2008年04月30日

ヘルダー社の中世哲学叢書

途中で中断していたスコトゥスの『パリ講義録』の抜粋(ヘルダー社の中世哲学叢書のもの:Duns Scotus "Pariser Vorlesungen über Wissen und Kontingenz", Verlag Herder, 2005)を久々に開く。"Reportatio Parisiensis"から、知解と偶有に関する部分(I 38〜44)を抜き出したもの。で、これに関連して久々にこのヘルダー社の対訳シリーズを検索したら、なんかラインナップがすごく充実してきていてちょっとびっくり。ブラバントのシゲルスも出ているし、オリヴィやグンディサリヌスまでも!食指がそそられるなあ。さらに6月刊ということで、ソールズベリーのジョンの『ポリクラティクス』、ロジャー・ベーコンの『大著作』からの抜粋なども予定されているし(アマゾンの表示では昨秋に出たように書かれているけれど、まだみたい)。ユーロは相変わらず高いけれど、ここは一つ……(苦笑)。

投稿者 Masaki : 23:45

2008年04月28日

[メモ]アリストテレス思想の巨視的見取り図

前回のアーティクルの続きだけれど、ルーベンスタイン『中世の覚醒』でとりわけ興味深いのは、カタリ派とアリストテレスの関連への言及だったりする。しかもしれは、アベラールの話から続いていく。アベラールは若い頃から才気溢れる論客で、その言辞はやがて組織としての教会(の権威)に真っ向から楯突く様相を呈する。組織の側も黙ってはおらず、最後には有力者だったクレルヴォーのベルナールを引っ張り出して弾劾するにいたる。けれどもこのアベラールのような教会権力への批判は、やがて今度は放浪修道士の辻説法の形で存続し、これまた組織側からの弾圧を受ける。で、そうこうするうちに南仏を中心とするカタリ派が登場する。その指導者たちはなんとアリストテレスの論理学を駆使し、教会側との論争を征していく。で、教会側は、そうした異端派との論争に勝ち抜ける人材を教育するために、ちょうど成立しつつあった大学を整備することに……。なるほどこのようにまとめると、一連の歴史的な動きが有機的な繋がりとして浮かび上がってくる。

著者も指摘するように、カタリ派の世界観はアリストテレスの世界観とは相容れないものなのだけれど、少なくともアリストテレス本格流入前の論理学系著作は受け入れ、しかも応用していたというのが興味深い。このツールとしてのアリストテレスという部分は、その後教会の内部にも完全に取り込まれ、後の自然学系の著作が禁令を受けても、しっかりとそこに根付いたのだ、と著者は見る。ところがそうなると、後に大きな問題になる「信仰と理性との関係」に徐々に溝が穿たれる。ドミニコ会のトマスはそれらを統合する立場に立つものの、フランシスコ会は基本的に両者を区別する立場を取り(ロジャー・べーコンあたりもそうだけれど、決定的なのはやはりスコトゥス、オッカムか)、さらに後代になるとエックハルトなどドミニコ会内部からも、両者の溝を絶対的なものとする神秘主義の立場が出てくる。そうした信仰と理性の分離の立場からは、近代的な意味での科学が芽生え、アリストテレスの主張にも修正が加えられる(ビュリダンやオレーム)。「信仰と理性」の話は同書後半のメインストリームをなしている。アリストテレス思想の衰退については詳しくは扱っていないものの、信仰と理性の分離の結果、信仰は矮小化し、結果的にカトリック教会の価値観の衰退とともに、そこに事実上一体化していたアリストテレス的なもの全般が否定・忘却されることになったのだ、と総括されている。みずからが生み出したものによって復讐されるという逆説か。

著者はアリストテレス思想がもともと「拡大主義的ですべてを秩序づけようとする世界観」(p.65)に根ざし、イスラムでも中世後期でも、そうした世界観を受け入れる土壌、すなわち発展期に受容されていることに注目する。で、対するプラトンは、どこか不安と渇望で満たされた時期に広がりをみせるという(p.89)。現代世界はどうやら再びプラトンが受容されるような情勢になっている感じ(もちろん、今やそのままの形での受容ではありえないだろうけれども)。その著者は末尾で、現代世界においてふたたび、その信仰と理性の乖離というアリストテレスが遺産として残した問題を再考すべきではないかと問いを投げかける。うーん、おそらくそのための準備作業には、こうした有機的な繋がりのもとで歴史の流れを再構築する「史的想像力」みたいなものが、やはり不可欠になるのだろうな、と。

