2008年02月23日

アヴィセンナの天使論……

イスラム学の大家とされるアンリ・コルバンの『アヴィセンナと幻視譚』(Henri Corbin, "Avicenne et le récit visionnaire", Verdier, 1999)を部分的に読む。これ、イランなどの東方のアヴィセンナ主義を事実上紹介する大著。アヴィセンナの神秘主義的な、寓意化した3編の物語の校注テキスト、仏訳、そしてアヴィセンナのとりわけ知性論=天使論を克明に取り上げた序論から成る。とりあえずこの序論部分から読み始めているのだけれど、なるほどアヴィセンナとアヴィセンナ主義(東方の)の天使論の全貌というのは確かにあまり取り上げられない観点だと合点。アヴィセンナがいろいろと分類する諸知性は、天使の諸階級に呼応させられているわけだけれど、それをめぐっていくと、アヴィセンナとアヴェロエスの宇宙開闢論的な解釈の対立とか、天球の数の問題、形相と個体化をめぐる議論、そしてラテン中世のアヴィセンナ受容と、東方のアヴィセンナ主義との決定的な違いなど、興味をそそる問題が次から次へと押し寄せてくるという次第。オーベルニュのギヨームがアヴィセンナ思想をなぜ糾弾したかというあたりの話も、コルバンの詳細な整理はとても参考になる。読み応えたっぷり。序論の後半は収録した3つの物語の分析で、まだそちらには入っていないけれど、それら物語の本文ともどもとても面白そう。

投稿者 Masaki : 22:21

2008年02月16日

畳長性?

昨晩は偶然、とあるネット中継を発見。7時半すぎから(すでに始まっていた)リアルタイムで見てしまった(笑)。評論家の東浩紀氏が東京の日仏学院で行ったビデオカンファレンス。これをパリ第三大学のサイト経由で流していたもの。『動物化するポストモダン』の仏訳本が出たということで、フランス側からの質問に答える形でのトークだったのだけれど、普通とは逆に、主役となる東氏側がギャラリーを背負っていたのが微妙に可笑しかった(笑)。個人的にサブカルにはほとんど関心はないけれど、たとえばニコニコ動画を引き合いに、「オタクたちはコミュニケーションを求めていて、(留保つきながら)そういうコミュニケーションが新しい公共性の創出につながるかも」といった話は、会場からも質問が出ていたように、やはり疑問符をぬぐい切れない気が……。そもそもコミュニケーションは、伝達するための物理的コンタクトや発信者の精神的な構えに、とても多くのエネルギーを要する所作だと思うのだけれど、現象として進んでいるのは、そういうエネルギーの単位当たりの投入が少なくて済む方向(メディアの選択や発信形態において)なような気がして、するとそれは構築的な意志とは逆行するんではないかしら……(うーん、こういう捉え方は古いのか?)なんてことを思っていたら、タイムリーに「ニコニコ動画は政治を変えるか」なんてアーティクルが(笑)。

コミュニケーションといえば、ちょうど山内志朗氏の新刊『<畳長さ>が大事です』(岩波書店、2008)に目を通してみたところ。「哲学塾」という入門シリーズの一冊。先の『普遍論争』増補版でもちらっと触れられていたけれど、「冗長性」のネガティブな意味合いを払拭するために、「畳長性」という表記を提案し、「安全性」「信頼性」「自己修正機能」「認識可能性」「多様性」といった事象をそれが織りなしていることを論じ、そこから媒介をめぐる多元的なシステムを開こうという野心的な戦略(中世思想とのからみで面白かったのは、アヴィセンナの本質と存在の区別には、単なる存在偶有説ではない、存在が畳長であるという認識が織り込まれているといった話など)。いずれにしてもそうした戦略はとうていこうした入門書で収まるような話ではなく、ちらっと予告されているこの先の著書での展開が期待されるところ。ん?ネット的なコミュニケーションというのも「畳長」なものと捉えたら、上の話にある新たな公共性の創出みたいな部分を掬い上げることは可能かしら?

投稿者 Masaki : 13:50

2008年02月13日

スコトゥスの天使論?

メルマガのほうでもちょっと触れたけれど、ヘレン・ラングの『アリストテレス「自然学」とその中世の異本』(Helen S. Lang, "Aristotle's Physics and its Medieval Varieties", State University of New York Press, 1992)に一通り目を通す。中世の異本というタイトルながら、取り上げられているのは後半のピロポノス、アルベルトゥス・マグヌス、さらにそれより短い章でトマス、ビュリダン、ドゥンス・スコトゥスのみ。その意味ではちょっと物足りないけれど、でも中身としては個人的にはなかなか楽しめた。アルベルトゥスもそうだけれど、トマスやビュリダンにしても、結局一神教的な思想体系に合わせるために、もとのアリストテレスの体系がいかに歪曲・変形されているかを実証的に論じている。なるほど、そもそも論の目的からして違うわけだしね。物質世界の運動について論究するアリストテレスに対し、神への賛辞を捧げようとする中世の神学者たち。おのずと「自然学」そのものの見方も変わっていく、と。

終章にあたるスコトゥスは、場所の問題を天使論とからめて論じている。アリストテレス(とそれを受け継ぐアヴェロエス)の場合、「場所」とは物体を収める「容器」的な境界をいい、物体はかならず何らかの場所を占めなくてはならない(元素が現実化する上で場所が必要)とされるのだけれど、それを認めると「神の全能性」に制限がかかることにもなってしまう。けれども神学的には、神は「場所」を占めない石とかも創りだせなくてはならない。で、その神の全能性を救い出すため、スコトゥスは場所を「大きさ(dimensionality)」として数学的・抽象的な概念に置き換えているのだという。そうすることによって、特定の位置、方向性といった特性から「場所」が解放され、かくして物体の現実化における場所は(アリストテレスが考えるように)必須のものではなくなる。仮に世界外の物体があったとして、それはこの世の中に位置としての場所はもたないものの、大きさという意味での数学的「場所」はもっていることになり、こうして神の全能性は保たれるという話になるわけだ。けれどもそうすると、では物体はいかにして世界内に位置としての場所を占めるのかという問題が出てくる(スコトゥスはその世界内の場所を占める力能を、物体のもつ「受動的潜在性」と捉える)。ここで非物質的存在として天使にまつわる問いも掲げられる。天使はいかにしてこの世界に介入できるのか……どんな大きさの場所を天使は占めることができるのか……などなど。なるほど、歴史的にスコラ学が「どうしようもなく些末で空虚な問題を論ずるもの」と非難された際に引き合いに出された問いの一つは、実は場所論という哲学と神学が交差する実にスリリングな地点に立脚していたものだった、という次第。ラングは末尾に、スコトゥスが神や天使の問題として考えた問いは、形を変えてニュートンの思想やデカルトの不可知論にまで残響していたことを指摘している。うん、スコトゥスのオルディナティオ2巻はぜひ読んでみたいところだ。

投稿者 Masaki : 23:19