2007年10月23日

No. 113

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.113 2006/10/20

*前回予告しましたように、今号の文献購読シリーズはお休みです。その
ため今号も短縮版とさせていただきます。

------短期連載シリーズ-----------------------
アヴィセンナの影響について(その4)

前回の最後のところで触れたように、イングランドのフランシスコ会士た
ちは、思想的にやや後退した感が否めない、というのがゴアションの見方
です。ここでの「後退」というのは若干進歩史観的な印象を与えますが、
まあそれはひとまずよしとしておきましょう。ゴアションはとにかく、
いったん人間知性の捉え方が、神に全面的に依存するという立場から一度
は飛躍しそうになりながら、またその依存へと戻ってしまった、というふ
うに整理します。

たとえばジョン・ペッカムなどは、真の能動知性はあくまで神であるとし
て、その照明がなければ人間の知性はそもそも働かないと主張し、ヘイル
ズのアレクサンダーやラ・ロシェルのジャンが唱えたような、抽象化思考
(知的な)がそもそも人間の魂に内在しているといった認識論から後退し
ている、というわけです。グロステストの弟子にあたる「驚嘆博士」こと
ロジャー・ベーコンも、知性論に関する限り、上の二者が唱えた能動知性
内在論や二重照明説ではなく、オーベルニュのギヨームの分離説(人間の
受動知性にはそれを活性化する分離した能動知性が不可欠なのだという立
場)に戻ってしまっているのだといいます。つまりはアウグスティヌスへ
の回帰ですね。やはりフランシスコ会所属のロジャー・マーストンなども
分離論を支持しています。

一方、これに対してドミニコ会系の碩学たちは、ボルシュテットのアルベ
ルトゥス、通称アルベルトゥス・マグヌスを初めとして、アヴィセンナと
いうか、広義のアリストテレス思想に徐々に染まっていくわけですが、上
のジョン・ペッカムなどは「彼らは初期教父をないがしろにしている」と
批判したりもしているのですね。とはいえ、ドミニコ会内部も一枚岩では
なく、ロバート・キルウォードビーなどはカンタベリー総司教から、トマ
ス主義の部分的な非難などを取り付けたりもしているといいます(今ここ
では詳しくは触れられませんが、ドミニコ会のライン地方を中心とする神
秘主義の流れなどでは、むしろ知性論があまりに突出してしまって、人間
の身体や形象といった部分を、フランシスコ会以上に軽視するといった傾
向なども見られるように思います。そういう意味では、ゴアションのよう
な整理とはまた別の整理が可能かもしれません。でも、これはさしあた
り、また別の話です)。

さてそのトマスはというと、アウグスティヌス主義とは袂を分かつ形で、
感覚的形象を意味によって抽象化するという上のアレクサンダーやジャン
(ラ・ロシェルの)の議論を発展させる形で継承し、能動知性は分離して
はおらず、魂に潜在するとの立場を取ります。その潜在性がいわゆる「ハ
ビトゥス」という議論なわけですが、これはまさにアヴィセンナ的テーゼ
で、アヴィセンナの場合(複数の知性が区別され、互いに階層をなしてい
るという立場)にはそれが能動知性と人間知性をつなぐ役割をするものな
のでした。

ゴアションによると、知解可能なもの、知的理解の対象とは何かという問
題についても、トマスはアヴィセンナに同調しています。つまり知解対象
となるのは、現実に立脚した「普遍」であるという考え方です。それは事
物が宿す形相であり、ひとたびそれが知的操作によって抽出され、精神に
おいて示されれば、精神はそこに普遍性を与える(見てとる)のだという
のです。この普遍をめぐる考え方は、そのまま存在と本質をめぐる議論へ
とつながっていきます。アヴィセンナは「事物の真実(真の姿)とは、そ
の事物に必要とされる存在にほかならない」と言い、トマスはそれを『対
異教徒大全』で引用している、とゴアションは指摘します。

