2008年07月30日

一筋の光明?

この3日ほど、体調を崩して伏せっていた……。今日はやや回復基調となり、ネットをちらちら見たりとか。うーん、夏場はやっぱり慎重にならんと。それにしても回復に時間がかかるようになったと感じるのは、やはり年齢的なものかしらん(苦笑)。

で、こういうぐったりしている時に、注文の書籍などが届くと、少しばかり元気が出てくる。ちょうど、前にも取り上げたヘルダーの中世哲学叢書から、アヴェロエスの霊魂論注解(大中小)の抜粋本が届く(Averroes "Über den intellekt", Verlag Herder GmbH, 2008)。いやー、これは嬉しい。まるで突然差してきた一筋の光明のよう(笑)。そういえば、霊魂論の『大注解』は、イェール大出版部から英訳本が予定されているようで、amazonでプレオーダーになっている。11月の予定とか。ま、それを楽しみに、とりあえずはこの抄本を繰ってみるかなと。

投稿者 Masaki : 20:42

2008年07月26日

木から迷路へ

夏の読書のもう一つの核にしようと思っているのが、久々のウンベルト・エーコ。その昨年の新刊『ツリーから迷路へ--記号と解釈についての歴史研究』(Eco, "Dall'albero al labirinto - Studi storici sul segno e l'interpretazione", Bompiani, 2007)を最近購入。全体で500ページ超の論集のようだけれど、冒頭の約100ページを占める表題作が総論、残りが各論という感じかしら(?)。その表題作をとりあえずざっと見ているところ。現実の腑分けの原理として、ポルピュリオスの木を嚆矢とする「辞書」の原理と、プリニウスの『博物誌』などを嚆矢とする「百科事典」の原理を対置し、後者がとりわけルネサンス期以降に「迷宮」としての相を前面に出してくる様をまとめあげている、ドライブ感あふれる(?)論考。なにしろその迷宮性は、近代を通じて、しまいにはドゥルーズのリゾームにまでいたるという見取り図……ツリーのノードが、分岐から接合へと変わるところに、原理の入れ替えみたいなことが生じているというわけなのかしら。でも、やはりツリーの呪縛からは簡単には脱せない。というかツリーが織りなす腑分けで必ず生じる残滓が、たえずそのツリーの組み替えを促し、全体が動的になってしまっているというのが基本的な構図な感じはする。このあたり、モダン・オントロジーなども当然絡んできそう。

エーコのこの本、目次を見ると2章以降も興味深い章立てになっているので、またそのうちメモしていくことにしよう(笑)。

投稿者 Masaki : 23:49

2008年07月24日

ラ・トゥールの光と闇

個人的には別に夏休みというわけではないのだけれど、なんとなく幼時からのそういう刷り込みのせいか、この時期はちょっと気分が「夏休み」だ。こういう時には少しばかり普段の関心領域を離れた、というか拡張したような本でも読むに限る。というわけで、今年はまずは田辺保『ゲッセマネの夜--パスカル「イエスのミステール」を読む』(教文館)。当代きってのパスカル研究者による、晩年近くに書かれたとされる名文の読解。イエスの捕縛前の夜の祈りを、それを描写するパスカル自身の苦悩と重ね合わせ、それをまた著者のたどりついた境地とも重ね合わせて読んでいくという、三層構造の読み。著者を追い、時代状況を追い、書かれたテキストを追うというのは文学的メソッドの基本だけれど、それを通じてどこまで深く潜っていけるかというのは、やはり潜ろうとする主体にかかっているのだという当たり前のことを、なんだかしみじみと語りかけてくるような本。で、深く潜って行ければ、それだけ同時代的な様々な作品との通底もまた見えてくる、という次第……。

