2008年06月17日

No.128

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.128 2008/06/07


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その11)

前回の続きとして、ラテン語版の『気象論』をもう少しだけ見ておきま
しょう。雷や雹を論じた箇所を再び参照します。2章の最後の部分(9
節)ですね。ここでもまた、内容の基本線は一緒なのですが、表現などは
かなり異なっています。しかもこの箇所では、議論の流れも違ってきま
す。

ギリシア語原典ではまず、(1)蒸発物が二種類あることとそれによる雲
の成立に再び触れ、(2)空気が冷たくなり収縮すると、空気に閉じこめ
られていた乾いた蒸発物が外に投げ出されてまわりの雲にぶつかり、それ
が雷鳴をなすと説明し、(3)丸太から炎の中で生じる音を類似の現象と
して挙げ、(4)投げ出された蒸発物が燃え尽きるのが雷光だと説明し、
(5)雷鳴が雷光に遅れることを、船のオールのストロークの音の例で示
し、(6)エンペドクレスとアナクサゴラスの説を紹介し、(7)火が閉
じこめられているという考え、エーテルが下降したものだという考えは間
違いだと断じ、(8)太陽光線の熱による説明や、水や雪、雹がすでに雲
の中にできているという説も間違いとし、(9)雷光は実在しないという
クレイデモスの説も否定し、(10)反射だという説も否定し、(11)
あらためて自説をまとめて論を終えています。

ラテン語版はどうでしょうか。まず、上の(6)に相当するエンペドクレ
スとアナクサゴラスの説の紹介があって、それから(1)の二種類の蒸発
物の話に行きます。それに(2)が続きますが、ちょっと表現が違ってい
て、「雲の中に入っている熱く乾いた蒸発物が動き、まわりの雲にぶつか
り、それを破る。その衝突ゆえにそこから音が生じ、これが雷鳴となる」
と、やや説明が細やかになっています。次に(3)になりますが、これも
若干内容が異なり、木を炎にくべた場合の破裂音について、やはり収縮で
もって説明が付されています(これはギリシア語版にはありません)。ま
た、雷鳴が轟くのは、そうした雲の中の燃焼が激しく生じ、まわりの湿っ
た雲を通して響くからで、ちょうど熱した鉄を水に入れたときの音のよう
でもある、といった解説も付記されています。

(3)の説明は(4)の雷光の説明と(5)の音の遅れの説明と一体に
なってもつれている感じで、しかもその(5)は、ギリシア語版よりも長
い説明になっています。聴覚よりも視覚がわずかに先行すると述べた後
で、ギリシア語版の(3)の末尾についている、「雲は形が不定なので、
音も様々だ」という話にいったん戻ります。そこからいきなり、ギリシア
語版の(7)に記されている、「火は本来上昇するのに雷光は下降するの
はなぜか、雷光は雲があるときしか見えないのはなぜか」という問いを掲
げます。ギリシア語版ではその後に細かい議論が続きますが、ラテン語版
はそれをすっ飛ばして(9)(10)をまとめて取り上げます。(11)
は、ギリシア語版に見られる重複箇所が削られ、よりすっきりと簡潔に述
べられています。

単純に構成を比較してみただけですが、こうして見ると、この2章9節に
ついては、現存するギリシア語テキストとラテン語版とでは、かなりの差
があることがわかります。後者は話の順序なども錯綜しており、なんらか
の再編集(?)が施されている感じですね。ラテン語版のもとになったア
ラビア語版がないので詳しいことはわかりませんが、そのアラビア語版で
すでに再編集がなされている可能性があります。いずれにしてもラテン語
版では、ある部分のメカニズムはいっそう詳しく取り上げられ、ある部分
の記述はすっぱりと削除されたりしています。説明が詳しくなっている部
分は、微視的なメカニズムの話が多いという印象を受けます。もちろん、
ほかの部分の比較も積み重ねなければ、このことは言い切ってしまえない
わけですが……。

