2008年10月28日

No.136

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.136 2008/10/18

すっかり秋めいた気候になり、読書にも最適な頃合いとなりました。この
ところ「新刊情報」のコーナーをお休みしていますが、今年の秋には岩波
の企画ものとして、「シリーズ・ヨーロッパの中世」(全8巻、池上俊
一、河原温編集)が刊行予定ですね。11月からということで、大いに期
待できそうです。


------文献探索シリーズ------------------------
「単一知性論」を追う(その7)

さて、単一知性論の本家とされるアヴェロエスですが、実際のところはど
うなのかを見ていくことにしましょう。以前にも取り上げたことがありま
すが、アヴェロエスことイブン・ルシュドは12世紀のイスラム哲学者
で、当時のカリフの侍医でもあった人物です。西欧世界ではとりわけアリ
ストテレスの注釈者として知られていました。注解には小注解(基本的に
は要約)・中注解(言い換え)・大注解(逐語的な詳細な分析)があり、
目下の懸案である単一知性論との絡みで重要なのは、やはりなんといって
も『霊魂論』の大注解です。

『霊魂論』の大注解は1953年にスチュアート・クロフォードのラテン語
訳の校注版が出ています。後の94年にフランスで復刻版が出ています
が、これらは現在ちょっと入手が難しいみたいですね。で、そのクロ
フォード版から第5注解と第36注解を抜き出した(さらに小注解・中注解
のアラビア語版からも抜粋しています)ドイツ語への抄訳本がヘルダー社
の中世哲学叢書の一つとして出ています(Averroes, "Uber den
Intellekt", Herder, 2008)。ちょうどその2つの注解は知性論の重要な
箇所ですので、ここではそれを参照していきたいと思います。

第5注解はアリストテレス『霊魂論』の一節、429a21〜24の注解になっ
ています。注解対象のもとのテキストはこんな感じです。「したがって、
それには可能態以外の自然本性はない。知性と呼ばれる魂(見分けたり認
識したりする拠り所を、私は魂と呼ぶ)は、知解する以前には現実態とし
て存在してはいない」。アヴェロエスはまず語句の解説から入ります。こ
こでの知性とは質料的知性であるとし、可能態というのも知解対象の質料
的(物質的)形相を受け取る可能性の性質というふうに規定します。です
が知解対象の形相とは普遍的なものであるとされるわけですから、性質か
らして物質や物質内の力ではありえないということになり、質料的知性が
形相を受け取るというのはどういうことなのか、そもそも質料的知性とは
どういったものなのか、といった疑問が浮上してくることになります。こ
うしてアヴェロエスは、長い説明の迂回路へと入っていきます。

まずはテミスティオスなどが唱える、知性は分離可能で単体としてあると
いう説が引かれます。潜在態(可能態)にある知性が現勢化するには現実
態である知性が必要であり、前者が質料的知性だとすれば、後者は能動的
知性だということになるとされるところまでは良いのですが、問題はその
後で、その両者ともに永続するのは必定であると言われます。能動知性に
よる質料的知性の完成態(両者の混成体)をテミスティオスは理知的知性
(intellectus speculativus)と呼び、三層構造で考えたりもしています
が、とにかく能動知性もまた魂の中にあるとされ、この点についてアヴェ
ロエスは次のように二点の異を唱えます。

まず第一点は、知性が永続するという言い方の矛盾です。知性が永続する
のであれば、知性によって形成されるもの(知解対象)もまた永続するこ
とになり、それは魂の外になくてはならず、質料的なものの中にあるとい
うのでは矛盾に陥ってしまいます。質料的なものは生成・消滅するので、
もとより永続しえないものだからです。もしこれで、感覚に端を発する像
が知解に関与するという話になれば、その像への志向性も、それをもたら
す感覚も、ひいては感覚対象すら永続するという話になってしまいかねま
せんが、それは到底ありえないことになります。

