2008年06月30日

ダンテの新訳もぜひ(笑)

ジョルジョ・スタービレ『ダンテと自然哲学』(Giorgio Stabile, "Dante e la filosofia della natura -- Percezioni, linguaggi, cosmologie", Sismel-Edizioni del Galluzzo, 2007)をちらちらと見始める。これは個人論集。この最初のほうの数編にソネットの分析を通じて知覚論などを浮かび上がらせるというものなどがあって、これにちょっと刺激を受けて、ダンテの『新生』(普及版の岩波文庫:山川丙三郞訳)を久しぶりに読み直してみた。で、感じたこと。さすがにこの初版1948年の版は、見事な名文ではあるものの、少々古い感じもしてきた。古典の新訳はいろいろと言われるけれど、やっぱりどこかの出版社が出してほしいなあ、という気が改めてした。確かに『新生』にも角川文庫版とかあるらしいのだけれど、それにしたって1967年とかそういうもの。そもそも古本でしか手に入らない。結構現代的な訳でも面白いと思うのだけれどなあ。訳す人は結構いるはず。実際、『新生』のソネットも、かなりいろいろな読み方ができて興味深い。上の論考ではないけれど、視覚論がらみで鏡や衝立の隠喩の織りなし方とか、そもそもベアトリーチェと重ね合わせられる神的なものの追求とか、まだまだいろいろと楽しめそうだと今さらながら改めて思う(笑)。そうそう、コスモロジーもね。

投稿者 Masaki : 23:27

2008年06月28日

「ネイションという神話」

出たばかりのパトリック・J・ギアリ『ネイションという神話--ヨーロッパ諸国家の中世的起源』(鈴木道也ほか訳、白水社)をざっと読む。ヨーロッパで多々見られるという、いわゆる「ナショナリスト」(民族主義者)による「民族の起源」議論の短絡的援用。その陥穽に陥らないための、これは一種の相対化の書。とりわけ二章以降、特にローマ時代から古代末期を中心に、現存する史書に記された諸民族の多重的な動向を追っていく。そこから浮かび上がるのは、諸民族と言われるものが、いかに流動的なものであったかということだ。ヘロドトスを例外として、その後のローマ帝政期などでは、民族誌の記述にいかにもローマ的な類型化志向が色濃く働いていて、しかも多種多様な「蛮族」たちは、ややもするとより昔の民族名をリサイクルし、結果的にそうした民族が実際よりも一貫して長く存続したような印象を与えることが多分にあるのだという。で、当の民族たちも、ローマ的な制度の中で自分たちを位置づけるために、そうしたリサイクルを十全に活用したらしい。そういう構図そのものは、帝政期も、その後の末期もそれほど変わってはいないようだ。民族的アイデンティティというのは、考えられている以上に後世の構成的産物だということ。同書は最後にその実例として、南アフリカのズールー族の事例を紹介したりしている。そういえば、以前とある講演会で、アメリカインディアンなども、今現在「風習」として残っているのは、存続の危機が叫ばれるようになってから諸部族の風習を寄せ集めて作られたもので、実はそっくり昔から受け継がれたものではない、みたいな話を聞いたことがあったけど、「民族」はすべからくそういう構築的な部分に立脚していることを、忘れちゃいかんよなあ、と。

投稿者 Masaki : 18:09

2008年06月25日

夏の課題(笑)

