2007年11月21日

No.115

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.115 2006/11/17

*お知らせ
いつもご愛読いただきありがとうございます。本メルマガは原則隔週の発
行ですが、次号は本来なら12月1日の発行ですが、都合によりこれをお休
みとさせていただき、12月15日の発行とさせていただきたいと思いま
す。年末年始は通常通り隔週で発行します。よろしくお願いいたします。


------新刊情報--------------------------------
しばらく新刊情報をまとめていませんでした。とりいそぎ、最近のめぼし
いものを。

『西洋中世の男と女』
阿部?也著、ちくま学芸文庫
ISBN:9784480091024、1,260yen

中世における男女関係やとりわけ女性の問題を論じた同書は、単行本は
1991年刊で、その後「阿部?也著作集」にも収録されましたが、ついに
文庫化です。阿部中世史は、それが扱う当該分野の、まさに基本書という
感じですね。

『図説・世界女神大全』
A. ベアリング、J. キャッシュフォード著、森雅子、藤原達也訳、原書房
ISBN:9784562041220、9784562041237、1、2巻各6080yen

後のキリスト教にも大きな影響を及ぼしているという意味で、結構重要な
のが古代の異教の神々だったりしますが、これはイシュタル、イシスから
始まって、ギリシア、ローマ、ヘブライ文化圏、キリスト教圏などに登場
する女神たちをめぐる大著です。

『血みどろの西洋史--狂気の一〇〇〇年』
池上英洋著、河出書房新社(KAWADE夢新書)
ISBN:9784309503356、756yen

「え、今どき暗黒中世史観?」と一瞬思ったのですが、どうもタイトルに
だまされてしまった感じですね。おそらくは編集者がつけたのでしょうけ
れど、本当にこういうあおりのようなタイトルはやめてほしいですねえ。
目次を見ると、中身はとても真面目そうで、中世の死生観を様々な事例を
もとに描き出しているようで、心性史的な内容といった印象です。

『中世の秘蹟』
トマス・ケイヒル著、森夏樹訳、青土社
IBSN:9784791763726、3,360yen

『聖者と学僧の島』がとても印象的だったケイヒル(以前の表記はカヒル
でした)。その後邦訳としては『ギリシア人が来た道』『ユダヤ人の贈り
物』ときて、再び中世に舞い戻った感じでしょうか。ケイヒルはもと編集
者の作家で、この歴史シリーズがまさに代表作のようですね。


------短期連載シリーズ-----------------------
アヴィセンナの影響について〜ゴアションの講義から(その6)

存在の一義性というスコトゥス(というか、後述するように、概念の明確
化は弟子筋によるものらしいですが)の考えはどこから出てきたのでしょ
うか。発端はどうやら、「存在という観念は感覚の経験から開示されるも
のだ」というアヴィセンナのテーゼのようです。スコトゥスはそれに対
し、「存在は知性の直接的かつ固有の対象だ」とし、「そうであれば、知
性は単一の知解行為でもって存在を把握できるはずで、したがってその対
象の存在の種類如何にかかわらず、同じ意味として認識できるはずだ」と
考えるのだとゴアションはまとめています(このあたりの話はエティエン
ヌ・ジルソンの解釈がベースになっています)。

あらゆるものを支配する「存在」という概念からは、それを別個の学知の
対象とするべきだという考えも当然導かれます。存在を学知の対象にする
とは、すなわち神の存在証明を行うということとイコールです。アヴィセ
ンナの場合、その学知は形而上学が担うと考えます(若干の留保つきなが
ら、トマス・アクィナスもその立場に与します)。一方でアヴェロエスな
どは、神の存在を証明するのは自然学の務めだとします。スコトゥスはと
いうと、両者の間で揺れ動くのですね。いずれにしてもスコトゥスは、存
在概念を神の理解に接近するための手段と見なすようになります。

その前提に立って、人間が存在概念を得るのは被造物を通じてであると考
えると、被造物をもとにして神の存在証明ができることになり、結果的
に、存在は創造主にも被造物にも「一義的」であるということが帰結しま
す。これが「存在の一義性」としてスコトゥスの弟子たちによって定式化
される考え方なのですが、ゴアションによると、どうやらスコトゥス本人
はその考え方にいくばくかの警戒心を寄せてはいたようです。とはいえ彼
は、神の存在証明という文脈で、「一義性」の途にこだわっていくことに
なります。対照的に、たとえばトマスは、同じく神の存在証明の文脈にお
いて、アリストテレスの自然学と形而上学から「第一動因」という概念装
置を取り出し、これを神に重ね合わせ、実質因の無限連鎖はありえないと
いう議論や、可能と必然の区別といった議論(いずれもアヴィセンナに立
脚した議論です)を拠り所にして論を進めていくのですね。両者を分かつ
のは、そのあたりの違いのようです。