アヴィセンナの思想の中では、もともと知解対象と存在とはかなり密接な
関係にあり、その意味でも中世のスコラ哲学に大きな影響を及ばしたので
した。よく知られているように、中世においては、存在をめぐって「存在
の類比」と「存在の一義性」という二つの議論の流れがありましたが、そ
のいずれもが、アヴィセンナの中に傾向として見られるのですね。ラテン
中世にあっては、前者は存在と本質の区別から導かれ、後者は宇宙開闢論
から展開します。かくして前者をトマスが、後者をドゥンス・スコトゥス
が担うことになるのでした。このあたり、ゴアションはひたすら年代記の
記述風に語っていきます(講義録なので、それは致し方ないということな
のですが)。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その11)

「ハリポ」はまだ始まったばかりですが、実際に見てみると、ペースが遅
いせいもあり、文法的な復習という観点からするとあまり網羅的とは言え
ないような感じがします。そんなわけなので、この「ハリポ」の読みはこ
の辺りでいったん閉じて、むしろ体系的に作文練習のようなことをするほ
うがよいかな、という気になってきました。このコーナーの趣旨は基本的
に文法の復習ですので、より体系的な観点から見直したいと考えていま
す。というわけで、唐突で申し訳ありませんが、次回からはギリシア語の
簡単な作文をやっていきたいと思います。

とりあえず今回だけは続きを見ていきましょう。アクセントつきテキスト
はこちらです(→http://www.medieviste.org/blog/archives/
A_P_No.11.html
)。

pros d' hamaksiton hodoiporo^n, to pro^ton thauma eiden,
ailouron pinakion ti geo^graphikon anagigno^skonta.

prosはここでは時間を表し「〜のときに」。hamaksitonは「車道」で
しょうか。形容詞を名詞的に用いたものでしょう。hodoiporeo^は「渡
る、進む」。ここではまた分詞形ですね。pro^ton thaumaで「最初の驚
き」。これがoida「見る」の目的語になっています。主語は明示されて
いませんが、話の流れからダースレー氏ということになります。ailouros
は「猫」。pinakiosは「小さな板(絵の描かれた)」。tiは「何かの」。
geo^graphikonという形容詞が付いているので、ここでの「板」は「地
図」ということになりそうです。anagigno^sko^は「認識する」。全体
で、「車道を進んでいる時に、彼は最初の驚きを目にした。猫がなにやら
地図を読んでいたのだ」。

kai pro^ton men elathen heauton toiout' ido^n・epeita de ton
trache^lon eis toupiso^ peristrepsas, authis proseblepsen.

elathenはlanthano^(気づかない、忘れる)のアオリスト。heautouは
再帰代名詞で「彼自身」。toioutosは「ちょうど」。ido^nはorao^(見
る)のアオリストの分詞形。これで前半は「最初彼は、自分で目にしてお
きながら気づかなかった」。epeitaは「それから」。trache^losは
「首」。peritrepo^(回す)の分詞形の目的語になっています。
toupiso^はto opiso^の連結形で、英語のbackに相当します。authisで
「再び」。prosblepo^は「眺める、見やる」。後半をつなぐと「次に彼
は、首を回して再び見ようとした」

ailouron men de^ pardalo^ton para te^n hamaksiton heste^kota,
pinaka d' ouk eiden.

pardalo^tosは「豹柄の」。men de^で「そこで」。heste^kotaは
histe^mi(立っている、いる)の完了形の分詞形。「するとまだらの猫が
車道の脇にいることはいたが、地図は見えなかった」。

kai pros heauton ennoo^n Ar' ouk ephantasthe^n panta, ephe^,
epseusmenos ti to^i dokounti;

ennoo^は「考える」で、ここでは分詞形。Araは疑問を表す小辞。ouk
とともに用いて、肯定の答えを予想するものです。ephantaste^nは
phantazomai(見えるようになる、現れる)のアオリスト。pantaは
「いろいろなこと」。ephe^はphe^mi(言う)のアオリスト。
espeusmenosはpseudomai(惑わす)の分詞形。dokountiはdokeo
(〜と思われる、〜に見える)の分詞形。「判断」の意で、
espeusmenosの補語になっています。全体で「『いろいろなことが重
なって、判断が惑わされたのではないかな?』と彼は一人ごちた」。

