2008年02月28日

直観と照明

このところジャン=リュック・マリオンの『可視と啓示』("Le Visible et le Révélé", Les Éditions du Cerf, 2005)を読んでいる。この二章目「飽和的現象」がめっぽう触発的だ。現象とはそもそもおのずと現れいずるものとされるわけだけれども、ではフッサールの現象学はその現象の「現れ」を捉え切れているのか、というところから考察が展開する。答えはノン。なぜかというと、フッサールが原理として掲げる「直観の原理」は無条件での現象の現れを許容しないから−−つまり直観は、現れの前提として「自己」と「地平」の制限を枠組みとしてもっていて、すでにしてまったく自在な現れを捉えているわけではないから。そこでマリオンは、そうした無条件の現象の現れを捉える方途をさぐるべく、カントに遡る。カントにおいては現象は直観の欠如とその欠如の痕跡を携えて現れるということを指摘した上で、その芸術的直観論に目をむけ、その過剰の与件、直観への与件の横溢(ゆえに言葉にならない)から、飽和的直観という概念を取り出してくる。それを、現象の現れを捉えるための契機として鍛えなおす、という寸法だ。この本、「哲学と神学」というシリーズの一冊なのだけれど、この章などはまさに至福直観、一種の宗教的現象学という感じで興味深い。

で、考えてみると、これは長い系譜をもった議論だという気もする。カントよりさらに前なら、とりあえずガン(ゲント)のヘンリクスあたりに遡ってもいいかもしれない、と。先に触れた『哲学の歴史』第3巻には、ガンのヘンリクスについての一章があり(加藤雅人氏)、スコトゥスとの対比という形でヘンリクスの思想がよりよく理解できるとされている。で、そこで取り上げられているのがヘンリクスの「神の照明」論。これはつまり、トマス派の存在の類比をベースに、人間知性と神との絶対的な溝を措定した上で、人間知性による神の認識を可能にする・神に向けて開くものとして、神的な光に照らされなくてはならないという考え方。この意味でスコトゥスの存在の一義性と対立する(そちらでは照明は不要になる)わけだけれど、いずれにせよここで問題になっているのも、やはり世界の立ち現れ方への認識論(イコール存在論)であることは間違いない。マリオンの問題意識を引き受けながらガンのヘンリクスを読んでみるというのは、刺激的なのではないかな、と。

投稿者 Masaki : 23:11

2008年02月26日

[古楽]オランダ・バッハ協会

昨晩は久々にコンサートへ。初来日のオランダ・バッハ協会によるバッハ「ヨハネ受難曲(初演版)」。いや〜これがなかなか独特な解釈の演奏。基本的にはリフキンのような1人1パート編成なのだけれど、面白いのは合唱をおかず、ソリストを支えるリピエニストなるものを各声部に配して「合唱」に当たらせるというもの。それからたとえばテオルボ(アーチリュート?)が、チェロやオルガンとともにずっと通奏低音に参加していたのも斬新。会場で販売していたパンフレットに記されたフェルトホーヴェン(指揮者)のコメントによれば、バッハの弾き振りにおいて通奏低音は二重・三重になったはずだという説を採用しているとのこと。なるほど。で、演奏はというと、これまた各曲の解釈が独特で、知っているものとはまったく違う曲に聞こえてくる。前に1人1パートを聴いたときも感じたのだけれど、こういう形態では聞き慣れないせいか、時に声部がはっきりしすぎて統一感が薄らぐような印象もところどころ。うーん、ある意味とても斬新なのだけれど……。それと、今回は個人的に勘違いしていたのだけれど、"Herr Unser Herrscher"から始まらないバージョンって第二稿だったのね(そっちを期待してしまっていた:苦笑)。今回の「初演版」は再構成版。同じくパンフレットには、オルガン奏者・音楽学者のデュクセンの解説がなかなか詳しい。後半の流れはなかなかよくて、ラスト40曲目のコラールなどは実に見事に決まっていた。うん、マタイとかロ短ミサとかも聴きたいので、ぜひ再来日を(笑)。

