2008年03月28日

[メモ]「スタンツェ」より

これまで部分的に参照したことはあったけれど、全体としてはどういうわけかスルーしてきたアガンベンの『スタンツェ』(岡田温司訳、ちくま学芸文庫)。文庫版が出たのを機に、全体に目を通せたのが嬉しい(苦笑)。若き日のアガンベンの、この博覧強記ぶりと目の付け所。やっぱり唸らせてくれる。個人的にとりわけ刺激的なのはやはり同書の中心をなす第三章「言葉と表象像(ファンタスマ)」だ。なにしろ、ジャン・ド・マンの『薔薇物語』の長い「脱線話」(ピュグマリオンの彫像話)から始まるこの章は、それがまったく脱線ではないことを示唆したあと、「像への愛」というテーマが13世紀の恋愛文学で多様されていたテーマであることを示し、そこからダンテを手がかりに、ファンタスマ、つまりは感覚で捉えられる像の考古学へと潜行していく。なかなかスリリング。その古層には、アリストテレスの視覚理論やその認識論、それらを中世に媒介したアヴィセンナやアヴェロエス、さらにそこに介在する「鏡」や光学理論、さらには医学的・生理学的な概念とコスモロジーをまたぎ、それらを媒介する精気(プネウマ)の理論、そしてそれらの医学的伝統と「愛(アモル)」の微妙な関係などなどがある。それらが壮大な見取り図のもとに浮かび上がってくる様は圧巻。

投稿者 Masaki : 23:34

2008年03月26日

[メモ] 顕現しないもの……

近年のフランス現象学の動向はなかなか面白いものがあるのだけれど、その流れで、永井晋『現象学の転回--「顕現しないもの」に向けて』(知泉書館、2007)を読んでみる。なるほどこれは、現象学の最近の流れを批判的に見据えつつ、非西欧圏ならではの解釈の可能性を探ろうとするもの。全体は3部構成で、第1部ではフランス現象学の問題・限界が論究される。マリオンの「飽和的現象」とかアンリの「受肉」などが、単なる神学への回帰などではなく現象学的な深化を目指すものであるとして評価する一方で、それらが「顕現しないもの」という現象の根源的な部分にいたる上では不十分であることを論じている。整理としてとても参考になる。第2部になると、そうした根源への潜行のためのモデルとしてカバラ思想を取り上げ、それを現象学的な探求と重ね合わせることが試みられる。うーん、しかしこのあたりになると、どこか言葉での記述の限界(言語のアプローチは、外枠を作れるだけなのでは?とか)の問題が絡んでくる感じで、モデルの提示から先に進むことができるのかどうかが問われてくる……。同書では第3部が一応その応用形になってはいて、井筒俊彦やアンリ・コルバンをもとに、イスラムの修行実践のモデル化(カバラのモデルとパラレルなもの)が論じられ、さらに「顕現しないもの」への直截的・非言語的アプローチを、近・現代絵画(キーファーなど)の展開に見るといった話になる。

さらには日本の民俗学のある意味要をなす、妖怪学への現象学的アプローチが論じられている。個人的にはこれがとりわけ示唆的だ。民俗学の構造的な認識とも、フロイト心理学の解釈とも次元の異なるレベルで、怖れという現象が立ち上がるその根源へとアプローチしようというもので、とりあえずは序論という感じだけれども、これはぜひ論の展開・深化を待ちたいところ。

投稿者 Masaki : 23:38

2008年03月24日

[古楽]三者三様

別に三者三様というタイトルではないけれど(笑)、まさにそういう内容のCDを聴いた。ウエルガス・アンサンブルによる『第5の元素(La Quinta Essentia)』(harmonia mundi、HMC 901922)がそれ。ラッススとパレストリーナ、さらにイングランドのトマス・アシュウェルのミサ曲を、対比的な形で味わえるというお得な一枚。曲目はラッススがミサ「すべての悲しみ」、珍しいアシュウェルがミサ「アヴェ・マリア」、パレストリーナがミサ「ウト・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」(音階ですな)。どこか街中の音の夾雑物を思わせる(褒め言葉です)ごり押し的でいて(これも褒め言葉)はっとさせる美しさを秘めたラッススの曲に、モノディ指向ながらも対位法の豊かさ、広がりを温存した形のアシュウェルの曲、そしてやはりモノディ指向ながら観想的な美しいメロディで聴かせるパレストリーナ。うーん、個人的な好みから言うとラッススかなあ、でも他の二者も捨てがたいところ……なんて、かなり贅沢な気分にさせてくれる。なるほど、ラッススとパレストリーナはほとんど同年代、その一世代前がアシュウェルなのだというが(ライナーによる)、イングランドはやはり大陸とは別様の伝統があったのだなということが、あらためて理解できる趣向だ。ポール・ファン・ネーヴェル率いるウエルガス・アンサンブルは、71年の結成だというからもうすっかり老舗の域に達している。ちなみにタイトルの第5元素は、録音が行われたリスボンの水の博物館から着想したものだという。4元素を超える何かを感じさせる雰囲気がその場所にあったからだとか。これもまた粋なタイトルではないの。

