2008年05月30日

中世のアリストテレス『問題集』

『異なる時代と言葉でのアリストテレス「問題集」』("Aristotle's Problemata in Different Times and Tongues", Leuven Univ. Press, 2006)に一通り目を通す。本書は英仏語での論集。『問題集』はアリストテレスの自然学関連の書としては、体系的でないということからそれほど目立った存在ではなく、ほかの著作に遅れて西欧に紹介されている。で、とりあえずこの論集から、その受容の大枠が掴める。『問題集』はまず12世紀にディナンのダヴィドによる部分訳(?)があったものの、本格的な訳は、マンフレド王治下のシチリアで活躍したメッシーナのバルトロメオが1260年代に完成したものが最初。これをもとに、パドヴァとパリで活躍した自然学者・医者アーバノのピエトロ(ペトルス)が初の注解書を記すのが遅くとも1310年ごろ。さらに、1380年代にはシャルル5世の宮廷付きの医師だったコンティのエヴラールが『問題集』の仏語版および注釈書を記す、というのが一連の流れで、収録された論文では、『問題集』が大学や宮廷でどのように受容されたかとか、ピエトロやエヴラールの注解の特徴、影響関係などなどの問題が論じられている。興味深かった点はいろいろあって、個人的には、アリストテレスの『問題集』とは別に、「サレルノ問題集」などQ&A形式の書物の伝統があり、それは(おそらくはバースのアデラードなどに続く形で)英国やイタリアで、『問題集』異本にも生き続けるのだといった話(Van der Lugtや、Venturaの論考)などがとりわけ注意を惹く。そういえばアーバノのピエトロについては、ルイジ・オリヴィエリの『アーバノのピエトロと新プラトン主義思想』(Luigi Olivieri, "Pietro d'Abano e il Pensiero neoplatonico", Editrice Antenore, 1988)をだいぶ前に入手しながら、1章目しか眼を通していなかった(苦笑)。2章目が『問題集』注解の検討になっているようで、これもちょっと見ないと。

投稿者 Masaki : 15:30

2008年05月26日

[小説] 『通訳』

欧州理事会の現役通訳だというディエゴ・マラーニなるイタリア人作家の小説、『通訳』(橋本勝雄訳、東京創元社)を読了する。「未知の言語」に取り憑かれてしまったという通訳者の後を、やはりその同じ言語的症状に苦しめられるようになった元上司が追うという趣向の、SFというか幻想譚というか。出だしはちょっと凝った書き方で、とても期待してしまったのだが……途中から話が妙な方向に滑り出し、いきなりジャンルが変わったような展開があって(ロードムービーかと思っていたらいきなりホラーになったタランティーノの『フロム・ダスク・ティル・ドーン』……とまではいかないまでも(笑))、ラストなんかは個人的にかなり脱力してしまった(苦笑)。オチは伏せておくけれど、ヒントはたとえばスタートレックの劇場版の一つですかね(笑)。

このマラーニという人、英語一極主義のアンチテーゼとして「ユーロパント」というのを提唱しているんだとか。英語版のウィキペディアにエントリもある。これ、なんのことはない西欧語を寄せ集めた体のいいピジンなんだけれど、それにしても意外なのは、マラーニはフランスでこのユーロパントで書いた小説まで出版しているという話。まあ、ユーロパントにしたってシャレなんだろうけれど、なにかこの『通訳』という小説も、諸ジャンル間の「ピジン小説」という感じもしなくない。その意味ではこれまた壮大なシャレか。いずれにしても、多言語話者がごく普通にいる欧州ならではの作品ではある……。でも、言語と精神の崩壊みたいな伏線から、筒井康隆の『残像に口紅を』みたいな方向性を期待していたこともあって、とにかくこのラストはちょっと許せんなあ(笑)。

投稿者 Masaki : 22:42

2008年05月24日

[メモ] 井筒俊彦論

相変わらず井筒俊彦ものも読んでいるのだけれど、とりあえず読了したのが新書の『イスラーム哲学の原像』(岩波新書、1980)。これ、個人的には『意識と本質』(1982)へのプレリュード的な一冊として読み始めたのだけれど、途中からそのごっつい中身に圧倒される。講演を再構成したものということで、存在一性論、とくにイブン・アラビー(12から13世紀)を中心に、スーフィズム系のイスラム思想の骨子を平坦に語るという内容。言葉は平坦でも、中身はかなりの手応え。とりわけ、神秘主義での意識の探求を、なんとも手際よく図式化して逐一解説しているところがものすごい。しかもそれが、仏教の観想修行、古代ヴェーダの宗教(古代ヒンドゥー)などとも呼応しあうというなんとも壮大な思想世界の話が展開する。圧巻。

