2008年08月29日

「バートルビー」で考える「神的なもの」?

ちょっと春先ごろに新聞の書評とかで取り上げられていたエンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』(木村栄一訳、新潮社)を、ようやく読む。メルヴィルの短編『書写人バートルビー』の登場人物バートルビーを、「あえて書くことをやめる」作家たちの症候群の名称にあて、そうした様々な作家たちのバートルビー症候群を綴っていくという、フィクションながら文学史的な営みの面白い読み物になっている(でもソクラテスあたりをのぞくと、取り上げる題材は近代文学以降のみ。中世だって、いきなり執筆放棄をしたとされるトマス・アクィナスとか、いろいろいそうだけれどね(笑))。けれども、個人的にはバートルビーの真の問題系がそんなところにあるようには思えない……(『バートルビー』についてはドゥルーズやアガンベンの論考もあるけれど、両者の分析にも少なからず無理があるような印象も(苦笑))。というのも、バートルビーの否定性は単に「書かない」「何もしない」だけでなく、もっと深い次元にまで達しているのであって、執筆活動は止めて喜々として暮らしている一部の作家とは次元が違い過ぎるし、単純に肯定的な無為をなしているのでもないようだからだ。

メルヴィルの『書写人バートルビー』は、柴田元幸訳が同氏の責任編集ムック(?)『monkey business』(vol.1 野球号)で読める。個人的には語り手の「私」に生じる変化のほうが面白く、怒りから、それを鎮めるための言い訳、自己礼賛、馴れと許容、同情などなどと、語り手の感情表現はその都度、バートルビーの穏やかな拒絶でもってはぐらかされて変化していく。絶対的といってよいほど何も共有できない「異質な他者」が、なんとはなしにただそこにいる、というわけだ。なるほど、それはまさにジャン=リュック・ナンシー言うところの「むき出しの現前性」か。……なんてことを、最近文庫化されたナンシーの『神的な様々の場』(大西雅一郎訳、ちくま学芸文庫)を読んで思ったりもする。その一節では、神とは「単独で剥き出しである現前性」のことだという。「それと共にあることで、人間が或る一定の関係性へと拘束されてしまうもの、あるいは或る者、これが神的なるものである」。バートルビーは語り手にとってまさにそうした存在者だ。語り手はその周りをひたすら回り続け、それによって自己の関係性が変転する(あるいは脱構築される)。バートルビーはあるいはそういう、神なき時代の神的なものの根源、萌芽の物語として読むこともできる……かなと。

余談ながら『monkey business』は結構面白いテキストがいろいろ収録されていて、今後も楽しみかも。岸本佐知子『あかずの日記1 分数アパート』なんかゲラゲラ笑ってしまった(苦笑)。

投稿者 Masaki : 22:55

2008年08月27日

エーコ本から:ダンテの言語論

前にも記したが今年の夏読書の一方の本命、エーコの『ツリーから迷宮へ』。これの中盤、第7章にあたる「様式主義者とカバリストの狭間のダンテ」が短い論考ながらとても面白い。前半はダンテの言語論とされる「De vulgari eloquentia」(俗語の能弁さについて)を取り上げる。人類創成の際にアダムが語った言語は何かという問題について、ダンテはどうもそれを通常考えられていたような特定の言語(ヘブライ語の古語)とは見なさずに、一種の内在的な「言語能力」、はるか後の生成文法の祖型のようなものを考えていたのではないか、というのがそのメインの論点。ダンテの言う「forma locutionis」はそういう能力を指すのではないか、という次第。だからこそ、後世に見られたような完全言語の追求(これはエーコの別の本になっているけれど)へと向かうのではなく、むしろ当時の俗語だったイタリア語を、その内在的な言語能力の高みにまで引き上げることへと注力することになるというわけだ。そして後半、今度は『神曲』の天国編から、神の名を「I」「EL」と呼び表している点を手がかりに、ダンテが同時代のユダヤ教のカバラ主義(アブラハム・アブラフィアのもの)の影響を受けている可能性を探り、上のforma locutionisの考え方の源泉もそこにあるのではないかという話になっていく。いや〜思わず唸ってしまうような展開にほれぼれ(笑)。