暦の上ではすっかり夏だけれど、やっぱり夏は大型の課題をこなすって感じで臨みたいところ。でもって、今年はすでにいくつか計画ができつつある。そのうちの一つは、ブラバンのシゲルス『形而上学問題集』をある程度読み進めること。シゲルス本人の手によるものではなく、弟子の誰かがまとめた講義録。すでに2年ほど前、この「ケンブリッジ写本」+「パリ写本」(Armand Maurer編、Louvain-la-neuve, 1983)を「3巻」あたりまで読んだのだけれど、そこで一端中断してあった。で、今回、「ミュンヘン写本」+「ウィーン」写本の合本(William Dunphy編、Louvai-la-neuve, 1981)をやっと入手したので、ちょっと突き合わせて読んでみようかと。基本的にはアリストテレスの『形而上学』の注解的な講義になっている。この両方の版、それぞれの項目の表現はだいぶ違っているけれど、構成とかは同一なので、双方を見比べるとそれなりに補完される感じになる。どちらかだけ読むよりも、はるかに面白い感じだ。シゲルスの講義がどんなものだったか、ちょっとばかり立体的に浮かび上がってくるような気もする(その昔、学生時代に、ソシュールの講義の学生たちによるノートを比較しつつ読むという授業に少しばかり出ていたことがあったのを思い出した(笑))。形而上学の注解は、アフロディシアスのアレクサンドロスによる注解本も、相変わらず読んでいるので(今はデルタ巻がもうすぐ終了、次はそこから戻ってガンマ巻あたりを攻めるかと)、この夏は形而上学注解にどっぷり浸かりたいところ(笑)。

投稿者 Masaki : 23:15

2008年06月22日

[古楽] このところの諸々

--ちょっと書きそびれてしまったけれど、先々週、ヘレヴェッヘ&ロイヤル・フランダース・フィルハーモニーの公演を聴く。すっかり脱古楽っぽくなってしまったヘレヴェッヘ、この日のプログラムもシューベルトにメンデルスゾーン。小さな会場(トッパン)にどーんとオケが座り、なるほど大迫力ではあるのだけれど、なんだか個人的にはちょっと退屈してしまった……

--先のドイツ・ハルモニア・ムンディ50周年記念盤50枚セットは再入荷になったようだけれど、同じく少数再入荷と聞いたハルモニア・ムンディ・フランスの50周年記念ボックスも購入してみた。こちらは値段はほぼ倍で、枚数は30枚(うち1枚はライナーの歌詞などを収めたCD-ROM)。箱のサイズは50枚セットと同じなので、「上げ底」状態なのがちょっと笑えた。こちらもすでに持っているものとのダブリもあるけれど(ヘレベッヘのバッハ「マタイ受難曲」とか、クリスティのリュリ「アティス」、デラー・コンソートのパーセル「キング・アーサー」などなど)、古楽以外が10枚ほど入っていて(ロッシーニからバルトーク、ヤナーチェクまで)ちょっと面白い構成になっている。ポール・オデットのリュートものも入っている(!)。

--リュート関連だけれど、Creative Commonsライセンスで楽曲配信をしているサイト、Magnatuneの運営者ってリュート弾きなのだそうだ!ルネサンスリュートらしい。知らんかった。意外なところにいるねえ、リュート弾き。

--アンドレアス・シュタイアーの新譜を聴く。『バッハ初期作品集』(HMC 901960)。待望のバッハもの。うーん、確かに切れ味は凄く躍動感たっぷりの演奏。確かにチェンバロの表現力としては絶大ではあると思うし、スタイリッシュな表現でもあると思う。だけど、個人的にもう一つピンと来ない感じがするのはなぜかしらん?これ、また時間を置いて聴いてみれば違う印象を持つとは思うのだけれど……。

投稿者 Masaki : 22:43

2008年06月19日

「意識と本質」

井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)をざっと。本来、ざっと目を通すだけですむような本ではないと思うのだけれど、とりあえず(消化不良ではあるけれど……苦笑)。率直にいって、目もくらむような大伽藍を見せられた気分ではある。「本質」という言葉を、普通は通り一遍の理解でかたづけてしまうけれど、これも実は洋の東西を往還すると、実に豊かな布置が描かれる、という一冊。とくに基本前提に据えられたイスラム哲学での本質の区分「マーヒーヤー」と「フーイーヤー」が重要だ。後者が個体的リアリティとしての本質を指すのに対し、前者は普遍的リアリティなのだという。つまりアリストテレスの本質(τί ἦν εἶναιのアラビア語訳。もう一方のフーヒーヤーのほうは、スコトゥスなどの「このもの性」へとたいるもの。東洋思想においても、この両者のいずれに重きを置くかで様々な流れが形成されているという。で、同書は意識の構造との関わりから、とりわけマーヒーヤーの実在論の数々を大きく3つに分類し、それぞれを詳細に取り上げて検証していく。この後の部分の詳述が、実に壮大だ……。うん、これは時間を置いてまた見返してみたいと思うような本。というか、井筒俊彦の本にはやはりそういうのが多いなあ。折しも、The Structure of Oriental Philosophyという英語での講義録が慶應義塾大学出版会から出た模様(2巻本、ハードカバー版とソフトカバー版あり)。これもぜひ見たいところ。