当時の存在論の議論のうちでアヴィセンナをソースとしないものはなかっ
た、とゴアションは述べています。たとえば1277年のタンピエの禁令に
関わったガンのヘンリクスなども、やはりアヴィセンナを下敷きとした存
在論を展開し、スコトゥスにおとらず存在の一義性の議論を見いだしてい
るといいます。アヴィセンナの議論はその後も一種の権威として、たとえ
ば14世紀のマイスター・エックハルトなどに引用され、やがてはそれら
中世の神学者を介する形で、17世紀前半ごろまで間接的に引用されてい
くようです。

ゴアションはもう一つ、個体化の原理についてもアヴィセンナから中世の
神学者たちの議論をざっと振り返っています。次回にこれを見て、ゴア
ションの講義のまとめを終えたいと思います。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その2:過去時制)

ちょっとタイトルを変えてみました。英国パブリックスクールの希作文テ
キストをもとに、要所要所をピンポイント的にめぐるツアーですが
(笑)、2回目は、過去時制についてのごく簡単な要点です。

直説法の場合、未完了形は過去の行為が継続している、ないしは反復され
ていることを表し、アオリストは単純に「それが生じた」ということを表
すのでした。例をどうぞ。「水夫たちは、到着すると町にとどまった(と
どまるのが常だった)」。

1. epei hoi nautai aphikonto emenon en te^i polei.

で、大事なポイントは、アオリストの場合、英語などの大過去に相当する
「過去の時点からさらに過去に遡る時制」を表すのにも用いられる点で
しょうね。「彼らは到着するとキャンプを張った(野営をした)」は、到
着がキャンプを張る行為に先立ちますが、ギリシア語では次のようになる
わけです(ただしこれは、あくまで行為が一度きりなされたという場合で
す)。

2. epeide^ he^lthon e^ulisanto.

もう一つ。「軍が制圧されると、都市は占領された」は次のようになりま
す。

3. epei to strateuma enike^the^ he^ polis he^irethe^.

一方、完了形は過去に完遂された行為の状態が今の時点にまで及ぶことを
表すのでした。そのため、中には完了形が意味的には現在を表すという場
合もあります。たとえば「私は立っている」(=私は自分を置いた)は、
heste^kaですし、「私は覚えている」(=私は思い出した)は
memne^naiになるのですね。

さらに分詞での例も復習しておきましょう。現在分詞は本動詞と同時に行
為が進行していることを表し、アオリスト分詞は本動詞よりも前に行為が
なされていることを表す、というのが基本で、さらに完了分詞は、過去の
行為による現在の状況を表すというものでした。「死者たちは讃えられ
る」と「彼らはマラトンで死した人々を埋葬した」を比べてみます。前者
の場合には、死した状態のままとどまっている者という感じになるので
しょうか。

4. hoi tethne^kotes timo^ntai.
5. ethapsan tous Maratho^ni apothanontos.

アクセントつきのテキストはこちらを参照してください(→http://
www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.2.html
)。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その13)

第8章の2回目です。さっそく見ていきましょう。

# # #
Et in hoc quod ab alio est, triplicem habet comparationem,
scilicet ad primum intellectum, a quo est et quo sibi est esse; et
ad seipsum secundum, ‘id quod est’, ; et ad hoc quod in potentia
est secundum hoc quod ex nihil est. Antequam enim esset, in
potentia erat, quia omne quod ab alio est, factum est et in
potentia erat, antequam fieret. Intelligentia ergo prima non habet
necesse esse nisi secundum quod intelligit se a primo intellectu
esse. Secundum autem quod intelligit seipsam secundum ‘id quod
est’, occumbit in ea lumen intellectus primi, quo intelligit se a
primo intellectu esse. Et sic necesse est, quod inferior
constituatur sub ipsa. /