さて、『気象論』はルネサンス期以降、とくに内容も説明の仕方もがらっ
と変わる四章を中心に再評価され、化学的操作(錬金術なども含めて)と
いう文脈で復興したことが知られています。でも、もしかするとそれは、
その四章だけの問題ではなく、とくにラテン語版でいっそう顕著になる
(?)全体的な「微視的なメカニズム」志向が、長い時間をかけて熟成さ
れた末の帰結だった可能性もありそうに思えます。『気象論』は一応、ア
リストテレスの自然学関連書の禁令が解けた一四世紀には、大学の学芸学
部のカリキュラムにも組み込まれていたことがわかっています。というこ
とからしても、ルネサンス期の再評価に、中世との断絶よりも、むしろ長
い伝統が地続きになっている様を見たほうがよいのではないか、という気
もしてきます。四章以外の部分にも目を配ることは結構重要なのではない
でしょうか。また、そもそも『気象論』を含むアリストテレス自然学全般
の扱いというのも、とても気になるところです。そちらのほうにもいつか
パースペクティブを広げてみたいものでもあります……。

さて、ちょっと尻切れトンボのような感じで恐縮なのですが、『気象論』
についてのこの連載は今回で一区切りにしたいと思います。本当は中世の
注解書などを取り上げて比較したいところなのですが、文献資料が思いの
ほか入手困難だったりとか、諸般の事情から、うまい具合に準備が整いま
せんでした。というわけで、今後に数多くの課題を残しつつも(苦笑)こ
こではいったん『気象論』を離れたいと思います。もちろん、中世のアリ
ストテレス思想の周辺をめぐる旅は形を変えながらまだまだ続けていかな
くてはなりません。そのうちまた『気象論』に戻ってくることも切に願い
つつ……。
(了)


------古典語探訪:ギリシア語編-----------
ギリシア語文法要所めぐり(その13:与格と対格の用法)
(based on North & HIllard "Greek Prose Composition")

属格に続き、与格と対格の用法についても見ておきます。まずは与格で
す。与格は一般に間接目的語に用いられますが、一部の動詞では、形の上
で与格を取るものがあります。たとえばhepomai(〜についていく)、
chromai(〜を用いる)、entugchano^(〜と会う)、boe^theo^(〜
を手伝う)、machomai(〜と戦う)、peithomai(〜に従う)、
he^domai(〜を楽しむ)などです。こうしてみると、どれも結構よく使
うものですねえ。

重要な表現として、eimi、gignomaiとともに用いて、所属を表す与格の
用法があります。「僕は本を持っている」というのを「本が僕のところに
ある」という形で言うような場合ですね。また、非人称的に用いられる一
部の動詞が与格を取る場合があります。dokei(〜と思われる)、
sumpherei(〜は好都合である)、prepei(〜となる)、prosekei(〜
に相応しい)、ekesti(〜可能である)などです。英語のit seems to
meとか、it is possibleとかに相当する用法です。

対格の用法では、まず大事なのは二重目的語を取る動詞で、そういう場合
ギリシア語では対格を重ねて(人とモノを表します)用います。aiteo^
(〜に〜を頼む)、didasko^(〜に〜を教える)、krupto^(〜から〜
を隠す)などです。また、特殊な用法として、関与を表す対格というのが
あります。「〜の点で何々だ」という表現になります。たとえば、「私は
頭が痛い」という場合に、「痛みを覚える」という動詞に「頭」を対格で
続け、algo^ te^n kephale^nとします。「私は頭という点で痛みを持っ
ている」みたいな感じになるのですね。モノの長さなどでも「これこれは
長さ1フィートだ」というときに、「長さの点で1フィートを持つ」みた
いに言えます。

例文です。「君はそこで誰と会ったんだい?」「ソクラテスは金はなかっ
たが多くの知恵があった」「助けを用いるのは私たちにとって適切なこと
だ」「私は黄金を彼らから隠した」「彼はあるアテナイ人から音楽を教
わった」(二重目的語ですが、受け身になります)「この川は幅が15
フィートだと思うよ」

1. tini ekei enetuches;
2. ouden men e^n argurion to^i So^kratei polle^ de sophia.
3. sumpherei he^min chre^sthai te^i boe^theiai.
4. ekrupsa autous ton chruson.
5. te^n musike^n edidasketo hup' Athenaiou tinos.
6. pepeismai touton ton potamon pente^konta podas echein to
euros.