では次回からは作文練習に移ります。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は11月03日の予定です。

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投稿者 Masaki : 23:07

2007年10月10日

No. 112

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.112 2006/10/06

*都合により今号の「古典語探訪:ギリシア語編」はお休みします。

------新刊情報--------------------------------
秋と夏が行ったり来たりしていた気候も、そろそろ落ち着いてきた感じで
すね。例によって新刊の情報です。少し中世プロパーばかりでなく、時代
や思想的影響などで関連する本などにも対象を広げていきたいと思ってい
ます。

『中世ヨーロッパにおける女と男』
原野昇ほか著、渓水社
ISBN:9784874409848、2,100yen

広島大学ヨーロッパ中世研究会がほぼ毎年出している共同研究のシリーズ
ですね。今回は第7集で、「男女」をめぐる研究を集めているようです。
取り上げられるテーマは、トマス・アクィナスの『雅歌注解』、チョー
サーの『善女伝』、フランスの中世文学などとか。このシリーズ、これか
らも地道に続いていってほしいものです。

『ヨーロッパをさすらう異形の物語--中世の幻想・神話・伝説』
サビン・バリング=グールド著、村田綾子ほか訳、柏書房
上巻:ISBN:9784760131907、2,310yen
下巻:ISBN:9784760131914、2,310yen

中世を代表する伝説類のアンソロジーです。秋の夜長に、これは楽しそ
う!おなじみのお話がずらずらと並んでいます。さまよえるユダヤ人、プ
レスター・ジョン王、ウィリアム・テル、女教皇ヨアンナ、聖パトリッ
ク、聖ゲオルギオス、聖ウルスラ、ハーメルンの笛吹男、メリュジーヌ、
さらに聖杯伝説の数々……。まだまだいろいろで、こう並んでいると壮観
ですね。著者はヴィクトリア朝時代の聖人研究家だそうで、邦訳の監修を
池上俊一氏が担当しています。

『フランク史--一〇巻の歴史』
トゥールのグレゴリウス著、杉本正俊訳、新評論
ISBN:9784794807458、6,825yen

長らく入手不可だった邦訳の『歴史十巻』ですが、このたび待望の新訳で
登場。6世紀にトゥールの司教をつとめたグレゴリウスによるこのフラン
ク族の歴史書は、ある意味とても面白い読み物でもあります。その側面に
光を当てた新訳ということで、これは期待大ですね。

『世界の創造』
アレクサンドレイアのフィロン著、野町啓訳、教文館
ISBN:9784764219281、5,040yen

1世紀のユダヤ人思想家フィロン(ピロン)は、ユダヤ教にギリシア思想
を融合させたとされ、後のラクタンティウスやアウグスティヌスに影響を
与えた重要な思想家ですね。その主著の一つ『世界の創造』がこれまた待
望の邦訳です。寓意的な解釈による創世記の注解なのですが、世界そのも
のを神の似姿とする立場や人間創造についての二重創造説など、興味深い
文言がいくつも見られます。


------短期連載シリーズ-----------------------
アヴィセンナの影響について(その3)

前回、トレドの翻訳サークルの話が出ましたが、ケルン大学トマス研究所
の出している論集シリーズの一冊『境界の知--アラブの学知とラテン中
世』(Walter de Gruyter, 2006)などを見ると、そのあたりの最近の
研究動向がわかります。たとえばディミトリ・グータス(邦訳もある『ギ
リシア思想とアラビア文化』で知られる著者ですね)は、12世紀半ばに
クレモナのジェラールやグンディサリヌスがアル・キンディやアル・ファ
ラービーを訳す以前は、アンダルシアの翻訳者たちは哲学にほとんど関心
を示していなかったと述べています。グンディサリヌスはアヴィセンナも
訳してはいますが、そのテキストの選択には、アラビア語のネイティブで
翻訳の手助けをしていたアヴェンダウトの影響が見られ、アヴィセンナよ
りはファラービーが重んじられていたようです。また、当時の訳者たちの
力量も千差万別で、下訳などを使っていた可能性もあることが明らかに
なっているのですね。そのあたりの詳細な研究は今も進行中のようです。