ちょうど昨年末くらいに出た本で、安藤礼二『近代論--危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版)に、井筒俊彦の評論を記した一章があると聞き、入手してみた。「同時多発的に発生する思考」という相を、その背景をなすアルシーヴ(文献的集積体)との関わりで論じようとする刺激的な本。扱っているのは明治時代の南方熊楠、柳田國男、折口信夫、西田幾多郎、鈴木大拙などなのだけれど、序文では、それらの同時代的な思想を条件づけたものとして世界戦争とテロリズムがあったと論じられ、またそうしたアルシーヴと思想の関係はその都度反復的に刷新されていくとされて、次なる危機の時代として昭和初期が取り上げられ、夢野久作、小栗虫太郎、さらには埴谷雄高などが言及されている。そしてまた、世界戦争とテロリズムは現代世界に蘇り、そうした新たなアルシーヴと思想の関係性を促しているとし、その文脈で井筒俊彦が登場するという仕掛けになっている。

で、その一章だけれど、まずもって、ホメイニのイラン革命を軸とした、井筒とフーコーの交錯の舞台が言及される。そしてその革命ゆえに帰国を余儀なくされた井筒は、一種の原点回帰という形で、『意識と本質』を上梓する話が続く。原点回帰?なるほどそれは、西田幾多郎の哲学とアジア主義との融合だというのだ。アジアの叡智を統合するという壮大な構想。同書ではそれを、換骨奪胎した「大東亜共栄圏の哲学」と見(「日本」なるものを「解体し尽く」した上でのアジア的哲学ということだが)、文献的に跡づけている。このあたりの論の展開もなかなかに興味深いのだけれど、いずれにしても、井筒俊彦の本がどこかしら醸し出す迫力の源泉の一端を、わずかながら垣間見るような思いだ。さて、個人的には『意識と本質』にも改めて取りかかろうっと。

投稿者 Masaki : 23:26

2008年05月21日

『形而上学注解』ゼータ(第6)巻

ボンピアーニ刊の希伊対訳版アフロディシアスのアレクサンドロス『アリストテレス「形而上学」注解』から、ゼータ巻(第6巻)を一通り通読する。実はアフロディシアスのアレクサンドロスの真正「形而上学注解」は最初の5巻まで。6巻目以降は偽アフロディシアスのアレクサンドロスとなる(実作者は11〜12世紀ごろのエフェソスのミカエルではないかという話)。なるほど印象としては、確かに本家よりも少しプラトン主義のほうに歩み寄っている気もする(笑)。

ゼータ巻はもとのアリストテレス『形而上学』でも実体(ウーシア)の定義をめぐり、本質、差異、質料、形相などの問題系が議論される箇所だけれど、この注解で興味深いのは、実体があくまで個物の側にあって、原理としてのエイドス(形相)がそこから分離されるのだということがかなりはっきりと述べられている点。もちろんそうした規定はアリストテレスから来るものだけれども、アリストテレスの場合にはあくまで形相と質料から成る「複合体」が問題で、それはプラトン的な「イデー」批判と一体だった。対するこの注解書作者のほうは、どうやらこのエイドスを形態的原理(形をつくるもの)ならびに操作的原理(運動をもたらすもの)として、つまりは実体に対して異質なものとして厳密に規定している感じ。その意味ではなんだかプラトン主義っぽい。でも一方で、本質が実体から抽象化されたもの、つまり言葉すなわち定義(および名)に関わるものであると規定して、唯名論的な議論にも足をかけているようにも見える。このあたりの有機的なつながり、一度通読しただけなせいか、まだちょっとはっきりと見えてこない……(笑)。

いきなりゼータ巻に目を通したのは、手元にあるアメド・エルサカウィ『アラビア語版アリストテレス「形而上学」ゼータ巻およびアヴェロエスによる注釈の研究』でもって比較ができるかなと思ったからだけれど、具体的な比較をする前にもう少しこの偽アレクサンドロスのテキストを吟味したい気になってきたので、その作業は当面はおあずけ(笑)。ちょっと気になるラムダ巻など、他の箇所を読んでからかな。また、真正アレクサンドロスの部分も通読して、解説などで言われるスタンスの違いも実際に味わってみないと。