この「他より生じるもの」は三つの相で構成される。まずは第一の知性、
つまり存在が由来するもの、みずからの存在のよりどころによる部分があ
る。二つめは、「本質(何であるか)」から見たおのれ自身がある。三つ
めは、無から生み出された限りでの潜在態がある。実際、存在を得る以前
は潜在態だったのである。というのも、他より生じるものはすべて創られ
たものであり、存在する以前には潜在態だったからだ。したがって、第一
の知性体が必然的な存在をもつのは、みずからの存在が第一の知性に由来
すると知解する限りにおいてでしかない。しかしながら、「本質(何であ
るか)」に即してみずからを知解する限りにおいては、みずからを第一の
知性に由来すると知解するよりどころである、その第一の知性の光は減じ
てしまう。そしてそれゆえに、必然的に下位のものがおのずと構成される
のである。

Et haec est secunda substantia, quae vel anima dicitur vel id quod
in caelis est loco animae. Secundum autem quod intelligit se ex
nihilo esse et in potentia fuisse, necesse est, quod incipiat gradus
substantiae, quae in potentia est. Et hoc est materia sub prima
forma, quae est materia corporis caelestis, quae vocatur mobile
primum. Materia enim illa potentia divisibilis est. Et dum illustratur
forma illa quae loco anima est, statim extenditur per motum, qui
quodammodo ubique est, et ad apprehendendum lumen
intelligentiae figuram et motum accipit circuli sive corporis
sphaerici. /

それは二次的な実体であり、魂と呼ばれたりもするし、天空にある魂の座
と言われたりもする。しかしながら、(その実体が)みずからを無から生
じたものと知解し、かつては潜在態だったことを知解する限りにおいて、
必然的に、潜在態における実体の等級が成立することになる。これはまた
第一の形相のもとに置かれる質料でもあり、天体の質料をなし、これが第
一の可動体と呼ばれる。なんとなれば、その質料はその潜在態において切
り分けられうるものだからだ。魂の座にあるその形相が照らし出されると
き、それはすぐさま、多少なりとも遍在的な運動を通じて広がり、知性体
の光による把握に向けて、円形の、あるいは球体の形象と運動を受け取る
のである。

Intelligentia ergo, quae inter factas substantias primas est,
secundum quod intelligit se a primo intellectu esse, in lumine primi
intellectus est et ipsum lumen et sic intelligentia est. Secundum
autem quod intelligit se secundum ‘id quod est’, lumen suum
extendit ad aliud quoddam esse et sic extenditur in animam vel id
quod loco animae est. Secundum autem quod intelligit se ex nihilo
esse et in potentia, ad esse materiale descendit, et sic fit id quod
primum mobile est sub forma corporeitatis.

ゆえに、創られた実体のうちで第一のものである知性体は、みずからを第
一の知性に由来すると知解する限りにおいて、第一の知性の光の中にあ
り、みずからも光をなすのである。(他の)知性体も同様だ。しかしなが
ら、「本質(何であるか)」に即してみずからを知解する限りにおいて、
その光は他の任意の存在へと広がっていく。かくして魂へ、あるいは魂の
座にあるものへと広がっていく。しかしながら、みずからが無から生じ、
潜在態としてあると知解する限りにおいて、それは物質的な存在へと下っ
ていく。かくして第一の可動体であるものは、物体的な形相のもとに置か
れるのである。
# # #

第8章はまとめの章に相応しい感じで話が展開していきますね。まとめる
と、第一の知性(前回は原初の知性と訳出しましたが、primus
intellectusです)はまさに神の知性で、それは創造されたものではなく、
知解を通じて創造する側にあり、そこから生じる第一の知性体
(intelligentia primaで、やや紛らわしい訳語になってしまいまっていま
すが、創られたうちの第一のものということです)は、第一の知性の光を
分有しつつも、創られたという本質をもつために第一の知性に対しては下
位の存在であり、また「無から創られた潜在態」だという意味では、現実
化のために形相を受け取らなくてはならない質料という意味で、物質的な
ものの側に置かれるのだということになります。すでにして知性体が下位
の層をなしていくことが見て取れます。