第二点は、質料的知性が人間の第一の完成(エンテレケイアということで
す)とされ、理知的知性が最終の完成だという言い方がされている点で
す。人間(の個々人)は数の上で一である以上、いずれかの完成において
個々の「一」になるのだと考えられているわけですが、テミスティオスは
理知的知性をもってはじめて個々人が数的に分かれるとしているのです
ね。ですがその場合、第一の完成は人間に共通の知性が生じるという意味
になり(個別化がその後に続きます)、すると第一の完成のレベルでは、
「私」と「あなた」の知性の獲得や忘却になんら差がなくなることになっ
てしまいます。アヴェロエスはこれに反対し、第一の完成をもって人間は
数的にも個別化するものでなくてはならないと考えます。

この第二の点は興味深いですね。後世の西欧において単一知性論に向けら
れたのと似たような議論(「それでは個人差がなくなってしまうではない
か」という批判)が、アヴェロエス本人によってテミスティオスの知性内
在論に対して提出されているのです。いずれにしても、ここまではまだ前
段階で、いよいよこの後の箇所で、今度はアフロディシアスのアレクサン
ドロスの説が取り上げられ、アヴェロエスの霊魂論解釈の核心部分へと進
んでいくことになるのですが、長くなりますのでそれはまた次回というこ
とにします。
(続く)


------文献講読シリーズ------------------------
トマス・アクィナスの個体化論を読む(その1)

さて、今回からはトマスの別テキストを読んでいくことにします。『ボエ
ティウス「三位一体論」注解』から、第四問の第一項、第二項を見ていき
ます(余力があれば、第三項、第四項も)。ちょうどこれが、個体化論の
重要箇所をなしているのですね。さっそく取りかかることにしましょう。
底本とするのは、ボンピアーニから昨年出た羅伊対訳本("Commenti a
Boezio", Bompiani, testi a fronti, 2007)です。例によって訳はあまり
練ったものではありません。あしからず。

# # #
QVESTIO QVARTA

Deinde queritur de his que ad causam pluralitatis pertinent. Et
circa hoc querutur quatuor: primo utrum alteritas sit causa
pluralitatis; secundo utrum uarietas accidentium faciat
diuersitatem secundum numerum; tertio utrum duo corpora
possint esse uel intelligi esse in eodem loco; quarto utrum uarietas
loci aliquid operetur ad differentiam secundum numerum.

Articulus primus
Vtrum alteritas sit causa pluralitatis

Ad primum sic proceditur: uidetur quod pluralitatis causa non sit
alteritas. Vt enim dicitur in Arismetica Boetii, “omnia quecumque a
primeua rerum natura constructa sunt, numerorum uidentur
ratione esse formata: hoc enim fuit principale in animo conditoris
exemplar”. Et huic consonat quod dicitur Sap. XI “Omnia in
pondere, numero et mensura disposuisti”. Ergo pluralitas siue
numerus est primum inter res creatas, et non est eius aliqua causa
creata querenda.

2. Praeterea. Vt dicitur in libro De causis, “Prima rerum creatarum
est esse”. Set ens primo diuiditur per unum et multa; ergo
multitudine nichil potest esse prius nisi ens et unum. Ergo non
uidetur esse uerum quod aliquid aliud sit eius causa.

3. Preterea. Pluralitas uel circuit omnia genera, secundum quod
condiuiditur contra unum quod est conuertibile cum ente, uel est
in genere quantitatis, secundum quod condiuiditur uni quod est
principium numeri; set alteritas est in genere relationis. Relationis
autem non sunt cause quantitatum, set magis e conuerso; et
multo minus relationes sunt cause eius quod est in omnibus
generibus, quia sic essent cause etiam substantie. Ergo alteritas
nullo modo est causa pluralitatis.


第四問

次に、多性の原因に関することがらについて問うことにしよう。これにつ
いては四点を考察する。第一に他性は多性の原因であるかどうか。第二に
偶有による多様性は数の上での多様性をもたらすかどうか。第三に二つの
物体が同じ場所を占めうるか、または同じ場所を占めると考えうるかどう
か。第四に場所の多様性は数の上での差異に作用するかどうか。

第一項
他性は多性の原因であるか

第一の点については以下のように進めよう。多性の原因は他性ではないと
考えられる。実際、ボエティウスの『算術論』では次のように述べられて
いる。「事物の自然な源泉から構築されたすべてのものは、数の原理に
よって形成されているように思われる。実際それは魂を条件づける第一の
原型であった」。これはまた、『知恵の書』11章(20)で述べられてい
る内容とも一致する。「あなたはいっさいを、重さ、数、尺度のもとに置
かれた」。したがって、多様性もしくは数は被造物の中の第一のものであ
り、被造物に創造の原因を求めるのは妥当ではない。

