2008年09月29日

No.134

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.134 2008/09/20


------文献探索シリーズ------------------------
「単一知性論」を追う(その5)

前回に引き続き、トマスの『アヴェロエス派反駁』とシゲルスの『知的霊
魂論』を併せて見ていきましょう。今回は核心的部分、つまり知性が単一
かどうかという部分の議論に注目したいと思います。まずはトマスです
が、『反駁』の第4章で、知性(可能知性)は単一ではありえないとして
います。分離した知性が一つだけであるとするなら、理解するという作用
をあらゆる人間が共有しすべての人が同時に同じことを考えなくてはなら
なくなってしまいますが、それはありえないという論旨です。トマスは、
視覚が同じようなものだったとしたらどうなるかを譬えとして考察してい
ます。次にトマスは、「アヴェロエス派」の議論として、知解の前提とな
る像(fantasma:事物と知的理解との橋渡しをするもの)が多様である
がゆえに、個々人の理解は異なる(知的理解の操作そのものは同一)とい
う説を取り上げ、これがアリストテレスの説とは相容れないことを示しま
す。つまり「(可能)知性において知解対象は潜在態(potentia)とし
てのみあり、知解されることによってはじめて現勢化する」(429b
30〜)とされる以上、知性が個別に備わっていないと、そもそもそうし
た現勢化が生じないことになってしまう、というわけです。

一方のシゲルスは、トマスがアヴェロエス派の議論として取り上げた、事
物と知性を結ぶ像による多様化という議論を実際に展開してみせます。ま
ず前提として、種が異ならないもの同士での違い(個体の違い)は、形相
ではなく質料の差異によって生じるとします。ところが知的魂の場合には
(身体から分離しているので)そもそも質料をもたないのだから、した
がって個体の違いは生じ得ないことになります。では同一種内の個体差は
どこから生じているのかといえば、シゲルスは形相と質料の結合の具合に
よるのだと考えます。そしてそれをもとに、同じく知解の個人差も、やは
り形相と質料の結合状態、この場合でいえば魂と身体とを結ぶ像
(fantasma)の違いによって生じるのだと論じます。この最後の部分こ
そ、トマスはアリストテレスのテキストを参照し反論を加えている議論で
す。

トマスの『反駁』の4章の最後と5章では、上のシゲルスの前提となる議
論への反論も展開されています。たとえば像の捉え方です。トマスの場合
には抜本的に違っていて、可能知性の中にあるとされるのは知解可能な
「スペキエス」であり、それは感覚的な像とは別ものとされます。トマス
によれば、スペキエスが可能知性にあり、像が感覚器官にあるとすると、
両者が接する仕方は3つしかないといいます。すなわち、(1)前者が後
者に受け入れられるか(acceptus)、(2)前者が後者を「照射」
(iradiatio)するか、(3)前者は後者にいかなる痕跡ももたらさない
か、です。ですがアヴェロエス派の見解では、知性が分離していると考え
る以上(1)は認められません(本来はこれが最もアリストテレス的だと
されます)。スペキエスが像を「照らす」(iradiatio)ことによって後
者が思考に転じるという(2)は、照らされる側はあくまで感覚的・質料
的なものにとどまることになってしまい、現実態としての知解対象にはな
りえないという不具合があります。(3)は、知解において像の役割が
まったくなくなってしまい、これまた問題です。トマスは、像を現実態と
しての思考に転じさせるのはあくまで抽象化(捨象)の作用であるとし、
可能知性は像を、ちょうど視覚が色を認識するように受け取り、その捨象
を通じて可能知性みずから知性として現勢化する、と考えているようで
す。