アルベルトゥスのこの書は『原因論』の一種の注解なわけですが、この知
性と知性体の区別、『原因論』ではprima intelligentiaとsecunda
intelligentiaというふうに記されていたものに相当しそうです(第94
節)。同書ではさらに、intelligentiae quae sunt propinquae (ab
uno)、intelligentia quae sunt longinquioresという言い方もしてい
て、知性が一者に近いか遠いかいくつもあること(段階になっているこ
と)が伺えます。ここに、アヴィセンナなどの知性の分類(それは基本的
に魂の機能分類ですが)が重なっていくる糸口があることになります。余
談ですが、イェルク・ミュラーという研究者がまとめているのですが、ア
ルベルトゥスの知性分類も執筆時期によって変化するようで、1242年ご
ろの『人間について』では主にアヴェロエスをもとに比較的簡便な3分類
(能動知性・質料知性・思弁知性)を行っているのに対し、1259年の
『知性と知解対象について』になると、より精緻な6分類(とりあえず割
愛しますが)へと進んでいくといいます。この精緻化の過程には、アル
ファラービーの影響などもあるのだとか。ここで読んでいる『原因および
第一原因からの世界の発出について』は、さらにそれより後の1264〜67
年ごろの書だとされていますから、さらに考え方が深化・変化している可
能性もありそうですけれど、それはまた別の話ですね。


*本マガジンは隔週の発行ですが、次号は12月15日の予定です。

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投稿者 Masaki : 23:35

2007年11月07日

No. 114

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.114 2006/11/03


------短期連載シリーズ-----------------------
アヴィセンナの影響について〜ゴアションの講義から(その5)

存在をめぐるアヴィセンナの理論は、ラテン中世に伝えられてからの2世
紀にわたって影響を与え続けるわけですが、その受容のメルクマールの一
つにはアルベルトゥス・マグヌスその人があります。彼は天使をめぐる考
察から(天使に質料を認めないという立場から)、アヴィセンナ的な
quod est(本質)とesse(存在)との区分の議論へと向かいます。天
使、すなわち純粋な知性的存在は、果たして本質と存在から成っているだ
ろうか、というわけです。

何度か前に触れたように、ボエティウスのid quod est(何性=本質)と
quo est(存在)との区別は、具体的な事物(質料と形相から成る)を対
象としたもので、しかも両者の区分は実はさほど明確でもありませんでし
た。そこでアルベルトゥスは、アヴィセンナの考え方を採用して、両者の
定義を明確化しようとします。そもそも天使の場合には存在はおのずと必
然なものではないかもしれないと考え、そこから、quod est(本質)は
あくまで可能態であって、quo est=esse(存在)によって実在にいたる
のだと解釈します(これはまさしくアヴィセンナの分析です)。こうする
ことで、両者の区別はいっそう明確なものと位置づけられたのでした。

とはいうものの、アルベルトゥスの用語法もまた揺れているようで、ゴア
ションは、quo estが「形相的原理」として用いられるケースも見られる
ことを指摘しています。で、そうした用語をさらに整理し確定するのがト
マス・アクィナスということになります。トマスもまた、ボエティウスの
用語法を厳密に定義しようとします。ボエティウスにおいては、quod
estは存在を有する主体、quo estはその形相だと解釈するトマスは、純
粋な知的存在(天使)にはそのままでは適用できないとして、むしろquo
estを一般化することで、知性的存在にも質料・形相から成る事物にも適
用できるようにするという方途を探ったのでした。

こうしてquo estは「存在」(esse)という用語に置き換えられ、一方の
id quod estのほうも、「本質・何性」(essentia、quidditas)に置き
換えられることになります。トマスの場合、本質と存在に可能態と現実態
を絡めたアヴィセンナの分析をさらに厳密化しています(本質の可能態の
有りようが、質料の可能態の場合とどう違うかなど)。そのため、たとえ
ばアヴィセンナが本質に対して存在を偶有にすぎないとして低く見ている
のに対し、トマスは、存在を単なる偶有性と見なしてよしとはしません。
天使論から議論を進めていることが大きく影響していて、天使においても
主体(すなわち本質)は具体的に(質料から成るわけではないにせよ)存
在すると考えるからです。ゴアションは、トマスにおいても(アルベル
トゥスもそうですが)アヴィセンナ同様、本質と存在の区別は単に論理的
なものではなく、現実的なものとして考えられていると述べています。そ
の上で、存在の意義を重視するトマスの現実理解は、アヴィセンナのもの
より深いとの評価を下しています。

