2006年08月28日

No. 86

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.86 2006/08/26

夏休みにより一ヶ月のご無沙汰でした。暑い日が続いていますが、いかがお過ご
すしでしょうか。このメルマガもまたぼちぼちとやっていきたいと思います。

------新刊情報--------------------------------
中世関連の書籍は、この一ヶ月でいろいろ出ているようですね。

『紛争のなかのヨーロッパ中世』
服部良久編訳、京都大学学術出版会、
ISBN:4876986843、6,300yen

中世の紛争とその解決をめぐる著名論考12編をまとめたもの。多様な文化が紛
争をどう処理してきたのか、というの観点からすると、紛争史はかなりアクチャ
ルな問題を孕んでいます。同書でも、扱っている時代は11世紀から16世紀ま
で、地域もフランス、イングランド、ドイツなどで、それぞれの違いなどが、特
に注目できそうな気がします。

『マイモニデス伝』
A.J.ヘンシェル著、森泉弘次訳、教文館、
ISBN:4764266601、2,940yen

本邦初となるマイモニデス(1135 - 1204)の評伝。中世のユダヤ教神学者の
歩みと思想を、当時の政治状況などと関連づけながら、実に生き生きと活写して
います。この評伝で描かれるマイモニデスはまさに孤高の人。教育改革者、大著
『ミシュナー・トーラー』の著者としての名声がありながらも、アヴェロエスと
の親交を除くとほとんど友人も支援者もなく、ひたすら学問的求道を極めていく
前半生、そして政争の影響を受けつつ、支援者の弟を失い、医学を生業としつつ
弟子のために『迷える者への道案内』を記す後半生。まさに壮絶です。同書は描
写もまたすばらしく、一種評伝の模範ともいえる一冊。著者は20世紀を代表す
るユダヤ教神学者で、同じく教文館からいくつか邦訳が出ています。

『中世ヨーロッパ放浪芸人の文化史』
マルギット・バッハフィッシャー著、森貴史ほか訳、明石書店、
ISBN:4750323721、4,830yen

放浪芸人の社会的身分や社会の中での役割、具体的な演奏方法など、網羅的に
扱った一冊のようです。中世盛期以後の音楽家の全体像を描こうしたもののよう
で、阿部謹也あたりの中世の社会身分の議論などと併せて読むと面白いかもしれ
ません。著者のバッハフィッシャーという人はアウクスブルク大学で音楽学を教
えている人のようです。16、17世紀が専門とか。

『中世ヨーロッパの都市の生活』
ジョゼフ・ギース著、青島淑子訳、講談社学術文庫、
ISBN:4061597760、1,155yen

『中世ヨーロッパの城の生活』に続く姉妹編です。今度は1250年のトロワ
(シャンパーニュ伯領)に的を絞り、そこでの生活を活写していくという趣旨の
ようです。この定点観測のようなアプローチは時に魅力的ですね。当時の生活状
況をおさらいしておくのは有意義でしょう。

『ラテン語・日本語・派生英語辞典』
山中元著、国際語学社、
ISBN:4877313125、3,675yen

これはちょっと番外編ですね。ラテン語で引ける日本語の辞書であるほか、英単
語5500語の語源、派生英語なども引けて、さらにラテン語の小文法までついて
いるとか。書名はメインタイトルの前に「英単語の語源を知り語彙を増やすため
の」という枕詞がついています。ちょっと面白そうな辞書ですね。邦語でのラテ
ン語辞書というだけでも貴重かもしれません。実際にどれだけ活用できそうか、
書店で実物を見てみたいところです。


------短期連載シリーズ------------------------
ピエール・アドの「プロティノス論」から(その3)

前回、プロティノスの実像は不明だという話をしましたが、今回はこれをひとま
ず括弧に入れて、とりあえずアドによる晩年のプロティノス像を見ておきましょ
う。

かつてあったとされる哲学者集団プラトノポリスの再建の夢が破れた後、弟子た
ち(ポルピュリオスも含めて)を独り立ちさせて、プロティノスはあえて孤独を
深めていった、とされます。みずからも病を患うのですが、そうした苦痛や病
気、逆境といったものが、賢慮そのものには達しないという、ストア派以来の
「内面的自由」というテーマを深く掘り下げていくのですね。悪というものは善
のための試練にすぎない、というそうしたスタンスは、実はプロティノスの説く
コスモロジーとも深く関わっている問題ですが、アドはそのあたりには触れず、
あくまでプロティノスの人間像に的を絞って記述します。

ポルピュリオスは師の伝記で、自分たちがプロティノスのもとにいた6年間こ
そ、自分たちの好影響もあって、プロティノスがその思想的完成を見た時期であ
り、弟子が去ると同時に力が弱まった、というふうに記していますが、アドは、
弟子を旅立たせた後の晩年の論考も、それ以前のものとかわらぬ記述の多様性
と、完成度の高さを誇っている、と評価しています。前回も触れましたが、アド
はポルピュリオスによる伝記を、プロティノスの著作そのものをもとに批判的に
乗り越えようとしているようです。とはいえ、アドによるプロティノスの著作の
読み方は、ある意味とても素直・率直なものです。