投稿者 Masaki : 23:48

2008年06月16日

「在りて在る者」

先の『<エッセ>研究』に続き、山田晶『在りて在る者』(創文社、1979)を読んでいるところ。前論集がトマスのテキストからエッセ、エッセンティア、エクシステレの関係性の構造をまとめ上げたのに対し、こちらの論集では、さらにパースペクティブが広がり、トマスのエッセ把握がいかなる思想的基盤の上に立つのかをまず検討し、そのベースにある(と論じられる)出エジプト記の「在りて在る者」について、ジルソンのトマス解釈を批判し、さらにアウグスティヌスの神の理解が、同じような「存在としての神」に立脚していることを論じていく。

確かにジルソンは、トマスの「存在としての神」がそれ以前の伝統的理解に対して断絶していることを示し、トマスの革新性を大いに称揚してみせる。ところがこれは、対照的に言及されるアウグスティヌスの神理解についての、解釈的な誤りに基づくものである可能性が大きいのだという。アウグスティヌスは決して「エッセンティアリズム」(本質をベースにする考え方)で考えていたのではなく、そもそもアウグスティヌスの用語法でのessentiaは、ギリシア語のウーシアの翻案であって、意味的にはトマスのいうens(存在する者:有)とほとんど同義なのだという。全体としてはジェームズ・アンダーソンによるジルソン批判を手がかりに、議論が進められていくのだけれど、いずれにしても、やはりテキストの読みというのはかくも細やかな吟味が必要なのだなあということを、反省も含めて改めて思う。

後半の興味深い議論としては、トマスとアウグスティヌスは存在としての神という理解では共通基盤の上に立っているものの、その上で両者を分かつ点として、「存在するもの」としてだけでなく「存在せしめるもの」としての神の規定が、アウグスティヌスには不在であり、トマスがその点を補完しているのだという部分が挙げられる。アリストテレスの作用因的な考え方によって、存在は存在の原因となることができるというのがトマスの背景をなしているわけだ。これなどは、存在の分有の考え方を敷衍するような議論が出てきてもおかしくない、そういう素地を含んでいる気がする。実際、先日挙げたドミニク・ペルレールの本に、フライベルクのティエリー(ディートリッヒ)の知性論がどうやらそのようなものだったことが示されている。ティエリーの議論は、人間知性の中にもまた、創造、つまり対象物を存在せしめる働きがあるという、当時としてはかなりラディカルなものだったようだ。ティエリーはトマスの批判者として出てきた人物だけれど、なるほどある意味でその議論は、当のトマスに負っているのかもしれない……なんて。中世思想の断絶と継承は、なかなかスパッと割り切れるものではないということを再認識しているところ。

投稿者 Masaki : 23:06

2008年06月13日

アーカイブ映像……

アーカイブ映像(もしくは画像)について、前半だけ目を通して積ん読状態になっていたディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(橋本一径訳、平凡社)を通読していろいろと考える。なんらかの事件のアーカイブ映像は、大多数においてたとえば「決定的瞬間」というのは映っていない。それが決定的に失われているという場合から、なんらかの形で痕跡を留めているものまで、その「強度」(逆説的に、失われているほうが強度的には上だったりする?)において大まかな等級をつけることもできるかもしれない、と。で、とりわけ西欧の近・現代史において最大の強度を持ち続けているのは、やはりショアーに関するものだ。