二.加えて『原因論』にはこう記されている。「最初に創造されたのは存
在である」。しかしながら、存在者はまずもって一と多とに分かれる。し
たがって多様性に先立つのは存在者および「一」以外にはない。ゆえに他
の何かがその原因をなすということが真であるとは考えられない。

三.加えて、多性はすべての類を包摂するか、量の類に属するかのいずれ
かである。前者の場合、多性は存在に替わりうる一に対して分かれること
になる。後者の場合、多性は数的な原理をなす一から分かれることにな
る。一方、他性は関係性の類に属する。しかるに関係性は量の原因ではな
く、むしろその逆のことが言える。関係性はまた、すべての類に関わるこ
との原因などではいっそうない。というのも、もしそうであるなら、実体
の原因でもあるということになってしまうからだ。したがって、いかなる
点でも他性は多性の原因ではない。
# # #

まずこの『ボエティウス「三位一体論」注解』ですが、トマスがパリ大学
の教授に就任してから神学部の教授団との確執(修道会出身者の就任を、
教区司祭が認めないという構図)が解消する、1256年から57年の一年
ちょっとの間に執筆されたものと言われています。初期の著作の一つとい
うことになるわけですが、稲垣良典『トマス・アクィナス』(講談社学術
文庫)によると、とりわけ後半(第五、六問)の学問論が独創的・画期的
だとされています。学知の対象が主体からの働きかけによって成立すると
いう論点(確かにそれは画期的です)と、形而上学に際しての知性の働き
が、自然学や数学の場合とは異なる(後者が「抽象」なのに対し前者は
「分離」とされるのですね)とした議論がそれにあたると説明されていま
す。

その第五問、第六問は、平凡社の「中世思想原典集成」トマスの巻に須藤
和夫訳があります。また、翻訳として長倉久子『神秘と学知−−『ボエ
ティウス「三位一体論」に寄せて』翻訳と研究』(創文社、1996)もあ
ります。このあたりも追々見ていきたいと思います。

さて、そんなわけで第五、六問がとりわけ注目される「三位一体論注解」
ですが、ここでは第四問を取り上げたいと思います。三位一体の位格の区
別に絡んでの複数性の問題を取り上げている箇所です。第一から第三問は
どうなっているかというと、第一問では人間による神の認識は可能かとい
う問題、第二問では神の認識には言葉でアプローチしうるか、第三問では
人間における信仰とはいかにあるべきかという問題が議論されます。この
注解書は全体としては未完で、第二問と第四問の後には逐語的な注解が記
されてます。議論の仕方は後の『神学大全』にも継承される「討論形式」
で、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼが示される形になります。今回の
テキストの箇所は第四問第一項のテーゼ部分の前半です。

今回の部分で面白いのは三の議論でしょうか。多性(pluralitas)が類を
包摂するのか、量という特定の類に入るのかは、「一」者をどう見るかに
連動して違ってくる、というふうにも読めます。多が類の上位概念である
とするなら、存在と同義の超越的な「一」の対立概念ということになりま
すが、多が量という特定の類のもとにあるとするなら、量や数を規定する
原理としての「一」から派生したことになる、というわけです。一方で他
性というのは関係性なわけですけれど、それは量の原因ではなく結果、つ
まり量から派生するものだとして、上の前者の場合の因果関係を否定し、
さらにそういう一つの類に属するものが、他の類との因果関係にあるとい
うのも考えられないとして、後者の場合の因果関係も否定しています。こ
のあたりの論法は、トマスによく見られるものですね。

とまあ、こんな感じでまた少しづつ進めていきたいと思います。次回は
テーゼ部分の残りとアンチテーゼ部分を読んでいきます。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は11月01日の予定です。

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投稿者 Masaki : 17:05

2008年10月13日

No.135

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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.135 2008/10/04


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「単一知性論」を追う(その6)