投稿者 Masaki : 23:47

2008年02月25日

研究地図としての……

なにやら賛否両論らしい中央公論社の「哲学の歴史」シリーズ。3巻『神との対話−−中世:信仰と知の調和』(中川純男編)にざっと目を通してみたけれど、これはなかなか良く出来ているように思う。たとえば3年くらい前に出た同じ編者の『中世哲学を学ぶ人のために』(世界思想社、2005)が、テーマ的な編集で少し取っつきにくい印象を与えていたのに対して、こちらは年代順、トピックス別の構成で、概論・入門というよりも、参考書として引くみたいな使い方を考えているのがありがたい。そして何よりも、各項目に当てられているページ数だけから見ても、今現在のさしあたりの研究動向(日本国内の動向ではあるけれど)を伺い知ることもできる。アウグスティヌスやトマス・アクィナスの分量が大きいのは昔からだけれど、一昔二昔くらい前ならほかの事項はここまで詳しく取り上げなかっただろうという感じ。ビザンティン、イスラム、ラテン・アヴェロエス主義などなど。ガンのヘンリクスとかも。もちろん漏れている事項もたくさんあるだろうけれど、現時点での研究地図として、中世思想の領域を見渡せるという利点は、それを補って余りあるもの。個々の記載も、単なる紹介にとどまらず、結構核心的な部分をかいま見せたりしてなかなかに面白い。また、こういう本を読む楽しみは、別事項同士の微細な照応とかだったりする。そこからまた、新たなテキスト探求の刺激がもたらされたりもする。たとえばイスラム関連のところで、イブン・バージャーを取り上げているが、これにその有名な教説として、質料から分離した形相としての霊的形相の理論があると記されているかと思えば、ボナヴェントゥーラの箇所には、物体的質料に加えて霊的質料と呼ぶものが措定されている、と記されている。霊的形相に霊的質料。質料形相論が次第に細分化されていくプロセスがすでにして窺えるというもの。

投稿者 Masaki : 13:43

2008年02月23日

アヴィセンナの天使論……

イスラム学の大家とされるアンリ・コルバンの『アヴィセンナと幻視譚』(Henri Corbin, "Avicenne et le récit visionnaire", Verdier, 1999)を部分的に読む。これ、イランなどの東方のアヴィセンナ主義を事実上紹介する大著。アヴィセンナの神秘主義的な、寓意化した3編の物語の校注テキスト、仏訳、そしてアヴィセンナのとりわけ知性論=天使論を克明に取り上げた序論から成る。とりあえずこの序論部分から読み始めているのだけれど、なるほどアヴィセンナとアヴィセンナ主義(東方の)の天使論の全貌というのは確かにあまり取り上げられない観点だと合点。アヴィセンナがいろいろと分類する諸知性は、天使の諸階級に呼応させられているわけだけれど、それをめぐっていくと、アヴィセンナとアヴェロエスの宇宙開闢論的な解釈の対立とか、天球の数の問題、形相と個体化をめぐる議論、そしてラテン中世のアヴィセンナ受容と、東方のアヴィセンナ主義との決定的な違いなど、興味をそそる問題が次から次へと押し寄せてくるという次第。オーベルニュのギヨームがアヴィセンナ思想をなぜ糾弾したかというあたりの話も、コルバンの詳細な整理はとても参考になる。読み応えたっぷり。序論の後半は収録した3つの物語の分析で、まだそちらには入っていないけれど、それら物語の本文ともどもとても面白そう。