投稿者 Masaki : 22:36

2008年05月20日

[古楽] アッコルドーネ来日公演

昨晩はマルコ・ビーズリー(テノール)率いるアッコルドーネの公演に行く。2004年に一度「東京の夏」音楽祭の枠で来日したんだっけね。前回はビズリー、アコルドネと長音にしない表記だった(笑)し、どちらかといえばピノ・デ・ヴィットリオの存在感が目立った(キタラ・バテンテの弾き語りとか)感じがあったけれど、今回はヴォーカルはビーズリー1人の独壇場。今回は二種類の公演内容で来日。聴いたのはそのうちの「恋人たちのイタリア」というプログラム。全体としては、ディレクター兼チェンバロ、オルガン奏者のグイード・モリーニの「アレンジ古楽」が炸裂(笑)。どうもこの手のアレンジものは、とくに最近、個人的にはあまりピンとくるものがないのだけれど、まあ久々なのでよしとしよう……とはいえカッチーニはともかく、前半のモンテヴェルディの曲はちょっとのけぞる思いだったり(汗)。

ビーズリーの歌唱は、あまり声楽っぽくないどちらかというとトラッドフォーク的な歌い方。けれどその声量と響き方はちょっと他にないような独特な感じ。今回のプログラムでは後半に少し宗教曲(グレゴリオ聖歌、モンテヴェルディの「倫理的・酒興的な森」からの1曲)を入れて幅の広さをアピールしていたけれど、やはりこの声の質に一番ぴったりくるのは伝承曲(ようするに民謡)という気がする。後半のさらに後半は、イスキテッラ、タランテッラ、ナポリの伝承曲、リグーリアの結婚曲などが続き、これはもう聴かせどころたっぷりという趣き。さらにアンコールも5曲。まず、前回の来日の際にもやった、おそらくは定番なのだろう、三角関係の戦いを歌った曲(ガランチーノの歌?)。ピノ・デ・ヴィットリイオとの共演ではカスタネット鳴らしながらだったけれど、今回は一人で三役を熱演。つづいて今回のもう一つのプログラムから「高らかに打ち鳴らせ」。枢機卿の軍隊の歌なんだとか。最後はメンバー全員で唱和。なかなかいいね〜これ。で、次がチェンバロ伴奏で渋く歌う「オ・ソレ・ミオ」。これは声楽的な歌い方より聞きやすい。さらに今回のプログラムからカッチーニとステーファニの曲を再度。古楽という枠をとっぱらってみると、なかなか充実の2時間半(笑)。

投稿者 Masaki : 19:57

2008年05月18日

[古楽] バッハのパッサカリア

これはまた渋い一枚。『パッサカリア--バッハのBWV582、5バージョン』(Christophorus、CHR 77292)。バッハ唯一の「パッサカリア」を、なんと5つのバージョン(編曲)で聴くという企画もの。登場するのは、オリジナル版、ウージェーヌ・アルベール編、リスト/テプファー編、レーガー編、ストコフスキー編の5つ。それぞれに奏者も楽器も違うという熱の入れよう。オリジナル版は18世紀のオルガンでの演奏だし、同じくオルガン版のリスト/テプファー編は19世紀のロマンティックオルガンでの表現。とくにこの後者の演奏にはちょっと圧倒される。オルガンは時代によってかなり変化が激しい楽器と聞くけれど、これはもうそういう対比とかそういうものにとどまらない奥深さ。いや〜、これまた企画ものとして成功した一例というところか。ライナーによると、バッハ時代のパッサカリアはシャコンヌとのペアもしくは比較で語られるのが普通だったというのだけれど、ともに18世紀初頭のヴァルターとマッテゾンとではパッサカリアの定義が微妙に違っているのだそうで(テンポとか)、いずれにしても本来はスペインからイタリアに入った街場の舞曲だったパッサカリアは、ここへきて完全に別ジャンルになっているというわけか……。

バッハついでながら、来年の東京のフォル・ジュルネはテーマがバッハだそうで、やっとバロックもの。本場ナントが先にそのテーマを発表していたので、実は予想どおり。となれば、こういう企画ものも聴けるのかしら、と期待してしまう。でもま、1時間程度のコンサートを多数やるというコンセプトでは、受難曲は難しそうだし、カンタータあたりが主になるのかしら、それにしてもオルガンはどうするのか、古楽系の奏者はどれほど参加するのかなどなど、いろいろと想像が膨らむ。さて、どんなものになるのやら。