投稿者 Masaki : 19:46

2008年04月24日

「中世の覚醒」&シゲルス

このところ、リチャード・ルーベンスタイン『中世の覚醒』(小沢千恵子訳、紀伊國屋書店)を通読中。これ、原題は「アリストテレスの子どもたち」というもので、2003年の本。著者は中世プロパーではなく、国際紛争などの研究者。それだけに、思想史を眺める目も実にパワーバランス的で、なかなかに興味深い。思想をとりまく政治状況が実に見事に活写されていく。たとえば13世紀のアリストテレス思想をめぐる大学と教会との対立関係などは、なるほど歴史的事実としては知っていても、こういう微細な人間模様として浮かび上がるとはなかなか想像できない(苦笑)。背景に在俗教師、ドミニコ会、フランシスコ会、司教などのそれぞれの思惑が交錯していて、実にスリリングな対立関係を織りなしていることがわかる。これはある種の整理としてはとても有用かもしれない。

ちょうど大橋氏のブログで、ブラバントのシゲルスについて取り上げられていたのだけれど、このシゲルスという人は実に波乱に富んだ一生を送っていて、なんだか小説の主人公にでもできそうなほど。若いころはいわゆる学生団(イタリアでもウケているという惣領冬実のコミック『チェーザレ』に出てくるアレですな)のリーダー格として暴れまくり(笑)、その後に学芸学部の教師になってからはアリストテレス思想をキリスト教とのすり合わせもなく教え(神学を巧妙に避け、非難をすり抜けるという政治性!)、一派を作り上げるまでにいたる(いわゆる急進派)。神学的には優秀でも政治的目配せにはやや疎いといわれる(?)トマスの論戦参入や、急進派が学部長選挙に敗れるなどの経緯(1272)を経て、急進派はいったん追いやられるものの、地下に潜り、やがて1320年頃に一派としては再浮上していく(パリ以外で)。一方、当のシゲルスは、なんと「秘書」(同僚の聖職者?)によって、1281年から84年の間に刺殺されてしまうのだという。

いずれにしても、思想史もこうやって外部の歴史につなげていくことはとても重要だ。改めてそのあたりのことを思い起こす。さて、この『中世の覚醒』のカバーを彩るのは、アンドレア・ダ・フィレンツェ(アンドレア・ディ・ボナユート:1343〜77)の有名な「トマス・アクィナスの勝利」(サン・マリア・ノヴェッラ教会)。Webでの画像はあまり発色が良くないけれど、カバー画はとても色鮮やか。

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投稿者 Masaki : 00:43

2008年04月22日

[古楽]DHM50周年記念盤

古楽レーベルの老舗ドイツ・ハルモニア・ムンディ。その50周年記念盤という50枚組のボックスを予約注文で購入した。先日現物が届き、とりあえずキズとかないことを確認するためにも全部聴かなくては(笑)。ほとんどマラソンだけれど(苦笑)。それにしても50枚はなかなか壮観。いくつか重複してしまったものもあるのだけれど、タワーレコードの予約販売特価で5000円ちょいだったので、一枚100円強。ということはバックアップだと思えば安い。それに未聴のものは、普通なら2〜3枚しか買えない値段だから超お得。ただしケースやライナーは当然ないのだけれどね。50枚のセレクションは、フランスのSony BMGが担当しているのだそうで、確かに日本だったら全然別のセレクションになったろうなあ、という気がする。ラモーの『ピグマリオン』(ラ・プティット・バンド&レオンハルト)とか、リテレスの『ロス・エレメントス(元素)』(アル・アイレ・エスパニョール)とか、グルックの『中国人』(ルネ・ヤーコブスほか)とか、なかなかに面白そうなものが目白押し。これ、改めて見たらタワーレコードは扱い終了となっている。また、アマゾンでは4月29日発売で8500円ちょっとになっている。このあたりの価格差は微妙なところ。おっと、これとは別に、日本独自企画のDHMベスト50のセレクションも始まっているようだ(HMVを参照)。こちらは1枚1000円〜の廉価版での再販。やっぱりラインナップが傾向として違うみたいで、これまた面白い。