ギリシア語表記はこちらです(→http://www.medieviste.org/blog/
archives/GC_No.13.html
)。次回からは各種の節や文の用法を見ていき
ます。


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その5)

今回は問二の第二項に進みます。さっそく見ていきましょう。まずは最初
のテーゼです。

# # #
Articulus 2
Utrum Deum esse sit demonstrabile

Ad secundum sic proceditur. Videtur quod Deum esse non sit
demonstrabile.
1. Deum enim esse est articulus fidei. Sed ea quae sunt fidei, non
sunt demonstrabilia: quia demonstratio facit scire, fides autem de
non apparentibus est, ut patet per Apostolum, “ad Heb. 11,1”.
Ergo Deum esse non est demonstrabile.

第二項
神が存在することは論証できるか

以下、第二項へと進む。まず神が存在することは論証できないという議論
を見る。
一 神が存在するということは信仰箇条である。しかしながら、信仰に属
するものは論証できない。なぜなら、論証は知をならしめるが、「ヘブル
人への手紙」一一の一で使徒が述べているように、信仰は目にみえるもの
に属してはいないからだ。したがって神が存在することは論証できない。

2. Praeterea, medium demonstrationis est quod quid est. Sed de
Deo non possumus scire quid est, sed solum quid non est, ut dicit
Damascenus. Ergo non possumus demonstrare Deum esse.
3. Praeterea, si demonstraretur Deum esse, hoc non esset nisi ex
effectibus eius. Sed effectus eius non sunt proportionati ei: cum
ipse sit infinitus et effectus finiti; finiti autem ad infinitum non est
proportio. Cum ergo causa non possit demonstrari per effectum
sibi non proportionatum, videtur quod Deum esse non possit
demonstrari.

二 加えて、論証する場合の中名辞は、それが何であるかということにな
る。しかしながら、ダマスクスのヨアンネスが言うように、神が何である
かを私たちは知り得ず、何ではないかしか知り得ない。したがって神が存
在するとは論証できない。
三 加えて、もし神が存在するすることが論証できるとしたら、それは神
の結果から以外にはないだろう。しかしながら、神の結果は神に釣り合っ
ていない。つまり、神自身は無限であり、結果のほうは有限なのだ。しか
るに有限は無限に対して釣り合わない。このように、原因は、それに釣り
合わあい結果によっては論証されない以上、神が存在することは論証でき
ないと考えられる。
# # #

ダマスクスのヨアンネスへの言及は、前に出てきた『正統なる信仰につい
て』の第一巻四節です。神の本質(ti esti theos:神とは何か)について
述べた部分ですね。内容もざっと見ておくと、まずは端的に、神が非物質
である以上、それは完結もせず、認識もできない、ということが述べられ
ます。次にアリストテレス的な第一の不動の者(他のいっさいを動かす根
源)こそが神だという議論が続き、その後で、生成・誕生・変化・消滅な
どのないもの、という規定の仕方は、神とは何かではなく、神とは何でな
いかを述べているにすぎない、という一節が来ます。さらに、それはあら
ゆる存在(実体)を超えた存在なのだ、と述べています。ヨアンネスにお
いても、人は神の本質をわからずともその存在はわかる、というのが基本
的な認識になっています。

存在と本質について、ちょっと脱線してしまいましょう(笑)。トマスの
場合の存在と本質の区別については、前々回のところででてきた『「デ・
ヘブドマディブス」注解』が少しばかり参考になると思われますので、こ
こでちょっと触れておきましょう。本質と存在の区分はボエティウスから
あるわけですが、ボエティウスの場合にはesse(ある:存在)とid quod
est(何であるか:本質)という用語で表されます。この注釈書でトマス
は、一般的な「存在するもの」(ens:有)についての存在と本質の区分
を詳しく論じていきます(第二章)。そこでポイントになるのが、両者の
関係性です。「走る者とは、走行に従属し、みずから与する限りにおいて
の者をいうが、同じように、存在するものとは、存在の現実態(actus
essendi)に与する限りのものをいう」。走る者が「走行」そのものとイ
コールにはならないように、存在するものは存在そのものとイコールには
なりません。一方の本質は、「存在の形相つまり存在の現実態をみずから
引き受けることによって、存在し、また成立する」とされています。存続
する「実体」があってはじめて「存在するもの」と言われる、というので
す。