ジャケット絵は、ヤン・ファン・エイクの「金銀細工師ヤン・デ・レーウ」の下半分。これは1436年の作で、ウィーンの美術史美術館所蔵。第5元素というだけあって、少しばかり錬金術的なコノテーションを喚起しようとした、という感じか。ジャケットでのこうした絵の使い方もちょっと面白い。
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投稿者 Masaki : 23:43

2008年03月21日

就寝前読書本から

つい最近文庫で出たばかりのドゥルーズ『カントの批判哲学』(國分功一郎訳、ちくま学芸文庫)。就寝前読書という感じでつらつらと読了。『意味の論理学』に先立つごく初期のドゥルーズによるカント論なのだけれど、例の分厚い三批判をかなり平板に読み解き、カントの抱えている(らしい)問題点が見事に整理されている感じだ。とはいえ、その後の徹底的に脱主体化したドゥルーズ独特の思想体系の萌芽のようなものも随所に感じられて興味深い(特異点とか構造とか)。カントが切り裁いた感覚・悟性・理性の構造を、それぞれがシステム的に入り組む様子として再び総体的にまとめ上げようとする筆さばき。巻末の訳者解説で、この本はカント哲学の教科書としても読めるし、ドゥルーズ哲学の形成の一契機としても読める、と述べているけれど、まさにそんな感じだ。この間のマリオンの論もそうだったけれど、カントの美学まわりの問題はなかなか深いものがあるなあ、と。ドゥルーズもまた、「あらゆる目的を排除する、主観的で形式的な合目的性」として美学的合目的性を捉えている。うーん。

これまた就寝前読書本の一つなのが、アントニオ・ネグリのスピノザ論(Antonio Negri, "Spinoza", DeriveApprodi, 2006 (II edizione))なのだけれど、これは遅々として進んでいなかった。ネグリはもうすぐ来日だなあ、なんて思っていたら、なんといきなり直前で中止だそうな(月曜社のサイト「ウラゲツブログ」に詳細が)。ちょっとびっくり。「禁固などの経験者は入国させないが、政治犯なら例外だ、だから政治犯だったことを証明せよ」だって。それって普通に考えて、とても変な話。政治犯・思想犯だという「認定」は第三者的にしかなされないわけで、では誰がどんな書類でもって認定しうるのか、というのが問題になってしまう。今回のはまさにそういうことか(日本側が「彼は政治犯なのだから特例としましょう」といって入国を認める、とかいうのなら話はわかるのだけれど)。また、ここでいう「政治犯」は、たとえば体制側の一方的な暴力とかで収監された被害者的な意味などできちんと規定されているのかしら?そうでないと、テロリストとかどんどん入ってこれる理屈になってしまうのだけれど?ちょっと出入国管理法って調べてみようか。

投稿者 Masaki : 23:20

2008年03月20日

オリュンピオドロス

クリスティーナ・ヴィアーノの『事物のマティエール--アリストテレス「気象論」第4巻とオリュンピオドロスによるその解釈』(Cristina Viano, "La matière des choses - le livre IV des météorologiques d'Aristote et son interprétation par Olympiodore", Vrin, 2006)。とりあえずヴィアーノによる論考部分(前半)にざっと目を通したところ。後半はオリュンピオドロスの「気象論注解」から第4巻部分のギリシア語校注テキストと仏訳で、こちらはまだ半分行かないくらい。アフロディシアスのアレクサンドロスの『形而上学注解』をちょっと中断して少し前から読み進めているところ。ヴィアーノの論は、オリュンピオドロスの注解についてのいわば総論で、文献学的な突き合わせをしながら、『気象論』第4巻の様々な問題を取り上げている。これはいろいろな部分で参考になるなあ、と。例の「孔」と「粒子」の話についても、「孔」などの用語法はアリストテレスの中ではごくありふれた「物体が変化しうる点」みたいな意味合いで使っていて、原子論的なニュアンスはないといった指摘がなされている。第4巻は3巻までとは趣きが異なるので、とくにその位置づけをめぐってはアフロディシアスのアレクサンドロスが疑問を呈して以来議論が取り沙汰されてきたわけだけれど、オリュンピオドロスはむしろそれを連続したものと考える側に立っているのだとか。