さらに10章目の「ルルス、ピコ、ルルス主義について」も同じような問題系を扱っている。ライムンドゥス・ルルスのいわば「アルス・コンビナトリア」な論述技法の概略を示し、やはりアブラフィアのカバラ主義との関連を探るのだけれど、今回はむしろその影響関係は限定的であるとして、ほかの影響圏へと探りを入れていく。アウグスティヌス的なプラトン主義のほか、ラヴジョイ言うところの「大いなる存在の連鎖」、とりわけマクロビウスの影響など、複合的な影響関係が示唆されるのだけれど、いずれにしもここでも問われているのは言語をめぐるある種の思想形態。うーむ、上のダンテの言語論も、ルルスについての再考も、個人的にもこの秋以降改めて探索してみたいものだなあ、と。

投稿者 Masaki : 22:45

2008年08月26日

[古楽] ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ

最近よく見かける古楽器の新鋭(変な言い方だが)はヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ。その名のごとく肩にかけてヴァイオリンみたいなポジションで弾くというもの。失われた楽器だけれど、このところ復元を経て復興目覚ましいようで……というわけで、寺神戸亮によるその楽器での演奏を聴く。『J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全曲/寺神戸亮 [SACD Hybrid]』。この時代の組曲は当然ながら舞曲の組み合わせなのだけれど、なるほど普通のチェロでの演奏よりもどこかヴィヴィッドに舞曲らしさを出している……ように響く感じ。実際ライナーにも、弾きやすいので曲の性格をちゃんと出しやすい、みたいなことが書いてある。早いパッセージや装飾などが楽なのだとか、ただしハイポジションは使いにくくなってしまうのだとか。なるほど〜。

この楽器が存在した証拠は文献学的にも図像学的にもいろいろあるのだそうで、ライナーの末尾に、ドニ・ゴーティエ(げげ、有名なリュートの作曲家でないの!)の曲集『神々の修辞学』の挿絵が掲載されている。ここにも再録しておこう。

Plate_13b.jpg

ソースはこちら。『神々の修辞学』のタブラチュア(バロックリュート用)が挿絵とともに置かれている。うん、ゴーティエの作品も面白そう。そのうちぜひ弾いてみよう(まだ先だが……笑)。

投稿者 Masaki : 23:32

2008年08月24日

[宣伝(笑)] 訳書新作

ちょっとこちらでも宣伝(笑)。久々に訳書が出た。ミシェル・オンフレ『哲学者、怒りに炎上す。』(河出書房新社)。『<反>哲学教科書』から早4年がたつのか〜(時間の経過が早すぎるなあ、としみじみ)。今回は時評集。小著だけれど、オンフレの毒舌ぶりをたっぷり(?)ご堪能いただきたい、という感じ。出来上がりを目にしたばかりだけれど、出版社は違うものの前回の『<反>哲学教科書』と同じデザイナーさんの装幀というところも嬉しかったり。で、ありがたいことに、月曜社の「ウラゲツ☆ブログ」さんがすでに触れてくださっていた。多謝。

投稿者 Masaki : 23:18

2008年08月21日

「中世の知覚理論」

シモ・クヌーティラ&ペッカ・カルッカイネン編の『中世・初期近代哲学の知覚理論』("Theories of Perception in Medieval and Early Modern Philosophy", ed. Simo Knuuttila, Pekka Kärkkäinen, Springer , 2008)という論集をちらちらと眺めてみた。2004年にヘルシンキで開かれたシンポジウムのペーパーを主に集めたものということで、16編が収録されている。プロティノスやストア派の知覚論、ある意味定番的なアヴィセンナの抽象化作用の議論、アヴェロエスの知性論のまとめも、個人的には参考になるけれど(アヴェロエスについては、刊行予定の『霊魂論大注解』の英訳に言及されていて、なるほど大注解はとても重要なものらしいことが改めてわかる)、ちょっと面白かったのは、ジャン・オリヴィの内的感覚について扱ったものや(やはりオリヴィの自己認試論あたりは面白そうではある--ラテン語テキストはちょっととっつき難い感じもするのだけれど)、アリストテレスの理論とガレノスやアヴィセンナの医学的著作を統合しようとしたというアーバノのピエトロについての話、トマスが感覚的・知的スペキエスを認識の対象そのものととらえていた、という持論をもとに、その弟子筋の認識論を追うおそらくは野心的な(?)小論などなど。シンポジウムの発表用ということで、全体には小粒な印象で、もとのテキストのまとめと言い換えをしたものが目立つ感じだけれど、やはりなにかこう、そこから先に展開するであろう研究の萌芽のようなものを、読む側にも感じさせるものが目を引くといったところ。