「私たちと彼との間には巨大な溝がある。けれども『エンネアデス』のいくつか
のページを読むと、私たちの中になにかが目覚め、深いところで残響が鳴り響
く」(p.190)とするアドは、それに続けて、ベルクソンの言う「神秘の呼びか
け」を引用しています。「神秘は説くこともなく存在するだけであり、存在する
ことがすなわち呼びかけである」云々。現代人は純粋な精神性(神秘)というも
のを、逃避であるとして批判的に斥けるわけですが、プロティノスが体験したで
あろう神秘はとうてい逃避などではない、というのがアドが主眼です。それはメ
ルロー=ポンティが暗示しヴィトゲンシュタインが洞察したような「言い難いも
の」へと続く(p.192)、いわば哲学的「原体験」であって、内面的にいっそう
引き割かれている現代人こそ、そうした部分をあえて受け入れる必要があるので
はないか、と説いています。

アドの論考全体は、いわば内面的な評伝の試みといった風です。著作の思想的分
析と評伝との中間物といってもよいかもしれません。評伝は社会との相互作用の
中で人物の個人史を描き出そうとするものですし、思想的分析は著作から思想体
系や影響関係などを取り出すものです。それに対してアドのアプローチは、著作
の内側から著者の人物像を描き出そうとするもので、いわば第三の道という感じ
の方法論になっています。それ自体は文学的アプローチですが、思想史の分野へ
と応用されると、ときに興味深い問題を喚起することがありえる……同書はそん
なことを身をもって示してくれています。


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その14

今回は11章です。主音=終止音の話を扱った箇所です。少し長めですが、早速見
ていきましょう。

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Capitulum XI
Quae vox et quare in cantu obtineat principatum

Cum autem quilibet cantus omnibus vocibus et modis fiat, vox tamen
quae cantum terminat, obtinet principatum; ea enim et diutius et morosius
sonat. Et praemissae voces, quod tantum exercitatis patet, ita ad eam
aptantur, ut mirum in modum quandam ab ea coloris faciem ducere
videantur.
Per supradictas nempe sex consonantias voci quae neumam terminat
reliquae voces concordare debent. Voci vero quae cantum terminat,
principium eius cunctarumque distinctionum fines vel etiam principia opus
est adhaerere. Excipitur quod cum cantus in .E. terminat, saepe in .c. quae
ab ea diapente et semitonio distat principium facit, ut antiphona

11章
歌においてどの音が主音となるか、またなぜか

 いずれの歌も、あらゆる音と旋法を用いるが、その歌の終わりの音こそがその
主音となる。というのも、それはより長く、より延びて響くからである。先行す
る音は−−これは訓練を積んだ者ににしか分からないが−−主音に対して適合す
るようにする。つまり、主音から特異な形で色合いが導かれるようにするのであ
る。
 もちろん、上で述べた6種類の音の協和のいずれかで、旋法の終止音はほかの
音と協和しなければならない。歌の終わりの音には、全体の始まりの音、またフ
レーズの終わりと始まりの音が適合しなくてはならない。ただし例外もあって、
Eの音で終わる歌の場合、そこからディアペンテとセミトヌス分の開きがあるc
が、主音となることが多い。次の例のように。

(図)(http://www.medieviste.org/blog/archives/guido04.html)

Praeterea cum aliquem cantare audimus, primam eius vocem cuius modi
sit, ignoramus, quia utrum toni, semitonia reliquaeve species sequantur,
nescimus. Finito vero cantu ultimae vocis modum ex praeteritis aperte
cognoscimus. Incepto enim cantu, quid sequatur, ignoras; finito vero quid
praecesserit, vides. Itaque finalis vox est quam melius intuemur. Deinde si
eidem cantui versum aut psalmum aut aliquid velis subiungere, ad finalem
vocem permaxime opus est coaptare, non ad primae vel aliarum adeo
inspectionem redire. Additur quoque et illud quod accurati cantus in finalem
vocem maxime distinctiones mittunt.
Nec mirum regulas musicam a finali voce sumere, cum et in grammaticae
partibus pene ubique vim sensus in ultimis litteris vel syllabis per casus,
numeros, personas, tempora discernimus. Igitur quia et omnis laus in fine
canitur, iure dicamus quia omnis cantus ei sit modo subiectus et ab eo
modo regulam sumat, quem ultimum sonat.
A finali itaque voce ad quintam in quolibet cantu iusta est depositio, et
usque ad octavas elevatio, licet contra hanc regulam saepe fiat cum ad
nonam decimamve progrediamur. Unde et finales voces statuerunt .
D.E.F.G. quod his primum praedictam elevationem vel depositionem
monochordi positio commodarit; habent enim deorsum unum
tetrachordum gravium, sursum vero duo acutarum

