2008年05月20日

No.126

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.126 2008/05/10


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その9)

バースのアデラードのテキストから項目を拾ってまとめてみましょう。ま
ず、アデラードは基本前提として、運動するものはすべからく何かによっ
て動かされていると述べます。動かす当のものとは、能動的形相(forma
agens)だといい、たとえば火が上昇するのは「軽さ」という形相が原因
をなしているから、また石が下降するのは「重さ」という形相が原因をな
しているからだ、と説明づけています。このあたり、アリストテレスの見
解とはすでにして異なりますね。以前触れましたが、ラングの『アリスト
テレス「自然学」とその中世の異本』によると、火の上昇、土の下降は、
それらの「本来の場所」に向かうこととして説明されていて、その場合の
動因そのものは曖昧になっているということでした。

アデラードはまた、動かされたものが別のものを動かす条件として、その
動かす運動が円運動であることを挙げています。運動が最初の地点に戻っ
てくるのが、別のものを動かす条件だというのですね。なんだか天球の動
きが連想されます。で、その一例として風の動きが挙げられています。風
の動きは(水の動きと違わず)円運動をなすと述べています。ただしそれ
が一つの永続的な動きにならないのは、それを逸らせる何かの別の力
(inpulsus)があるからだといいます。ここで風への言及は唐突に立ち消
え、話はその拮抗する力の話へと流れていきます。バーネットの解説にも
ありますが、アデラードの場合、ある話がほかの話に振るための枕詞であ
るかのように使われることが多々あるようです。ただしここでちょっと面
白いのは、これが粒子(athomos)の力の話になっていることです。粒
子論の萌芽が散見されるというサレルノの学派を彷彿とさせる感じ……な
のでしょうか?

アデラードの説明では、風の動きはようするに空気の動きだということの
ようですが、これはアリストテレスが『気象論』において、間違った説明
だとして排除するものに相当します。『気象論』の邦訳(泉治典訳、岩波
書店)の注によれば、風を空気の動きとするのはヒポクラテスの説とされ
ています。ヒポクラテスはガレノスやディオスコリデスと並んで、医学関
係文献を中心にアラブ世界で盛んに研究されたといいますから(レイノル
ズ&ウィルソン『古典の継承者たち』)、アデラードがアラビア文献経由
で参照していることは十分に考えられます。ところでアリストテレスの風
の説明はどうだったでしょうか?風とはつまり、地上から上がるという二
種類の蒸発物のうち、乾いた蒸発物のことなのでした。それが風の実体を
なしているとアリストテレスは述べています。

次に今度は雲や雷、雹についての説明を見てみましょう。アデラードはこ
う説明します。地表から立ち上る霧(霧すなわち水分です)のうち濃いも
のが、上空の寒さと接触すると雲になり、その雲が極地からの風にあおら
れ収縮すると氷になる。で、それが反対方向からの風と衝突したり、夏の
暖気に接触したりすると、氷は水平方向の一体性を保てなくなり、破損も
しくは融解し、一気に落下してくる。このときの衝突音が雷鳴で、衝突の
際に生じるのが雷光で、破損し落下する氷の粒は徐々に小さくなるもの
の、下界に寒気がある場合には再び収縮して雹になる……。

この説明はそれなりに一貫性をもって合理的に出来ていますね。対するア
リストテレスのものはどうでしょうか。地表を囲む水分(湿った蒸発
物?)が太陽光線その他の熱で霧状になり、上空に運ばれ、熱が失われる
とその水分は冷却し凝結する……と、ここまでは図式的にそれほど変わり
ません。ですがその先は違っていて、湿った蒸発物が霧、乾いた蒸発物が
雲になるとされます。雹については、熱と冷との相互作用であるとしてい
ます。熱した水のほうが早く凍るのだと言い、雲が暖かい空気の中に降り
てきて急激に凍結するのが雹であると。雷はどうでしょう。アリストテレ
スによれば、それもまた蒸発物が原因です。一部の冷たくなったの雲の中
に閉じこめられていた乾いた蒸発物が、雲の凝結にともなって外に投げ出
され、まわりの雲に衝突するのが雷鳴、投げ出された蒸発物が燃えるのが
雷光、というわけですね。