アヴィセンナは、「存在」は感覚的な経験から得られるものとしているよ
うですが、一方で、仮に感覚がなかったとしても、人間の精神はやはり存
在を捉えることができるだろうとも述べています(デカルトの話ついでに
よく引き合いに出される、有名な「空中人間」の思考実験ですね)。存在
が人間精神においてある種のプライオリティを持っているというこの考え
方から、中世のもう一つの趨勢ともなるドゥンス・スコトゥスの「存在の
一義性」の議論が出てくるわけですが、そのあたりは次回(笑)。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ピンポイント文法復習(その1:冠詞)

今回から20回くらいを目処に、ギリシア語の文法事項の整理をピンポイ
ント的に行ってみたいと思います。前回まで約10回ほど「ハリー・ポッ
ター」古典ギリシア語版を読んでみましたが、英語からの訳として様々な
技法を駆使していました。少しでもその域に近づきたいところです
(笑)。というわけで、ここでは英国のパブリックスクール用のギリシア
語作文テキスト、North & Hillard, "Greek Prose Composition",
Duckworth, 2003
を用いることにします。毎回、ここからトピックスと
例文を抽出してまとめていきましょう。

今回は1回目ということで冠詞の復習です。冠詞のポイントの一つに、英
語などでは関係代名詞的な意味で表すものを、冠詞を同格的に用いて表す
という用法がありました。たとえば「私たちは都市国家のために命を落と
した兵士たちを讃える」という場合、次のようになります。

1. timo^men tous stratio^tas tous huper te^s poleo^s
tethne^kotas

「都市で命を落とした兵士」の部分ですが、tous stratio^tasを冠詞で同
格に受けて、それに分詞句をもってきています。もう一つ例文を上げてお
きましょう。「アテナイ人たちは国を裏切った女を殺した」

2. hoi Athe^naioi apekteinan tas gunaikas tas te^n polin
prodousas.

ここでも名詞の後に冠詞が繰り返され、分詞句が続きます。これが通常形
ですが、一方でギリシア語の冠詞は、冠詞単独+分詞(または形容句)で
「〜する人」を表すことができるのでした。hoi legontesというと「話
す人」、oi tethne^kotesで「死んだ者(=死者)」という感じです。分
詞句に目的語などを入れれば、先行詞が不特定多数を表す関係節も同じよ
うな形で表現できることになります。「私たちはギリシアを解放した人々
を讃える」を上と比較してみてください。

3. timo^men tous te^n Hellada eleuthero^santas.

「通りに立っていた人々は逃れた」ならこうなります。

4. hoi en tais hodois heste^kotes eksefugon.

先行詞が関係節の目的語になっているような場合に相当する文はどう作れ
ばよいでしょうか。たとえば「私たちが従う将軍は勇敢だ」というような
場合です。こういう場合には、やはり普通に関係詞を用いるのがよいよう
です(笑)。ここではpeitho^が補語として与格を取るので、関係詞は与
格になっています。

5. ho strate^gos ho^i peithometha estin andreios.

ギリシア文字での例文表記は、http://www.medieviste.org/blog/
archives/GC_No.1.html
に掲載しておきます。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その12)

今回からアルベルトゥスの「原因および第一原因からの世界の発出につい
て」第1書第4論の最終章、第8章に入ります。壮大なコスモロジーの一端
ですね。ではさっそく取りかかりましょう。

# # #
De ordine eorum quae fluunt a primo principio, secundum omnem
gradum entium universorum

His itaque praelibatis ordinem universi esse secundum omnes
gradus existentium, secundum quod fluunt a primo principio, non
est difficile videre. Nemo autem arbitretur, quod de ordine
temporis aliquid loqui intendamus, -- opiniamur enim omnia simul
facta esse -- sed loquemur de ordine naturae, quo inferius semper
casus quidam est superioris et inferius incipit, ubi lumen aliquo
modo occumbit superioris. Supponentes autem propositionem,
quam omnes ante nos philosophi supposerunt, scilicet quod ab
uno simplici immediate non est nisi unum secundum naturae
ordinem. /

Hanc enim propositionem nemo umquam negavit nisi Avicebron in
Fonte vitae, qui solis dicit, quod ab uno primo simplici immediate
duo sunt secundum naturae ordinem eo quod in numeris binarius
sequitur unitatem. Supponimus etiam, quod intellectus
universaliter agens non agit et constituit res nisi active
intelligendo et intelligentias emittendo. Et dum hoc modo
intelligit, seipso rem constituit, ad quam lumen sui intellectus
terminatur. Dum ergo primus intellectus universaliter agens hoc
modo intelligit se, lumen intellectus, quod est ab ipso, prima
forma est et prima substantia habens formam intelligentis in
omnibus praeter hoc quod ab alio est.