投稿者 Masaki : 23:49

2008年04月19日

パレーシアの話

中山元『賢者と羊飼い』(筑摩書房、2008)をざっと通読。うーん、これはなんというか、本を書くことの難しさを突きつけてくるような一冊。中山氏はずいぶん前からフーコーが取り上げた「パレーシア:παρρησία(ギリシア語読みなら、レーじゃなくてシにアクセント)」概念にこだわり、事あるごとにその問題系に言及してきた。で、これはその考察の最初の集大成(続編もあるかもということで)。古代ギリシアからヘレニズム期をへて、キリスト教の初期教父の時代まで、パレーシアを中心に思想潮流を辿っていくという労作……。でも、読後感として強く感じるのは、フーコーを軸にすえなくてもこうした思想史的な著作はできたのでは、という感慨。あるいはまた、思想家や様々な伝承などをめぐるうちに、フーコーの探求そのものははるか後衛に退いてしまうということ。フーコーのパレーシア概念やそれに関連するテーマとしての性愛論のほかに、また別の軸線とかも必要なのかも、といったことも考えずにはいられない。どうもこの、軸線の複数化というのはとても大事な気がする。それがないために(?)いまひとつ成功していない著作というのは世に結構あって、たとえばこの数年で読んだものでも、夢野久作とメディアを扱ったものとか、ラカンと寺山修司の作品を扱ったものとか(書名はあえて挙げないけれど)、とても惜しい作品がちらほら……。で、話をもどすと、中山氏は山本義隆氏や長谷川宏氏などと並んで、いわば在野の研究者の代表格なだけに、続編にも大いに期待したいところ。山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995)じゃないけれど、日本の知的な底流はやはり市井の活力あってのことなのだし。そんなことをますます思う今日この頃……。

余談ながら、同書の前半の特にヘレニズム関係のところは、岩崎允胤『ヘレニズムの思想家』(講談社学術文庫)などを併せ読むと理解が深まる気がする(笑)。また後半のキリスト教思想を追った中で、身体を排除せずに評価する教父として、ギリシア教父ではクレメンス、ラテン教父ではテルトゥリアヌスが挙げられている。特にこの後者の身体に関しては、たとえばヨーゼフ・ラッツィンガー(ニューヨーク訪問を果たしたベネディクト16世だ)『アウグスティヌスの教会教義における民と神殿』(Ratzinger, "Volk und Haus Gottes in Augustins Lehre von der Kirche", Eos Verlag Erzabtei St. Ottilien, 1951-92)での言及では、身体の擁護のトーンがやや異なる印象だったように思う。そんなわけで個人的にも、そのうちもとのテキストに当たってみたいと思う次第だ。

投稿者 Masaki : 22:50

2008年04月16日

[古楽]モーツァルトのパロディ・ミサ

このところ聴いている、ちょっとご機嫌な面白い盤。『モーツァルト--「コジ・ファン・トッテ」ミサ』(Oehms、OC916)。表題のものは盤の前半で、「コジ・ファン・トッテ」からの曲をベースに逸名作者がアレンジし直したミサ曲。いわゆる「パロディ・ミサ」というやつだ。シュヴァーベン(ドイツ南西部)のニコラウス・ベッチャーなる大修道院長(ハイドンゆかりの修道院とか)が所有していた写本からのものなのだそうで。一部はその編曲者のオリジナルになっているようなのだけれど、とにかく面白い。モーツァルトの軽快な音の運びに、典礼の歌詞が載ることで、一種独特の華やいだミサ曲ができあがっている。オフェルトリウムはまた別の19世紀のアレンジで、「皇帝ティトの慈悲」からのものを組み合わせている。18世紀以降、パロディ・ミサはかなり稀になるというのだけれど、モーツァルトに関しては「ドン・ジョヴァンニ」ミサとか「魔笛」ミサもあるのだそうで、ちょっと聴いてみたいかも(笑)。CDの後半はおなじみ交響曲第41番ハ長調「ジュピター」。ピリオド楽器による演奏で、それでいて少し昔風の落ち着いた感じの演奏。ドイツっぽい?演奏は「ジャーマン・モーツァルト・オーケストラ」という2006年結成のオケ。指揮のフランツ・ラウムという人はトン・コープマンの弟子筋なのだそうで。

モーツァルトついでだけれど、最近、水林章『モーツァルト<フィガロの結婚>読解--暗闇のなかの共和国』(みすず書房、2007)を読了。いや〜これ、著者の<フィガロ>への思い入れもさることながら、堅実でミニマルなテキスト読みが実に鋭くて、なにかこの、テキスト分析の模範を見る思いがする。普通の視聴者なら脳裏をさっとよぎっては流れ去ってしまう「意味のかけら」を、微細な読解によって紡いでいく。メソッド的にはロラン・バルトなどを彷彿とさせるけれど、こちらはさらに当時の社会史などをも参照し、なによりもスコアとダ・ポンテの台本と、さらにはボーマルシェの原作まで参照して、その時代状況の反照を浮かび上がらせるという離れ業だ。