両者の見解は、ある意味で対照的です。アデラードの説明はどこか巨視的
で、たとえば雷のもととして氷を考える際にも、それを一定の広がりで想
定しようとしていますが、アリストテレスはどちらかといえば微視的で、
蒸発物が投げ出されると言う際にも、どこか最小単位のメカニズムを考え
ている嫌いがあります。もちろんアデラードにも物質をめぐる議論はあ
り、アリストテレスも広がりのスパンで考える局面もあるわけですから、
一概には言えないかもしれませんが、こと気象論関係での議論に限って言
えば、両者の説明から、そうした巨視的・微視的の「志向上の」コントラ
ストを取り出せるような気もしなくはありません。もちろん、見方を変え
れば、両者の基本的な考え方にそれほど大きな違いはないと言えるかもし
れません。ですが、とりあえずの作業仮説としてなんらかの対照性を考え
ることで、アリストテレス思想が、少なくとも学者たちの間でアデラード
などの考えに置き換わっていった事実についての見通しを、多少とも明る
くできないか、きっかけくらいにはならないか、とも思うのです。「微細
なメカニズム、極小的な機能性への着目といったあたりが、そうした思想
的受容の変化の動機付けに、多少とも関与していたのでは?」なんて、論
証可能かどうかはともかく、面白そうな見方ではないでしょうか?
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------
ギリシア語文法要所めぐり(その11:属格の用法1)
(based on North & HIllard "Greek Prose Composition")

今回と次回は、格の用法のうち属格についての大まかなまとめです。所有
を表す通常の用法ではなく、特定の動詞に続いて補語をなす場合の用例で
すね。これはまあ、どういう動詞が属格を取るのか、個別に押さえておく
のが一番よいのでしょうけれど、大枠の傾向みたいなものはあるわけで、
それをまとめようというわけです。

まず、「目標、望みの対象」を表す場合があります。動詞としては
tugchano^(打つ)、hamartano^(しくじる)、aptomai(触れ
る)、archo^(始める)、epithumeo^(欲する)、deomai(必要とす
る)など、重要なものばかりです。

「分離、停止の対象」を表す場合もあります。apecho^(離れる)、
pauo^(止める)、apallasso^(離す)などに続けて、その離れる(止
める)対象を言う場合です。

「非難の理由」を表す場合もあります。aitiaomai(なじる)に属格を続
け、非難のワケを示します。ただし、katagigno^sko^(とがめる、有罪
とする)の場合には、とがめる相手を属格にし、とがめるワケ(あるいは
有罪の内容)を対格にします。

「知覚対象」を表す属格は広く使われます。知覚を表す動詞に続きます。
aisthaomai(知覚する)、memne^mai(思い出す)、epilanthanomai
(忘れる)などなど。ただし、akouo^(聞く)の場合には、聞くものが
モノなら(音楽とか)対格、人(の話)なら属格を取るのですね。

例文です。。「彼らは食料を必要としている」「彼らはを軍を卑怯だとな
じった」「彼らは軍を卑怯ととがめた」「彼らは、将軍の話を聞かないだ
ろうと言った」「彼らは、音を聞いたと言った」「祖先の行いを思い出
せ」「彼らはテーバイ人の戦闘を止めた」

1. deontai sitou.
2. e^itiasanto ton straton te^s kakias.
3. kategno^san tou stratou te^n kakian.
4. ouk ephasan tou strate^gou akousesthai.
5. ephasan psophon akousai.
6. memne^sthe to^n hupo to^n progono^n pepragmeno^n.
7. epausan tous The^baious te^s mache^s.

ちょっと今回は、サイクロン被害後のあまりにひどいミャンマー情勢な
ど、時事問題で使える感じの例文になりましたね(ギリシア文字での表記
はこちらを参照→http://www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.
11.html
)。


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの「神の存在証明」を読む(その3)

『神学大全』第一部問二を読むシリーズです。今回は異論とトマスの見解
を示した部分を見ていきます。ではさっそく。

# # #
Sed contra, nullus potest cogitare oppositum eius quod est per se
notum, ut patet per Philosophum in IV Metaphys. et I Poster. circa
prima demonstrationis principia. Cogitari autem potest oppositum
eius quod est Deum esse secundum illud Psalmi 52.1 : Dixit
insipiens in corde suo, non est Deus. Ergo Deum esse non est per
se notum.