かくして同書では、パスカルの同時代人であるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵画も取り上げられる。ラ・トゥールが多用する、闇とその中で燦々と輝く光の描写について、著者はむしろその闇のほうに着目し、それを時代状況、地上世界の惨苦の現れとして、パスカルとの共鳴の延長線上に位置づけている……。けれどもたとえば「大工聖ヨセフ」の幼少のイエスを照らす光の強さは印象的だ。ありていな言い方になってしまうけれど、闇だけがテーマではないのだと……。ここにもまた読み込むべきは、中世の昔から(あるいはさらにその前から)綿々と受け継がれてきた光の形而上学なのでは、という気もしなくない。

というわけで、その「聖ヨセフ」の絵を掲げておこう。で、ここで一気に世俗に話を落とすと(苦笑)、この幼少のイエスの光の具合を観て、思わずトリュフォーの映画を思い出したりもする。『アメリカの夜』で、燭台の反対側にライトを仕込んでおくという小道具が出てきたっけ。それは人為的な仕込みだけれど、人為的でない仕込みとでもいうべきものが、かつては画家の想像力の中に宿っていたのかもしれない、などと考えてみるのも一興かも(笑)。

LaTour_Joseph.jpg

投稿者 Masaki : 23:00

2008年07月21日

フェスティナ・レンテ

世間的には三連休だったわけだけれど、個人的には休み返上という感じ。それでもちょっと合間の息抜きにちらちらと岩波現代文庫で出た柳沼重剛『語学者の散歩道』を読む。古典学者のエッセイは面白いものが多いけれど、これもなかなか。「賽は投げられた(iacta alea est)」が実は「賽を投げよ(iacta alea esto)」だったのでは、というのは超有名な話だけれど、たとえば「ゆっくり急げ(festina lente)」が実はギリシア語の「σπεύδε βραδέως」がもとだなんて話、寡聞にして知らなかった(苦笑)。ちなみに、この「ゆっくり急げ」、ドイツ語の「Eile mit Weile」なんかは英語圏でも使われたりするみたいだし、フランス語、イタリア語あたりでは「Festina lente」そのまんま使ったりするみたい。アイレ・ミット・ヴァイレは韻っぽくってよい響きだけどね(笑)。

話を戻すと、同書にはほかにも、「健全な精神は健全な肉体に宿る」なんて修身っぽい言い方がもとはユウェナリスの一文で「〜宿りますように」という願望の表現だったものが、16世紀前半に句として成立したらしい話とか、探求を意味したヒストリアがいつから「歴史」の意味になったのかとか、とにかくそうした問題意識でもって辞書や文献を総なめしていくこだわりの姿勢が凛としていて見事。うん、語学にこだわりがあるならやっぱり古典語へ向かうというのが筋というものなのだなあ、と。

投稿者 Masaki : 23:51

2008年07月18日

暑いときの暑苦しい映画は……

久々に映画ネタでも。このところの暑さにはちょっとゲンナリ。で、こういうときに暑苦しい映画を観ると、熱い番茶でもすするのと同じで、ちょっとクーリング機能があるかも……(?)。まあ、利かないことも多いけれどね(苦笑)。というわけで、この間、デビッド・リンチの新作『インランド・エンパイア』をDVDで観る(オフィシャルサイトはこちら)。相変わらずのリンチ節で、まったくもって暑苦しい(笑)。映画評論家の町山智浩言うところの「デビッド・リンチの脳内ツアー」で、しかも3時間!『マルホランド・ドライブ』なんかもそうだけれど、例によって主人公は、出口のまったく見あたらない「はざま」の世界に入り込んでしまう。今回は呪われたポーランド映画とそのリメイクというもともと二重の世界に、さらにその登場人物たちの私生活らしきものが絡み、またまたわけわからん世界に。でも今回、ネタバレ的に言っておくと3時間のラストで、ちょっと唖然とするような救済の瞬間が待っていたりする。あ〜、これはもう、『ツイン・ピークス』あたりから(というかその前からか)ずっと繰り返されてきた悪夢の、ある種の内破と清浄化みたいな。もちろんそれもまた、観る側の勝手なストーリーの組み立てではあるのだけれど(リンチの映画はそういう感じだよね)。