投稿者 Masaki : 22:21

2008年02月20日

ガレノスも面白い

このところしばらく読んでいたガレノスの『魂の苦痛と不全について』(Περὶ ψυχῆς παθῶν καὶ ἁμαρτημάτων: Istituto poligrafico e zecca dello stato, Roma, 1999)。噂にたがわず、これがまためっぽう面白い。怒りや嫉妬といった心的な苦痛・不調にいかに対処すればよいかという議論で、要するに自己認識と自己統制(節制)をテーマにしているのだけれど、その難しさを繰り返し説いている。「愛は盲目、その最たるものは自己愛」というわけだ。これ、節制・禁欲を説いているところなどは、ストア派というか、あるいはむしろグノーシス的な感じも。哲学諸派の誤謬を皮肉るような部分もある。学知(ロゴス)が非合理なものにどう切り込んでいけるのか、という問題も掲げられている。ガレノス自身の立場というのは一般に折衷主義というふうに括られることが多いと思うけれど、いやいやどうして、ドクソグラフィー的関心とか後世への影響とか以外にも、ストレートに体系的アプローチをかけたりしても面白いかもと思わせるような部分が少なからずあったり。いや〜、これもまた今後徐々に読んでいくことにしようかと。

投稿者 Masaki : 23:45

2008年02月18日

[古楽]聖週間のための哀歌

マリア・クリスティーナ・キールとコンチェルト・ソアーヴェによる『聖週間のための哀歌』(HMC 901952)。演奏がどうこうというのを超えて(もちろん端正な美しい演奏だけれど)、ライナーノーツがちょっと参考になる一枚(笑)。いわゆる聖週間の「ルソン・ド・テネブル(暗闇の朝課)」は、クープランとかのものが有名だけれど、これはもともと聖木曜日から土曜日までの「朝方」に歌われるもの。ところが17世紀には慣習的に、これをそれぞれ前日の午後に執り行うようになったのだとか。そのため、それぞれ水曜、木曜、金曜のための哀歌というタイトルが付いたりしたのだそうで。また17世紀にはかなり見せ物的なものになっていたという。なるほど「聖水曜日の」となっていたのはそういうことか。うーん、歌詞としてエレミアの哀歌が使われるようになったのはどのあたりからなのだろう?ライナーには、16世紀にはすでに曲に使われていたとあるばかり(モラーレス、ビクトリア、ラッスス、パレストリーナ)なのだが……。少なくとも独唱になったのは17世紀前半からだと記されている。16世紀末のカヴァリエリはソリストと合唱が交互にくる通奏低音付きのスタイルだけれど、その一方でヴィンチェンツォ・ガリレイ(ガリレオの父ですな)に独唱スタイルの曲があった、という話も紹介されている。このあたり、いろいろと面白そうな問題が転がっている感じ。

収録曲はボローニャの音楽博物館の資料から取ったという様々な作曲家の哀歌の組み合わせ。カリッシミ、フレスコバルディ、パレストリーナ、逸名作曲家など。ロッシのオルガン曲やカプスベルガーのリュート曲も入っている。ジャケット絵はヒエロニモ・ハシント・デ・エスピノサ(スペインはバレンシアで17世紀に活躍した画家)による「マグダナのマリアの悔悛」。これを挙げておこう。

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投稿者 Masaki : 23:43

2008年02月16日

畳長性?

昨晩は偶然、とあるネット中継を発見。7時半すぎから(すでに始まっていた)リアルタイムで見てしまった(笑)。評論家の東浩紀氏が東京の日仏学院で行ったビデオカンファレンス。これをパリ第三大学のサイト経由で流していたもの。『動物化するポストモダン』の仏訳本が出たということで、フランス側からの質問に答える形でのトークだったのだけれど、普通とは逆に、主役となる東氏側がギャラリーを背負っていたのが微妙に可笑しかった(笑)。個人的にサブカルにはほとんど関心はないけれど、たとえばニコニコ動画を引き合いに、「オタクたちはコミュニケーションを求めていて、(留保つきながら)そういうコミュニケーションが新しい公共性の創出につながるかも」といった話は、会場からも質問が出ていたように、やはり疑問符をぬぐい切れない気が……。そもそもコミュニケーションは、伝達するための物理的コンタクトや発信者の精神的な構えに、とても多くのエネルギーを要する所作だと思うのだけれど、現象として進んでいるのは、そういうエネルギーの単位当たりの投入が少なくて済む方向(メディアの選択や発信形態において)なような気がして、するとそれは構築的な意志とは逆行するんではないかしら……(うーん、こういう捉え方は古いのか?)なんてことを思っていたら、タイムリーに「ニコニコ動画は政治を変えるか」なんてアーティクルが(笑)。