Respondeo dicendum quod contingit aliquid esse per se notum
dupliciter : uno modo secundum se et non quoad nos; alio modo
secundum se et quoad nos. Ex hoc enim aliqua proposito est per
se nota, quod praedicatum includitur in ratione subiecti, ut homo
est animal; nam animal est de ratione hominis. Si igitur notum sit
omnibus de praedicto et de subiecto quid sit, proposito illa erit
omnibus per se nota: sicut patet in primis demonstratonum
principiis, quorum termini sunt quaedam communia quae nullus
ignorat, ut ens et non ens, totum et pars, et similia. /

しかしながら異論もある。「おのずとわかること」の逆は誰も認識できな
い。ちょうど、哲学者(アリストテレス)が『形而上学第4巻』『後分析
論第1巻』で、第一原理の論証について述べているように。ところが「神
が存在すること」の逆は認識できる。『詩篇』52.1にはこうある。「愚
か者は心の中で言った。神は存在しないと」。したがって、神が存在する
ことはおのずとはわからない。

私は次のように述べて答えとしよう。何かが「おのずとわかる」という場
合は二つある。一つは、それ自身としてはおのずとわかるものの、私たち
にとってはそうでない場合、もう一つはそれ自身としておのずとわかり、
かつ私たちにとってもそうである場合だ。実のところ、任意の命題がおの
ずとわかるのは、述語が主語の概念に含まれているからだ。たとえば「人
間は動物である」の場合がそうで、「動物」は「人間」の概念の一部をな
している。したがって、述語と主語の何たるかがすべての者にわかるので
あれば、その命題はすべての者にとっておのずとわかるということになる
だろう。第一原理の論証に明らかなように、その場合の名辞は、「存在す
るもの」と「存在しないもの」、全体と部分などのように、知らない者は
いないような共通のものである。/

Si autem apud aliquos notum non sit de praedicato et subiecto
quid sit, propositio quidem quantum in se est, erit per se nota:
non tamen apud illos qui praedicatum et subiectum propositionis
ignorant. Et ideo contingit, ut dicit Boethius in libro “De
hebdomadibus”, quod quaedam sunt communes animi
conceptiones et per se notae, apud sapientes tantum, ut
incorporalia in loco non esse.

Dico ergo quod haec propositio, Deus est, quantum in se est, per
se nota est: quia praedicatum est idem cum subiecto; Deus enim
est suum esse, ut infra patebit (q.3, a.4), Sed quia nos non scimus
de Deo quid est, non est nobis per se nota, sed indiget
demonstrari per ea quae sunt magis nota quoad nos et minus
nota quad naturam, scilicet per effectus.

しかしながら、ある人々において述語や主語の何たるかがわからないなら
ば、命題それ自体としてはおのずとわかるという場合であっても、その命
題の述語と主語がわからない人々にとってはその限りではない。ゆえにボ
エティウスが著書『デ・ヘブドマディブス(創造の七日間について)』で
述べているように、「非物体的なものは場所には存在しない」の場合のよ
うに、知恵ある者においてなら魂の共通概念をなし、おのずとわかるもの
もある。

したがって「神は存在する」というこの命題は、それ自体としてはおのず
とわかると言える。というのも、そこでの述語は主語と同一であるから
だ。すなわち、後に見るように(問三、四項)神とはその存在なのであ
る。けれども、私たちは神についての何たるかは知らない以上、私たちに
とっておのずとわかるものではなく、私たちにとってはより明らかで、本
性からすればより明らかではないもの、すなわちその(神のもたらす)結
果によって論証されなくてはならない。
# # #