ディディ=ユベルマンの同書は、「知るためには自分で想像しなければならない」という一文から始まり、アウシュヴィッツのゾンダーコマンドが文字通り現場から「もぎ取った」4枚の写真を手がかりに、そのフレームの外にある「想像不可能なもの」を、あえて「想像」しようと試みる。これはまさに知と想像力との狭間を綱渡りするような緊張感溢れる営為だ。これが第I部。ところがこれに、精神分析家ほかがかみつく。未曾有宇の出来事を前にして、ごくわずかな断片でしかないイメージを特権化して語らせることはあまりに驕り高ぶっている、それほどの強度をもつ出来事は、「イメージ」などもちえない、と。一見正論にも見えるこの反論に、著者は再反論を試みる。これが第II部。そうした立場は、イメージの根源的な要求である「見ることのできないものを見せるための絶え間ない試み」を貶め、それがもたらす知的検証をも封印してしまう、と。その精神分析家は逆に映画『ショアー』のアーカイブ映像の不在を特権化し、その映画監督ランズマンとともに、あらゆる「偶像」を認めず、結果的にそれがある種の宗教的権力のようなものすら導くことになる、とディディ=ユベルマンは言う。出来事の全体がフレームの外に広がっている以上、知的営為によるそこへの接近の試みは、繰り返しなされるべきでありこそすれ、決して不可能性の名のもとに封印されてよいものではない、と。同じようなことは、強度の違いはあっても、ほぼあらゆる出来事に敷衍できそうだ。「哲学者が法的には不可能であると見なすものについて、歴史家や芸術家はそのすべてに抗しての可能性を実験する」。うーむ、まさにそれは箴言。

投稿者 Masaki : 13:45

2008年06月11日

不可思議な存在

「幽霊や天使以上に不可解な存在者」というのが、実は日常生活レベルに「存在」しているという。それはなんと「穴」なのだ。なにしろそれは、厳密に考えた場合、どういう「存在」なのか今ひとつはっきりしないものだから。モノに穴が空いているとき、その穴はモノが移動すれば移動するのか、モノが回転すれば回転するのか、モノと穴との境界は、モノと穴のどちらに「属する」のか、などなど、うーん、確かに考え出すときりがない。で、この問題、実は現代の分析哲学系の存在論の大問題であるらしい。これを詳細に論じた注目の一冊が、加地大介『穴と境界--存在論的探求』(春秋社、2008)。こりゃむちゃくちゃ面白いでないの。

「穴って表面的に欠如部分があった場合を言語的に名付けられただけのものでしょ?」とか「それは認識の問題だよね」なんて、大陸系の人たちなら言うところかも。けれども分析哲学的には、より精緻な、ミクロレベルにまで降りていった上で実在論的検証を行うことになる、と。で、当然ながら過去から現在まで、様々な学説が登場しては批判されてくることになる。このあたり、アリストテレスのはるかな衣鉢を継ぐカテゴリー論なども絡んで、実に悩ましいことになるらしい。穴のめぐる諸説には、スコトゥス的な空間論みたいなものもあり、中世的な思想の残響が形を変えて響いていたりするのがとても興味深い。もちろん現代の形而上学だけに、メレオロジー(部分論)などかなり数学的なモデルが用いられるわけだけれど、同書はそのあたりをかなり懇切丁寧に説いてくれてわかりやすい。よく、現代の哲学者というと、大衆的イメージとして、コップの水を眺めてもその存在論的な思索をめぐらす変な人みたいな像があったりするが(笑)、それはまさに分析哲学にこそ相応しい……ただし、分析哲学は実はとりたてて変というわけではないのだなあ、と。実際、同書の最後のほうでも触れられるけれど、カテゴリー論、存在論はコンピュータサイエンスでも「オントロジー」の名のもとに応用されているわけで。