コミュニケーションといえば、ちょうど山内志朗氏の新刊『<畳長さ>が大事です』(岩波書店、2008)に目を通してみたところ。「哲学塾」という入門シリーズの一冊。先の『普遍論争』増補版でもちらっと触れられていたけれど、「冗長性」のネガティブな意味合いを払拭するために、「畳長性」という表記を提案し、「安全性」「信頼性」「自己修正機能」「認識可能性」「多様性」といった事象をそれが織りなしていることを論じ、そこから媒介をめぐる多元的なシステムを開こうという野心的な戦略(中世思想とのからみで面白かったのは、アヴィセンナの本質と存在の区別には、単なる存在偶有説ではない、存在が畳長であるという認識が織り込まれているといった話など)。いずれにしてもそうした戦略はとうていこうした入門書で収まるような話ではなく、ちらっと予告されているこの先の著書での展開が期待されるところ。ん?ネット的なコミュニケーションというのも「畳長」なものと捉えたら、上の話にある新たな公共性の創出みたいな部分を掬い上げることは可能かしら?

投稿者 Masaki : 13:50

2008年02月13日

スコトゥスの天使論?

メルマガのほうでもちょっと触れたけれど、ヘレン・ラングの『アリストテレス「自然学」とその中世の異本』(Helen S. Lang, "Aristotle's Physics and its Medieval Varieties", State University of New York Press, 1992)に一通り目を通す。中世の異本というタイトルながら、取り上げられているのは後半のピロポノス、アルベルトゥス・マグヌス、さらにそれより短い章でトマス、ビュリダン、ドゥンス・スコトゥスのみ。その意味ではちょっと物足りないけれど、でも中身としては個人的にはなかなか楽しめた。アルベルトゥスもそうだけれど、トマスやビュリダンにしても、結局一神教的な思想体系に合わせるために、もとのアリストテレスの体系がいかに歪曲・変形されているかを実証的に論じている。なるほど、そもそも論の目的からして違うわけだしね。物質世界の運動について論究するアリストテレスに対し、神への賛辞を捧げようとする中世の神学者たち。おのずと「自然学」そのものの見方も変わっていく、と。

終章にあたるスコトゥスは、場所の問題を天使論とからめて論じている。アリストテレス(とそれを受け継ぐアヴェロエス)の場合、「場所」とは物体を収める「容器」的な境界をいい、物体はかならず何らかの場所を占めなくてはならない(元素が現実化する上で場所が必要)とされるのだけれど、それを認めると「神の全能性」に制限がかかることにもなってしまう。けれども神学的には、神は「場所」を占めない石とかも創りだせなくてはならない。で、その神の全能性を救い出すため、スコトゥスは場所を「大きさ(dimensionality)」として数学的・抽象的な概念に置き換えているのだという。そうすることによって、特定の位置、方向性といった特性から「場所」が解放され、かくして物体の現実化における場所は(アリストテレスが考えるように)必須のものではなくなる。仮に世界外の物体があったとして、それはこの世の中に位置としての場所はもたないものの、大きさという意味での数学的「場所」はもっていることになり、こうして神の全能性は保たれるという話になるわけだ。けれどもそうすると、では物体はいかにして世界内に位置としての場所を占めるのかという問題が出てくる(スコトゥスはその世界内の場所を占める力能を、物体のもつ「受動的潜在性」と捉える)。ここで非物質的存在として天使にまつわる問いも掲げられる。天使はいかにしてこの世界に介入できるのか……どんな大きさの場所を天使は占めることができるのか……などなど。なるほど、歴史的にスコラ学が「どうしようもなく些末で空虚な問題を論ずるもの」と非難された際に引き合いに出された問いの一つは、実は場所論という哲学と神学が交差する実にスリリングな地点に立脚していたものだった、という次第。ラングは末尾に、スコトゥスが神や天使の問題として考えた問いは、形を変えてニュートンの思想やデカルトの不可知論にまで残響していたことを指摘している。うん、スコトゥスのオルディナティオ2巻はぜひ読んでみたいところだ。