まず今回の箇所に入る前に一言。前回のところでアンセルムスの議論が出
てきましたが、これは『プロスロギオン』のほうにそのまま出ている議論
でした(第二章)。ちょっと訂正しておきます。また、この同じ箇所に、
上のテキストにも出てくる『詩篇』52の1(または2)の一句が引用され
ていて、それに続き「その同じ愚かな者は、<それ以上大きなものが考え
られないもの>と私が言えば、それが何か知らなくとも、それが自分の知
性の中に存在することを理解するだろう」と続き、知性に存在するもの
と、事物が存在することの理解とは別ものとした上で、「しかしながら、
<それ以上大きなものが考えられないもの>は、知性のみあるのではな
い、なんとなれば、知性だけに存在するのであれば、それ以上に大きなも
のが考えられることになってしまうからだが、それはありえない」という
ふうに続いています。トマスのテキストよりも端折らずに議論が展開して
いるのですね。このアンセルムスによる神の存在証明は、ア・プリオリな
証明(原因からの証明)と呼ばれています。これは長い系譜をなしている
議論なのですね。

たとえば前回出てきたダマスクスのヨアンネスの『正統なる信仰につい
て』の3節でも、「神が存在するという認識は、私たちにもとより内在し
ている」とされ、そこでもまた、上の『詩篇』の同じ箇所が引用されてい
ます。もっとも、そちらでは、そうした愚か者を神の認識へと導くために
聖書があるのだという話になっていき、あまり「証明」という感じではあ
りません……。また、トマスのほぼ同時代人で在俗教師だったガン(ヘン
ト)のヘンリクスも、自著『スンマ』の中で、アンセルムスやヨアンネス
をそのまま引用しています。ヘンリクスの場合、アンセルムスの議論に対
しては、「それ以上大きなものが考えられないもの」は無限であり、無限
とはあらゆるものに及ぶ(有限な知性をも含めて)のだとして、知性の世
界と事物の世界の区別はもはや問題にされていません。

さて、対するトマスの証明はア・ポステリオリな証明(結果からの証明)
と言われます。その基本方針は今回の箇所に示されています。一番最後の
ところ、神がどんなかはわからなくとも、それがもたらす具体的な結果か
ら論証しなくてはならない、というところですね。そういえば、上に挙げ
たヘンリクスが引用しているのですけれど、アウグスティヌスの『三位一
体論』(15-4.5)に、「聖書のほか、人間を取り囲むすべての被造物
が、この上なく優れた創造主の存在を示している」という記述があるよう
です。トマスの言う「結果」とはつまり被造物のことだとすると、トマス
の論証の方針もアウグスティヌスを蹈襲していることがわかります。で
も、連続性の相で見るのももちろん大事ですが、やはりどちらかといえ
ば、トマスの革新性のほうに目を向けるような読み方のほうが面白そうな
気はしますね……。

ところで、この箇所の"quae sunt magis nota quoad nos et minus
nota quad naturam"というのは微妙にわかりにくいですね。底本の独訳
はnaturamを「神の本性(Natur (Gottes))」としていますが、「神の
本性からすればより明らかでないものによって……」というのでは今一つ
よくわかりません。『世界の名著』(中央公論社)シリーズ所収の山田晶
訳では、「本性的には知られる度合いが少ない」とし、注釈において、神
は「本性上」最高度の知られうるものであるのに対して、人間にとっては
最も知られにくいものであり、逆に人間にとってより知りうる神の結果
(被造物)は、それらの「本性上」は知りうる度合いが低い、という解釈
を示しています。なるほど、被造物の本性と取るわけですが、こちらのほ
うがはるかに意味の通りがよいと思われます。

トマスは検討する命題の「おのずとわかる(per se notum)」の部分
を、二つの意味に分解しています。こうした分解はトマスが非常に多用す
る分析手法なのですね。定義の厳密化は論理学的アプローチの第一歩とい
うわけです。その後に出てくるボエティウスの『デ・ヘブドマディブス』
は、タイトルとはあまり関係のない「在る」をめぐる命題の数々で構成さ
れた興味深いテキストで、トマスはこれの注釈書を書いています
("Expositio libri Boetii de ebdomadibus")。『中世思想原典集成』
のトマスの巻に邦訳が収録されています。これもそのうち取り上げてみた
いところですね。また、今回の箇所には、『神学大全』の先の部分(問
三、四項)へのリファレンスもあり、その内容もまとめておこうと思った
のですが、ちょっと長くなってしまったので、次回に繰り越しということ
にしたいと思います。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は05月24日の予定です。