ちょっとややこしい感じですが、本質/存在するものの関係が、可能態/
現実態の関係だとすると、その両者をつなぐ、ちょうどこの斜線にあたる
部分が、存在の現実態ということになりそうです。存在の現実態と言うか
らには、存在の可能態もあるのでしょうか。テキスト的にはそういう表現
は出てきませんが、どうもactus essendiに対してesseが可能態の位置に
ある印象ですね。「存在は抽象を、本質は具体を表すと言われるのである
から、次のことは真である。本質(id quod est)はその核心的部分
(essentia)以外の何かを持つことが可能であるのに対し、真の存在
(esse)はその核心部分以外の何かと混成することは不可能である」
(やや端折った訳です)。この一節は、たとえば「人間」は、より抽象度
の高い「人間性」を核心的部分として持ち、それに偶有などが付加する形
で織りなされている概念であるのに対し、一方の存在は高度に抽象的で
あって、存在以外のなにものでもありえない、ということを述べているわ
けですが、とすると、esseに具体性がない(=高度に抽象的である)とい
う意味において、本質の現実態をもたらす(らしい)actus essendiと対
照的な関係にある、ということが言えそうです。

では、仮にesse/actus essendiのペアもまた可能態/現実態の関係にあ
るとして、ではそのesseをactus essendiにするもの、つまり現実化する
もの、両者をつなぐ斜線部分にあたるものは何かという新たな疑問がでて
きます。おそらくここに、分有の考え方と、その大元としての「神」が登
場するという話になるのでしょうけれど、そのあたりのことはまた改めて
取り上げたいと思います。今回もちょっと脱線だけになってしまいました
が、とりあえず次回もテキストを読みつつ脱線話を交えて検討していきた
いと思います。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は06月21日の予定です。

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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
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投稿者 Masaki : 23:16

2008年06月03日

No.127

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.127 2008/05/24


------新刊情報---------------------------------
5月も下旬になり、いよいよ夏が近づいてきた感じですが、このところの
寒暖の差は結構きついですねえ。さて中世関連ものの新刊もこのところ少
しスローダウンという感じでしょうか。頑張ってもらいたいところですけ
れど……。

『中世ヨーロッパの農村の生活』
ジョゼフ&フランシス・ギース著、青島淑子訳、講談社学術文庫
ISBN:9784061598744、1,102yen

『中世ヨーロッパの城の生活』『中世ヨーロッパの都市の生活』に続くシ
リーズ3作め。当時の生活をかなり細かく活写するこのシリーズですが、
今回は13世紀のイングランドの農村が舞台で、当時の裁判記録や荘園記
録などをもとに生活の細部を鮮やかに蘇らせているようです。この立体的
なアプローチはとても面白いものになっていますね。

『フランス・ロマネスクへの旅ーーカラー版』
池田健二著、中公新書
ISBN:9784121019387

10から11世紀のフランスのロマネスク教会を、その歴史、物語などでた
どるという一冊。取り上げられているのは24の教会だということで、数
多くの写真をカラーで収めているようです。いいですねえ、こういう本は
写真を見ているだけでも楽しいですからね。鑑賞のためのガイドブックに
もなりそうな感じで、ぜひ手元に置いておきたいです。

『マルコ・ポーロと世界の発見』
ジョン・ラーナー著、野崎嘉信ほか訳、法政大学出版局
ISBN:9784588008863

「Il milione(うそ八百?)」こと『東方見聞録』。同書はその誕生から
受容までを、マルコ・ポーロの出自や世界史的な文化背景などを絡めて描
いた一冊のようです。紹介文には「地理学書としての再評価」なんて表現
が踊っていますね。意外にもこういう研究はあまりないようですが(とい
うか紹介されていない?)、個人的にも大いに興味をそそるテーマです
し、ぜひ目を通したいところです。