シゲルスの『知的霊魂論』では、敵対する代表的哲学者として、トマスと
その師、アルベルトゥス(マグヌス)の名が挙げられています。トマスに
ついてはすでに見てみましたので、今度はアルベルトゥスについて簡単に
触れておくことにしましょう。アルベルトゥスについてはすでにこのメル
マガでも何度か取り上げていますので、紹介は省かせていただくことにし
ます。では、まずそのシゲルスの取り上げ方です。

『知的霊魂論』第三章でシゲルスは、アルベルトゥス(とトマス)の立場
をこうまとめています。「知的な魂の実体は身体と一体で、身体に存在を
与えているとするアルベルトゥスの考えは、次のようなものだ。人間にお
いて植物的・感覚的な潜在態はその形相と実体に属するが、知的な潜在態
もそこに属する。植物的・感覚的な潜在態がもたらすものが質料的・身体
的存在であるのなら、知的な潜在態もまた質料的・身体的な存在をもたら
すはずだ」。植物的・動物的潜在態というのは、成長する潜在力、動くこ
とのできる潜在力という意味で、知的な潜在態というのが理解しうる潜在
力ということです。知的な潜在態は「知的霊魂」にある以上、その後者も
質料的・身体的な存在をもたらすのでなくてはならない、と言うのです
ね。

実際のところアルベルトゥスはどう述べているでしょうか?『アヴェロエ
ス派に対する、知性の単一性についての書』の第三部の冒頭に次のような
箇所があります。「知性は魂の一部分をなしており、それ自体理性的魂と
呼ばれるそれは実体としてある。そこから発出する潜在態のうち、あるも
のは身体の形相でも身体内の力(virtus)でもないという意味でそこから
分離している」。その上でアルベルトゥスはこう説明します。「身体内の
力でないものは、それが存在するための、また存在し続けるための拠り所
である第一原因との類似(similitudo)により、身体内に存する。また、
身体内の力であるものは、それが魂である限りにおいて身体に存し、身体
の現実態であること、身体・本性に働きかけることをその属性とする」。

もとのテキストのその先の部分に説明があるのですが、身体内の力でない
ものというのはつまり能動知性のことです。「それはみずから第一の本性
の知解の結果であり、翻って第一原因へと向かう。その限りにおいて、第
一原因から流出するそれは身体に光のごとくにある。これが能動知性であ
る。一方、みずから実体であり、それにより身体の本性(natura)が成
立し、定まり、収まるもの、それが可能知性である」。

能動知性は外部から照射するもの、可能知性は身体内にある魂の一部をな
しているものという区別がはっきりしています。アルベルトゥスはこの
後、さらに能動知性と可能知性をつなぐ第三の知性、「形成的知性
(intellectus formalis)」または「思弁的知性」をも考えた三層構造の
議論についても言及していますが、いずれにしても知解のプロセスとして
は、能動知性が発する光は同一であっても、その光を受け取る側(可能知
性)はそれを多様な形で受け取るのであって、ゆえに可能知性は結果とし
て個別化していなければならないと考えているようです。思弁的知性とい
うのは、「形相の理解(intentio formae)」もしくは「形相のスペキエ
ス(species formarum)」の場であるとされます。スペキエスという言
葉は使っていますが、前回触れたトマスの考えているスペキエスよりもど
こか直截的で、シゲルスが想定していた「像」に近い印象を受けます。で
すがアルベルトゥスの場合、基本的にこの知性の構造全体が個々の魂に内
在しているとする点で、シゲルスとは決定的に異なっています。前回にも
見たように、シゲルスは知性と身体の結合こそが多様性の源であると考え
ているのですが、その場合の結合とは、たとえば蝋人形と蝋の関係(形相
がらみでよく引き合いに出される例です)ではなく、分離した知性と人間
とが知解という働きにおいて結びつく関係で十分だと考えています(極端
を承知で言えば、ほとんどこれ、コンピュータのサーバとクライアントの
関係のような感じかもしれません)。