投稿者 Masaki : 23:46

2008年03月18日

[古楽]マドリガーレ第5集

春先にあわせて(?)モンテヴェルディ。ラ・ヴェネクシアーナによる『マドリガーレ集第5巻(Quinto Libro dei Madrigali)』。マドリガーレ集の中でもひときわ重要なのがこの5巻(でも録音はむしろ第8集などのほうが多い気がするのだけれど……)。なにしろこれは、ジョヴァンニ・マリア・アルトゥージとの間で論争があったせいで、「バロック時代の始まり」なんて言い方がされりもする曲集(1605年の刊)。モンテヴェルディはこの5巻の序で、有名な第二作法(第一作法はポリフォニー的・対位法的な演奏、第二作法はより自由な対位法を用い、モノディへと通じる演奏)を論じ、「不協和への準備や解決を守っていない」というアルトゥージの批判に対応しているのだという(ライナーより)。なるほど実際に聞いてみると、ところどころの不協和などとても面白い。収録曲は曲集の全部ではないけれど、盤の前半はルネサンスの伝統を強く感じさせるような演奏で(と思う)、端正かつ剛直な感じがなかなかに味わい深く、通奏低音が入る後半は自由度が増すかのような流れになっていて、印象がまた鮮やかに変わる。

投稿者 Masaki : 23:18

2008年03月16日

このところのガジェットいじり

昨年秋ごろに一部で話題になっていた、W-ZERO3をワイヤレスモデムにしてiPod touchからのWebブラウズをする、というのを実際にやってみた。当時紹介されていたのはZEROProxyというソフトだったけれど、その後、同じ作者による別ツール(DeleGateLauncher)が出ている。両方ためしてみるとこちらのほうが若干安定性が高い感じ。いずれにしても出先で使えて(遊べて)ちょっと重宝している。とはいえバッテリーの消耗が激しく長時間の使用は厳しいし、速度的にもちょっと……それは仕方ないことだけれど。また、メールは標準のものが使えず、Webメールを使うしかない。

基本的にこのW-ZERO3とiPod touchの接続はアドホック接続というやつなのだけれど、どうせなら最近キーボードを改造して普通に使えるようになった工人舎マシン(SA1F0A)で、最近入ったイーモバイルのダイヤルアップ接続とワイヤレスのアドホック接続をブリッジして使えないかと思ったのだけれど、これはなぜか失敗。XPのHome Editionだからかしら?ブリッジ接続はダイヤルアップとはできないようだし、インターネット共有設定だけではなぜか接続してもpingを打てない。Vistaでできるという話もあるようで、とかくいい噂を聞かないVistaも、ワイヤレス環境についてだけは良くなっているということなのか……。ちなみにイーモバイルのモデム、都内のある出先のビルの奥まっている部屋では使えなかった。これは大きな誤算。以前使っていたドコモのFomaや、ウィルコムはちゃんと使えているのに、なんてこと。またこのモデム、Librettoに入れたVine Linuxでは、なぜかドライバ入れてもこけて使えない。これもまた謎だ(笑)。

投稿者 Masaki : 22:36

2008年03月14日

[メモ]粒子論関連論文集

リュティ、マードック、ニューマン編纂の『中世後期・近代初期の粒子的物質理論』("Late Medieval and Early Modern Corpuscular Matter Theories", Brill, 2001)なる論集のうち、中世関連のものにざっと目を通す。目次の順番はひとまず無視してまずはニューマンから読み始める。再びゲベルス(ジャービル・イブン・ハイヤーン)の話が中心で、『完徳大全』(ニューマンはこれをアラビア語からの翻訳ではなく、13世紀にラテン語著者によって書かれたものと考えている)での元素の記述が粒子論的だと指摘。これにはサレルノの伝統が影響している可能性があると述べている。ゲベルスの書の直接の影響関係のほか、サレルノの伝統からは原子論的な考え方も出ていて、ガレノスの元素論などが絡んでいるという。また、16世紀以降にはアリストテレス『気象論』4巻の記述との統合の動きも、という話。なるほどサレルノか。で、この同じ論集の冒頭を飾っているのが、ダニエル・ジャカールによるサレルノの12世紀の医学書群を扱った論考で、これがそのサレルノの伝統に光を当てている。医学書は基本的にコンスタンティヌス・アフリカヌスほかによるアラビア語文献の翻訳・翻案ものがベースにあり、それに様々な注解が施されているのだという。たとえばサレルノのバルトロメオスなどは、ピロポノスのアリストテレス注解をいくぶん曖昧にしたワーディングを用いているという。「孔」と「粒子」とが組み合わさるといった混成の話も、アラビア語文献やガレノスなどの影響関係があるらしい。なるほど。そういばこの論集とは別筋の話だけれど、粒子論がらみではピロポノスというよりオリュンピオドロスの影響関係もあるという話も耳にしている(それはまた後で取り上げよう)し、なかなかこの辺り、深いものがあるなあと。