投稿者 Masaki : 23:39

2008年08月19日

[コミック] 『チェーザレ』5巻

惣領冬実のコミック『チェーザレ』はいつのまにか5巻が出ていたので、さっそく読む(笑)。今回のクライマックスはやはり後半の、大学で行われる模擬戦だと思われるけれど、個人的に気になったのは、前半のピサのエピソードの最後で、アンジェロがチェーザレに贈る金属片に記されている格言。「Nulla est tam facilis res, quin difficilis siet, quum invitus facias. Semper avarus eget.」というやつ(同書の訳は意訳で「探求心は足取りを軽くする--だが求めすぎると足元をすくわれる」になっている)。この後半部分は、どこぞで見たことがあるなあと思って確認すると(岩波の『ギリシア・ラテン引用語事典』をsemperで引く)、「貪欲なる者は常に窮乏する」とあって、ホラティウスの『書簡集』1巻2歌56。Webだと「ラテン語徒然」というサイトにその箇所の対訳がある。

前半は何だろうと思い、再び『引用語辞典』を。nullaで引くと一発。「いかなる事にても汝がそれをいやいやになす時には、難儀とならざる如き容易なるものは一つもなし」。出典はテレンティウスの戯曲『自虐者』だそうだ。『引用語辞典』ではquin difficilis sitとなっているけれど、OLDによるとキケロ以前のラテン語の接続法はsietだということなので、コミックのほうの表記が正しいってこと?うーん、やるなあ。それにしてもアンジェロは、このテレンティウスとホラティウスを合わせて掘った金属板をどこで手に入れたのかしら、という疑問が(爆笑)。そんなのそこいらで既製品として売ってそうにはないし、注文して掘ってもらったとしたら、結構お金がかかるのでは……?アンジェロは平民出で、有力者(ロレンツォ・デ・メディチ)の援助で大学行っている設定だが、さて……(変なツッコミになってしまったが、ご勘弁)?

投稿者 Masaki : 23:23

2008年08月18日

[古楽]太陽王関係もの

酷暑も一休みという感じのこの二日で、ちょいとルイ14世もののCDを聴く……けれどもどうも最近、声楽曲がどうもピンとこない。器楽曲の方についつい注意が行ってしまう感じ。そんなわけで、まずはジョヴァンニ・ロヴェッタの『ルイ14世の誕生のためのヴェネツィアの晩祷』(HMA 1951706)を聴くも、ユングヘーネル指揮、カントゥス・ケルンの職人技にもかかわらず、声楽部分よりも間に2曲入っている器楽曲のソナタ(5番と1番)の方にはまる……。コルネットの細やかな動きのパフォーマンスが華麗だなあ、と。収録曲の中心となるのは、1638年に在ヴェネツィアのフランス大使が、王位継承者の誕生を祝うべく、モンテヴェルディの片腕だったというロヴェッタに作曲を依頼したミサ曲。とはいえミサ全曲の再構成というわけではないのだそうで。

もう一つはユーゴ・レーヌ指揮、マレ交響楽団による、朗読付きの『ルイ14世の婚礼の音楽』(ACCORD 442 9894)(Musiques pour le Mariage de Louis XIV / Hugo Reyne, La Simphonie du Marais)。2枚組CDで、リュリとカヴァッリの音楽で構成された企画盤。リュリの作品の録音シリーズの1枚。ルイ14世とマリー・テレーズとの結婚(1660年)については、その当日に演奏された曲目などは不明なのだそうで、このCDの収録曲はその前後のリュリ作品をフィーチャーしたもの。2枚目はカヴァッリの「恋するエルコレ」と、それに挿入されたリュリのバレエ「恋するヘラクレス」。うーん、2枚とも、この朗読は別に要らない感じもする(苦笑)。そういうパフォーマンスも以前は結構良いと思っていたけれど、なんだか音楽の勢いが殺がれるようで、ちょっとノレなくなってしまう、みたいな。というわけで、iTunesあたりに取り込んで朗読部分をカットしたりして楽しむのが個人的にはお薦めかも(笑)。

---追記
ジャケット絵を掲げるのを忘れていた。「ルイ14世とマリー=テレーズの婚礼」というもので、作者はローモニエ(Laumosnier)となっている。この人物は1690年から1725年にかけて活躍という以外、ちょっと情報がない。また、これはシャルル・ル・ブラン(ルイ14世付きの首席画家)と、ファン・デル・メウレンに基づく作とされる。ル・ブランの弟子筋かなにかかしら?ちょっと謎。