ちなみに「インランド・エンパイア」は実在する米国の地域名だけれど、上の町山氏のポッドキャストによると、リンチはこれを字義的に解してインスパイアされたらしい。「奥地の帝国」?いいねえ、これ。人の内部に巣くう帝国、みたいな感じで……(笑)。

投稿者 Masaki : 23:33

2008年07月15日

モダン・オントロジーの有益な対話

エコがらみの「環境」問題が取り上げられるほどに、より根源的な「人間にとっての環境とはそもそも何か」という問題が語られることはますます少なくなっていく……そういう逆説を感じている向きには(そういう人がいればだが(笑))朗報となる一冊が出た。河野哲也ほか編『環境のオントロジー』(春秋社)。これはとても有意義な一冊。アフォーダンスで知られるギブソン流の生態学と、分析哲学系の熱い「形式存在論」のそれぞれの論考(学問的な俯瞰という感じの論文が並ぶ)が一堂に会し、希有の「対話」誘導本になっている感じだ。つまり、読む側は双方の立場が意外に近接しているのではないか、通底するものがあるのではないか、ということを知らされるという趣向。ギブソン流の生態学が、ある種の一般論的な知覚の相互作用性を前面に押し出すとすると、形式存在論はさらに抽象的なレベルから、存在するものの相互性に向けた論理学的な思考を展開してみせる。その過程でアリストテレスの実体論が再評価されたりもし、ホワイトヘッドの実体=仮象論なども取り上げられる。うーむ、なかなかに刺激的だ。個人的に思うのは、より抽象レベルを下げて、人が取り巻かれる人工環境の媒介性みたいなものを扱う存在論も夢想できるかもということ。メディオ・オントロジーみたいな(?)。いや〜マジでそのあたりは考えてみないとね。

投稿者 Masaki : 23:38

2008年07月14日

[古楽]「お祭り」

昨日は個人的な「夏祭り」。つまり毎年恒例のリュート講習会に参加したという話。今年はバロックリュートでロベール・ド・ヴィゼーのロンドー「La Montfermeil」(小品ながらちょっと面白い一曲)に挑戦……って、低音弦を弾く親指がさっぱりハマらず、テンポ設定を限りなく遅くすることに(ほとんど曲が体をなすぎりぎりの遅速……トホホ)。でも、遅くするとそれなりに親指はハマるということが改めて実感できたのは収穫。とりあえず、その点だけはやっぱり馴れの問題なんだなあ、と。

今年のクールダウンは例のドイツとフランスのHMV50周年記念ボックスからそれぞれいくつかを聴いてすごす。ノーマークだったうち、なかなか良いのがゼレンカの「幼子のミサ」(ストゥットガルト室内管弦楽団、ターフェルムジーク・バロック・オーケストラ)。これはなかなか感動的な一枚。それから久々にフランソワ・クープランの「教区のミサ」。ミシェル・シャピュイのオルガン演奏。これも名盤の風格。

……なんてことを思ってタワーレコードとか見ていたら、なんと今度は60枚入りのボックスでバロック名曲集みたいなのが出るという情報が!(Baroque Materpieces -60CD Limited Edition [60CD+CD-ROM] [Limited])オンラインでの予約購入だと60枚で6000円を切っているので、一枚100円を割り込んでいる。うーん、いったいこの大盤振る舞いはどうなっているんだろう?約20枚はバッハだし、これもやっぱり買いかしら(苦笑)。

投稿者 Masaki : 22:40

2008年07月11日

挿絵と本文の齟齬

再び『マルコ・ポーロと世界の発見』から。『東方見聞録』は当時の写本に漏れず、翻訳や筆写を繰り返すうちに、かなりもとのテキストから逸脱したものが出てきているのだという。フランチェスコ・ピピノなる聖職者によるラテン語訳からして、かなりの歪曲がなされているらしく、さらにそのゲール語訳(なんてのまであるんですねえ)などはトンデモ訳になっているらしい(笑)(同、p.182)。また、挿絵もそうした逸脱を助長しているのだそうで、大カーンがマルコに贈った「黄金牌符」なるものは、実際は金色の銘板なのに、現物を知らなかった挿絵画家は金色の大きな卓を描いているというし、本文にはない東洋の怪異な人々の図(当時の東洋関連の著作にあったようなもの)を描いたりもしている(p.184)。うーん、この挿絵と本文の齟齬というのはとても面白い問題ではないかなと、改めて思う。そのうち時代的に追ってみたいところ。