しかしながら、トマスのこの知解論は、果たしてアリストテレスの基本的
立場に本当に密着したものなのでしょうか。実際のところ、アリストテレ
スの知性と感覚の結合に関する論は、トマスが考えるほど複雑な図式では
ないという指摘もあります。興味深い指摘ではあるので一応紹介しておく
と、たとえばアンカ・ヴァシリウというルーマニアの研究者によれば、ト
マスの場合、知解のプロセスは二重の捨象を経るといいます。つまり、ま
ずは感覚対象の質料が捨象されたものとして像があり、そして次に像(質
料に似たものとしての)そのものが捨象されたものとしてスペキエスがあ
る、という考え方だというのです。対するアリストテレス本来の考え方で
は、感覚・像・知性の関係はより直接的に重なり合っているのだと同氏は
主張します(A. Vasiliu, "Du diaphane", Vrin, 1997)。

アリストテレスのテキストを見てみましょう。たとえば『霊魂論』第三巻
の次のような箇所です。「また、知性とは複数の形相を配した形相、感覚
は感覚的なものを配した形相である。(…)知解対象は感覚的な形相の中
にある。(…)考察する際にも、なんらかの像とともに考察しなくてはな
らない。というのも、像というものは、質料のない感覚対象のようなもの
だからである。(…)初歩的な知解対象は、どのような点で像ではないの
だろうか?それらは確かに像ではないが、像がなければ存在しえない。」
(432a 5〜13)。これを見ると、感覚対象の質料が捨象されれば像とな
り、その中に知解対象が見いだされるという形になっています。なるほど
アリストテレスのテキストも曖昧で、ヴァシリウの言うように、像の中に
直接的に知解対象が見いだされるとも取れるし、あるいはまた、トマスの
ように、知解対象は感覚的形相そのものではなく、そこにはさらにもう一
つの段差があるとも取れます。これはスペキエスをどこにどう設定するか
という問題になりそうです。『霊魂論』注解では、トマスは確かにスペキ
エスを「現勢化した知性の形相」と捉えています。

こうしてみると、トマスの認識形而上学に比べ、シゲルスの立場はより素
朴というか、ある意味でヴァシリウ的な意味でのアリストテレス解釈によ
り近いと言えるかもしれませんね。よく言われるように、アリストテレス
がもつ曖昧さを一方の側に引っ張ったのがシゲルスたちであり、別の方向
に引っ張ったのがトマスなのかもしれないということが、この部分からも
伺えます。思想史的には、明らかにトマスの側が優位に立つわけですが、
一方でシゲルスたちの思想もしぶとく生き残り別の流れを作っていくので
した。それはさておき、とりあえず次回は、トマス以外でのアンチ・シゲ
ルス(反アヴェロエス)の議論を見ておきたいと思います。
(続く)


------文献講読シリーズ------------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その11)

いよいよこのテキストも大詰めですね。というわけで、早速見ていきま
しょう。神の存在証明の方途のうち、最後の第四・第五の部分です。

# # #
Quarta via sumitur ex gradibus qui in rebus inveniuntur. Invenitur
enim in rebus aliquid magis et minus bonum, et verum, et nobile;
et sic de aliis huiusmodi. Sed magis et minus dicuntur de diversis
secundum quod appropinquant diversimode ad aliquid quod
maxime est: sicut magis calidum est, quod magis appropinquat
maxime calido. Est igitur alquid quod est verissimum et optimum,
et nobilissimum, et per consequens maxime ens: nam quae sunt
maxime vera, sunt maxime entia, ut dicitur II Metaphys. Quod
autem dicitur maxime tale in aliquo genere, est causa omnium
quae sunt illius generis: sicut ignis, qui est maxime calidus, est
causa omnium calidorum, ut in eodem libro dicitur. Ergo est
aliquid quod omnibus entibus est causa esse, et bonitatis, et
cuiuslibet perfectionis: et hoc dicimus Deum.

Quinta via sumitur ex gubernatione rerum. Videmus enim quod
aliqua quae cogitione carent, scilicet corpora naturalia, operantur
propter finem: quod apparet ex hoc quod semper aut frequentius
eodem modo operantur, ut consequantur id quod est optimum;
unde patet quod non a casu, sed ex intentione perveniunt ad
finem. Ea autem quae non habent cognitionem non tendunt in
finem nisi directa ab aliquo cognoscente et intelligente, sicut
sagitta a sagittante. Ergo est aliquid intelligens, a quo omnes res
naturales ordinantur ad finem: et hoc dicimus Deum.