投稿者 Masaki : 22:47

2008年05月16日

[メモ] ディオゲネスとアリストテレス

ちょっとした事情から、山川偉也『哲学者ディオゲネス--世界市民の原像』(講談社学術文庫、2008)を読む。いや〜、これがまた思っていた以上に刺激的な内容で楽しかった。シノペのディオゲネスというと、キュニコス派ということで、いろいろと反世間的な振る舞いや言動がエピソードとして残っているだけだけれど、これについて研究するとなれば、まずはその限られた資料から、ある程度の「思想」を構築し直す作業が必要になる。となれば、必ずしも確証はなくとも、学問的な「最適解」を求めることが要求される。で、同書はまず、ディオゲネスがシノペを追われることになる「通貨変造事件」の実情の再構築を試みる。さらにはディオゲネスにアトリビュートされたエピソードの選り分けだ。その真偽を状況証拠をもとに選り分けていく。このあたり、現時点での「最適解」の考え方はなかなか参考になる。

けれども同書が最も面白くなるのは、実は後半の、ディオゲネスと「対立関係」にあるアリストテレスの政治学・倫理学関係の議論からだ。アリストテレスのテキストを追いながら、そこに奴隷制を前提とした当時の自由人の保守的なイデオロギーの反映と、つきつめればその「最善の国制」においては、アリストテレスのいう「自足」の理想はまったく実現できないというパラドクスを孕んでいることとを浮かび上がらせている。これはなかなかに興味深い。これまたつきつめれば、アリストテレスの正義論も、「正義の本質は金銭(ノミスマ)である」ということに帰着する……と(ここで大事になるのが、そのつきつめ方なのだけれど、さしあたりそれは置いておく)。で、これに根底から異議に突きつけるのがキュニコス派ということになる。「通貨変造事件」以来、νόμισμα(通貨=通例・習慣)をπαραχαράσσωすること(偽物の刻印を押すこと=価値を逆転させること)がディオゲネスの生涯のテーマとなるのだといい、それはまさに、アリストテレスの主張する国制・正義に対して向けられる、ということだ。

末尾ではほんのわずかながら、キュニコス派が初期キリスト教に影響を及ぼした可能性も指摘されている。これもまた実に興味深い議論。ディオゲネスはまた、世界市民の思想の胚胎とも見られ、それもまた長い系譜をなしていくようだ。うーん、とても充実した読後感。こういう研究が文庫書き下ろしで出るというのもものすごい……。

表紙の絵は19世紀の画家ジャン=レオン・ジェロームによる『樽のディオゲネス』。このジェロームという人は、新古典主義的作風で一世を風靡した画家だという。
JeromeDiogenes.jpg

投稿者 Masaki : 00:16

2008年05月13日

シゲルスの「分散型?」知性論

かなり前に購入しつつ、読むのは諸事情でちょっと滞り気味だったけれど、とりあえずブラバントのシゲルス「『魂について』第三巻問題集」を読了。底本はアントニオ・ペタジエ編の"Sigeri di Brabante - Anima dell'uomo"(Pompiani, 2007)。これは1277年のタンピエの禁令前のテキストだということで、同じく収録されている「知性的魂論」(こちらは禁令後で、ちょっと釈明的な見解が強く打ち出される感じ)よりもはるかにストレートに哲学的立場を示している。つまり、単一知性論がかなりストレートに展開する。これがまた実に面白い。知性は単一であるというわけだけれど、トマスが批判するような議論とは少々違い、その単一性というのはやや意外にも奥深い。そもそもそれは質的な単一性で、数的な単一性ではないとされているし、個々人が個別に思考することには変わりがなく、ただ知性は非実体的で(トマスの考える身体の実体的形相というのとは違って)身体と直接結びつくものではない、という話になる。そのため、身体と知性とをつなぐものとして想像的意志といったものが想定され、これを通じて身体が感覚として受け取ったものを知性の側に橋渡しする、ということになる。なるほど、まさにカントの悟性の働きを先取りするような構図だ。しかもなんだか知性論全体の構図を考えると、どこかシンクライアントとしての可能知性、分散型のサーバとしての能動知性という感じにもなる(かな?笑)。アヴェロエスの能動知性はどこか実体的・分離的な感じがしたけれど、シゲルスのほうはそれ自体が個々人の中に組み込まれるというように読める。