投稿者 Masaki : 22:22

2008年04月15日

摂理の考古学

前回のエントリで触れた、ジルソンの言うキリスト教による形而上学的深化は、やはり「キリスト教」というよりは一神教的な深化という風に一般化できそうな(というかむしろそうすべきような)気もする。その一方で、ギリシア的な原理と必然との体系が、存在付与と自由意志(恩寵)による体系にシフトするというのは、図式的にはわかりやすいけれど、実際はそう単純ではないかも、なんてことを思ったりもする……。とはいえ「なんらかの深化」という議論そのものは、ある程度納得いく部分もある。たとえば摂理もしくは神慮という、かなり古くからあるテーマがそう。

昨年末からアラビア語読みのテキストとして使用していたアフロディシアスのアレクサンドロス『摂理について』("Traité de la providence", trad. Pierre Thillet, Verdier, 2003)の、訳者ピエール・ティエによる解説が、摂理についての考え方の略史を手際よくまとめていて役立つ。アリストテレスそのものには摂理論はないのだけれど、テキストの各部をまとめることによって、ありうるはずの摂理論は再構築可能だとティエはいう。歴史的には、まずは後1世紀以前に、神の摂理は月の天球までで月下世界には及ばないとする思想的伝統があったという。摂理はあまねく広がりつつも、諸天をへて神からの距離が開くにつれてその作用は弱まるという考え方が、そのベースにあるらしい。この考え方は逍遙学派のアレクサンドロスにまで伝わっている。この「あまねく広がる」という部分はストア派の考え方(世界そのものが神的だとする)に呼応するようなのだけれど、これがセネカあたりになると、「摂理が及ぶのは個ではなく種までだ」という視点がはっきり出てくるのだとか。一方、中期プラトン主義のヌメニオスあたりから、摂理は質料において制限を受けるときっぱり述べるようになるのだという。直接の影響関係はともかく、こうした潮流があったことは確かな様子。このように、ストア派やプラトン主義の課した制約は、逍遙学派にも取り込まれているというわけだ。ま、それらの制約は各々の思想体系にとって一環したものなのだろうけれど、一方でキリスト教の摂理の考え方は、そうした制約面を明らかに打破している感じもする……ってこれはまだ印象の話(笑)。文献的にちゃんと確認してみたいところ。

投稿者 Masaki : 22:59

2008年04月13日

中世哲学の「神髄」

エティエンヌ・ジルソンを相変わらず読んでいるところ(笑)。『中世哲学の精神』("L'Esprit de la philosophie médiévale", Vrin, 1998) 。1943年の第二版の復刻版。「精神」というか「神髄」というか。とりあえずこれの最初の4章を流し読み。キリスト教哲学なんてものが果たして定立できるのか、という問い。ジルソンはこれについて、「存在」そのものとしての神を立てたことによって、中世のキリスト教世界は、アリストテレスの唱える原理としての神や、世界創造の神よりも、形而上学的に深みを増すことになったと述べる。なるほど、存在の分有という形であらゆるものに神的なものが宿るというのは、個物が別個にあってそれが原理によって支配されているというよりも、はるかに緊密な体系ができることになるわけで。そればかりか、ジルソンが言うには、存在を与える神という観点から、地上世界のものはすべて存在の根っこにいたるまで偶有性の刻印を押されることになり(存在しなかったかもしれないというわけだ)、したがって世界は原理による必然性によってではなく、ある自由意志によって織りなされることになる。これはまさに恩寵へと開かれた世界と言うに相応しい……となるわけだ。

ジルソンは基本的にはギリシア思想とキリスト教哲学とを連続の相のもとで見ていて、後者においてある種の深化がもたらされたと評価している。そういえば前に挙げたジャン=リュック・マリオンは(『可視と啓示』)、このジルソンの見解をさらに極限に押し進めることで、「キリスト教的な啓示は、実は理性にとって不可欠な補助役なのだ」とまで言い放つ。いや〜、このほれぼれするほど見事な展開。改めて感服(笑)。