第四の方途は、事物に見られる序列から導かれる。事物には、より大き
な、またより小さな善、真、高貴さ、その他類似のものが見られる。しか
しながら、様々なものの大小を言う場合、様々な形で、何か最大のものに
どれだけ近いかに即して言うのである。たとえば、より熱いというのは、
最大の熱さにより近いことを言う。したがって、何かこの上なく真なも
の、この上なく善きもの、この上なく高貴なものが存在し、結果として最
上位にあるものが存在することになる。『形而上学』第二巻で述べられて
いるように、最大の真をなすものは、最大の存在なのである。しかるに、
なんらかの類において最大にこれこれであると言われるものは、その類に
属するものすべての原因をなしている。たとえば、同書で述べられている
ように、最大に熱いものである火は、熱いものすべての原因である。ゆえ
に、あらゆる存在者、あらゆる善、あらゆる完成の原因となるなんらかの
存在があることになる。そして私たちはそれが神であると言う。

第五の方途は、事物の支配関係から導かれる。自然の物体など、認識を欠
いているものも、目的に向かって作動することが見られる。そのことは、
常に、もしくはしばしば、そういうものが同じやり方で作動し、最も善な
るものに向かうことからもわかる。ゆえに、目的への到達が偶然によって
ではなく意志によってなされることは明らかだ。しかしながら、矢が射手
によって向けられるように、認識をもたないものが目的へと向かうには、
認識し知解する他のものによって向けられる以外にない。したがって、あ
らゆる自然の事物を目的へと秩序づけるなんらかの知解者が存在すること
になる。私たちはそれが神であると言う。
# # #

第四の方途に出てくるアリストテレス『形而上学』第二巻の具体的な箇所
は、一章の最後の部分(993b 23〜31)ですね。「私たちは原因のない
真なるものを知らない。それぞれに、他のものに対して最大をなす原理、
同じものを他のものに対して生じせしめる原理がある。たとえば最も熱い
火がそうである−−というのも、それは他の熱さの原因をなしているから
だ。ゆえに、後のものが真となる原因をなすものこそが、最も真なるもの
なのである。よって、永遠なるものの原理こそ、最も真なるものでなくて
はならない(…)」。

トマスはアリストテレスを、もとのテキストにはない存在者や善、完成な
どの概念、あるいは高貴さなどへと敷衍する形で、またもとのテキストの
やや漠然とした論旨をいくぶん明解にする形で「言い換え」ているのがわ
かります。『形而上学』第二巻二章では、形相、質料、作用(運動)、目
的という四原因それぞれについて、原因を無限に遡ることはできないこと
が示されます。独訳本の解説にもありますが、トマスはこの議論を換骨奪
胎して用いているのでした。そこには別の要素も加わっているようです。

たとえば第五の方途は目的因の議論ですが、直接のベースになっているの
はダマスクスのヨアンネス『正統なる信仰について』第三章とされていま
す(こちらは以前にも取り上げました)。ですが特に注目してみたいのは
gubernatio(支配関係)という言葉です。ここでの支配関係というの
が、意志の力によって目的論的に組織されるもの、というところが興味深
いですね。これに関連してトマスの『原因論注解』を見てみると、提題
20「第一原因はすべての被造物を、それらと混じることなく支配する」
の注解に、その支配関係の話が出てきます。人間の統治などでは広範な支
配と一体性との間に齟齬が生じるが、第一原因ではそのようなことはなら
ない、というのが主旨です。その際の「支配」とは、善性の波及というよ
うな属性付与(あるいは分有)を考えていることがわかります。

