2008年08月30日

No.132

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.132 2008/08/23

*一ヶ月以上のお休みでした。まだちょっと夏の疲れが残っている感じで
すが、本メルマガもぼちぼちと再開です。よろしくお願いします。
*いきなりで恐縮ですが、古典語探訪シリーズは都合によりしばらくお休
みとさせていただき、そのうち新企画で一新したいと思います。


------文献探索シリーズ-----------------------
「単一知性論」を追う(その3)

前回はシゲルスのテキストから単一知性論の要点を見てみましたが、次に
今度はそれへの反論を見ておくことにしましょう。いくつかある反論のう
ち、最も重要かつあまりにも有名なのは、トマス・アクィナスによる『知
性の単一性についてーーアヴェロエス派への反論』です。そこで何が問題
とされていたのかを、数回にわけて見てみることにします。

このトマスの『反論』が書かれたのは、いったん離れたパリ大学に再びト
マスが戻ってくる第二期パリ大学時代(1269〜72年)です。シゲルスの
『霊魂論第三巻注解』が出たのが1269年か70年ごろとされていますの
で、その直後の執筆だったと考えられます。トマスがパリ大学に呼び戻さ
れたのは、次のような事情があったためと言われます。在俗教師のシゲル
スが学芸学部で行った講義の内容は、神学部から問題視されていました。
もとより在俗教師の台頭に対抗すべく、ドミニコ会とフランシスコ会は協
力関係を結んでいたのですが、どうやらフランシスコ会側を中心に、シゲ
ルスの教説は実は単にトマス神学の非正統的要素を詳述しているだけなの
ではないのか、という批判が出てきたらしいのです。攻撃の矛先がシゲル
スからトマスへと移ってきていたわけですね。その攻撃をかわし、トマス
自身の、ひいてはドミニコ会の威信を守るため、トマスは論争の表舞台に
出て行かざるを得なかったようなのです(このあたりは、ルーベンスタイ
ン『中世の覚醒』が詳述しています)。そういう文脈からすると、『反
論』の執筆にも、シゲルスの考えとの違いを強調しようとする意識が働い
ていたはずで、もしかするとそのあたりにも留意して読まないといけない
のかもしれません。

さて、その『反論』の全体構成ですが、これは5つの章から成ります。基
本的に三段論法のような形で議論が進みます。まず大前提に相当する部分
ですが、これは「魂は分離していて、それが肉体に(一時的に)結合す
る」という考え方への批判です。章としては一番長い1章目でそれが展開
します。まだ知性そのものには踏み込まず、知性がその一部をなしている
(とされる)魂の問題を扱うのですね。トマスはアリストテレスをベース
に、そもそも魂は身体と分離していないという立場を取ります。魂は「身
体の第一の現実態」だというわけです。その上で、分離論を採るプラトン
とプラトン主義者の物言いなどを批判し、アヴェロエスも批判します。そ
の後になってようやく、知性(ここでは可能知性)は潜在態として、魂の
一部なしていることを示します。

2章からは小前提、つまり知性そのものの分離論への反論となります。ま
ずは「逍遙学派」の注解者たちを中心に(テミスティオス、テオフラス
トゥス、アフロディシアスのアレクサンドロス、ガザーリ)それぞれの立
場を検討し、それらにおいても知性(とくに可能知性)は身体から分離し
ているとは論じられていないことを確認します。ここでもまた、アヴェロ
エスは解釈を誤っていると指摘しています。3章になると、今度はアリス
トテレスのテキストそのものを援用しながら、アヴェロエスによる知性の
分離論に様々な角度から反駁を加えていきます。知性が分離しているとし
た場合に生じる矛盾や不都合が列挙されていきます。

4章になると、結論部ということで、可能知性が単一かどうかという要の
議論の検証に入ります。ここでもまた、知性を単一とした場合の不都合が
列挙される形になります。5章も、可能知性が複数あるとする立場に反対
する側の議論を取り上げて反駁を加えていきます。ざっとこういう構成に
なっていますが、これだけを見ても、「分離論」に対する批判がかなりの
部分を占めていることがわかります。単一うんぬんの以前に、可能知性が
魂から分離しているという点そのものに問題があるという捉え方のようで
す。このことを踏まえて、トマスのテキストの要点を、シゲルスによる再
反論(?)も絡めて少しだけ整理してみたいと思います。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その9)