投稿者 Masaki : 22:27

2008年04月10日

バースのアデラード

チャールズ・バーネット訳・編の、『バースのアデラード:甥との対話』("Adelard of Bath : Conversations with his nephew", Ed. & trans. C. Barnett, Cambridge University Press, 1998)を、解説を中心に久しぶりに再読。これは翻訳者としても知られるバースのアデラード(12世紀)による三つの対話編(「同一と差異について」「自然の問題」「鳥に関する論」)校注版を対訳で収録したもの。冒頭に解説がある。とりわけ自然学を扱った「自然の問題」が今更ながらだけれど面白い。アリストテレスの自然学が直接的に流入してくる以前の、いわば「旧弊」な自然学的問題への応答の一例を示すものとして、とても興味深いもの。アデラードのソースの一つには、ネメシウスの「人間の本性について」のラテン語訳(「premnon phisicon:自然学の根幹」)があるというのだけれど、これを訳したのが、サレルノの大司教アルファノ(1085没)。「minima naturalia」の伝統の発祥の地とも言われるサレルノに、こうしてつながるという次第。しかもそれは、コンスタンティヌス・アフリカヌスの著作の訳が浸透する以前のサレルノだという。また、本人言うところの「アラブ人」の学問研究からの影響もあるというのだが、このあたりは、正統教義とは異なる見解を示す際の、異端視されないための予防線、「解釈の装置」だった可能性がある、とも指摘されている。うん、いずれにしても、12世紀のサレルノというのは思想史的にはかなり重要なのだな、と。

投稿者 Masaki : 23:33

2008年04月08日

このところの諸々

・イーモバイルのモデムD02HWをW-ZERO3で使うというアーティクルを発見。見ると、汎用USBドライバの232usb.dllを使うとある。これって、シグマリオンIIIからW-ZERO3をモデムにしてネットにつなぐ場合と同じドライバだ。ってことは、USBのセルフパワーさえ確保できれば、シグマリオンIIIからD02HWでネットできるということになる。で、実際にやってみたところ、セルフパワーのUSBハブを間に入れることで、問題なくネットができた。これで少しばかりイーモバイルが活用できる……かなあ?

・先月末のネグリ来日中止問題は、結局主催者側の対応の不備かというような話の流れになったみたいだが(このアーティクルの、「自律的移動」なんて言えるのはお金持ちだからという指摘、あるいは「現実の世界にはノマドもエクソダスもない」という一節が、妙に胸に響くのだけど……)、これはネグリの話にとどまるものではとうていなく、より広範に入管法の実務上の問題(政治犯の定義はあいまいだというアーティクルもある)や、国の内部・外部というメタな問題をも開くものであるはず。関係者たちにしてみたって、学者特有の被害妄想・被害者意識(?)みたいなものにドライブされて抗議声明なんぞ出すよりも、出入国管理周辺の問題を広く喚起することのほうがはるかに大事だろうに……。

・パリでの聖火リレーは事実上の中断となったようだけれど、それにしても妨害活動の中心が「国境なき記者団」だというところに、ものすごく違和感を感じるのだけれど……。少なくともこの妨害行為に関しては、ジャーナリストらのチベット入り妨害への腹いせのようにしか見えず、その意味ではボイコットの呼びかけを利するものではないのでは?ロンドンやパリで聖火を妨害したって当の中国は痛くもかゆくもないわけで、そんなことより、チベット入りがどう妨害されたのか詳しくレポートしてほしいのだが。

・今年の桜鑑賞は国立(一橋大付近)。先週金曜の写真。
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投稿者 Masaki : 11:14

2008年04月07日

モッラー・サドラー

先の山下志朗氏の著書といい、最近の永井晋氏の著書といい、このところ井筒俊彦氏の諸著作が個人的に存在感をいや増しつつある(笑)。そんな連関もあって、さしあたり古書で入手した井筒訳のモッラー・サドラー『存在認識の道』(井筒俊彦著作集10、中央公論社、1993)を通読する。本文もすこぶる明晰だけれど、井筒氏による巻末の解説が見事な整理。なるほど、アヴィセンナのいう「存在の偶有性」が、アヴェロエスや西欧においては曲解されている(ここでいう「偶有性」が範疇論的に捉えられてしまい、本質に後から付け加わるもののように見なされてしまっている)のに対して、モッラー・サドラーはこれを、本質が存立するとはすでにして存在が前提となっていて、本質に対して存在が偶有であるというのは、渾然一体となった外在物を理性が二次的に分析した場合にのみ、存在と本質の二項が同時に成立するかのように理解されるのだとする。存在と本質はこの場合、あくまで概念的区別であって実体的区別ではなく、解説によれば、それはまさにアヴィセンナの立てた両者の区分の本来的な解釈なのだという。それをベースに、モッラー・サドラーは、本質ではなく存在こそが実在性をもつという、スフラワルディーと対立する立場を取るのだという。うーん、これはなかなかに深いものが。現象学的な「現れ」とはまたベクトルの違う見識を、ここから抽出できそうな感じ……(?)。