投稿者 Masaki : 23:54

2008年06月10日

このところの諸々--参照軸とか

--アキバの刺殺事件。これが7年前の池田小学校の事件とまったく同じ日付だったことを、France 2のニュースでの報道で気づかされる。まあ、偶然なのだろうけれど、France 2の報道では池田小学校事件の資料映像を入れ、「犯人の記憶にこの事件があったかもしれない」みたいなコメントを入れていた。まあ、それはないだろうなという感じだけれど、なるほど海外から見ると、事件はそういうアーカイブからの理解になってしまうのか、と。確かに一般的傾向として、France 2はとくに国外の事件について報道する際、アーカイブ映像を駆使して参照軸を作ろうとする。多少強引な場合もありそうで、とにかく参照軸に沿って整理することが「理解」だと考えている節がある。このあたり、「外部からの目」による理解の限界を感じさせたりもする。これは翻って、こちらが外部の事象(西欧の歴史なんてまさにそうだが)を見る場合の反省点にもなるなあ、と。……とはいえ、参照軸を具体的に作ることで見通しが良くなり、一歩下がって見渡し安くなることがあるのも確か。その意味では、報道において、日本でワイドショー的にコメンテータがごちゃごちゃ言うよりも、そういうアーカイブ映像を示すほうが、もしかすると「外部の目」を演出することになって、報道の客観性は高まるということに??

--『赤と黒』の新訳誤訳問題。なんだかとても攻撃的な批判文書なのがやりきれない。もちろん誤訳はないほうが(……というのは無理な話なので、少ないほうが)良いに決まっているけれど、ここまで激しく晒す必要ってあるのかしら、と。これじゃあまるで某研究会が取り締まりを、あるいは検閲をかけているみたいじゃないの。翻訳って、潜在的には誰でもやっていい、版元や出版社と折り合いがつくなら誰が出してもいい、というのでなければ困る(現実はいろいろな要素が絡んで、そうはなっていないけれど……)。校注本と一般向け(超訳すぎるのは困るけど)が並んで売られるくらいが理想、という気も。その上で、さしあたり欠陥が多いなら自然に淘汰されていく(はは、人ごとじゃありませんけどね)、っていうのでいいんじゃないかと。

また、話はそれるけれど、改行や接続詞の付加などは、翻訳技術的な面もあるので、いちがいに誤訳とは言えなかったりもする。そもそも欧米語と日本語では段落の考え方に差がある。たとえば、中心的な情報と付加的な情報とを同一段落に収めているような場合(欧米語ではよくある)、日本語にするなら、付加的な情報を別段落に分けたほうが、体裁上、あるいは意味の通り上、よりしっくりくるという場合が意外に多くある(とくに論説文の場合)。文と文のつながりについても、たとえば逆接などを欧米語ではあえて明示せずに文脈の勢いにまかせたりするのに、日本語にするとそのままでは文の続き方がどうもしっくりこない、というようなケースは確実に存在する。まあ、こういうのはケースバイケースで、定式化はできそうにないけれど、ある程度訳者の自由裁量の余地は残しておくほうが良いと思う(あ、訳し忘れはダメだけどね。ただし雑誌への掲載などではページ数の関係などで削除・融合されて結果的に抄訳になることは多々ある。これは仕方のない話)。

投稿者 Masaki : 23:02

2008年06月07日

「路上の人」

思うところあって、堀田善衞を改めて読み始めようかと。ねらい目はやはりスペイン滞在以降の作品。とりあえず、カタリ派迫害の頃のヨーロッパを舞台にした秀作『路上の人』。手にしたのは古本の新潮文庫だけれど、これは品切れものらしく、入手可能なものとしては、徳間書店から2004年に出た85年の新潮社初版の再刊があるようだ。で、これ、13世紀前半を舞台として、放浪の士から見た社会や教会が描かれる。話には聞いていたけれど、なるほどエーコの『薔薇の名前』でも使われた「アリストテレス喜劇論」がとても重要な役割を担う。これが同じ頃に書かれていたというのが興味深い(シンクロ?)。うーん、この筋運びといい、教会組織の内実描写といい、実に印象的だ。そもそもスケールが違う。ヨーロッパ的な乾いた空気の中でこそ書ける冷徹なまなざし、とでもいったところか。民衆的な視線をもった前半、悲劇的に転回していく後半と、筋回しも巧みなもの。中世の路上生活者、アリストテレス、カタリ派、異端の弾圧……。文献的な裏付けが知りたいような描写もところどころあって、個人的に調査意欲をかき立てられる。