「神は存在するか」を扱った第三項の続きです。いよいよジンテーゼ部分
で、神の存在証明の五つの方途が示されていきます。今回はそのうちの一
番目です。

# # #
Respondeo dicendum quod Deum esse quinque viis probari
potest. Prima autem et manifestior via est, quae sumitur ex parte
motus. Certum est enim et sensu constat aliqua moveri in hoc
mundo. Omne autem quod movetur, ab alio movetur. Nihil enim
movetur, nisi secundum quod est in potentia ad illud ad quod
movetur: movet autem aliquid secundum quod est actu. Movere
enim nihil aliud est quam educere aliquid de potentia in actum: de
potentia autem non potest aliquid reduci in actum, nisi per
aliquod ens in actum: sicut calidum in actu, ut ignis, facit lignum,
quod est calidum in potentia, esse actu calidum, et per hoc movet
et alterat ipsum. /

Non autem est possibile ut idem sit simul in actu et potentia
secundum idem, sed solum secundum diversa: quod enim est
calidum in actu, non potest simul esse calidum in potentia, sed est
simul frigidum in potentia. Impossibile est ergo quod, idem et
eodem modo, aliquid sit movens et motum, vel quod moveat
seipsum. Omne ergo quod movetur, oportet ab alio moveri. Si
ergo id a quo movetur, moveatur, oportet et ipsum ab alio
moveri; et illud ab alio. Hic autem non est procedere in infinitum:
quia sic non esset aliquod primum movens; et per consequens nec
aliquod aliud movens, quia moventia secunda non movent nisi per
hoc quod sunt mota a primo movente, sicut baculus non movet
nisi per hoc quod est motus a manu. Ergo necesse est devenire
ad aliquod primum movens, quod a nullo movetur: et hoc omnes
intelligunt Deum.

私はこう述べて答えよう。神が存在することは五つの方途でもって認めら
れうる。そのうち第一の方途が最も明らかなものであり、それは運動の面
から得られる。というのも、この世界において何かが動いていることは感
覚的にも確かだからだ。しかしながら、動くものはすべて、他の何かに
よって動かされている。何かが動くのはすべからく、運動が向かうところ
のものに対して潜在態にあるがゆえに動くのである。一方、何かが動かす
のは、それが現実態であるがゆえに動かすのである。動かすとは、何かを
潜在態から現実態に導くこと以外ではないからだ。しかしながら現実態と
して存在するもの以外、何かを現実態に導くことはできない。たとえば火
のような現実態の「熱いもの」が、潜在態の「熱いもの」である木を現実
態の「熱いもの」にし、それによって(その木を)動かし変成させるので
ある。/

しかしながら、同一のものが同一でありつつ同時に現実態でも潜在態でも
あることはできず、それが可能なのは異なるものとしてある場合のみであ
る。現実態の「熱いもの」は、同時に潜在態の「熱いもの」でもあること
はできないが、同時に潜在態の「冷たいもの」ではありうる。したがっ
て、同じそのあり方で、何かが動かすものであると同時に動かされるもの
である、あるいはみずからを動かすものである、ということはありえな
い。動くものはすべて、他のものによって動かされていなくてはならない
のだ。仮に動かしている当のものもまた動いている場合、その当のものも
他によって動かされていなくてはならない。そしてそれもまた他のものに
よって動かされていなくてはならない。しかしながら、これが無限に続く
わけにはいかない。というのも、それでは何らかの第一動者は存在しない
ことになってしまうからだ。すると結果として、他を動かすものもなく
なってしまう。というのも、二番目の動者たちは、あくまで第一動者に
よって動かされるがゆえに動かすからだ。杖が他のものを動かすのは、手
によって杖が動かされるゆえにのみである。したがって、何によっても動
かされない、何らかの第一の動者へと至らなくてはならない。そしてこれ
を誰もが神と理解するのである。
# # #

この第一動者(第一動因、第一原因などとほぼ同義かと思われます)の議
論は、言うまでもなくアリストテレスの議論にもとづいているものです。
それも、とりわけ『自然学』に準拠しています。「動くものはすべて、他
の何かによって動かされている」は、『自然学』7巻第1章の冒頭の一句
ですし、「潜在態が現実態になることが運動だ」「潜在態を現実態にする
のは現実態」などは同書3巻第1章から取ったものです。また、「第一動
者は他から動かされるものであってはならない」というのも、同書の8巻
第5章の議論です。

ですが、『自然学』に見いだされる議論をつないで神の証明とするのは、
中世の見事な練り上げと言えるかもしれません。山田晶氏注によれば、こ
の証明を西欧で行ったのはバースのアデラードとのことですが、これは今
のところ確認できていません。同注にはほかにもマイモニデスやアルベル
トゥス・マグヌスの名前が挙げられています。