Louis_XIV_wedding.jpg

投稿者 Masaki : 23:26

2008年08月16日

シゲルス的テキスト

ブラバントのシゲルス「霊魂論第3巻注解」はすでに羅伊対訳本が手元にあるのだけれど、ついでがあってヘルダー社版の羅独対訳本(Siger von Brabant, "Über die Lehre vom Intellekt nach Aristoteles", Verlag Herder, 2007)も手に入れてみた。実は本文よりも付録が見たかった(笑)。付録は二つあって、一つは16世紀初めごろのイタリアの人文主義者、アゴスティノ・ニフォなる人物によるシゲルスの引用。トマスの「知性の単一性についてのアヴェロエス派に対する反論」に対するシゲルスの失われた再反論を、ニフォがパラフレーズしているものらしい。ブルーノ・ナルディによる研究から取っているのだとか。断章はどれもなかなか興味深く、とりわけトマスの反論(魂は身体の現実態としてもとより一体であるという立場)に対し、改めて身体と魂の分離・結合論(それがシゲルスの立場)が強調されているところが注目される。知性は一種の「半・魂」なのだというのが面白い(これってシゲルス?それともニフォのの考え?)。

もう一つの付録は、これまた逸名著者によるトマスへの反論文書。ここでも問題の核心をなすのは「身体と魂の分離・結合」の議論。トマスの場合、身体と魂がもとより分離していないという議論が大前提にあり、単一知性はありえないという話はそれに立脚する形で展開する。そのためこの非分離の議論には多くのページが割かれることになるわけで、となれば、当然トマスへの反論文書も、身体と魂は本来別もので、なおかつ結合しているという議論の擁護を長々としなくてはならないことになる……。うーん、でも、それだけでは道半ばという感じなのだが……。まあこれも文書としては一部分だけのようだけれど……。

投稿者 Masaki : 23:43

2008年08月13日

天球論の労作

ピエール・デュエムの『見かけを救う』(Pierre Duhem, "Sauver les apparences - sur la Notion de Théorie physique", Vrin, 2003)は、天文学を題材にして、「見かけ」をどう取り込むかをめぐって自然科学が紆余曲折を経る様子を、時代ごとに総括するという古典的な著作。なにしろ初版は100年前の1908年。小著だけれども、簡素にしてたたみかけるような記述がいかにも科学史家らしかったりする。で、それから時代をはるか下って、やはり天文学の一大問題を扱うより細かな詳述も登場することに。それがミシェル=ピエール・レルネール『天球の世界』。初版は1906年で、今年になって増補改訂版が出ている。1巻目(Michel-Pierre Lerner, "Le Monde des sphères,vol.1", Les Belles Lettres, 1996-2008)に目を通したところなのだけれど、天球(いわゆる諸天)という考え方がどう変遷し、どういう問題が存続していったのかということについて、とても見事な総覧になっていて、読み応え十分。うーん、労作だなあ。1巻目は宇宙の表象の誕生と隆盛という副題で、古代から中世までを扱っている。前半はひととおりの通史で、後半はテーマ別に、天空を成り立たせている物質、動者、天球の数と場所といった問題が整理されている。便覧的にも使えそう(笑)。中世の関連でいえば、アヴェロエスやアルペトラギウスあたりの影響圏の問題がやはりとくに目を惹く感じ。諸説が変遷していく動因は、「見かけを救う」だけにとどまらず、より教条的な思想とのすり合わせなども介在していることが、ある程度具体的なイメージで描き出されていく。

投稿者 Masaki : 23:12

2008年08月09日

舟と船人の比喩

岩波書店の双書「哲学塾」から、神崎繁『魂<アニマ>への態度--古代から現代まで』(2008)をざっと。7日間の講義という体裁で、主に古代ギリシアからの「魂」の問題を俯瞰するという感じの一冊。個人的にとりわけ興味深かったのは、アリストテレスから中世がらみとなる「舟と船人の比喩」を扱った6日目、7日目の「講義」。なにしろまずはキリシタン版(キリスト教伝来時に持ち込まれた文献)に触れ、そこに記されている内容が神学論的にも最先端のものだったことなどが紹介されている。「自由」が今日とほぼ同じ意味で用いられている最古の日本語文献はそうしたキリシタン版なのだそうな。うーん、なるほど。