いずれにしても、アガンベンの『スタンツェ』の話にも重なるしその後追いになってしまうけれど、知性と身体を結ぶ「コプラ」の系譜を少し追い直してみたい気にもなってきた。

投稿者 Masaki : 23:21

2008年05月12日

[古楽] ザビエル

『クアトロ・ラガッツィ』を読み始めたこともあって、少し前に購入し積ん聴だったサヴァール&ヘスペリオンXXIの『フランシスコ・ザビエル--東方への道』(AliaVox、AVSA98569)を聴く。ブックの体裁のSACDハイブリッド盤。昨年がザビエルの生誕500年だったのを記念しての企画盤らしいのだけれど、音楽家はともかく、教会関係で(聖人とか)生誕○○年というのはあまりない気がする。ということはひょっとして、日本からもちかけた企画かもね。日本語を含む5カ国語での「ブック」はなかなか本格的。ライナー的解説プラスアルファで人文主義関連の引用集がついている。活字の雰囲気がちょっと一昔前の本という感じ(苦笑)。で、曲目の方はというと、ザビエルの生涯の歩みに沿って、そのときどきに関連する曲を演奏していくというもので、さながら西欧から東洋へといたる音楽紀行の趣き。イベリアの逸名作者の曲から、「おお、栄光の聖母よ」(とその派生形の「おらしょ」版など)、モラーレスほかのミサなど。さらに篠笛や琵琶、尺八なども参加……といっても、混成セッションではない(当然だが)。古楽なだけに仕方がないとはいえ、インプロヴィゼーションも要所要所で入れているのだから、なにかこう、相互乗り入れがあってもよかったような……(でもまあ、CDの主旨からは逸れてしまうし、技術的な難しさもかなりのものだろうなあ)。それぞれの曲は実に堂々たる見事な演奏。なんだか企画ものにしておくのももったいないような気もする(笑)。

投稿者 Masaki : 22:31

2008年05月09日

西欧との邂逅……

まだ出だしだけだけれど、若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ--天正少年使節と世界帝国』(集英社、2003)を読み始めたところ。自分の研究史を振り返りつつ天正少年使節の研究への思いを綴ったプロローグがすでにしていい。名文。60年代まで、留学生たちは船でヨーロッパに渡ったことが記されている。神学生たちもいたのだという。なるほど、当時はまだ、ラテン語が話せればローマの神学校への留学には問題がなかったのだ(ラテン語もちゃんと使われていたのだなあ、としみじみ)。

本文もまたすばらしい。16世紀半ばごろのアジアの状況、教会の布教状況、日本の対応などが細やかに活写されていく。たとえば、西欧の学知に初めて接した禅寺の住職の驚き。で、そこで開陳された学知というのが、アリストテレスの『気象論』などをベースにした自然学だっというのがまたいい。アリストテレスはまさにキリスト教と一体化していた……。「少なくとも、この時点では、キリスト教は世界を説明する原理でもあったのである。それだから、キリスト教との文明が近代的な宇宙観を形成できたのだった。キリスト教のなかには、世界を理論づける理屈も含まれていたのである」(p.50)。けれどもそのすぐ後には、宗教と科学との反目が表面化してくることも記されている。宇宙観についての議論が意外に欧米圏の思想史研究の中で脇に置かれているのは、もしかするとあまりに自明で、ほとんど問題にならないからかも(?)。なるほど、そういう意味では、そのあたりは別の文化圏からのアプローチが有効な領域と言えるかもしれない、なんて改めて思ったり。

表紙カバーにあしらわれているのは、狩野内膳『南蛮屏風』からの「船出」(神戸市立博物館所蔵)。これを切り出してコラージュしたもの。なかなか凝っているなあ。

投稿者 Masaki : 23:35

2008年05月06日

エッセ研究……

世間的には連休も終わりだけれど、個人的に今年はずっとゲラ読みなどの仕事(笑)。で、それに並行して連休入りのころに古書で購入した山田晶『トマス・アクィナスの<エッセ>研究』(創文社、1978)をずらずらと読んでいる。いや〜これもかなりの労作で、それだけで頭が下がるのだけれど(「神の存在」という時のesseの意味を特定しようと、一般にその類語とされる(がトマスにおいては反対語的にすらなりうる)existereの用例をつぶさに全著作にわたって追っていくという第二章は、まさに力業)、esseとessentiaがいわば形相-質料、現実態-可能態に「類する」対立構造になっていることを明らかにするあたりなどは、なんだか不協和から和音の解決へといたる晴れ晴れとしたイメージをも思い浮かべさせる展開。で、どうやらesseの問題はトポスの問題へと進展していくらしい(って、まだその箇所まで行っていないので(笑))。おー、これはまた最近の宗教学の動向とも重なる……というか、改めて言うまでもなく、30年前という年月を感じさせない研究だなあと。

