2008年09月29日

トマスとディートリヒの「天使論」

少し前から気になっていた本。ティティアーナ・スアレス=ナニ『天使と哲学』(Tiziana Suarez-nani, "Les anges et la philosophie", Vrin , 2002)に大雑把に目を通す。基本的にはトマス・アクィナスと、同じくドミニコ会のフライベルクのディートリヒ(同じアルベルトゥス・マグヌスの弟子筋)による天使論を読み解くという論考。興味深いのは、前半が個体化論との絡みで天使の属性についての両者の見解をまとめ、後半になると今度はコスモロジー的な観点から再び両者の見解の違いを際立てようとしているところ。英語圏などで割と見かける気がするのは、同書の前半か後半かどちらか一方のテーマで、むしろ広く俯瞰するみたいなスタンスなのだけれど、この著者はトマスとディートリヒに絞り込むことで、むしろその固体化論とコスモロジーとを一続きの視点で見ている。この点が結構ツボにはまる感じだ。でも論述のスタイルは結構淡々としていて、今ひとつ盛り上がりが……(笑)。

トマスが天使をあくまで「種」と考え、個体とは見なしていない(人間などの個体的存在は、最下層にあってコスモロジックな秩序の枠を乱すものだというわけだ)のに対し、ディートリヒは天使を人間とは別様に固体化した存在と見るのだという。そのため、トマスにあっては天空の動因に同等視される天使は、ディートリヒにあってはその下位の存在と位置づけられる。うーむ、やはり中世思想の醍醐味(つーか、それは思想史全般の醍醐味だけれども)は、共通認識を持ちながらも各人が微妙・絶妙な隔たりを見せる点にあるのだなあ、ということを再び思わずにはいられない(笑)。

投稿者 Masaki : 23:24

2008年09月26日

絵画と影

久々の絵画論。読みかけだけれど、ヴィクトル・I・ストイキツァ『影の歴史』(岡田温司ほか訳、平凡社)がなかなかに興味深い。実は絵画において重要な役割を演じながら前面にはなかなか出てこない「影」について、その取り扱いや具体像をめぐる壮大な歴史絵巻をつづるかのような一冊。女性が恋人の影の輪郭をなぞったことを絵画の誕生とする逸話(プリニウスが伝えるもの)を改めて再考するところから始めて、プラトンの洞窟の譬えや、ナルキッソスの神話、さらにアルベルティの絵画論にまでいたるのが第1章。中世の光学理論のダンテによる取り込みから、15世紀のジョバンニ・ディ・パオロの陰影の使い分け、チェンニーニの『絵画術の書』、そして受胎告知その他の聖書的イコノグラフィーをめぐるのが第2章。

個人的にはこの第2章の後半部分が刺激的。導きの糸をなすのがニューヨークのフリックコレクションにあるフィリッポ・リッピの『受胎告知』。通常あるはずの象徴物(祈祷台とかベッドとか)がない代わりに、壁に映し出される聖母の影こそがその象徴なのではないかという話。ヴォラギネの『黄金伝説』の「影で覆う」というくだりが、まさに描かれているという解釈だ。同じくサン・ロレンツォ聖堂の別の『受胎告知』も、伝統的に画面を分割する柱をガブリエルが超えているという掟破りの(笑)構図はともかく、両者の間に置かれたフラスコとその影には、神学的なリファレンス(「花瓶を壊すことなく、それを通り抜ける光」)があるのだという。投影された影というのは、初期オランダ絵画の影響が強いのだそうだけれど、いずれにせよ、この影の描きこみの伝統は、受肉のイメージに強く結びついているのだという。うーむ、このあたりの問題機制、個人的にはちょっと是非を考える材料が乏しいのだけれど、いろいろ示唆に富むものであることは間違いなさそう。