トマスの説明によれば(プロクロスを引きながら論を進めています!)、
善性というのは事物を善にする原理のことで、第一原因はそれを一律に事
物へと付与するのですが(第一原因そのものが善を本質としているからだ
とされます)、事物の側はそれを受け取る態勢が必ずしも同じではなく、
ここに多様化の芽があるという次第です。いずれにしても、人間の場合、
統治するためには統治対象と一体ではいられないということで、これって
シュミット的な「例外状態」のような話ですけれど、属性付与という(神
の)支配形態ならばその限りではないというわけで、これはある意味、
(分有から見た)支配の形而上学という感じでも読めそうなテキストで
す。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は10月04日の予定です。

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投稿者 Masaki : 23:30

2008年09月16日

No.133

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.133 2008/09/06


------文献探索シリーズ------------------------
「単一知性論」を追う(その4)

前回、トマスの反・単一知性論が三段構造になっていることを見ました
が、今回はその具体的内容から、まずは魂は身体から分離しているのでは
ないという議論(さらに知性もまた分離してはいないという議論)につい
て、シゲルスの再反論と併せてざっと見てみたいと思います。本当は詳し
く検討すれば面白そうなのですが、紙面の都合もありますので、さしあた
り第一章の冒頭部分に限定することにしたいと思います。

トマスの議論の展開ですが、まずアリストテレスの定義として、『霊魂
論』第二巻から「魂とは器官的身体の第一の現実態である」(412a
28〜29)という一節が紹介されます。そして留意点として、それは身体
の実体的な形相として理解しなくてはならない、とされます。したがって
魂は身体から分離していないと、これまたアリストテレスの一節を引く形
で述べているのですが、すでにこのアリストテレスの文言について、身体
の現実態ではない部分が分離可能だとする人々もいる、とも付言していま
す。その場合の現実態でない部分というのは知性や意志だとされるわけで
すが、トマスは、アリストテレスのその後の部分を読めば、魂の定義(身
体の現実態)に知性も含まれるのは明らかだとしています。

次いでトマスは、魂は身体に形相としてではなく動因として宿るという議
論を取り上げて考察します。これはプラトン主義の考え方です。アリスト
テレスはそれについて、魂と身体が船人と舟の関係なのかはまだ明らかに
なってはいないと保留の姿勢を示し、一方では魂には様々な働きが区別で
きることを示唆している、とトマスは指摘します。トマスによれば、アリ
ストテレスは働きの一つである知解や洞察についても解明されてはいない
と保留を示したのに、アヴェロエスはそうした保留を「知性は魂とは別物
だ」と曲解したのだといいます。

アヴェロエスはもう一つ、重大な曲解をしているとトマスは非難します。
それはアリストテレスの「別の種類の魂があるように思われる。しかもそ
れは、恒久的なものと腐敗しうるものとが区別されるように、分離可能な
唯一のものである」(413b 25〜28)という一文をめぐる解釈です。ト
マスによれば、これは要するに魂の機能を分割しうる(あくまで論理上)
という議論でしかないのですが、アヴェロエスはこれを、身体から分離で
きる魂の一部分があり、それは恒久的なもの、すなわち知性である、と解
しているというのですね。

植物的魂、感覚的魂(動因的魂)、知性的魂といった区分は、アリストテ
レス的には機能分割でしかないというわけですが、そのように考えるなら
ば、魂が形相であるという考え方を採用することで、上の動因としての魂
という考え方をも包摂してしまうことができます。また、知性という機能
も、ほかの機能と同様に魂の一部をなし、したがって身体から「場所的
に」分離しているわけでもない、ということにもなります。実際、トマス
はそういう議論でもって、最初の「形相としての魂」「身体の第一の現実
態」としての魂という説を追認していきます。

トマスの論考は長く、この後アリストテレスを引きながら魂の分離説の問
題点を細かく取り上げて反論してみせるのですが、私たちはひとまずここ
で区切りとし、次に今度はシゲルスの「反論」に相当するとされるテキス
トを見てみましょう。『知性的魂論』という1270年の禁令以降に書かれ
たとされるテキストです。禁令を意識してなのでしょうか、「以上は哲学
によって導かれる議論だけれど、それがキリスト教の正統教義に反する場
合には、後者を信じるほうがよい」といった、若干日和見的な文言を含ん
でいたりもします。