余談1:そういう問題系を探っていくと、おそらく現代の視聴覚文化でのテキストと画像ないし映像との関係などにも考察を広げることができたりするはず。たとえば去年くらいの映画『ベオウルフ』とかね(いや〜、なかなかぶっ飛んだ映画だったけれど)。もとはイギリスの叙事詩だけれど、それにしてもこの映像化された怪物グレンデルってどうなんだろか、と(原作本は岩波文庫版が入手しやすいし読みやすい)思ったりするのだけれど、いずれにしてもファンタジー的な造形の根は、結構古い時代にまで遡れそうな気がする。

余談2:前に言った話の繰り返しだけれど、西欧人が考えるファンタジーのダークな部分って、われわれが抱くファンタジー感よりもはるかにどす黒く、また「怖い」。スペイン映画の『パンズ・ラビリンス』(少し前にビデオで観たのだけれど、フランコ政権の恐怖と、少女の幻想が交差するなかなかの秀作だ)なんかでも、禁を破るシーンで怪物が追ってくるあたり、結構鬼気迫るものがあったりする。ちょうどついさっきまで『ゲド戦記』のジブリアニメを放映していたけれど、これなどまさにファンタジーの温度差みたいなものをよく体現している気がする。まずもってドラゴンの吐く息はむちゃ臭い、というのがやはり基本でしょう(笑)。

投稿者 Masaki : 23:41

2008年07月09日

「世界の発見」?

ジョン・ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』(野崎嘉信ほか訳、法政大学出版局)を途中まで。『東方見聞録』(il milione)について、その記述内容や成立にまつわる従来の諸説を批判しつつ、それを当時の画期的な地理書だったとして再評価しようとする本。この諸説の批判部分がとても面白い。マルコの共同執筆者となるルスティケッロにはアーサー王伝説の散文物語の著書もあるため、ともすれば『東方見聞録』もそうした物語形式の枠のもとで成立したフィクションのような扱いを受けることもある、というわけだけれど、現存する写本の数々を比較しても、そうした冒険譚的な要素、荒唐無稽な部分というのはおどろくほど少ないといい、おそらくはマルコが持ち帰った資料をベースに、フランコ・イタリアン(フランス語訛りのイタリア語)で原著書(失われているというが)が書かれ、それは旅行記ですらなく、通商の記録でもなく、むしろまだTO図のような限定的な世界観から抜け出ていない当時の人々に、新たな世界像を示すための「地理書」として企図された可能性が高い、というのがメインストリーム。そして重要な点として、マルコが東方に向けるまなざしには、そうした人々を異質性のもとに他者として捉えるような(オリエンタリズムですな)偏向はほぼ見られない、と著者は主張する。

うん、確かに『東方見聞録』は、とても淡々と記述が進んでいくような印象がある(東洋文庫版(愛宕松男訳、平凡社)を引っ張りだして見てみたら、イタリアの集成本の英訳がベースになっている)。何かこの、そうした印象から出発して、様々な側面から検証し直し、議論として練り上げたのが同書、という感じではある。後半は『東方見聞録』の受容の問題を取り上げるようなので、そちらも楽しみ。

