性の力にも権威の力にも抵触すること
なく、この上なく賢明かつ明確な議論を展開することが可能である。まずは哲学
者(アリストテレス)が『政治学』で取り上げている議論を取り上げよう。
3. 同書において、その讃えるべき権威において主張されているのは、以下のこ
とである。すなわち、複数の者を一つにまとめる際には、それらのうちの一人が
規則を定めるか支配するかし、残りの者は規則に従うか支配されるかする必要が
あるのだ。さらに、このことは栄誉ある権威の称号によって信頼させるだけでな
く、理性的に導く必要もある。
               # # # # # #

ちょっと雑談になってしまいますが、この夏は先に改訂版が出た今道友信『ダン
テ「神曲」講義』を少しずつ読んでみました。これは「神曲」の総合的理解を目
指した名講義です。まずは「神曲」の下地にあたるホメーロス、次にウェルギリ
ウスについて語られ、それからもう一つの前提となるキリスト教について論じ、
それらの上に立脚する形で神曲のそれぞれの節目となるエピソードを精読すると
いうもので、様々な注解を駆使しつつ、「神曲」の全体像と個別の詩句とのバラ
ンスを失わないというあたり、まさに名人芸の極みという風でしょうか。お勧め
です。

「神曲」では、天国編においてトマス・アクィナスが登場します。トマス神学は
ダンテの中においてとりわけ大事にされたものだったということです。当然なが
ら、その神学のさらに遠景にはアリストテレスの哲学があります。上の講義によ
れば、トマスの賢慮(prudentia)は、アリストテレスの実践理性
(phronesis)に立脚しています。それはプラトンの理論理性(episteme)とは
違い、あらかじめ計算で固定されない、より柔軟な理性として示されます。これ
を継承したのがトマスの賢慮なのですね。引用しておくと、「個体についての判
断としてのプルデンティアは必然と偶然の間に位置する蓋然性の領域を対象とし
ており、個体の歴史的進展を考慮に入れた見方を必要とする」(『ダンテ「神
曲」講義』、p.479)とあります。

物事の白黒を予め決めつけず、開かれた精神で柔軟に事にあたれ、というのが実
践理性であり、信仰の領域にそれが投影されたものがトマスの賢慮なのでしょ
う。アリストテレス的な現世的なものへの指向は、トマスを介してダンテにも受
け継がれているようです。ダンテにおける賢慮、というのも興味深い問題かもし
れませんね。このあたりのことも念頭に入れて、私たちはとりあえず目下の『帝
政論』を読み進めていきたいと思います。次回は5章の続きの部分から見ていき
ましょう。

投稿者 Masaki : 07:31