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投稿者 Masaki : 22:37

2008年05月05日

No.125

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.125 2008/04/26


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その8)

『気象論』が伝わる以前の西欧では、自然現象はどのように捉えられてい
たのでしょうか。その一端を探ってみたいのですが、ここでは『気象論』
流入前夜に相当する12世紀前半の自然学的な動きとして、バースのデ
ラードを取り上げたいと思います。バースのアデラード(1080〜
1152)は翻訳者として活躍した人物で、フランスはトゥールやランで学
業を積み、イタリア南部、とくにシチリア、さらにはタルソスやアンティ
オキアなどにも旅をした、と言われるのですが、詳しいことはわかってい
ないようです。いずれにしても1120年頃にはイングランドに戻り、アラ
ビア語の天文学書を初めとする膨大な量のラテン語訳を作っています。

また、甥に語るという形式の対話編など自著もいくつかあり、とりわけ有
名なのが『同一と多様について』『自然の問題』『鳥類論』です。とくに
このうちの2番目が、当時の自然学的な知見をいろいろと示してくれてい
て有用です。手頃な参照版としては、チャールズ・バーネット編・訳の校
注版("Abelard of Bath : Conversations with his Nephew",
Cambridge Univ. Press, 1998
)があります。この『自然の問題』は76
の問いから成り、それぞれについて甥が質問しアデラードが答えていくと
いう形式を取っています。気象に関するものはそのうちの48から76まで
で、あまり多くはありません。

バーネットの解説によれば、同書が扱う問いは、当時人気を博していたら
しいサレルノの問題選と類似していて、おそらくアデラードの着想源とし
てサレルノの影がありそうだといいます。実際に、サレルノの大司教だっ
たアルファノがギリシア語から訳したネメシウスの「人間の本性につい
て」を、アデラードは直接引用しているのですね。サレルノといえば、ア
リストテレスのテキストが本格流入する以前の11世紀、コンスタンティ
ヌス・アフリカヌスのアラビア語テキストなど、医学・自然学関係の文献
がアラビア語から訳されて入る中継点の役割を果たしていた町だったよう
です。

アデラードのテキストは12世紀に好評を博したようで、パリのサン=ヴィ
クトールやシャルトルなど学僧の間で読まれたようですが、その後12世
紀の後半からは学僧たちの世界にアリストテレスの文献が流通するように
なり、アデラードのテキストは人気を失っていきます。とはいえ、今度は
世俗語に翻訳されて14世紀ごろまで伝えられていきます。さらにルネサ
ンス期にも短命ながらテキストの再評価の時期があったのだとか。

というわけで、私たちもアデラードのテキストを『気象論』との比較で少
しばかり見てみたいと思います。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その10:間接文あれこれ)
(based on North & HIllard "Greek Prose Composition")

引き続き今回も間接文ですね。まずは間接命令文。これは簡単で、英語と
同じく不定法で表します。否定の命令ならme^を付ければよいのですね。
例文を見てみましょう(ギリシア文字表記はこちら→http://
www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.10.html
)。「彼は彼ら
に家に入るよう命じた」「私は君がその金を使うのを許さない」「私に彼
を解放するよう促すものは何もない」「男たちに、船に戻り町の中にはこ
れ以上とどまらないよう命ぜよ」
1. ekeleusen autous eis te^n oikian eisienai.
2. ouk eo^ se touto^i to^i argurio^i chre^sthai.
3. ouden me peisei apheinai auton.
4. keleuson tous andras apelthein pros tas naus me^de diatribein
me^keti en astei.

続いて間接文内の従属節(関係代名詞で導かれる節)についてですが、こ
れも基本的には主文の動詞が一次時制(現在・未来・完了)なら従属節内
の動詞は直説法のままでオッケーなのですね。歴史時制(未完了過去、大
過去、アオリスト)の場合には従属節内の動詞は希求法にもできますが、
これは任意で、直説法のままでもよいとされます。

例文を挙げましょう。「私は自分がもつ本を使う」を、間接文「彼は、自
分がもつ本を使うと言っている」にします。
5. chro^mai tais biblois hais echo^.
6. phe^si chre^sthai tais biblois hais echei.