せっかくなので、リッピによるそのサン・ロレンツォ聖堂の『受胎告知』を。

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投稿者 Masaki : 00:23

2008年09月24日

Ubuntu 8.04 on iBook G3

半年以上OSXを立ち上げていない古いiBook G3に、せっかくだからということでUbuntu 8.04PowerPC版を入れてみた。インストール作業は比較的スムーズで、いきなり内蔵のAirMacカードが認識されていたのがとても新鮮だった(笑)。全体的にレスポンスがよく、昨年秋にVine Linuxをメビウスノートに入れた時以上に快適かも。ただ難点は、インストール直後は解像度が800x600で、しかも上下に分割されたみたいになってしまっていること。でもまあ、とりあえず日本語化からカスタマイズをする。

PowerPC版は確か昨年の7.04あたりから正式サポートでなくなったはずだけれど、日本語化も「Ubuntuの日本語環境」のページの最下部にあるやり方で問題なくできた(パッケージのアップグレードがかなり時間がかかる)。入力メソッドのanthyなどは、Vineに入っていたものよりもかなり賢い(笑)。で、次に懸案の解像度の調整だけれど、これはターミナルから「sudo displayconfig-gtk」と打って、「モニタとグラフィックカードの設定」ペインを出すという話(こちらのページを参照)。このツールはどうやら/etc/X11/xorg.confを書き換えるものらしい。グラフィックカードはatiのRage Mobility 128用のものを選択し、モニタはAppleを選択して、そのサブのリストのうち、古いPowerBook G3のものが通った(なぜかiBookを選ぶとエラーになる)のだが、どうもこのツール、前の設定を消さずに追加で書き込むらしく(?)、再起動をかけると一時的に画面がむちゃくちゃ乱れ、使えなくなった。

Linuxユーザはやはりここで慌ててはいけないわけで(笑)。対策として、ログイン画面(これも乱れるが)に来たら、Control+Option+Deleteキーでキャラクタベースでログインし、nanoとかでそのxorg.confを編集するというやり方で乗り切れた。水平方向のリフレッシュレートを28-50に変更し、余計なディスプレイ設定を消してから再起動すると、ログイン画面は800x600だけれど、その後切り替わって1024x768で表示できるようになった。やれやれ、だいぶこなれたLinux環境だけれど、まだこういうところ、面倒な作業が不要になるよう頑張っていただきたいところだなあ、と(Intelマシンとかならだいぶ自動で行けるようになっているみたいだけれど……)。

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投稿者 Masaki : 01:01

2008年09月21日

[古楽] カイオーニ写本

これはまた面白い盤。『カイオーニ写本』(Codex Caioni: Un Jour de Noce en Transylvanie / Jean-Christophe Frisch, Ensemble XVIII-21)(Arion、ARN68785)。17世紀後半に司教として活躍し、その音楽家としての才でもルーマニア初というほどの名声を各地に残したというヨハネス・カイオーニ。トランシルバニア地方の修道院にあったというその写本から、村の婚礼をテーマに曲を再構成したものらしい。ライナーによれば、同写本には実に様々な要素が見られるのだといい(17世紀のトランシルバニアは、ハプスブルク家のオーストリアとオスマン帝国との狭間にあって、文化的には比較的繁栄していたという)、実際この盤でも、16世紀のプレトリウス、17世紀中盤ごろのカリッシミなどの曲が入っているほか、当然ながら伝統的な舞曲なども収録している。いずれも久々にヴィヴィッドな演奏を聴かせてもらった感じ(このところ、買う盤がどれもちょっとイマイチだったせいもあって)。演奏はジャン=クリストフ・フリッシュとXVIII-21 Le Baroque Nomadeという集団。この作品をベースにツアーをしているようで、公式サイトもある。

さて、ジャケット絵は野ウサギの絵。カイオーニは「野ウサギ」になぞらえられていたということで、実際、1曲目は「Lepus intra sata(耕地のウサギ)」だし、ジャケット絵もそれにならっている。で、この絵、すっごいリアリズム(?)とか思っていたら、これ、アルブレヒト・デューラーによる1502年の絵なのだそうで。ウィーンのアルベルティーナ美術館所蔵の水彩画。