トマスのこの議論は『対異教徒大全』の1巻13章でより詳細に検討されて
いて、上の議論のいわば補足になっています。たとえば「他の動因によっ
て動くという様態が無限には続かない」という議論については、こんな感
じです。(1)動因と動かされるものとの分割は、地上世界の物体に関す
る限り無限にはできない。(2)地上世界の限定された時間の中で、動因
と動かされるものとが無限にあるとしたら、まるで一つのものが際限なく
動くような形になってしまうが、それはありえない。(3)動因に対する
動かされるものの関係は「道具的な」関係だが、それらが無限にあるとし
たら、関係性はすべて道具的でしかなくなってしまう。以上のような根拠
から、無限後退は認められない、したがって第一動者がなくてはならない
という論理的帰結にいたるというわけです。

トマスはこの第一動者(あるいは第一動因、第一原因)という考え方(に
よる神の理解)をかなり重視しているようで、たとえば晩年近くに『神学
大全』と並行して書き進められた著作、『原因論注解』の序文にも、「人
間がその生において持ちうる究極の幸福とは、第一原因についての考察に
あるのでなければならない。なぜなら、それについて知りうるごくわずか
なことは、哲学者[アリストテレス]が『動物部分論』1巻で述べているよ
うに、下位の事物について知りうるいっさいのことよりも喜びにあふれ、
価値があるからである」と記しています。この一節での「第一原因」は複
数形になっていて、神そのものとただちに同一視されるのかどうか多少疑
問も残りますが、それに続く部分に、その知識が完成するのは死後であっ
て、そのときに永遠の命としての神が知られる(ヨハネの福音書から)と
ありますので、それが一続きの問題圏(神をめぐる知)であることは間違
いありません。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は09月06日の予定です。

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投稿者 Masaki : 20:10

2008年08月01日

No.131

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.131 2008/07/19

お知らせ
*本メルマガは隔週での発行ですが、例年通り夏休みのため、次号は8月
23日となります。ご承知置きください。
*都合により、今号の「古典語探訪:ギリシア語編」はお休みいたしま
す。

------新刊情報---------------------------------
夏本番という感じの暑さが続いていますが、新刊書籍も夏休みにぴったり
のもの(?)が出ていますね。まずは分厚い研究書から。

『中世歴史人類学試論--身体・祭儀・夢幻・時間』
ジャン=クロード・シュミット著、渡邊昌美訳、刀水書房
ISBN:9784887083639、7,350yen

これは待望の邦訳。原書は2001年刊行の個人論集で、シュミットの著作
の原型をなす論文の数々を収録していて、歴史人類学の謳いがとても新鮮
でした。なるほどシュミットの旺盛な研究は、人類学的な動機にドライブ
されているのか、みたいな(笑)。

『アウグスティヌスと古代教養の終焉』
アンリ=イレーネ・マルー著、岩村清太訳、知泉書館
ISBN:9784862850331、9,975yen

こちらも今や古典の扱いのような研究書。マルーは『古代教育史』やアウ
グスティヌス研究などで知られる歴史家ですね。個人的には音楽史研究の
『トゥルバドゥール』なども大いに参考になりました。意外なことに書籍
としての邦訳はほとんどこれが初めて(?)で、本書はキリスト教におけ
る自由学芸の取り込みをアウグスティヌスを通じて描くという大著です。

続いて文庫から。

『西洋中世奇譚集成--皇帝の閑暇』
ティルベリのゲルウァシウス著、池上俊一訳、講談社学術文庫
ISBN:9784061598843、1,050yen

これ、まだ現物を見ていないのですが、ゲルウァシウス(またはゲルヴァ
シウス)は12世紀の法学者です。最初はプタンタジネット朝のヘンリー2
世の宮廷に出入りし、後にシチリアのノルマン王朝のウィリアム2世、さ
らにオットー4世などにも仕えています。最初のヘンリー2世の宮廷以
来、逸話集、奇譚集などの収集と編纂を行い、オットー4世に表題の書物
(Otia imperialia)を献上したという話です。いいですねえ、奇譚集。
これは単純に面白そう(笑)。

このほか、最近目についたものとしては、角田幸彦『体系的哲学者キケ
ローの世界』(文化書房博文社)
や、中山善樹訳『エックハルト・ラテン
語著作集3:ヨハネ福音書注解』(知泉書館)
などもあります。前者は中
世のキケロー主義みたいなものへの理解のために役立つかなと。後者は労
作の個人訳。引き続きの刊行を期待しつつ……。


------文献探索シリーズ-----------------------
「単一知性論」を追う(その2)