アルベルトゥスのこの書は三部から成り、第一部で30題目の議論(単一
知性論に好意的な議論)が示され、第二部で異論(単一知性論に否定的な
議論)が36題目提出され、第三部ではアルベルトゥス自身の立場を開示
した後(上で紹介したのはこの部分です)、第一部の議論への応答として
30の解決が示されるという、実に壮観な構成になっています。中世思想
史家のアラン・ド・リベラが述べています(トマスの『反駁』の仏訳本の
序文)が、アルベルトゥスはアヴェロエスの熱心な読み手で、ここかしこ
でそのアリストテレス解釈に賛同したりしていたにもかかわらず、1256
年頃に、教皇アレキサンデル四世の求めに応じてこの単一知性論への反論
の書を著したとされています。で、一般に後世においてこの書は「反ア
ヴェロエス派」と銘打った論述とされているのですが(アルベルトゥス版
の『神学大全』に組み込まれます)、写本の伝統からはそうした確証はな
く、また内容も、いわゆるアヴェロエス派の議論を中核に据えているわけ
ではないのですね。むしろ単一知性の考案者たちとされるアラブの哲学者
たちが広く批判対象になっていて、アヴェロエス本人というよりは、それ
を下支えする土壌そのものを問題にしています。

アルベルトゥスが同書を著した頃合いは、タンピエの禁令よりも前の時点
ですし、「アヴェロエス派」なる人々が本格的な批判の対象になる前で
す。その意味で同書は、異教的な教説への許容度が世間的に狭まっていく
微妙な移行期の状況を反映しているのかもしれません。

単一知性論への批判・反駁は、そのほかにも様々な人が展開しているよう
で、たとえばボナヴェントゥラ(これはむしろ苦言を呈したくらいのもの
です)やフライベルクのディートリヒなどもいます(こちらは能動知性も
個々人に内在するということを論証し、師であるアルベルトゥスや兄弟子
トマスの衣鉢を継いでいます)。ですがそのあたりをめぐるより、私たち
もそろそろ、シゲルスの議論の大元とされるアヴェロエス本人のテキスト
に向かう必要がありそうです。当然ながら、そのアヴェロエスの議論を支
えているアラブ思想の潮流にも目配せが必要になっていくでしょう。その
際にこのアルベルトゥスは、導きの糸になってくれるでしょうか?
(続く)


------文献講読シリーズ------------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その12)

いよいよ「神の存在証明」(『神学大全』第一部問二)の最後の箇所です
ね。第三項の冒頭で示された二つの異論への対応です。二つの異論とは、
(1)神が最高善であるのなら、悪は存在しないはずではないか、(2)
神がいないとしても、世界に現れるいっさいは別の原理(自然や意志)に
還元されるではないか、というものでした。神の存在証明の五つの方途を
踏まえて、トマスがこれに反論しています。

# # #
Ad primum ergo dicendum quod sicut dicit Augustinus in
Enchiridio: Deus, cum sit summe bonus, nullo modo sineret aliquid
mali esse in operibus suis, nisi esset adeo omnipotens et bonus, ut
bene faceret etiam de malo. Hoc ergo ad infinitam Dei bonitatem
pertinet, ut esse permittat mala et ex eis eliciat bona.

Ad secundum dicendum quod, cum natura propter determinatum
finem operetur ex directione alicuius superioris agentis, necesse
est ea quae a natura fiunt, etiam in Deum reducere, sicut in
primam causam. Similiter etiam quae ex proposito fiunt, oportet
reducere in aliquam altiorem causam, quae non sit ratio et
voluntas humana: quia haec mutabilia sunt et defectibilia; oportet
autem omnia mobilia et deficere possibilia reduci in aliquod
primum principium immobile et per se necessarium, sicut
ostensum est.

まず第一(の異論)に対しては、こう言わなくてはならない。アウグス
ティヌスが『エンリキディオ(提要)』で述べているように、神は最高善
である以上、悪からすら善をなしうるほどに全能かつ善でなかったなら
ば、その被造物に何らかの悪を存在を許すことは決してなかっただろう。
悪の存在を許し、それから善を引き出すということは、神の無限の善にな
ら適するのだ。

第二に対してはこう言わなくてはならない。自然はなんらかの上位の能動
者の指示によって、定められた目的に対して作用するのであるから、自然
によってもたらされるものもは、第一原因へのごとく、神へと帰されなく
てはならない。同様に、意図からなされることも、人間の理性や意志では
ないなんらかの上位の原因に帰されなくてはならない。というのは人間の
理性や意志は変わりやすく欠陥があるからだが、動きうるものや欠陥とな
りうるものはすべて、上に述べたように、不動かつ必然としてあるなんら
かの第一原理に帰されなくてはならないのである。
# # #