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投稿者 Masaki : 23:00

2008年09月17日

「配置」の問題

柳澤田実編『ディスポジション−−配置としての世界』(現代企画室、2008)を読んでみる。論集なのだけれど、書籍の感触としては現代思想系の雑誌のような雰囲気を湛え、また、帯が一体になったような表紙カバーが特徴的だ。このあたりの手触りもまた、同書が多面的に論じる「配置」の実践ということかしらん。ディスポジション(配置)とはつまり、「人を取り巻き態勢づけるもの」なのだという。こうした定義から、環境論やオントロジー、さらには対人論など、いろいろなものが入ってくることが予想される。なかなかに豊穣な主軸かもね。実際、収録されている文章も、スピノザの実体論からフーコーの権力概念を経てギブソンの生態学をめぐる冒頭の対話、イエスの接近・行為論、アフォーダンスにもとづく生活学、環境型ロボットらしいサイクロプスの話、デカルト哲学、建築学でのウィトルウィウスの「残滓」、マティスの布置論、日本建築とイデオロギーなど、見所たっぷりの一冊。なるほど配置=態勢か。その意味では、中世の「ハビトゥス」の系譜なども一考に値しそうだなと、個人的にちょっと思ってみたり。うん、そんなことを考えるのも面白そうだ。

投稿者 Masaki : 22:59

2008年09月16日

脳と言語?

連休中に読了した一冊。月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社メチエ、2008)。思わせぶりなタイトルだけれど、前半の中心テーマは脳科学から見た身体運動意味論。これって、意味論で言ういわゆる聴覚映像(イメージ)を脳科学的に検証するということのよう。ま、メタファーの発見的な機能とかは、記号論などで普通に言われていることだし、とりたてて目新しいことではないけれども、模倣を一般化して、上の身体運動意味論的に自己認識の問題へと進んでいくところなどはなかなか面白い。模倣を通じた「心的相互作用が自己なのでは」なんて言われると、上の「イメージ」と相まって、どこか中世の知性論めいた部分も感じられるような気がしたりするのだけれどね……ってそれは考えすぎか(笑)。でも、めぐりめぐって、古い時代の哲学的議論とパラレルなものが浮上しそうになったりするのはとても興味深い現象だ。

で、同書。後半はちょっと脱力(苦笑)。いきなり文法の話になって、「主語省略度と母音比重度は比例する」なんて仮説が出されるけれど、これ、どうみてもコーパス足りなさすぎ。普通に屈折語(活用語尾とか、文法機能を語の形態素で表す言語)での説明じゃなんでいけないのか、とかいろいろ思ってしまう。たとえばギリシア語とかアラビア語とか、著者のいう「母音比重」は低そうな気がするけれど、基本的に屈折語なので、「主語省略度」だって高いんだけど……。さらにその後の推論も乱暴でないかい?そのためちょっと「トンデモ」度アップという印象(笑)。上の仮説の説明として、発声に際して内部的に聴くとき、聴覚野と言語野が別半球にある場合に、そのタイムラグのせいで主語を呼び込むのだ、みたいな話がなされるのだけれど、素朴な感想として、野の半球が異なるのって、むしろ子どもが習得する言語のせいで分かれちゃうとか、そういう説明だってできそうに思えるのだけれど……?そういうインタラクション考えないと、たとえば屈折語が徐々に屈折性を失っていくなどの歴史的事実とか説明できないんじゃないかなあ?脳科学はそりゃ最前線だろうけれど、言語学とか記号学とかを大なたでばっさりできると考えるのは、まだ今のところ行き過ぎだと思うのだが……。