世界の全存在の等級にもとづく、第一原理より発するものの秩序について

以上のことを吟味したからには、全存在の等級にもとづく世界の秩序があ
り、それにもとづいて第一原因からの流出がなされることは容易に見てと
れるだろう。しかしながら、私たちが多少なりとも時間の秩序について述
べようとしていると考えてはならない−−私たちとしては、あらゆるもの
は同時に創られたのだと考えているのだから。そうではなくて、私たちは
自然の秩序について述べているのだ。そこでは下位のものは常に上位のも
ののから下り、下位のものは上位のものの光がなんらかの形で翳るところ
から始まるのである。しかしながら私たちは、私たちに先立つあらゆる哲
学者たちが考えていた命題を前提としよう。すなわち、単一のものから直
接もたらされるのは、単一の自然の秩序以外にない、ということを。/

この命題をこれまで否定したのは、アヴィセブロンの「生命の泉」をおい
て他にはない。彼は唯一、原初の単一のものからは、自然の秩序にもとづ
いて直接に二がもたらされると述べている。数字においては二性は一性に
続くからである。私たちはさらに次のように考えよう。あまねく働きかけ
る知性が、働きかけをなし事物をしつらえるのは、能動的に知解するとと
もに(各種の)知性を放出することによってでしかない。また、そのよう
な形で知解する際、その知性はおのずと事物をしつらえ、それによってそ
の知性の光は果てにまでいたるのである。さらに、あまねく働きかける原
初の知性が、かようにみずからを知解する際、それ自身から生じる知性の
光は、第一の形相、第一の実体をなし、他より生じたものを除く一切にお
いて、知解のための形相をもつのである。
# # #

便宜的に改行しています。原文が改行していない場合には、スラッシュを
入れることにしました。この冒頭の一節を読むと、第一原因からの流出は
時間の中で展開するのではなく、秩序だったものとして一度に空間的に構
成される、ということになりそうです。スラッシュで区切った一段落目の
最後の部分は、一からは一しか生まれないという発出論のテーゼです。
「同種のものからは同種のものしか生まれない」というアリストテレスの
テーゼに、新プラトン主義的なデミウルゴス的宇宙開闢論が融合した格好
のテーゼで、プロティノス以降の中心的な思想としてラテン中世へと伝え
られていくものでした。

これに異を唱えた者としてアヴィセブロンの名が挙がっています。ちょう
ど最近、イタリアの人文系の老舗ボンピアーニから羅伊対訳で『生命の
泉』が刊行されたそうで、マンセッリやリーヴスの本を邦訳されている大
橋氏のブログで紹介されています(http://blog.livedoor.jp/
yoohashi4/archives/51782882.html
)。アヴィセブロンは、11世紀
にスペインで活躍したとされるユダヤ人哲学者・詩人、サロモン・イブ
ン・ガビロールのラテン名で、『生命の泉』はその主著です。

エティエンヌ・ジルソンの『中世の哲学』によると、同書はもとはアラビ
ア語で書かれたということですが、現存するのはヘブライ語の抄訳と、そ
のラテン語訳(エスパーニャのヨハネス、グンディサリヌスによる)のみ
とのこと。実際、ユダヤ世界では完全に黙視されたものの、13、14世紀
のラテン西欧では、『生命の泉』はよく知られていたといいます。思想内
容としては、精神的なものまでふくめ、あらゆる被造物は質料と形相から
成るとし、神と世界との間に中間的な「意志」を置くというのが特徴的だ
とされますが、ジルソンの解説では、神そのものと「意志」とがどういう
関係にあるのかを特定するのは難しいとしています。上のアルベルトゥス
のテキストでは、一者から一ではなく二が生じるとした唯一の人物となっ
ていますが、そのあたりと関連づけて考えると興味深いですね。ちなみ
に、今年新版となって再び出た箱崎総一『カバラ−−ユダヤ神秘思想の系
譜』(青土社)
にも、『生命の泉』で展開する質料形相論と後世への影響
について簡便に要約されています。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は11月17日の予定です。

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投稿者 Masaki : 01:06