まず魂の定義ですが、シゲルスは「魂とは身体の形相もしくは現実態であ
る」ということを一応認めています。ですがその際の「形相」を、「それ
により原理が働くもの」というふうに定義します。魂とは、それにより身
体が生命活動をするもの、というわけです。その上で、それは身体とは別
のものであるはずだと考えます(ちょうど形相と質料とが異なるよう
に)。「現実態」についても、シゲルスはこれを「態勢(権能)としての
現実態(actus ut habitus)」と「作用としての現実態(actus ut
operatio)」に分けて考えます。たとえば「知」が前者であるならば、
「知をもとに考えること」が後者に相当します。その上でシゲルスは、魂
はそうした「態勢としての現実態」、生命活動の潜在性をもった身体の第
一の現実態と見なします。「身体の現実態」という意味は、あくまでそう
した身体の生命活動の準備、体勢づくりをするものとしてあり、結果とし
て身体そのものではない(分離している)と主張します。このあたり、ト
マスがアリストテレスのテキストへ戻る形で議論を展開するのに対し、シ
ゲルスは自己の立場を弁明するにとどまっていて、こういっては何です
が、やはり客観的に分が悪い印象ですね。

植物的・感覚的・知的魂といった区別については、シゲルスもアリストテ
レスの一節を引きます。「感覚的部分は植物的部分なしにはあらず、知性
的部分は感覚的部分なしにはない」が、「知性については話が異なる」と
いう箇所です(『霊魂論』第二巻 415a 1〜15)。またそうした「部
分」について論じられている箇所(429a 10〜)を参照しつつ、形相に
相当するのは植物的部分や感覚的部だが、知性的な部分(知解の潜在性)
はそれに相当しないとアリストテレスは考えている、というふうに述べま
す。その上で、知性的な部分が魂の一部をなすとされるのは、外部の知性
との混成をなしているからだと主張します。

おおもとのアリストテレスはどういう内容を意図していたのでしょうか。
『霊魂論』の「429a 10」からの箇所というのは実は重大な部分で、感
覚と知性の違いについて触れ、「魂において知性と呼ばれる部分は
(…)、知解する以前には現実的な存在ではまったくない。したがって、
それが身体に混成しているとするのは合理的ではない」(ho ara
kaloumenos te^s psuche^s nous (...) outhen estin evergeiai to^n
onto^n prin noein. dio oude memichthai eulogon auton to^i
so^mati.)と述べています。これではまるで分離論を肯定するかのよう
ですね。実際シゲルスはそういう意味に受け取っています。ではトマスは
これにどう対応しているのかというと、『霊魂論注解』では、「つまりア
リストテレスは、知性は感覚のように器官に関与するわけではないと述べ
ているのだ」として、さらっと流しています。

こうしてみると、両者の基本姿勢の差はかなり歴然としていることがわか
ります。そのあたり、もうちょっと見てたいと思うので、次回も引き続
き、今度は「知性が単一か」という点をめぐっての両者の議論を見ていく
ことにします。
(続く)


------文献講読シリーズ------------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その10)

神を証明する五つの方途のうち、今回は2番目と3番目です。さっそく見
ていきましょう。

# # #
Secunda via est ex ratione causae efficientis. Invenimus enim in
istis sensibilibus esse ordinem causarum efficientium: nec tamen
invenitur, nec est possibile, quod aliquid sit causa efficens sui
ipsius; quia sic esset prius seipso, quod est impossibile. Non
autem est possibile quod in causis efficientibus procedatur in
infinitum. Quia in omnibus causis effecientibus ordinatis, primum
est causa medii, et medium est causa ultimi, sive media sint plura
sive unum tantum: remota autem causa, removetur effectus: ergo,
si non fuerit primum in causis effecientibus, non erit ultimum nec
medium. Sed si procedatur in infinitum in causis efficientibus, non
erit prima causa efficiens: et sic non erit nec effectus ultimus, nec
causae efficientes mediae: quod patet esse falsum. Ergo est
necesse ponere aliquam causam efficientem primam: quam omnes
Deum nominant.