------古典語探訪:ギリシア語編-----------
ギリシア語文法要所めぐり(その12:属格の用法2)
(based on North & HIllard "Greek Prose Composition")

前回に引き続き属格の用法です。今回のところはさっと片付けてしまいま
す(苦笑)。まずは値段を表す場合に属格が使われるケースがあります。
動詞としてはo^neomai(買う)、po^leo^(売る)などです。これらの
動詞はちょっと注意が必要で、アオリストは全然別の形を用います。「買
う」がepriame^n、「売る」がapedome^nです。

関与・参与を表す動詞も、その対象を表すのに属格を取ります。形而上学
でおなじみのmetexo^(分有する、参与する)、metadido^mi(一部を
与える)などです。

また、なんらかの優位性や権力を表す動詞につづき、その比較対象もしく
は被支配の対象を表す場合も属格になります。krateo^(支配する)、
perigignomai(勝る)などです。

理由を表す属格用法もあります。次のようは情感を表す動詞に続く場合で
す。oiktiro^(哀れむ)、thaumazo^(たたえる)、charin echo^(感
謝する)。

例文です。「彼らはアテネで、1200ドラクマで家を買った」「私たちは
君と危険を分かち合ったのではなかったか?」「私は彼の勇敢さを讃え
る」「君の支援に感謝している」。

1. eprianto oikian tina en tais Athe^nais murio^n kai dischilio^n
drachmo^n.
2. ar' ou meteichomen tou sou kindunou ;
3. ethaumazon auton te^s andreias.
4. charin echo^ soi te^s boe^theias.

ギリシア語表記はこちら(→http://www.medieviste.org/blog/
archives/GC_No.12.html
)。次回は与格の用例を見ていきたいと思いま
す。


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その10)

さて、アリストテレス『気象論』の中世の翻訳がどんなものだったのかを
少しばかり見てみましょう。すでに触れたように、このテキストはアラビ
ア語からの重訳です。すでにしてアラビア語訳が、なんらかのゆがみを胚
胎している感触もあり、その上に重なったラテン語訳は、そうしたゆがみ
を増幅しこそすれ、減じさせることはなかっただろうと予測できます。ち
なみにここで取り上げるラテン語訳は、クレモナのゲラルドゥスによる翻
訳です(スホーンハイム本に所収のものですが、ちなみに対訳的に示され
ているアラビア語版は、ゲラルドゥスが底本としたものではないといいま
す。ですからここではさしあたり、アラビア語版は参照しないでおきま
しょう)。

結論から言うと、全体的にはその翻訳は(もとのアラビア語訳がすでにそ
うなのですが)、基本線はオリジナルに即しながらも、箇所によって要約
のようになっていたり、あるいは逆に語を補う形で説明が加えられたりし
ながら、結果的にある種の傾向を強める形のテキストになっているのでは
ないか、と考えられます。その傾向とはつまり、前回可能性として触れた
「微視的・操作的な記述の増強」です。

具体的な箇所を見てみましょう。前回のバースのアデラードの話で出てき
た箇所をもう一度眺めてみます。風の説明の箇所です。オリジナルと比べ
てみると、基本線は同じでも、細かなワーディングはだいぶ違っているこ
とがわかります。たとえば、乾いたもの、湿ったものという二種類の蒸発
物について、原文(ギリシア語版)が「湿ったものは乾いたものなしに
(aveu)、乾いたもものは湿ったものなしに存在するのではなく、どち
らが優勢かにもとづいて[いずれであるかを]述べているのである」
(359b)とあるのに対して、ラテン語訳は「乾いた蒸発物の中には
(in)湿った蒸発物が、湿った蒸発物の中には乾いた蒸発物がある。乾い
た蒸発物と湿った蒸発物のうち、どちらが優勢かによっていずれかに名付
けられる」というふうになっています。蒸発物同士の関係性がいっそう明
確になっている感じです。

