「ロマン主義者は真に孤独になりたいとは望まない。彼は自分が孤独を選択するところを見られたいのである」
ジラール『地下室の批評家』(織田年和訳、白水社)所収のカミュ論から。西永良成『<個人>の行方』(大修館書店、2000)の序論で引用されていたのをきっかけに、元のテキストを見てみた。孤独と社会生活との両方を渇望するカミュは、きわめてロマン主義的なのだという。ところがそういう他者による魅惑はなかなか意識には登らない……。孤独がいや増すといっそう他者への欲求も強くなっていくのだとしたら?『<個人>の行方』では、これが例えばトクヴィルのテーゼ、「不平等が軽減されれば、いっそう不平等の重みに耐えられなくなり、いっそうの平等を求めるようになるという平等の逆説」へと連結されたりもする。
「人間を一番ひどくあざむくものは、その人自身の考えである」
既存の考え方がしばしば人を迷わせる……このマスターズの評伝を読むと、ダ・ヴィンチの生涯はひたすらそうした迷いの軌跡を描いているように思えてくる。それはまさにルネサンス、人間が現世の物事に詳細な目を向ける時代の、もう一つの側面でもあるように見える。うーん、よるべない人間……まさにそれゆへ、か細い「よるべ」として、広い意味での媒体が浮上してきたのかもしれない。絵画の画材の変化や木工技術の革新など、広義のメディアが立ち上がるのは、まさにそうしたよるべなさと表裏一体……。
「(……)だが何ものも、はじめに感覚にないものは、知性には存在しない」
ホグベンのこの著書はメディア論・コミュニケーション論の古典。けれども今読んでもなかなかに刺激的だ。絵画の媒体としての印刷物に教育的意義を認めた先駆者はコメニウス(1592-1670)なのだという。上の引用は『絵で見る世界の本』は初の絵入り教科書の序文からとされている。見ることの重要性を説いているわけだが、クリストファー・マッキントッシュの『薔薇十字団』(ちくま学芸文庫)には、コメニウスはアンドレーエの弟子という位置づけで言及されていた。なるほど、コメニウスのユーピア思想とか、とても面白そう。