さらにまた、表題の「舟と船人の比喩」(アリストテレスが『魂について』で初めて用いた、魂と身体を表す比喩)の変遷が端的にまとめられていて参考になる。アフロディシアスのアレクサンドロスはこの「船人」を「舵取り」と言い換えて比喩の限定化をもたらし、プロティノスはさらにそれを「舵取り術」と捉えて「技術が道具に内在する」という形に変えていくのだそうだ。テミスティオスになると、この魂の部分を知性と読み替えて、知性と身体の分離可能性を示唆するわけだ。さらにはトマス(なぜかこの比喩をプラトンに帰しているそうだ)、さらに後期スコラのトレトゥスの形相の区分(形成的形相、介在的形相)の話まで言及されている。著者は、アリストテレスが「身体は魂のオルガノンである」と言う場合、オルガノンの一般的な訳語として「器官」とするのが普通だけれども、実は「道具」の意味が込められていたのではないかと指摘している。この魂と身体の関係の「技術」的な読み替えは、もしかしたらとても重要でないかしら、と。同書には、そのあたりの解釈の変遷にはまた別の講義が必要、と書かれているけれど、それはぜひお願いしたいところだ。

投稿者 Masaki : 22:48

2008年08月08日

ハルモニア・ムンディ

ハルモニア・ムンディと言っても今回は古楽レーベルではない(笑)。久々に音楽学系の論集を読む。『ハルモニア・ムンディ--古代から中世の世俗音楽と天球の音楽』("Harmonia mundi - Musica mondana e musica celeste fra Antiquità e Medioevo", a cura di Marta Cristiani e al., Sismel - Edizioni del Galluzzo, 2007)。伊語と仏語の論文集で、タイトル通り、古代(とくに古代末期)の思弁的な音楽論から中世の実践的な音楽論までをカバーしている。でも、研究対象の文献とかは意外に狭く、冒頭をかざる編者の一人マルタ・クリスティアーニの包括的な論考が大枠を語っている感じ。全体として扱われているのは、古代末期ならアウグスティヌス、マクロビウス、さらにそれとの絡みで「ティマイオス」、カルキディウス、ボエティウス、中世ならマルティアヌス・カベラ、サン=ヴィクトルのフーゴー、さらにビンゲンのヒルデガルト、グイド・ダレッツォなどなど、おなじみの名前が並んでいる。うーん、個人的には新しい文献の掘り起こしとか、そういう方面の進展を期待していたのだけれど、そういうのはあまりなくてちょっと残念。音楽学も最前線はあまり伝わってこないだけに、一応貴重な論集という気はするのだけれど……。思弁的な天球の音楽、あるいはアニマ・ムンディなどの考え方がアリストテレス思想をベースに否定されていく13世紀以降、いよいよもって「現世」化していく音楽理論の軌跡を追うみたいな、なんかそういうのとかないっすかね?

話は変わるけれど、京都大学学術出版会が出している西洋古典叢書で少し前に出た、アリストクセノスとプトレマイオスのハルモニア論が読める『古代音楽論集』(山本建郎訳)を購入してみた。こういうのが邦訳で読めるのはとっても嬉しい。まだパラパラと眺めているだけだけれど、とっても面白そう。

投稿者 Masaki : 20:53

2008年08月05日

マリアとマルタ

岩波現代文庫で出ている上田閑照「哲学コレクション」から、4巻『非神秘主義--禅とエックハルト』を読んでみる。コレクションというだけあって、これは個人論集。神秘主義という名前でまとめられるマイスター・エックハルトの思想が、禅の思想に通底するという話は結構前からあるけれど、それを具体的に示して見せた上で、その神秘主義という括りは適切ではないということ、あるいはそういう括りを脱臼させてしまうべきことを、形を変えながら様々に論じている。禅的な「離脱」を説くエックハルトは、その表象可能性のはぎとりを極端にまで進め、「神を放下する」「神から離れてある」といったかなりラディカルな、逆説的な表現すら用いるようになる。

で、面白いのは、そうした基本的なスタンスから、「マリアとマルタ」の逸話について、エックハルトが一般的なものとは逆の解釈を示しているというくだりだ。接待にかまけているマルタではなく、キリストに聞き入っているマリアのほうが義認されたというのが通常の解釈だろうけれど、エックハルトはむしろマルタのほうに完成形があるという見方をするのだという。実生活の具体的なものごとに関わることによって高い認識を得ているマルタは、法悦に溺れそうになるマリアを救おうとして声をかけるのだという。なるほど、げにエックハルトの教説は興味深いのだな、と。