まず、単一知性論がどういうものかを見ておかなくてはなりません。代表
的なその擁護者として挙げられるのは、13世紀末に活躍したパリ大学の
在俗教師(学芸学部)ブラバント(またはブラバン)のシゲルスです。シ
ゲルスは無頼派のような人物を思わせます。学生時代には国民団(出身国
別に作られていたいわゆる学生団です)のリーダー格で、ある種の暴れ者
だったようですが、それでも一目置かれる存在ではあったのでしょう。そ
のままパリ大学の教師になってからは、アヴェロエス説を大胆に解釈した
立場で講義を行い、教会側からも目を付けられることになったのでした。

さて、そのシゲルスが残した著作の中で、単一知性論を論じた主著とされ
るのが『霊魂論第三巻注解(Questiones in Tertium de Anima)』で
す。アリストテレスの『霊魂論』第三巻は、感覚と知性について詳述され
ている部分ですね。シゲルスの著書は字義的な注解ではなく、問いの形で
テーゼを個別に立てて、それをめぐって議論を組み立てていくというやり
方を取っています。

シゲルスの注解で知性の単一性が端的に論じられるのは第二章の問9で
す。その問はずばり「知性はあらゆるものにおいて単一か?(utrum sit
unus intellectus in omnibus)」となっています。その議論ですが、ま
ずシゲルスは基本前提として、知性は身体から分離した非物質的なもの
(形相的なもの)だと考えています。分離しているとはいえ、それは身体
(つまりは感覚)と何らかの形で結合していなくてはなりません。シゲル
スは、身体(感覚)と知性とは想像力を介して結びついている、と論じて
います(これは問8などの議論です)。

こうした前提に立った上で、分離している知性というのは非物質的なもの
である以上数的に数えられない、というのがこの問9の議論です。単一論
の要の部分がそれなのですね。一方の身体のほうは数的に数えることがで
きるわけですから、そうなると、両者の結びつきはどうなるのかが問題に
なってきます。これについてシゲルスは、知性は数的に(数えられる形
で)複数化するのではなく、質的に複数化するのだと答えています。つま
り、これは一種の「分有」概念だと考えることができそうです。知性は数
として複数ではないのだけれど、個人の身体との結びつきは分有的になさ
れ、かくして各人の知性は質的に異なったものとなり、誰かが獲得した知
が即座に他の誰かにも波及するようなことはない、というわけです。

中世において「知性」と言う場合、能動知性と受動知性(可能知性)とが
区別されていました。一般に、神の知的照明に相当する作用を及ぼすのが
能動知性で、これは伝統的に(古代末期のアフロディシアスのアレクサン
ドロスや、テミスティオスなどの注解以来ですが)一つであるとされ、時
には天空の世界にあると言われることもあります。一方、人間がもつ知性
のように、照明作用を受けて初めて活性化するのが受動知性または可能知
性だとされます。こちらは個々の人間に個別的に配されていると考えられ
ていました。

上の注解でシゲルスが論じている単一の知性というのはどちらに相当する
のでしょうか。どうやらこれは両方のようなのです。シゲルスによると、
理性的魂(人間がもつ魂です)には能動知性と受動知性の二つの部分があ
り、それが人間(の身体)に結合しているといいます(問13)。能動知
性までもが人間の知性に内在するという議論は、実はこれまたテミスティ
オス以来あって、アルベルトゥス・マグヌスなども一時期採用していま
す。シゲルスの場合はこの受動知性までもが一つ(質的に)だとしている
点が特徴的なのですね。で、どうやらこの点が、後々の大問題になってい
くようなのです。というわけで、これがどう問題になるのかを見ていきた
いと思います。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの神の存在証明を読む(その8)

いよいよトマスの神の証明の核心部分となる第三項ですね。まずはテーゼ
とその反論の部分です。

# # #
Articulus 3
Utrum Deus sit

Ad tertium sic proceditur. Videtur quod Deus non sit.

1. Quia si unum contrariorum fuerit infinitum, totaliter destruetur
aliud. Sed hoc intelligitur in hoc nomine Deus, scilicet quod sit
quoddam bonum infinitum. Si ergo Deus esset, nullum malum
inveniretur. Invenitur autem malum in mundo. Ergo Deus non est.
2. Praeterea, quod potest compleri per pauciora principia, non fit
per plura. Sed videtur quod omnia quae apparent in mundo,
possunt compleri per alia principia, supposito quod Deus non sit:
quia ea quae sunt naturalia, reducuntur in principium quod est
natura; ea vero quae sunt a proposito, reducuntur in principium
quod est ratio humana vel voluntas. Nulla igitur necessitas est
ponere Deum esse.