さて、今回の本題です。アヴィセンナ思想は、オーベルニュのギヨームに
よって部分的に批判されながらも広がっていくわけですが、ここにもう一
つの流れが加わります。ゴアションによれば、それは英国を中心とするフ
ランシスコ派の学究で、アヴィセンナ思想をアウグスティヌスと結びつけ
ようとする動きでした。そして、そこでひときわ問題になるのが「認識
論」だったのです。ここでの認識論とは、知性の働きに関する神学的・哲
学的な考え方のことです。ゴアションはこれを、捨象(抽象化)の理論と
照明の理論との分けて考えています。いずれにしても重要なのは、知性が
いかにあるのか、いかに働くのかという問題なのでした。

アヴィセンナの知性論では、理性的魂の構成原理として能動知性と可能知
性の二つを掲げ、神からの照明を受けた能動知性が感覚与件から知解対象
を抽出し(これが捨象です)、可能知性にその知解対象を与えるというプ
ロセスを考えています。オーベルニュのギヨームは、総じてアヴィセンナ
の知性論を受け入れようとしているようなのですが、この能動知性が魂の
中に組み込まれているという部分は容認できないと述べています。一方、
ギヨームの同時代人だったフランシスコ会士、ヘイルズのアレクサンダー
は、能動知性が分離していて人間の手の届かないところにあるとしたら、
それは神の思惟を指す以外になく、それでは天使などを介した照明の可能
性がなくなるとして、能動知性の分離論に難色を示します。また、人間が
もつとされる質料的知性も、知解対象を受け取る可能知性ではなくなって
しまうと論難するのですね。

パリ大学においてヘイルズのアレクサンダーの後を継ぐラ・ロシェルの
ジャンは、やはりアヴィセンナの知性論を総括し、能動知性を「第一の真
理を知解できる光」だとして、その光は魂の中に、人間の自然(本性)に
よって刻まれていると考えます。その一方で、人知を越えた真理が啓示さ
れる際には、おおもとの能動知性である神の介入(あるいは天使による照
射)もありうるとしています。一種の二重照明説の立場を取るわけです
ね。さらにその後にパリ大学を継ぐ聖ボナヴェントゥラになると、躊躇す
ることなく能動知性の内在説を取るようになります。

オーベルニュのギヨームの同時代人で、オクスフォード大学の長をつとめ
たロバート・グロステストはというと、アヴィセンナの影響を受けつつも
主軸はアウグスティヌスの照明論に置き、能動知性といった言葉も使わず
に、それでいてアヴィセンナを彷彿とさせる議論を展開します。こちらは
明らかに復古的な立場で、神の照明は人知の及ばないところであるとし、
思想的にはオーベルニュのギヨームと親和性があります。ゴアションは、
ギヨームとグロステストを一つの流れ、アレクサンダー、ジャン、ボナ
ヴェントゥラをもう一つの流れと見て、ここにアウグスティヌス以来の伝
統の複合性を見てとります。さらに時代が下るにつれ、それはさらに複雑
な様相を呈することになっていくようです。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その11)

今回は、これまで読んできた7章の末尾です。さっそく見ていきましょ
う。

# # #
Figura autem semicirculi in concavo perficit pyxidem, et figura
semicirculi in convexo perficit vertebrum, sicut et convexum
inferioris caeli in concavum movetur superioris. Et hoc est in
omnibus animalibus perfectis. Propter quod in omnibus eis
semicirculus a dextro procedit et praeccedit et retrahitur et
regyrat per semicirculum in sinistro eo quod tales virtutues
motum caelorum componunt. Motus autem in imperfectis
animalibus super anulos est aequidistantes eo quod causantur a
motu caelesti, qui est super circulos parallelos descriptus motibus
stellarum diurnis in sphaera caelesti secundum distantiam a circulo
aequinoctiali, qui “cingulum signorum” ab antiquis vocatur.