投稿者 Masaki : 23:19

2008年02月11日

東方「旅行記」

ジャパンナレッジのオンライン版東洋文庫ではやはり読みづらいなあと思って、昨秋に古本屋で入手した『マンデヴィル旅行記』(『東方旅行記』、大場正史訳、平凡社、1964-94)を一通り。前にもちらっと記したように、内容的にはほぼフィクションということになっていて、むしろ様々な逸話や証言の寄せ集め、コンピレーションという感じなのだけれど、14世紀ごろにおそらくは流布していたであろう世界像の一端がうかがえて、興味深いことは変わりない。これに関連して、ジャン・ヴェルドンの入門書ないし概説書、『中世の旅行』(Jean Verdon, "Voyager au Moyen Age", Perrin, 1998-2004)にも目を通してみたけれど、それによると、マンデヴィル旅行記の写本は250にも及び、そのうち最も古いものが1371年のフランス語版なのだとか。19世紀以後になってやっと、マンデヴィルが用いているソースが検証されるようになり、中東の記述を除き、ほぼ非現実的な旅行記であることが判明したのだという。ヴェルドンは、マンデヴィル以外の空想旅行記(10世紀のアブ・ドゥラフ・ミッサールや、やはり14世紀のフィリップ・ド・メジエールなど)も紹介している。また、概論として、中世の地理学的な知識の刷新は13世紀を境としていて、それは文字情報と図像との関係の逆転(添え物的だった概略図が、実務的な地図となって文字情報を従える)などをも伴っていたという話などもまとめられている。なるほどね。

うーんそれにしても、マンデヴィルとマルコ・ポーロ、イブン・バットゥータあたりのテキスト的な体裁上の差というのはあまりないのだけれどね。虚実入り乱れているところなども……。これって語りの伝統という観点からすると、やはりとても面白い問題ではあるなあ、と改めて思う。

画像を挙げておこう。大汗の宮廷で下問されるマルコ・ポーロを描いた細密画とか。
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投稿者 Masaki : 23:35