投稿者 Masaki : 23:52

2008年09月13日

[古楽] ラウテンクラヴィーア

うーむ、と思わず低く唸ってしまったのが、最近聴いた『バッハのラウテンクラヴィーア』(Bachs Lautenclavier -Prelude, Fuga & Allegro BWV.998, Lute Suites BWV.997, BWV.995, BWV.1006a / Peter Waldner [CD+DVD])。バッハの遺品の中にあったとされるラウテンクラヴィーアは、現物は残っていないのだそうだけれど、リュートの音色が出せる鍵盤楽器ということで、おそらくバッハはそれでリュート用の曲を楽しんでいたのだろうとか言われている。で、本作はその復元楽器でもって演奏したバッハの「リュート向け」作品集。思わず低く唸ったのというのは、やはりこれはあくまで鍵盤楽器だなあ、という感じだから。音が細めのチェンバロという感じだ。リュートで出せる繊細なタッチは吹き飛んでしまい(苦笑)、溜めも何もなく、ひたすら音がタタタと鳴っていく……とまあ、最初はそう思っていたのだけれど、最後の組曲ホ長調あたりになると、こちらも馴れたのか、そこそこ聴ける感じに(笑)。でもまあ、やはりバッハはラウテンクラヴィーアというよりはリュートを念頭に置いていたはずで……なんてつい思ってしまうよなあ。

このCD、実はおまけのDVDがついている。PALなのでパソコンでしか再生できないけれど、ペーター・ヴァルトナーの演奏が見られる。ま、あくまでおまけという風の20分くらいの映像だけれど、それを見ると、このラウテンクラヴィーア、チェンバロの筐体にナイロン弦を張っただけみたいに見えなくもない(笑)。それにしてもヴァルトナーという人は、上半身をえらくうねらせて弾いているなあ、と……。

投稿者 Masaki : 19:48

2008年09月11日

ディアパネース

現在ざざっと目通し中なのが、アンカ・ヴァジリウ『透明なるもの』(Anca Vasiliu, "Du Diaphane", Vrin, 1997)。アリストテレスの『霊魂論』に出てくる、事物を視覚的に分別させつつそれ自体は目に見えない「透明なるもの」(διαφανής)(418b 28など)について、その史的な変遷などをも含めて、現象学的な手触りでもって読み解こうとする、ちょっと変わり種の面白い研究。現象学的な哲学史というものの試みかもしれない。著者はまず、アリストテレスにとっての「透明なるもの」が、事物の視覚的成立に関わる実体で、特にその現実態として光があるのだということを、アリストテレスのテキストを丹念に読み込んで浮上させる。次に今度はテミスティオスの注解を取り上げる。するとそこでは、「透明なるもの」に意味にはズレが生じ、光を受け取る「等級」に即して、空気や水、さらには神的物体(第五元素)などの物体が「透明なもの」となり、視覚や知解を媒介する共通項の光そのものも、あくまでメタファー的な扱いになってしまうのだということが示される。テミスティオスにあっては、コスモロジー的な体系化がもたらされる一方で、視覚や知解の成立条件としての透明なるものは、その力を殺がれてしまう、というわけだ。

さらに著者は、アリストテレス思想のラテン中世での受容でも、大きなズレが生じていることを示してみせる。トマスは、感覚と知性との仲介をなすものとして像(phantasma)を考えはするのだけれど、その場合、現実態としての知性(知解の操作だ)は、感覚としての像の抽象化と、その像が知性に刻む印象との二重の操作によってもたらされる、としているのだという。つまり著者によれば、知解にいたるには、質料的な現実からの抽象化と、質料的な類似である像そのものの抽象化という二重の抽象化が必要になり、これはアリストテレスのより直接的な知解の図式とは異なるものだという。ドゥンス・スコトゥスもまた、普遍的なスペキエスと対象物の「所与のプレゼンス」との二重構造を考えている点で、同様にアリストテレス的ではない。では中世にアリストテレス的な視覚・知解論はなかったのかというと、著者はそれを意外なところに発見する。それがヨハネス・スコトゥス・エウリゲナによるディオニュシオス・アレオパギテスへの注解だ。そこでの知解は、光の類似によるモデルの写し取りとして展開するといい、それはディオニュシオスほかギリシア教父の伝統に見られるテーマだという。なるほど、このあたり、個人的にもちゃんと見てみたいところだ。この後、著者はアリストテレスの「透明なもの」のアルケーを求めて、エンペドクレスやプラトン「ティマイオス」をめぐっていくようだ。