Has opiniones et opinionum rationes nos non determinamus, quid
quilibet eligat, lectoris iudicio relinquentes. Hoc solum habetur pro
constanti, quod inter intelligentiam et caelum aliquid est sive ut
anima sive ut natura, quo caelum particeps efficitur bonitatis in se
ab inteligentia defluentis.

しかるに、凹型での半円の形によって椀(容器)は完成形となり、凸型で
の半円の形によって節も完成形となる。ちょうど下位の天空の凸型が上位
の凹型の中を動かされるのと同様である。しかもこれは、完全な動物すべ
てにおいてそうなのだ。そのため、それらのいずれでも、半円形は右側か
ら発して弧を描き、そこから下ってその左側へと旋回していく。天空の運
動の力によってそのように構成されるからである。一方、不完全な動物の
動きは、天空の動きから生じた円から等距離の輪にそってなされる。その
動きは並走する円の上にあり、それらの円は、昼夜平分時の円からの差分
にもとづき、天球内の日中の星の動きでもって記される。古代人はこれを
「宮帯(獣帯)」と称した。

以上の見解、および見解を支える思想について、私たちは断定はしない。
誰がどれを選ぶかは読者の判断に委ねる。ただ次のことは確実なものとし
てある。すなわち、知性と天空の間には魂ないしは自然のごとき何かが存
在し、ゆえに天空は、知性からおのれに流入した善への関与を果たすので
ある。
# # #

地上世界の生き物はもとより不完全な存在ですが、それらにも完成の度合
いに応じた階級があるという考え方が、ここには反映しています。この一
節では、完全な動物の動きが半円をもって完成形とされ、不完全な動物の
動きは、プトレマイオス流の周転円上の(惑星の)動きに対応していると
されています。天文学と占星術の微妙な連関が改めて感じられる一節で
す。

数号前に一度触れましたが、西欧中世には、アリストテレス流の同心円的
な宇宙観(正確には紀元前4世紀のエウドクソスに発する考え方です)の
ほかに、プトレマイオス流の周転円の宇宙観(これも正確には紀元前3世
紀のアポロニウスに発する考え方です)が併存していたといいます。アル
ベルトゥスはそれらに対してどのようなスタンスで接していたのでしょう
ね。アルベルトゥスの弟子筋となるトマス・アクィナスについては、トマ
ス・リットという研究者が1963年にベルギーで出した研究書(『聖トマ
ス・アクィナスの宇宙における天球』)があります。最近あるサイトで
知って、さっそく入手してみたのですが、これの末尾のところで、トマス
が若い頃にはプトレマイオス説を支持していたものの、その後はそれを否
定する立場に転じたといったことが述べられています。若い頃といえば、
ちょうどアルベルトゥスの影響などを受けていたはずですし、そこから転
じて、アルベルトゥスがプトレマイオス説を好意的に受容していたという
ことも、もしかしたら言えるかもしれません。実際、アルベルトゥスの膨
大な著作には、少なからずプトレマイオス説への言及があるという話なの
で、ちょっとそのあたり、これまでどんな具体的な研究があったのか探し
てみたいところです。

いずれにしても、アルベルトゥスは(やや慎重に?)諸説の是非について
の判定を避け、再び基本原則(知性と天空の結びつき)に立ち返ってこの
章を締めくくっています。この後の8章は流出論となっていくわけです
が、私たちも気持ちを新たに読んでいきたいと思います。次回は一回お休
みとさせていただき、その次から取りかかることにします。お楽しみに。


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投稿者 Masaki : 00:53