このほか、論集に収録の中世ものとしてはロジャー・ベーコン論(モランド)、ライムンドゥス・ルルス論(ロアー)、それからマードックによる「ミニマ・モラリア」の変遷に関する論など。

投稿者 Masaki : 19:31

2008年03月10日

[メモ]ドゥルーズ論

先日から読み始めた『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社、2008)。30編ほどの論文から成る大分な論集。こういうのが出るというのは、まだ出版界も捨てたものではないかも、としみじみ思う。まだ最初の5編ほどしか読んでいないのだけれど、前期ドゥルーズにはとりわけ思い入れがあるせいもあって、いずれもとても参考になる力作揃いという感じだ。「出来事」をめぐるドゥルーズのストア派的な生成論の諸相を解説する初っぱなの上野論文は、続く近藤(智)論文と好対照をなす。後者はドゥルーズのストア派解釈を、ソース(ブレイエやゴルトシュミット)から検証し直し、そのやや「牽強付会」な読みを証しつつ、その方向性自体は現代的な解釈に呼応することを指摘してみせる。郡司ほかの論文はマクタガートの時間論(時間の非実在を論理学的に証そうとする)を、そこに時間を生成する主体を持ち込むことによって相対化し、ドゥルーズ的な時間論の綜合をなそうとする。このあたりはちょっと反則的だけれど、結果的には時間の非空間論的配置みたいな話へと至っていて、個人的には刺激的。さらに近藤(和)論文は、ドゥルーズの使う微分の概念を問い直すという企図のもとに、ドゥルーズによるカント哲学の発生論的観点からの批判という論点を一巡して興味深い考察を展開している。経験に還元されることのない「理念」の性質を超越的規則の反復の様態に見るというそのスタンスと、以前の発生論的な微分法解釈とが重なり合うという指摘。ドゥルーズの用いる微分法が単なる比喩なのでもなく、ましてやソーカル的な断罪の対象になる無意味なものでもないことを巧みに論じている。これにはちょっと唸ってしまった。さらに続く原論文は、「強度」概念をこれまたドゥルーズが参照するソースに戻って考え直したもの。このように、なんだかドゥルーズ哲学の解釈は確実に新しい時代に入ったように思えて、とても喜ばしい気持ちになってくる。残る25編も、期待しつつ少しづつ読んでいこう。

投稿者 Masaki : 23:51

2008年03月08日

[古楽]ソロモンの雅歌

1月2月のあたりは例年、古楽系のCDのリリースはあまりぱっとしない気がする。それにあわせてこちらの購入意欲もちょっと弱まる感じか。まあ、西欧圏的にはクリスマスから復活祭あたりまでは、あまり華やかな彩りはないということなのかしら(笑)。それでもまあ、個人的には少し前に出た盤などを漁ったりするのだけれど、こういう時は選ぶものもパッとしない。カークビー&アニエス・ムロンのクープラン&ド・ラランド「ルソン・ド・テネーブル」(BIS)が個人的にはちょっとピンと来なかったり、イエルク=ミカエル・シュヴァーツ他によるビーバー「技巧的で楽しい合奏」(パルティータ集)がなんだかえらく退屈だったり。そんな中、やはり人間の声の重なりの美には適わないなあという感じで、ちょっと上向かせてくれそうなのが、マイケル・ムーンとアンサンブル・プラス・ウルトラによるジョゼッフォ・ツァルリーノ『ソロモンの雅歌』(Glossa、GCD 921406)。ツァルリーノは16世紀に活躍した音楽家・哲学者・論理学者。当代きっての音楽理論家と謳われた人物なのだとか(。サンマルコ大聖堂の楽長などを務めたりしたというが、理論の方面で有名だったせいか、作品は知られてこなかったという。理論書『調和要論』の前にモテットのアンソロジーの実作があったという話。というわけで、これは大変珍しい録音。収録された12曲のモテットのうち、10曲が歌詞をソロモンの雅歌(ウルガタ聖書ではなく、当時の聖職者イシドーロ・キアーリによる校注新版)から取ったもの。演奏もなかなかに端正で、時にリリックに歌い上げている感じ。