 さらに、誰かの歌を聴くとき、私たちは最初の音がどの旋法のものなのかわか
らない。なぜかというと、その後にトヌスが続くか、それともセミトヌスか、そ
れ以外が続くのかがまだわからないからだ。一方、歌い終わりにおいてなら、最
後の音がどの旋法のものかが、それ以前の音から明確にわかる。歌の始まりに
は、何の音が続くのかわからないが、歌の終わりにはそれ以前の音がわかってい
るからである。したがって、私たちは終止音にこそ注意すべきなのだ。また、そ
の同じ歌に、詩句、詩篇、あるいは何かの歌詞を結びつけたいと思う場合には、
終止音にそれを合わせることが最も重要となる。最初の音やその他の音は、とく
に遡って考慮する必要はない。付言するならば、的確に作られた歌ならば、最後
の音においてフレーズが最大限際立つ。
 最後の音によって音楽の全体が規定されることに驚いてはならない。たとえば
文法の区分でも、私たちが意味を判別するのはほとんど常に、最後の文字または
音節における格、数、時制などによってである。したがって、同じくあらゆる賛
美は末尾において歌われるのであるから、私たちは次のことを正当なこととして
述べておこう。すなわち、すべての歌は、終わりの音の旋法に従属し、その旋法
によって規制されるのである。
 したがって、どの歌の場合でも、終音から5度下がったり、オクターブ上がっ
たりすることは正しい音の配置の仕方である。ただしこの規則に反して、9度な
いし10度上がる場合も多々ある。ゆえに、終音はD、E、F、Gに限定されている
のである。これで、上で述べた上昇や下降がモノコード上の位置として適切にな
るからだ。下には低いテトラコルドが置かれ、上には高い2音が置かれることに
なる。
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中程の図は以前言及した伊訳本からの五線譜です(p.27)。

今回の箇所は終止音がそれ以前の音、つまり旋法を規定するという話です。文法
の例などにも言及していますが、この「後ろから遡る形で意味が規定される」と
いうのは、語尾変化が基本の欧米語などに根ざした発想・姿勢という感じがしま
す。終止音に向かう「調性的傾向」もまた、古代のギリシア音楽には見られない
ヨーロッパ中世独自のものなのだとも言われます。このあたりの話、教会旋法の
成立史を詳しく見たいところですが、今のところ残念ながらそういった資料が手
元にありませんので、これは今後の課題にしておきたいと思います。

今回はここでちょっと大きく脱線してしまいましょう(苦笑)。音が経時的に展
開していくのに対して、人間がそれを内的に逆方向に捉えていく、というのは、
とりもなおさず、音の展開する時間と、人間がそれを理解する際の内的な時間と
が別ものであるということにほかなりません。この時間の二重の流れ、二重のベ
クトルという問題は、古代ギリシアからフッサールあたりにまでいたる哲学史の
壮大な流れの一側面を形づくってきたのでした。

最近邦訳で出たエミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの
理論』(江川隆男訳、月曜社)
の最後の方に、ストア派における無限定な時間
(アイオーン)と限定的時間(クロノス)との関係性を論じた箇所があります。
前者に対して一種の網目をかける(なんらかの出来事で恣意的に分割し切り出す
わけですね)のが後者だとすると、その網目をかける行為の瞬間そのものは、い
ずれの時間にも属さないものだということになってしまいます。かくしてクリュ
シッポスなどは「瞬間は時間ではない、瞬間は存在しない」と言ったりするので
すね。

さらにこの網目をかける行為の瞬間を、決定的な形でテーマ化したのがキリスト
教、とりわけパウロの神学だったのですね。そのことをよく示しているのが、
ガンベン『残りの時』(上村忠男訳、岩波書店)
です。そこでは、そうした網目
をかける瞬間を「操作的時間」という概念で表しています。フランスの言語学者
ギヨームの概念(一般の線分的時間イメージとは相容れない、思考の心的操作)
を援用したもので、いわば第三の時間ともいうべきものです。アガンベンはこれ
をパウロの時間論を読み解くための道具として活用します。たとえばコリント書
10章11節に出てくる「時の終わり」という一句をめぐって、アガンベンはこれ
を旧世と新世の二つのアイオーンが向き合う時と読み、その切れ目に見いだされ
る操作的時間こそが、メシアの「残りの時間」なのだと論じていきます(キリス
トは決定的な出来事で、まさに時間の外の時間を生きた、という話ですね)。ち
なみに大貫隆『イエスの時』(岩波書店)は、アガンベンのこの解釈は文法的・
文献学的に無理があるとしつつも、パウロの時間論としては妥当なものだと述べ
ています。

このあたりの宗教的・哲学的な時間論の伝統と、西欧にとりわけ顕著な「遡及指
向」の意識、さらには言語や音楽の形式などに、なにか深いところでのつなが
り・関係性はないものだろうか、などと妄想を(笑)めぐらしてみるのも、もし
かするとさほど意味のないことではないかもしれません。いずれにしても、音楽
の体系からその外部の思想空間へと思いを馳せるのは、とても刺激的なことのよ
うに思われます……。

……といいつつも、やはり私たちは堅実にテキストに向き直って、次回は12章
を見ていきましょう。まだ旋法の話が続きます。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は9月9日の予定です。

投稿者 Masaki : 11:04