言葉を補っている箇所も見られます。風の起源と本性は乾いた蒸発物であ
ると述べた後で、ギリシア語原典はこう続きます。「[蒸発物が]そういう
仕方で必然的に成立するのは、それらの働きから明らかである。というの
も、[それらの]蒸発物は必然的に異なっていなければならないからで、太
陽の熱と大地にある熱とがそれらを作ることは、可能なばかりか必然でも
ある」(360a)。対するラテン語訳のほうはまったく異なっています。
「われわれが述べたことを必然的に導く説明となるのは、われわれの感覚
に現れ、学知によって論証的に認識される作用(働き)である。つまりそ
れは、地面から立ち上る蒸発物は、それに多様性がある限りにおいて、多
様であることをわれわれが必然的に知っているからである」。「働き」を
人間の認識と解釈し、それを引き延ばした形になっています。

さらにこの後の箇所も大きく異なります。原典では「空気が動いていれば
風、凝結すれば水」という異論を批判します。「個々人のまわりをとりま
く空気が動けばプネウマ(流体)となり、動きがどこから生じるにせよそ
れが風である、というのでは要領を得ないからだ。いかほどかの水が流れ
ていても、それが大量であっても、われわれはそれだけで川だとは言わな
い。むしろ流れは源泉から流れるのではなければならない。風についても
同様である。始まりや流れがなくとも、かなり大量の空気が、何か巨大な
落下物によって動くこともありえるのだから」(360a)。これに対し、
ラテン語版はこの部分を大幅に端折っています。「みずから動いて、流れ
るようになった空気が風だという彼らの言い方は誤っている。というの
も、もしそうだとすれば、風には知られるような始まりも終わりもないこ
とになってしまうからだ」。ここでは対比的に出てきた川についてのコメ
ントが外され、内容が著しく凝縮されているのがわかります。

このように、ときに両者のテキストはまったく別ものの様相を呈します。
こういう箇所は探せばいくらでも出てきそうですが、ここではとにかくラ
テン語版の全体的な傾向を探るという観点から、次回ももう少しだけ訳の
比較をして、暫定的に全体の総括をしてみたいと思います。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの神の存在証明を読む(その4)

今回は問二、一項の末尾の部分です。項の冒頭で挙げられていた三つの論
点に、持論の立場から回答しています。さっそく見ていきましょう。

# # #
Ad primam ergo dicendum quod cognoscere Deum esse in aliquo
communi, sub quadam confusione, est nobis naturaliter insertum,
inquantum scilicet Deus est hominis beatitudo: homo enim
naturaliter desiderat beatitudinem, et quod naturaliter desideratur
ab homine, naturaliter cognoscitur ab eodem. Sed hoc non est
simpliciter cognoscere Deum esse; sicut cognoscere venientem
non est cognoscere Petrum, quamvis sit Petrus veniens: multi
enim perfectum hominis bonum, quod est beatitudo, existimant
divitias, quidam vero voluptates, quidam autem aliquid aliud.

Ad secundum dicendum quod forte ille qui audit hoc nomen Deus,
non intelligit significari aliquid quo maius cogitari non possit, cum
quidam crediderint Deum esse corpus. Dato etiam quod quilibet
intelligat hoc nomime Deus significari hoc quod dicitur, scilicet
illud quo maius cogitari non potest; non tamen propter hoc
sequitur quod intelligat id quod significatur per nomen, esse in
rerum natura, sed in apprehensione intellectus tantum. Nec potest
argui quod sit in re, nisi daretur quod sit in re aliquid quo maius
cogitari non postest; quod non est datum a ponentibus Deum non
esse.

Ad tertium dicendum quod veritatem esse in communi, est per se
notum; sed primam veritatem esse, hoc non est per se notum
quoad nos.

第一点についてはこう述べておこう。なんらかの共通のもの、おぼろげな
もののもとに、神が存在することを認識する、それが私たちにもとよりそ
なわっている認識である----神が人間にとっての至福であるという限りに
おいて。というのも、人間はもとより至福を欲するのであり、本性的に人
間によって欲せられるものは、本性的にその人間によって認識されるから
である。ただしこれは、神が存在することを端的に認識することではな
い。ペトルスがやって来るときに、誰かがやって来ることを認識したとし
ても、それがペトルスを認識することではないのと同様だ。というのも、
多くの人は、人間にとっての善、つまり至福とは富だと思っているほか、
快楽だと思う者もいれば、ほかの何かだと思う者もいるからだ。