カタリ派関連では、このところ渡邉昌美本が復刊になっている。『異端者の群れ』(八坂書房)は1969年刊行のものの改訂新版。さらに、毎年やっている復刊企画「書物復権」で、今年は『異端カタリ派の研究』(岩波書店)がリストに入っている。まだ出ていないようだけれど、これも要注目かな。

投稿者 Masaki : 23:48

2008年06月05日

オリヴィの自発的志向性論

13世紀のフランシスコ派の神学者ペトルス・ヨハネス・オリヴィは、画期的な自由意志論を展開したことで知られているけれど、その著作を読むための準備の一環として、ドミニク・ペルレールの『中世の志向性理論』(Dominik Perler, "Théories de l'intentionnalité au Moyen Âge", Vrin, 2003)をざっと半分ほど(オリヴィの章まで)読む。講演録なのだけれど、なかなか興味深い。ここでいう志向性(intentionnalité)というのは、知性が外的な事物を理解する際に、それがどのように対象を捉えるのかという問題に関して出てくるもの。モノを把握し理解する際に、そのモノを志向するのはいかなる作用によるものなのか、が問われる。それはまた、感覚的与件と知性とをつなぐコプラをどう考えるかということでもある(コプラを設定するかしないかも含めて)。13世紀に優勢だったアリストテレス思想に従うと、知解とは知解可能なものの作用を知性が受け取る(本性的に)というあくまで受動的な所作ということになってしまうわけだれけど、これに対して、知性の働きはそんな受動的なものではなく、より能動的な所作だという立場を取る人々が現れた。その一人がオリヴィだというわけだ(ほかに同書では、フライブルクのデートリッヒ、ドゥンス・スコトゥスが取り上げられる)。

オリヴィはスペキエスの考え方を、外的な実体を遮断してしまうものとして捉え批判し、知性と外的な実体の関係は直接的であって、志向性の源泉は知性そのものにある、という立場を取るのだという。知性そのものに対象が仮想的・潜在的に現前することがすなわち志向性なのだ、という議論になるらしい。ペルレールはしかしながら、これでは循環論法になってしまうと指摘している。知性に見られる志向性がどこから生ずるかとの問いに対して、知性の作用そのものが志向性だと答えるわけだからね。でも、これは同時に対象との関係論でもある、という点がとても気になる。ぜひテキストに当たらねば(笑)。

投稿者 Masaki : 23:35

2008年06月02日

[古楽] ロマリア

前2作で珠玉の「泣ける」ダウランド演奏を聴かせてくれたジョン・ポッター&ダウランド・プロジェクト。で、今年2月リリースの新作はなんと中世もの。『ロマリア』(ECM 1970)がそれ。全編にわたって大陸的な哀愁がこれでもかと繰り出される。本来は陽気な舞曲(7曲目とか)っぽいものまで、実にメランコリックな処理。唖然とするというか、圧倒されてしまう。収録曲は13世紀ごろの写本の数々(カルミナ・ブラーナとか)、インプロビゼージョン、さらにグレゴリオ聖歌やラッスス、ジョスカン・デプレなどを配している。これ、楽しみ方はいろいろだけれど、たとえば『エル・シードの歌』(長南実訳、岩波文庫)あたりを読みながら、これをBGMでかけるというのが個人的にはお薦めかも(笑)。エル・シードといえば、スペイン最古の武勲詩。謀略で国を追われるエル・シードたちの出国のシーン(第一歌)は、まさにこのメロウな旋律がとてもよくあうかも。

投稿者 Masaki : 20:29