同書のカバー絵は法政大学が所蔵しているファクシミリ版からの一ページ。ネットでは、別のページだけれど、Wikimedia Commonsにある。下にも再録しておこう。

il_milione1.jpg

投稿者 Masaki : 23:46

2008年07月06日

[古楽] エスタンピ

この数日はめちゃ暑い。さっそくいろいろ暑気払いが必要に。個人的には古楽も結構利く(笑)。というわけで、ジョルディ・サヴァール&エスペリオンXXIの新譜を。『エスタンピ&ダンス・ロワイヤル』(Alia Vox、AV9857)。おー、久々に中世もので来たねえ。パリにある国立図書館所蔵の「王の写本」(ff.844)(14世紀初頭ごろ)から、器楽用の連番つき「エスタンピ」(舞曲の一種)全曲を、それより時代の早いトルバドゥールらの音楽と合わせて録音したという一枚。演奏はこれまた快活。相変わらずサヴァールの天才的な発想でもって、ネウマ譜のメロディラインだけのものを豊かなパフォーマンスに仕上げていて見事。13世紀末から14世紀はじめごろに、おそらくは実際に演奏されていたであろうメロディ。ってことはブラバンのシゲルスとか、そのあたりが耳にしていた可能性もあるわけで、そう考えるとなんだかいっそうワクワクする(苦笑)。

そのパリにある写本の一部の画像を挙げておこう。騎士らしい人物像が描かれている。

Chansonnier_du_Roi1.jpg

投稿者 Masaki : 22:42

2008年07月05日

トルコの今

藤原書店の別冊『環』14号「トルコとは何か」をちらちらと。今に始まったことではないけれど、西欧世界の「臨界」の意味づけにおいて、トルコやそれ以前のオスマン帝国などは重要な存在。そのわりにちゃんと知らないなあと思っていた矢先だったので、これを機にと購入してみた。作家のオルハン・パムクが5月に来日ということだったので、それに合わせた特集だったようだが、パムクについての特集部分は後半のみで、前半はトルコの近代史や文化誌を中心にした多面的な特集。とりわけ見開き2ページでちょこちょこと入るコラムが個人的には面白い。チューリップがトルコで重用されたというのはちょっと意外な感じだったし、トルコ料理の展開とか、トルコの音楽とか、いろいろと興味深いことしきり。「飛んでイスタンブール」がらみで庄野真代も一文を寄せている(!)。

投稿者 Masaki : 22:54

2008年07月03日

トマスの「自然学」

トマス・アクィナス『自然の諸原理について』(長倉久子ほか訳、知泉書館)を読了。ラテン語対訳本。こういう対訳本はできればもっと出してほしいところ。トマスのテキストは小品ながらアリストテレス的な「自然学」のエッセンスをまとめたような密度の濃いもの。現実態/可能態、形相/質料、四原因の理論などが手際よく説明されていく。興味深いのは、自然の原理として「質料」と「形相」のほか「欠如」が挙げられているところか。すぐには確認できないけれど、欠如(ステレーシス)はアリストテレスも取り上げてはいたものの、第三の原理としてはっきりとは打ち出していなかったように思う。欠如が原理として持ち上げられるのは、師匠のアルベルトゥス・マグヌス譲り、ということか。この「欠如」は、non esse actuだとされ、「現実にはあらぬこと」と訳されているけれど、実質的にはまだ現実的な形を取っていないもの、というような意味で、質料と形相が結びついて可能態が現実態へと「生成」する際の重要な中間項の役割を果たすものと考えられている。これは存在論的にも面白い観点だ。

いずれにしてもトマスの自然学的な議論はちゃんとさらっておかないと、という気はする。そういえばこの間、ある出版関係の小パンフ(?)で、どこぞの大学のセンセ(もと編集関係の大物という話だが)が、ルーベンスタインの『中世の覚醒』について触れ、アリストテレスの再発見から『神学大全』への結実までは壮大なドラマなのに、同書は煩瑣な(スコラな)神学論争ばかり描いていてつまらん、勘所をストレートに紹介せんかい、みたいな苦言を呈していた。でも、それはトマスを中心に見る従来型の(いかにも文学部ごのみな)「大物志向」の発想でしかないのでは。肝心なのは、むしろ歴史の流れを複線的に見る見方なはず。西欧世界へのアリストテレス思想の流入の結果には功罪両方があって、かならずしも『神学大全』だけに「結実」したわけではないのだし。

投稿者 Masaki : 23:45