第二点についてはこう述べておこう。神という名を聞く者は、場合によ
り、それ以上のものを認識できない何かを意味すると理解しないかもしれ
ない。ある者など、神が物体であると信じたりもしているのだから。ま
た、誰でもよいがこの神の名を、ここで言われていること、つまり、それ
以上のものを認識できない何かを意味すると理解したとしよう。しかしな
がら、だからといってその者が、その名前が意味するものが自然の事物の
中にあると解していることにはならない。そうではなく、知的な把握のう
ちに存するということでしかない。それ以上のものを認識できない何か
が、事物のうちに存するということが認められるのでなければ、それが事
物のうちに存するとは証されえない。神は存在しないと仮定する人々は、
まさにそれを認めない。

第三点についてはこう述べておこう。一般に真理が存在することはおのず
とわかる。けれども、第一の真理が存在することは、私たちに関する限
り、おのずとはわからない。
# # #

今回の箇所で興味深いのは、とくに第二点めでしょうか。これは先のアン
セルムスの議論への批判ですね。とはいえ第一点めからは、人間は神的な
ものの存在をおぼろげに抱く、というのがすべての議論の前提にあること
が窺えます。ここでの要点は、神的なものの本性・本質はわからなくて
も、それが存在することはわかる、しかもそれが人間に本来的にそなわっ
た認識なのだという点です。でも、そうするとアンセルムスの議論との違
いが微妙になってしまい、ここからときに「トマスの証明は真に結果から
の証明ではない」などと言われることもあるわけですけれど、ここではむ
しろ、この神的なものの「存在」については、認識が人間に内在している
という点に大いに着目しておきましょう。

これは前回コメントし残した点にも関係します。「神は存在する」という
一文について、トマスは「述語と主語が同一である」と述べて、『神学大
全』問三の四項を引き合いに出していました。問三の四項というのは、神
の本質と存在とが同一であるということを論じた部分です。そこでは議論
として三つのアプローチが取られています。一つは、存在と本質が別であ
るならば、他者を原因として存在をもつのでなくてはならないが、神はそ
れに該当しないという議論、二つめは、存在と本質とは現実態と可能態の
関係になるが、神においては可能態的なものはいっさいないという議論、
三つめは、存在をもつのに存在ではないものは(つまりは現世の事物)分
有によって存在するが、神はそれに当たらないという議論です。これらか
ら翻って、神の本質と存在は同一である、とされるのです。

どうやらアンセルムスとトマスの議論の決定的な違いは、前者にあって
は、人間には神的なものの本質にまつわる認識がたとえ極端に限定的でも
内在するとされる(?)のに対して、後者にあっては存在と本質が分けら
れ、そのうちの存在の認識だけが内在するという点にありそうです。です
がそうすると、神においては存在と本質が同一であるなら、そして人間が
神の本質を認識できないとすれば、当然その存在も認識できないというこ
とになってしまいそうです。トマスにとっての「存在の認識」とはどのよ
うなものなのでしょうか。同じ問三の四項で、ちょうどこの異論に対して
トマスは、「ある」を二つの意味に分けて対応しています。一つは存在の
現実態、もう一つは主語と述語をつなぐときの命題としての「ある」で
す。そして現実態としての神の存在は人間には知りえず、人間はその後者
の意味においてのみ、「神が存在する」(という命題)が真であることを
知り、しかもそれを神の結果から知るのだ、と述べています。

なるほど、命題に限定された「存在」の証明というわけです。トマスの
「証明」はどうやら、命題としての直観的認識を、言葉でもって論証し明
確化することを目的にしているらしいことがわかります。でも問三の四項
での本質と存在の同一の議論を改めて見てみると、存在の原因と結果、現
実態・可能態、分有概念など、使われている概念装置はすでにして形而上
学的なものばかりです。なるほど、ここにあるのはすでにして中世独特の
論理学と形而上学との錯綜体だということになりそうです。となれば、私
たちもその点を改めて念頭に置き、錯綜体を少しでも解きほぐす努力をし
なければならないわけです。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は06月07日の予定です。

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投稿者 Masaki : 20:15