上の間接命令文との組み合わせを見ておきましょう。「君が書いた手紙を
読むよう彼に伝えるよ」「彼は何が起きたか報告するよう命じられた」
7. keleuso^ auton anagigno^skein te^n epistole^n he^n su
egrapsas.
8. kekeleustai apaggeilai hoti egeneto.

間接文の流れで従属節の話になりましたが、当の関係代名詞などについて
も復習しておきたいところです。


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その2)

今回からがいよいよ本論ですね。『神学大全』の各節は当時のスコラ学の
論述方法を反映し、ほぼ三段論法的な構成になっています。まず論じる
テーマについてのテーゼが掲げられ、次いでそれに対する反論が挙げら
れ、さらに解決としての持論が示され、とくに異論などへの反論として若
干の補足的なコメントが添えられます。今回の箇所では、「神が存在する
ことはおのずとわかるか」というテーマについてまずはテーゼが掲げられ
ます。

# # #
Articulus 1
Utrum Deum esse sit per se notum

Ad primum sic proceditur. Videtur quod Deum esse sit per se
notum
1. Illa enim nobis dicuntur per se nota, quorum cognitio nobis
naturaliter inest, sicut patet de primis principiis. Sed, sicut dicit
Damascenus in principio libri sui, omnibus cognitio existendi Deum
naturaliter est inserta. Ergo Deum esse est per se notum.

2. Praeterea, illa dicuntur esse per se nota, quae statim, cognitis
terminis, cognoscuntur : quod Philosophus attribuit primis
demonstrationis principiis, in I Poster.: scito enim quid est totum
et quid pars, statim scitur quod omne totum maius est sua parte.
Sed intellecto quid significet hoc nomen Deus, statim habetur
quod Deus est. Significatur enim hoc nomine id quo maius
significari non potest : maius autem est quod est in re et
intellectu, quam quod est in intellectu tantum : unde cum,
intellecto hoc nomine Deus, statim sit in intellectu, sequitur etiam
quod sit in re. Ergo Deum esse per se notum.

3. Praeterea, veritatem esse est per se notum : quia qui negat
veritatem esse, concedit veritatem esse : si enim veritas non est,
verum est veritatem non esse. Si autem est aliquid verum,
opportet quod veritas sit. Deus autem est ipsa veritas, Io. 14,6 :
Ego sum via, veritas et vita. Ergo Deum esse est per se notum.

第一節
神が存在することは、おのずとわかるか

最初の議論に進むことにする。神が存在することはおのずとわかることを
検証する。
一.おのずとわかると言われるものは、第一の原理について明らかである
ように、その認識が私たちに自然に内在するもののことである。しかる
に、ダマスクス(のヨアンネス)が著書の冒頭で述べているように、存在
する神の認識はあらゆる者の中に自然に入り込んでいる。したがって、神
が存在することはおのずとわかるのである。

二.加えて、おのずとわかると言われるものは、概念の認識によって即座
に認識されるもののことである。哲学者(アリストテレス)は後分析論一
巻において、それを第一の論証の原理としている。すなわち、人は全体と
部分を知るや、ただちに全体が必ず部分より大きいことを知る。しかる
に、神というこの名が何を意味するかを理解するや、ただちに神がいかな
るものであるかを会得する。この名は、それ以上のものを意味することは
できないということを意味するのである。しかるに、事物と知性とに存す
るものは、知性にのみ存するもの以上のものである。したがって、その神
の名を理解するとき、神は知性の中に存し事物の中にも存するということ
がただちに導かれる。したがって、神が存在することはおのずとわかるの
である。

三.加えて、真理が存在することはおのずとわかる。というのも、真理が
存在することを否定する者といえど、真理が存在することを認めざるを得
ないからだ。真理が存在しなければ、真理が存在しないことは真になる。
しかしながら、もしなんらかのものが真であるのなら、真理が存在しなけ
ればならないのである。しかるに神は真理そのものである。ヨハネによる
福音書14の6にはこうある。「私は道であり、真理であり、生命であ
る」。しかるに、神が存在することはおのずとわかるのである。
# # #