2008年02月09日

[メモ]バルテレミーのシモンドン論

久々に近・現代もの。ジャン=ユーグ・バルテレミーのシモンドン論連作の1冊『個体化を考察する』(Jean-Hugues Barthélémy, "Penser l'individiation", L'Harmattan, 2005)を半分ほど読んだところ。ジルベール・シモンドンの個体化論を、それが伝統的な哲学の問題認識の何に対してどう革新的なのかを明らかにしようとしているもので、まとまったシモンドン論としてはほぼ最初のものといってもよいかも。基本的には歴史的文脈に置き直すという作業なのだろうけれど、たとえば基本となるシモンドンの特殊な用語法の解明という意味ではあまり参考にはならないかも。で、同書で強調されるのは哲学伝統との断絶だ。たとえば、「質料形相論、主要な敵」と題されたその2章目は、シモンドンの個体化理論がいかに質料形相論と断絶したものかを強調しようとしている感じ。バルテレミーはシモンドンによる質料形相論批判について、個体化の原理が本来なら説明してしかるべき個体を先取りし、後づけ的なものにしかなっていないのに対して、シモンドンが行っているのは、形相と質料が項として立てられる際に排除された第三項(技術に立脚した関係性)を回復しようとする試みだ、といった話を展開する。うーん、なにかこの、断絶強調姿勢にちょっと違和感が感じられたりするのだけれど……(笑)。確かにシモンドンの『個体とその心理・生物学的生成』の最初のところでは、質料形相論の批判がまされていて、とりわけ質料と形相のいずれかに原理を認める点が批判されている。で、両者の関係性そのものに原理を見いだすべきだという話になって、そういった項の関係を支える技術的操作や、ひいてはエネルギー論にまで論が進んでいくわけだけれど、これはもとの枠をより汎用性のある概念へと開こうとしていた印象が強い。バルテレミーのように、二項を立てるために排除された第三項を求めることだとガツンと言われると、どこかこの、個人的にシモンドンのテキスト全体に感じられる連続性の相みたいな部分がかなり殺がれてしまうように思えて落ち着かない……。これもまた、断絶か連続かのいずれかに力点を置くかで違って見えてくるということの一例だけれど。

投稿者 Masaki : 23:52

2008年02月06日

数学ガール、哲学ボーイ?

プログラミング本の数々で超有名な結城浩氏の小説風数学入門書『数学ガール』(ソフトバンククリエイティブ、2007)。正月に読むつもりが、のびのびで今までかかったけれど、これ、内容的にはとても興味深い。数式遊びをする高校生たちののその「遊び方」、つまり数式のいじり方を実例的に見せてくれる。そこがとてもいい。こういう本に若い内に出会える青少年たちは幸せかも。20年以上前ならきっとこういう本は生硬な教科書として出ていたはずだろうから、これはいわば出版不況がもたらした逆転的な良書ということなのかも。ご本人のWebページによると、なんとコミック化されるのだそうで。

で、こういうのを読むと、大事なのは「いじり方」なのだということを改めて思う。で、ふと見回すと、同じように「いじり方」を見せてくれる哲学入門書というのがほとんどないことにも気づく。そう、『哲学ボーイ』はいまだないようなのだ。身近な事例を掘り下げようとする入門書は多いけれど、多くはすでに確立された思考経路をすいすいと通ってみせるだけで、思考経路を開くための試行錯誤のようなものはまず触れられない。「いじり方」にもいろいろあるわけだけれど、幾通りもの「いじり方」をあーでもない、こーでもないとこれ繰り回すようなものはあんまりない気がする。でも本当に面白い部分というのはそっちにあるのだけれど……。

入門でなければ、もちろん面白い論考は山ほどあるし、様々な「いじり方」を味わうこともできる。ちょうど今入不二基義氏の『時間と絶対と相対と』(勁草書房、2007)を半分ほど読んだところなのだけれど、これなどもそういう「いじり方」の極地という感じ。前半部分は年末に読んだ『時間は実在するか』(講談社現代新書)のポイントをまとめ直した感じだけれど、それにしても、「ない」という否定表現の二重性(「ある」に対する「ない」と、絶対的な無に相当する「ない」)・重なり合いを手がかりに、「過去」、「未来」、「現在」といった時間概念のそれぞれに切り込んでいく手際のあざやかさが印象的だ。うーん、刺激を受けるなあ。たとえば同書とはまったく違うベクトルだけれど、たとえば「弁証法」はもともとミニマルな時間性を孕んでいる(テーゼとアンチテーゼ、ジンテーゼのそれぞれに時間差が前提される、なんてことはあながち突飛ではない)などと考えたりすると、やがて空間もまた時間性だ、みたいな話になっていったりするのだが、こういうのもいろいろこねくり回して楽しみたいところ。