Tertia via est sumpta ex possibili et necessario: quae talis est.
Invenimus enim in rebus quaedam quae sunt possibilia esse et non
esse: cum quaedam inveniantur generari et corrumpi, et per
consequens possibilia esse et non esse. Impossibile est autem
omnia quae sunt talia [semper] esse: quia quod possibile est non
esse, quandoque non est. Si igitur omnia sunt possibilia non esse,
aliquando nihil fuit in rebus. Sed si hoc est verum, etiam nunc nihil
esset: quia quod non est, non incipit esse nisi per aliquid quod est;
si igitur nihil fuit ens, impossibile fuit quod aliquid inciperet esse,
et sic modo nihil esset: quod patet esse falsum. Non ergo omnia
entia sunt possibilia: sed oportet aliquid esse necessarium in
rebus. Omne autem necessarium vel habet causam suae
necessitatis aliunde, vel non habet. Non est autem possibile quod
procedatur in infinitum in necessariis, quae habent causam suae
necessitatis sicut nec in causis efficientibus, ut probatum est. Ergo
necesse est ponere aliquid quod sit per se necessarium, non
habens causam necessitatis aliunde, sed quod est causa
necessitatis aliis: quod omnes dicunt Deum.

第二の方途は、作用因の考え方によるものである。私たちは、この感覚世
界に作用因の秩序が存在することを見いだす。とはいうものの、何かがみ
ずからの作用因になるということは見いだされていないし、ありえない。
というのも、その場合、(その作用因は)おのれ自身に先行することにな
るが、それはありえないからだ。また、作用因を無限に遡ることもできな
い。というのも、すべての作用因の秩序において、最初のものは中間のも
のの作用因となり、中間ものは最後のものの作用因となるからだ。中間の
ものが多数あるか、それとも一つしかないかは問われない。しかしなが
ら、原因がなくなれば結果もまたなくなる。したがって、作用因の最初の
ものが存在しないならば、最後のものも、中間のものも存在しないだろ
う。しかしながら、もし作用因を無限に遡るとするなら、最初の作用因は
ないことになってしまうだろう。その場合、最後のものも、中間の作用因
もなくなってしまうだろう。しかしこれはまさしく偽である。したがっ
て、やはりなんらかの第一の作用因を置かなくてはならない。これをあら
ゆる人々が神と名付けているのである。

第三の方途は、可能と必然から引き出される。それは以下のようなもので
ある。私たちは事物の中に、存在する可能性と存在しない可能性をもつも
のを見いだす。生成し消滅する何らかのものは、結果として存在する可能
性もあれば存在しない可能性もあることがわかる。そうしたものがすべて
恒常的に存在するということはありえない。というのも、存在しない可能
性をもつものは、ときには存在しないからだ。したがって、仮にすべてが
存在しない可能性をもっているとしたら、何も事物が存在しなかったとき
もあったということになる。しかし、仮にこれが真実だとすれば、今も何
もなかっただろう。というのも、存在しないものは、存在する何かによる
以外、存在し始めることはないからだ。したがって、仮に存在するものが
何もなかったなら、何かが存在し始めることもありえなかったはずであ
り、かくして何も存在しなかったはずである。けれどもこれは偽である。
ゆえに存在するすべてが可能的なものなのではなく、事物には何か必然的
なものがなくてはならない。しかるに必然的なものはすべて、その必然性
の原因を余所にもつか、あるいは余所にもたないかのいずれかである。し
かしながら、作用因について論証したのと同様に、必然性の原因を(余所
に)持つ必然的なものを無限に遡及することはできない。したがって、み
ずから必然をなし、必然性の原因を余所に有するのではなく、むしろ他の
必然性の原因となるものが、存在すると考えなくてはならない。あらゆる
人々がこれを神と称しているのである。
# # #