今回はこのトマスのテキストは最終回ですので、まとめをとも思ったので
すが、むしろ再び少しばかり脱線してしまいましょう。今回の箇所では、
神は悪すら許せるほどの最高善だ、というアウグスティヌスの有名な文言
が出てきました。またすべては第一原因に帰されなくてはならないという
くだりも、前回までの5つの方途を踏まえた議論になっています。ですが
やはり忘れてはならないのは、トマスは神を「存在そのもの」と定義して
いることです。そういう規定の仕方に少なからぬ影響を与えたのではない
かと考えられるソースとして、今回は偽ディオニュシオス・アレオパギテ
スに注目しておきたいと思います。

とりあえずここでは、御大ウンベルト・エーコの論考を引き合いに出して
おきます。『ツリーから迷宮へ』(Bompini、2007)所収の「メタ
ファーから存在のアナロギアへ」と題された一章がそれです。エーコは表
題の議論の一環として偽ディオニュシオス・アレオパギテスに少しばかり
言及し、そのテキストに見られるメタファーやアレゴリーの錯綜を追って
いるのですが、その中で偽ディオニュシオス・アレオパギテス『神名論』
による次のような神の定義が出てきます。神とは「存在するあらゆる事物
に存在を付与する真の存在」(『神名論』5章4節)であり、「みずから
における、またみずからによる存在であり、その存在を介することにより
あらゆる存在様式が形成された」もの(同、5章5節)というわけです。

これに先立つ部分では、美しいものと「美」とが結果と原因の関係にあ
り、美しいものは「美」に与るもの、「美」は美しいものによって与られ
る対象である、といった話が出てきます(4章7節)。『神名論』につい
てはトマスも注解書を書いていますが、エーコはこの部分についてのトマ
スの注解の一節を注に再録しています。トマスは、「美」は第一原因
(神)への参与を通じてこそあらゆるものを美しくするのだと説き、神の
美との類似(similitudo)による以外に被造物の美はありえないと論じて
います。善や存在についての議論も、この話と同じ論法が取られているこ
とがわかります。これは存在証明の5つの方途にも含まれていた議論でし
た。

トマスのテキスト全般で見ても偽ディオニュシオスの著作からの引用とい
うのは結構あるようで、ディオニュシオスが重要なソースになっているこ
とはほとんど確かなように思えるのですが、トマスとの関連での言及は思
いのほか少なかったりします。このあたり、やや不思議な感じもします。
たびたび参照している山田晶『在りて在るもの』(創文社、1979)など
は、両者の間に影響関係ではなく共通理解と差異を見いだしています。否
定・肯定のいずれの方法でも超越者は十分には示されないという点でトマ
スとディオニュシオスは一致するものの、そこから先の神の理解につい
て、ディオニュシオスが「弁証法」的な方途を探るのに対して、トマスは
「エッセ」として規定することによって、そのアナロギアとして世界を描
いていくというわけです。

再びエーコに戻ると、ディオニュシオスの場合にはメタファー的な理解に
ついての理論があるわけでもなく、「美」や「善」が神とイコールである
という信仰はあっても、そうした属性をどう事物が持ちうるのかについて
は曖昧だと述べています。これを逆に、事物から第一原因の理解へとどう
至ればよいのかという問題として捉え直したのがトマスだとされていま
す。なるほど、どちらもなかなか面白い議論ですね。でもやはり、思想史
的な位置づけの視点も必要な気がしますし、その場合、より広範なテキス
ト的照合を通じて、ディオニュシオス思想のトマスによる受容を考えてい
く必要もあるでしょう。これもまた面白そうなテーマではあります。

さて、今回で神の存在証明の箇所は終了ですが、引き続きトマスの別のテ
キストを見ていきたいと思います。今度は地上世界の事物がいかに存在す
るかという、いわゆる「個体化」の問題を取り上げてみることにしましょ
う。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は10月18日の予定です。

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投稿者 Masaki : 00:11