上田氏はこのエックハルトの解釈を示した後で、そのエックハルトの教説に照応するかのような絵画のコピーをロッテルダムのボイマンス美術館で見たことがあると述べている(p.323)。その絵は食事の準備にいそしむマルタを大きく描き、キリストとマリアは背後に小さく描かれているのだという。うーん、これはとても気になる。通常はやはりキリストとマリアを前面に描くだろうからね。というわけでネットで検索してみたのだけれど、これ、たとえばベラスケスの絵がそれに近そう。ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵の「マリアとマルタの家のキリスト」だけれど、確かにこれはそういう構図になっている。ベラスケスがエックハルトの説教を読んでいた?うーん、それはまた謎だ……(笑)。

Velazquez_Martha_and_Mary.jpg

投稿者 Masaki : 23:21

2008年08月03日

[小説] 『Y氏の終わり』

紀伊国屋の書評ブログで高山宏氏が最後にとりあげた小説作品、スカーレット・トマスの『Y氏の終わり』(田中一江訳、早川書房)を読んでみた。なるほど、デリダやらラカンやらボードリヤールやら、文学系の院生が口にしそうな名前がひょろひょろっと出てくるし、言語や意識、物質など、一頃はやった領域横断的「学際」な話なども要所要所に散りばめられ、主人公のアリエルという学生もいかにも「不良院生」っぽくて何やら懐かしいが(爆笑)、全体の話は意外と単純。というかどこか既視感たっぷりの物語。不思議の国のアリスというよりは、これはWebサーフィンの人間意識版ということで、なんかちょっとできのよくないサイバーパンクみたいな感じが……(苦笑)。人の意識をサーフィンするとなれば、筒井康隆『家族八景』(これ、最近マンガになって再び人気なのだそうで)みたいな描写とか期待したりしたくなるが、うまいことに、ここでの設定では表層意識にしか潜れないらしい。でもちょっと面白いのは、サイバー空間ならぬトロポスフィアが、どうやら一種の集合知性的世界、単一知性的世界らしいということ(アヴェロエス的なものはこんなところにも復活している、なんて考えると個人的には楽しい)。自分が人の意識をサーフできるなら、敵の側だってできるはず……というわけで、主人公の逃避行&戦いが始まり……ラストはまあ、予想の範囲内というところかな。でも、このトロポスフィアという別世界はこの作品だけで閉じてしまうのは惜しいような気もする。いくらでも別作品に繋げられそうなのだけれど、作者は連作する気はないのかしら?

投稿者 Masaki : 22:29

2008年08月02日

[古楽]マラン・マレのオペラ作品

これまた久々に、エルヴェ・ニケとル・コンセール・スピリチュエルの演奏を聴く。なんとまあ、マラン・マレの音楽劇(tragédie lyrique)『セメレ』(Glossa、GCD921614)。ヴィオールものばかりが取り上げられるマレだけれど、なるほどオペラ(というか、音楽劇。CDの帯には音楽悲劇となっているけれど、音楽悲劇ってちょっと訳しすぎな感じもする)も4作品ほどあるのだという。なるほどねえ。一番有名なのは3作目の『アルシオーヌ』なのだそうだが、これはそれに続く4作目。1709年の作で、なかなかの円熟味という感じなのだが、まあそれは同作の復元作業と、ニケによるダイナミックな解釈と指揮の為せる業なのかもしれない。5幕の形式で、音楽的にも表現されている幕ごとのトーンの違いがとても興味深い。1幕の華やかさ、2幕の哀愁などなど。内容は、テーベの王カドモスの娘セメレとその恋人となるユピテル神、さらに政略結婚の相手アドラストゥスの三角関係。これ、原作はオウィディウスの『変身物語』の一節だけれど、そちらではアドラストゥスは登場せず、ユピテルの妻ユノーの復讐劇ということになっている。いずれにしても、セメレがユピテルにねだった「贈り物」によってセメレが命を落とすという結末は一緒で、こちらではアドラストゥスも末尾で没してしまう。本作は、ボーヌの音楽祭に続き、パリやモンペリエなどで上演されたものとか。未知の音楽劇を聴くときにはいつもそうだけれど、どんな舞台だったのだろうなあと想像しながらCDに耳を傾ける2時間超だ。

投稿者 Masaki : 22:56