投稿者 Masaki : 23:46

2008年05月04日

スコトゥスの「自然学」

あまり進んでいないけれど、このところ読み始めているのが先日古書で購入したリチャード・クロス『ドゥンス・スコトゥスの自然学』(Richard Cross, "The Physics of Duns Scotus", Oxford Univ. Press, 1998)。先にアリストテレスの自然学の伝統についての本で、「場所」「位置」についてのスコトゥスの見解を論じた部分を興味深く読んだけれど、これはそのいわば延長。ただ、ちょっとクセのある論述方式(テキストを直接引くよりも、いったん命題の形にまとめて論理展開の話をする……でも個人的にはテキストそのものを引用してほしいのだけどなあ)と、時折混じる著者のごく普通の主観的印象(「スコトゥスは〜と論じるべきではなかった」なんていう)が鼻についたりして、あまり快調には読み進められない感じ(苦笑)。スコトゥスの「自然学」は、まとまった著作としてあるのではなく、様々なテキストに点在しているのだといい、一貫した思想として掬い上げるのはかなり大変のよう。『オルディナティオ』と『パリ講義』で齟齬があったりとか。確かに、膨大なテキストとの格闘はそれ自体でもうでにして敬意に値する所業ではあるのだが……。個人的にちょっと面白かったのは、質料には形相がそっくり胚胎しているという、いわゆる「種子的ラティオ(ラティオネス・セミナレス)」の考え方を、スコトゥスは否定しているという下り。種子的理性そのものはアウグスティヌスに端を発し、ボナヴェントゥラ、ガンのヘンリクスなどを経て伝えられたものといい、スコトゥスはこの、「形相がそっくり胚胎」という部分を論理学的な見地から否定しているらしい。形相が質料とは関係なく個別化(個体化)するというスコトゥスの立場からは当然の帰結なのだとか。で、この立場はまた、実体の統一性とか偶有性などの問題にも影響していく。

投稿者 Masaki : 22:59

2008年05月03日

今年もまた「熱狂の日」

例年通り、今年もピンポイント的に「La Folle Journée au Japon」へ。あいにくの雨だったけれど、相変わらず会場はそこそこ盛況。けれども個人的には、なんだか変わり映えしない感じになってきた。4回目だけあって、少しこの音楽祭のフォーマットに飽きてきたかなあ。会場のビジュアルなんかもほとんど同じだし。

今年はシューベルトなのだけれど、ピリオド楽器演奏でもないかぎりシューベルトは普段聴かないので、逆にこのときとばかりにミサ曲を中心にハシゴする。まずはおなじみミシェル・コルボ指揮で、シンフォニア・ヴァルソヴォア+ローザンヌ声楽アンサンブルによる「スターバト・マーテル」。これは初めて。ドイツ語でのスターバト・マーテルだというのが個人的には珍しい。ソロ(ソプラノは日本の人)がどこかシューベルトのリートっぽいのに個人的にはウケるも、5曲目の合唱とホルンの奏でる天上的な音に魅入られる(笑)。ついでダニエル・ロイス指揮、ヴュルテンベルク室内管弦楽団+カペラ・アムステルダムによる「ミサ曲第5番変イ長調」。キリエとグロリアは度迫力。クレド以降は妙におとなしい……って曲想がそうなのだから仕方ないような気もする。その後、オーヴェルニュ室内管弦楽団(アリ・ヴァン・ベーク指揮、ヴィオラのソロがジェラール・コセ)のシューベルト(ドイツ風舞曲、アルペッジョーネ・ソナタ)&ロッシーニ(弦楽のためのソナタ5番)で少々休眠し(笑)、それからメインイベントこと、再びコルボ軍団の「ミサ曲第6番変ホ長調」。うわー、これはまたしても文句なく名演でしょう!さすがはコルボ、最初から最後まで聴かせどころ満載で大迫力。緩急の振り具合など、もう最高。最後のアニュス・デイまですべてがドラマチック。シューベルト最晩年の作だけれど、これなどはまさにスタイル破壊的という意味で、サイードの言う「晩年性」の最たるものか、と。

投稿者 Masaki : 23:17