のっけからいきなり認識の内在論が出てきますね。第一段落に出てくるダ
マスクスのヨアンネスは8世紀前半ごろに活躍したとされるシリア出身の
ギリシア教父です。第二回ニカエア公会議前の偶像破壊論に反駁した人物
として知られていますが、その主著の一つに「正統なる信仰について」が
あり(11世紀にラテン語に訳されています)、この冒頭部分に「神は言
葉で表せないし理解もできないが、それでもなお、みずからを知らしめ
る」という内容の一節があります。この不可知の知というパラドクスを、
ヨアンネスは次のように述べて回避します。「神に関する知は創造から派
生するものであり、神はみずからを知らしめ(最初は律法や預言を通じ
て、後にはその唯一の子を通じて)、その知は私たちにまで伝えられ、私
たちはそれを受け取っている」(参考:アンドリュー・ラウス『ダマスク
スの聖ヨアンネス』(オックスフォード、2002)
)。

第二段落では、アリストテレスの『後分析論』が引き合いに出されていま
す。言及されているのは、1巻1の2(72a5〜10)「論証の第一原理は直
接的な前提であり、直接的な前提とはほかの前提をもたないものをいう」
というくだりのようです。このトマスのテキストの底本としている羅独対
訳本では、ホルスト・ザイドルという人が解説をつけていますが、それに
よると、続く「神という名が、それ以上のものを意味することはできない
ということを意味する」というくだりは、アンセルムスの議論だとされて
います(『モノロギオン』の第1章などでしょうか)。さらに第三段落の
論理学的な議論(「何かを真と認めるならば、真理が存在しなくてはなら
ない」)はプラトンの『テアイテトス』171bからのものです。テーゼの
部分は、こうした引用の数々で織りなされているのですね。

ちなみに、認識の内在論そのものは、プラトンにまで遡ることができま
す。たとえば『メノン』の有名なくだりですね。上のアリストテレス『後
分析論』の同じ箇所でも、その『メノン』への言及があります。ですが、
トマスの場合には、むしろアヴィセンナ経由、あるいは師匠のアルベル
トゥス・マグヌス経由でもたらされた知性論が通底している感じです(こ
のあたりの話はまた今度)。

「事物と知性に存するものは、知性にのみ存するものよりも大きい」の部
分は、まあ集合論的に考えればわかりやすいかもしれません。実在(事物
に属す)と概念(知性に属す)は概念だけの存在よりも外延として大きい
というわけですね。で、「神は最も大きいものだ。したがって神は事物と
知性とに存する」と論証が展開するのですが、これ、「存在は事物と知性
の中以外にはない」「最も大きいものは事物と知性に存する」という命題
の論証がないという意味で不完全なものです。ということは、逆に言うと
当時の基本認識として、存在するものは事物の中か知性の中にしかない、
言い換えれば、事物と知性とは「何かが存在する」という意味では対等で
ある、ということが共有されていたのかもしれませんね。考えてみれば、
いわゆる普遍論争というのも、知性でもって解される「本質」「共通概
念」が、知性の外に存在しうるかどうか、というのが問われたのでした
(知性の外とはつまり事物ということでしょう)。

最大のものは事物と知性に存する(=知性にのみ存するものが最大になる
ことはない)ということも、命題として明証されているわけではないので
すが、これまた基本認識としては折り込み済みということなのでしょう
か?あるいはここで、トマスが若き日に論じたように「神における存在と
本質は同一」ということが前提になっているのでしょうか?でもそうする
と、私たちからすれば、ここでは神性の超越性(最大であること)が論点
として先取りされていることになってしまいますね。あるいはこれは、超
越性の実在と知解が、当の超越性を事由として論証されるという巧妙な仕
掛けと言えるのかもしれません……。

次回はこのテーゼに続く反論部分からです。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は05月10日の予定です。

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投稿者 Masaki : 22:05