Sed contra est quod dicitur Exodi 3.14 ex persona Dei: Ego sum
qui sum.

第三項
神は存在するか

では以下に第三項に進む。まず神は存在しないという議論を考察しよう。

一.なぜなら、仮になんらかの対立物が無限であったなら、(対立される
当の)事物はすっかり破壊されてしまうからである。しかるにこの神とい
う名のもとに理解されるのは、なんらかの無限の善が存在するということ
である。したがって、仮に神が存在するとするなら、なんら悪は見られな
いことになるだろう。しかしながら世界には悪が見られる。したがって神
は存在しない。
二.加えて、少数の原理によって完成されうるものは、より多くの原理に
よって完成されはしない。しかしながら、世界に現れるいっさいのもの
は、神が存在しないと想定しても、別の原理によって完成されると思われ
る。すなわち、それらが自然のものであるならば、自然という原理に還元
されるということだ。また、意図によるものは、人間の理性ないし意志と
いう原理に還元される。したがって神が存在することを措定する必然性は
まったくない。

しかるに、異論として『出エジプト記』3.14が記す、神そのものからの
次の言葉がある。「私は在る者である」。
# # #

今回の箇所で注目すべきは、やはりアンチテーゼの部分です。『出エジプ
ト記』3.14はモーセが神の名を尋ねる有名な箇所ですね。フランスの中
世史家エティエンヌ・ジルソンはかつて、中世に「キリスト教哲学」があ
るとすれば、この一節の解釈こそが重要な転換点をなしていると論じたの
でした。神が「在る者」であることが、神を「存在」として解釈する契機
を与えたのであり、それはギリシア哲学の存在論には見られないというわ
けです。「神と存在とを同一視しなかったプラトンやアリストテレスのよ
うな哲学者にとって、神についての概念からその存在の証明を推論できる
などとは思いもよらなかった」とジルソンは記しています(『中世哲学の
神髄』、Vrin、p.56)。

ジルソンはとりわけトマスが、過去の思想的伝統との断絶を体現している
と見ています。ですが一方で、そうした断絶を批判する議論もあり、たと
えば山田晶の『在りて在る者』では、アウグスティヌスを本質(エッセン
チア)主義と見なすジルソンの立場に異を唱え、むしろアウグスティヌス
もトマスも、言おうとしている内実はそれほど違わず(アウグスティヌス
の言う神のエッセンチアというのが、実はトマス的な「自存する存在その
もの」に近いという議論です)、むしろアウグスティヌスの考えていない
側面を捉えることで、トマスはその完成者として位置づけられる(自存的
に存在するものが、他を存在させる因としてもあるという点で)と主張し
ています。そこには断絶というよりも、むしろ継承と補完の関係が成り
立っているのだという見方です。

断絶か継承かという問題はさておき、少なくともトマスがこの「在る者」
をどう理解していたのかは重要です。『出エジプト記』のこの一節は、少
し後の問一三でも登場します。そこでのトマスは、この「在る者」を神の
最大の「固有名」(proprium nomen)として受け止めています。上掲
の山田晶の書では、トマスが神の本質を「存在(エッセ)」と解釈するそ
もそもの根底は、この神の固有の名にあると論じられています。何にでも
当てはまるような「在る者」という言葉を、神があえて発するからには、
そこに通常とは異なる意味が込められているに違いない……トマスは少な
くともそう考え、そこから、神の存在イコール本質というラディカルな議
論を導き出したのではないか、というわけです。

ですが、一足飛びにそうした議論に向かう前に、ちょっとここでは上のテ
キストに踏みとどまって考えてみたい気がします。というのも、少し違和
感もあるからです。目下の問二第三項を見る限り、「私は在る者である」
という文言は、神は存在しないというテーゼへの反論として出されている
わけですから、神みずからが自分を存在するものとして示している、とい
う文字通りの意味合いで読まれるべきもののように思われるのです。でも
そうすると、これがアンチテーゼとして出されているのはどういう機制な
のか、よくわからなくなります。「存在する」との自己規定を発している
がゆえに存在する、というようなトートロジー的な議論ではないはずです
し、また聖書の文言は絶対的だということなら、そもそも神の存在証明な
どという面倒な手続き自体が無用の長物となりかねません。うーん、『出
エジプト記』の一節がここでの神の存在証明とどう連関するのか、少し吟
味しなくてはならないように思います……というわけで、これはまた次
回。


*本マガジンは原則的に隔週の発行ですが、夏休みのため次号は08月23
日の予定です。

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投稿者 Masaki : 11:11