投稿者 Masaki : 22:44

2008年02月03日

カラヴァッジョ……

ジョナサン・ハー『消えたカラヴァッジョ』(田中靖訳、岩波書店)を読了。現在ダブリンのアイランド・ナショナル・ギャラリーにある『キリストの捕縛』の発見にまつわるノンフィクション。いわば、サイモン・シン『フェルマーの最終定理』(青木薫訳、新潮文庫)とか、アンドルー・ロビンソン『線文字Bを解読した男』(片山陽子訳、創元社)などに連なる「学術発見もの」。小説的な手法で、とても面白く読める。学界人たちのキャラクターがそれぞれ個性的に描かれ、話に奥行きを与えている感じ。人文系でも、アカデミックジャーナリズムなんてことを言うのなら、やっぱりこのくらいはやってほしいところ(笑)。カラヴァッジョの生涯のドラマチックなエピソードも織り込まれている。願わくば図版とかも載せてほしかったなあ、と。

カラヴァッジョがらみでちょっと面白いのは、次のCD。ジョルディ・サヴァールによるオリジナル作品集『カラヴァッジョの涙』(AliaVox、AV9852)。これ、いわば7枚のカラヴァッジョ作品の作品内世界に、一種のBGMを付けたような体裁の古楽系オリジナル曲集だ。CDにはミニ冊子が織り込まれていて、ドミニク・フェルナンデスのテキストで7枚の絵画が図版入りで解説されている。その図版をながめつつ、深い哀調をベースにしたそれらの曲を聴いていくという趣向だ。ちょっとメロウすぎる感じもないではないけれど、絵のもつ陰影にとてもよく合う感じではある。

さて、そのダブリンの『キリストの捕縛』を掲げておこう。真偽はいまだ確定せず?うーん、でも上の本を読むと、なかなかの説得力なのだけれど……。

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投稿者 Masaki : 22:43

2008年02月01日

アレクサンドロスの本質主義

マルヴァン・ラシドの新刊『本質主義−−論理学、自然学、コスモロジーの狭間に立つアフロディシアスのアレクサンドロス』(Marwan Rashed, "Essentialisme - Alexandre d'Aphrodise entre logique, physique et cosmologie", Walter de Gruyter, 2007)を少し前から拾い読みしているところ。「実在論」と訳されることもあるessentialisme。昨年秋に読んだラシドの論集と同様に、テキストの細やかな読みを通じて議論は展開する。プラトン主義的ともいえるガチガチなイデア実在論でもなく、かといって逍遙学派のうちの物質論者ら(predicativiste:述語主義?など)に与することもなく、アレクサンドロスは狭間にあって一種独特な実在論を展開していた、という議論が全編にわたってなされている。アレクサンドロスは、たとえば種差などの問題を扱うにしても、ポルピュリオス的な論理学的範疇論ではなくて、存在論にかかわる形而上学的な議論を展開する。ラシドによれば、アレクサンドロスにとって論理学は自然学のシンタクスにほかならないのだという。結果、種差は質料を伴わない形相に属することになる。で、なんといっても興味深いのは、ラシドの議論によれば、アレクサンドロスでは質料も形相も微妙に二重化されていること。たとえば質料を単なる容器とせずに、その中に形相の萌芽(質料の中の差異)のようなものを見るといった中世の議論の先取りのような部分がすでにあり、一方の形相も、原理を為す形相一般と個物の中に形象として入っている形相とが微妙に区別されていたりする。ラシドは様々なテキストの断片からそうした像を浮かび上がらせるのだけれど、このあたり、思わず唸ってしまう……。

アレクサンドロスを唯名論の萌芽と見るアラン・ド・リベラは、基本的にピネスの議論をベースにしていたようだけれど、ラシドはピネスと対立するトウィーデイルの議論を支持している。とはいうものの、ラシドによれば問題は質料形相論なのであって、普遍の問題など形相の「徴候」にすぎないのだという。このような様々な読みを許すアレクサンドロスのテキスト、なんとも精妙・微妙なものだけに、いっそう面白いテキストであることもまた事実だ。

投稿者 Masaki : 15:43