ジャケット絵はあまりにも有名なティツィアーノ「聖なる愛と俗なる愛」。羊飼いと、狩りをする人々が描き込まれた右側奥の背景部分のディテールが、ジャケット裏面を飾っているという面白い趣向。というわけで、その絵を挙げておこう。

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投稿者 Masaki : 21:03

2008年03月05日

アベラール再び

フランスの人文系出版社Vrinから出ているSic et Non叢書。この中のアベラール(アベラルドゥス)の『知性論(tractatus de intellectibus)』の羅仏対訳本("Des intellections", trad. P. Morin, Vrin, 1994)をようやく入手。とりあえず本文と解説(注解)をざっと読んでみる。アベラールの普遍概念については、かつては概念論と括られ、その後修正されて唯名論の祖という扱いに変わってきているわけだけれど、唯名論的な括りのベースとされる「イングレディエンティブス論理学」は、とりあえずは実在論との調停的な色合いがやや濃いテキストだったように思う。で、その後に書かれたといわれるこちらの「知性論」では、抽象(捨象)による知解の理論はいっそう重みを増している感じか。「知解のしかたは実在のしかたとは異なる(Quod alius modus est intelligendi quam subsistendi)」(知解対象そのものと知解された対象とは別物である)というのが核心的テーゼで、「人間が走る」と理解する際の「人間」は、実在するどの人間にも還元できない、あくまで定義上のものなのだといった議論を展開している。明言されているわけではないが、その場合の共通項としての「人間」は、あくまで捨象によって知性の中で成立するものであって実在するものではない、といった話が導かれるのはある意味自然な流れ。うーん、なるほど。訳者のモランも解説の末尾で、「アベラールをオッカムのウィリアムの先駆だとまでは言わないが、サリー(オッカム村があった)の唯名論者を呑み込んだ裂け目を穿ったと考えることはできるだろう」としている……。

投稿者 Masaki : 23:25

2008年03月02日

初期教父たちと書物

つねづね書物史の観点から古代末期・中世を論じたものを読みたいと思っているのだけれど、なかなか時間が取れなくて(と言い訳してみる)。そんな中、アンソニー・グラフトン&ミーガン・ウィリアムズの共著『キリスト教と書物の変容』(Grafton&Williams, "Christianity and the Tranformation of the Book", Belknap Press of Harvard University Press, 2006)をようやく読む。研究書ではあるのだけれど、かなり一般読者向きなのが好感を抱かせる。オリゲネス、パンフィロス、エウセビオスと続くギリシア教父たちが、いかに文献学的な関心を抱き、聖書の編纂作業などを通じて書物の変革(コーデックスの採用やインデックスの原型の成立)を導いたかを、当時彼らが活躍したカエサリアの社会状況なども踏まえつつ軽やかな語り口で論じていくというもの。オリゲネスのヘクサプラ(六表記での旧約聖書対照本)とエウセビオスの『教会史』を分析の中心に据えている。基本的スタンスは、まだかなりの少数派だった当時のキリスト教を擁護するための、論争での参照ツールとして、彼らは書物に独自の「レイアウト」を施し編纂を進めていったというもの。一方で、どこかそこには人間的な(というか)蒐集への熱情も見られたりもする。ツールとしての観点も重要だけれど、そうした背後で支えている動きとか、ツールを超えた影響力などのほうに個人的には関心がいく。少しそのあたりについて論じたものも探ってみたいところ。そういえばグラフトンについては最近邦訳で『カルダーノのコスモス』が出たけれど、脚注の歴史的研究などもあるようなので、ちょっと注目かも。また、ウィリアムズにはヒエロニムスを扱った同様の書物研究があって、これもちょっと見てみたいところ。

同書の表紙を飾っているのは、有名なアミアティヌス写本(ブリティッシュ・ミュージアム蔵、7世紀末から8世紀初頭)の挿絵。バビロン捕囚後にユダヤ律法を編纂した書記のエスドラスの姿を描いたものだけれど、これ、カッシオドルスの肖像画ではないかという話もあるようだ。

Codex_Amiatinus.jpg

投稿者 Masaki : 23:07