モッラー・サドラーは17世紀初頭に活躍したイスラム哲学者。井筒氏によれば、アヴェロエス以降の12世紀から17世紀初頭までをイスラム哲学史上の第二期と見なせるのだといい、ペルシアを中心とする文化的繁栄期にあたるとされている。なるほど、アヴェロエスでいったん終息、なんていうのはやっぱり古い説だったわけか。

投稿者 Masaki : 22:47

2008年04月03日

15世紀のイタリア料理

ちょっと閑話休題的に読んでいる、クラウディオ・ベンポラートの『15世紀のイタリア料理』(Claudio Benporat, "Cucina italiana del quattrocento", Leo S. Olschki Editore, 1996)。前に小さな論考で出てきた15世紀の代表的料理人「マエストロ・マルティーノ」を扱った序論と、その料理本の3つの写本の校注版を収録したもの。まだその序文にざっと目を通しただけだけれど、なるほどこれもまた面白い世界かも。人文主義者バルトロメオ・プラティナ(ヴァチカン図書館の初代館長になった人物)の著書『真摯なる欲望と健全さについて(De voluptate et valitudine)』で言及・紹介されているというマルティーノ。その手になる料理書もすでにしてルネサンス期の料理の革新を伝えているというけれど(食材の多様化、異国の食材の導入、調理法の多彩さなど)、プラティナはそれを、中世から引き継がれた身体の調和に関する理論(エンペドクレスからヒポクラテス、さらにガレノスを経由して伝えられた例の4気質論)や医術的知見の伝統(ガレノスに加えアヴェロエスなども経由したもの)をもとに再編し、人文主義の理想という形に練り上げているらしい。一日3食などという食事の仕方も、そうした理論を背景にして成立したものとか。イタリアは地中海域の交易のせいで、早くから様々な食材を取り込んだ革新的な料理が生まれていたようで、中世以来の食事内容・調理法が続いていた北部ヨーロッパとは大きく異なっている。そういえば余談だけれど、以前ある人が「イタリアはコーヒーひとつとっても、いろいろな工夫に富んでいる。口あたりだけでも味が変化することを心得ている」みたいなことをやや熱く語っていたっけ。その上流は中世末期ごろにまで遡れるということか。いや〜、このあたりの文化史ももうちょっと詳しく見てみたいところ。

バルトロメオ・プラティナの話ついでに、Wikipediaから、メロッツォ・ダ・フォルリ(ピエロ・デラ・フランチェスカの弟子筋の画家だ)による、プラティナのヴァチカン図書館司書任命を描いた一枚を。
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投稿者 Masaki : 23:50

2008年04月01日

[古楽]リュートの飾り棚

著名なリュート奏者、佐藤豊彦氏による新譜『リュートの飾り棚』(Nostalgia 0701)を聞く。こちらに情報&インタビュー映像が。ルサージュ・デ・リシェーという17世紀の作曲家・リュート奏者の作品の世界初録音なのだそうで、今回も400年前のオリジナル楽器「グライフ」での演奏。ガット弦なのだそうだけれど、いやー、この音の伸び方はなかなか。ガット弦のポコポコいう印象がちょっと修正される(苦笑)。ライナーに記されているのだけれど、ガット弦を使う場合には、右手の撥弦ポジションが、当時の絵画などに描かれているようなブリッジ手前になるのだとか(普通のナイロンならロゼッタ(穴の部分)後方にかかるあたりなのだけれど)。なるほど。

さてこのルサージュ・デ・リシェー。フランス人なのだけれど、ドイツで活躍した人物らしく、ドイツ読みということで、deを「デ」で表記しているのだそうだが、うーん、「ド」とか「ドゥ」の表記でいいようにも思えるのだけれど……。シャルル・ムートンの弟子なのだそうだけれど、聴いた印象では、曲としてはフランスものとドイツものとの折衷的な様式かな、という気がした。一般論では、バロックの「歪んだ」感じを色濃く出すのがフランスものだとすれば、剛直に「型」を出してくるのがドイツという感じだけれど、これは両者を合わせ持った感じの曲想ということ。佐藤氏はそれをどちらかというとフランス寄りのスタンスで弾いている印象(?)。なかなか面白いなあ、と。

投稿者 Masaki : 20:48