今回のこの2つの方途も、前回の「動因」の考え方と論法は同じですね。
もし○○がないとすると、無限後退に陥る、しかし無限後退はありえない
ので、○○はないという前提が否定される、という形です。これまた山田
晶注にありますが、この無限後退による論法はアリストテレス『形而上
学』第二巻2章の議論にもとづいています。そこでは、質料の分割、運動
の因、事物の原因、本質などについて、無限に遡ることはできず、そこに
第一のものを想定しなくてはならないということが論じられています。ア
リストテレスの場合は第一のものへの遡及までの議論なのですが、そうし
た第一のものは当然一つと考えられますから、後世において「一者」に重
ね合わされたのもある意味当然の成り行きだったと考えられます。山田注
では、この論法を神の証明に用いた嚆矢はアヴィセンナとされています
が、そうした発想はアラビア思想圏の広く見られ、また『原因の書』(プ
ロクロスがもとでした)などもそうですが、おおもとはギリシアの新プラ
トン主義の流れに遡ることができそうです。

さて、第三の方途は「存在すること」の可能性・必然性についての議論で
す。やはり山田注に簡潔にまとめられていますけれど、そのもととなる議
論はマイモニデスにあるのですね。具体的な出典は『迷える者への道案
内』第二部1章「第一原因の存在」です。第一原因を論証していくという
この章では、トマスと同様、いくつかの哲学的な議論が取り上げられま
す。その3番目が当該部分にあたります。「生成・消滅する事物があるな
らば、生成・消滅しない事物もなくてはならない」(さもないとすべてが
生成・消滅するか、あるいはすべてが生成・消滅しないかになってしまい
ますが、それらは論理的に斥けられます)としたのち、マイモニデスは、
その生成・消滅しないものの存在は必然である以外になく、またそれには
別の原因に拠るのでもなければ複合的存在でもなく(単体であるというこ
と)、それこそがまさに神なのだ、と述べています。

トマスはこの生成・消滅するかどうかという議論を、存在の可能性の有無
として言い換えています。生成・消滅という場合、存在は他からもたらさ
れるもの、ということになりそうですね。必然としてある第一の存在に
よって、他のすべての事物に存在が与えられるということです。逆に言う
と、その第一の存在以外、事物の存在はその事物そのもの(本質)に対し
てあくまで外的なものとして与えられるというわけです。トマスの言い方
に近づけるなら、もともとその事物には、存在は可能態として(潜在性と
して)しかなく、それが第一の存在によって現実態に引き上げられる、と
いうふうに取ることもできます。

ここで思い出されるのは、アヴィセンナの「存在の偶有性」という考え方
です。前にも取り上げましたが、井筒俊彦氏がモッラー・サドラーの『存
在認識の道』の解説で述べているところによると、トマスも含めて西欧で
はこれを実在的・範疇論的な偶有(つまり外から付加される属性)と解釈
してきたといいます。実際のところ、そうした解釈はアヴェロエスがア
ヴィセンナを解釈・批判する際の誤解にもとづいているのだそうで、ア
ヴィセンナ当人のいう「存在の偶有性」は本来、存在というものは人間が
事物に対して行う理性的な分析操作の結果として、「外的に」事物に与え
られたものでしかない、という議論だったようです。実在論ではなく、概
念操作としての偶有ということです。まあ、それはともかくとして、西欧
の13世紀ごろの神学者たちは、そうした「存在の偶有性」を実在的に捉
えるところから、一者から万物が連鎖していくという発出論的な体系に思
いを馳せていたという次第です。トマスの場合も、まさにそういった共通
基盤の上に立って存在論を考えていたのだと思われます。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は09月20日の予定です。

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投稿者 Masaki : 23:20