投稿者 Masaki : 23:07

2008年09月08日

食料の話……

音楽史の方面での大きな問題に、17世紀ごろからなぜガット弦が真鍮線などへと置き換えられていったのかという話があって、一般には音響の面などから説明されたりするのだけれど(より大きな音が必要になった、とか)、変わり種の説として、戦争などでガットの原料(羊の腸)が手に入らなくなったからという話を聞いたことがある。なるほど、フランスやドイツあたりだと、三十年戦争などではかなりの被害が出たと言われるけれど、その影響という話はちょっと一時的すぎる感じもした。で、そのときに漠然と思ったのは、局地的にならざるをえない戦争なんかよりも、もっと広範で影響が深刻だっただろうと思われるものとして、飢餓とかがあるなあということだった。ただ17世紀ごろどれくらいの飢餓があったのかは、とくに確認していなかったのだけれど、ちょうどなにげに読んでみた伊藤章治『ジャガイモの世界史』(中公新書、2008)の最初のほうに、その戦争と飢餓の話がちょっとばかり出ていた。南米原産のジャガイモがヨーロッパに持ち込まれたのは16世紀で、上の話じゃないけれど、まさに戦争と飢饉の災禍によって普及したのだという。フランスは16世紀に13回、17世紀に11回、18世紀に16回の飢饉を経験しているという。うーん、10年に1度以上でないの。18世紀のはかなり熾烈だったといい、時には飼っている動物まで食らうような場合もあったのだとか。羊なんて真っ先に食われてしまい、ガットどころの騒ぎじゃなかったのだろう(17世紀ごろには、ガットを取るための特殊な羊みたいなのも飼育されていたとかいう説もあるそうだが……)

痩せた土壌でもちゃんと栽培できるジャガイモは、そうした飢饉の救世主だった、というわけなのだけれど、一般に普及したのは18世紀以降なのだそうで、これまた聞いた話だが、多くの西欧人(とくにフランス、ドイツ)はジャガイモの食べ方に、ある種の自負を持っているそうなのだけれど(ちょうど多くの日本人が魚の食い方に一家言あるように)、実はその歴史はまだ300年経っていないかもというのがちょっと意外(笑)。

投稿者 Masaki : 20:18

2008年09月05日

イタリア語史

ヴァレリア・デッラ・ヴァッレ&ジョゼッペ・パトータ『イタリア語の歴史--俗ラテンから現代まで』(草皆伸子訳、白水社)をつらつらと読む。具体例を示しながら、古い時代のイタリア語がどう変遷してきたかを綴った基本書。けれども学術書的な味わいはなく、年代別にエピソード単位でそこそこ面白く読める。イタリア語史上のダンテの位置というのはやはり突出している感じで、その若い頃の詩的言語への指向性たるやなんともすさまじいとしか言いようがない……。で、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオを経て、フィレンツェ方言は書き言葉として定着するのか……と思いきや、ルネサンス時代には各地に多数の「俗語」が乱立し、どの言葉で書くのかも相変わらず大きな問題であり続けるのだという。人文主義者らの宮廷語、マキアヴェッリに代表される同時代のフィレンツェ語、1300年代のフィレンツェ語への回帰などなど、いろいろな潮流があった模様で、さらに17世紀のクルスカ辞書の登場とそれに反目する18世紀の啓蒙主義運動などなど、通史的にはいろいろと面白いことになっている。うん、でもやっぱり、さしあたりはダンテの詩的言語だな、個人的には(笑)。

投稿者 Masaki : 22:35

2008年09月04日

秋読書

夏読書は必ずしも計画通りというわけではなかったけれど(苦笑)、それなりに充実。さて今度は秋に向けてだな。というわけで、まずはギリシア語文献はニュッサのグレゴリオスの「魂と復活についての対話」をひもとくことに。夏に前半を中心に読んだアフロディシアスのアレクサンドロス(「形而上学」)は、語句の繰り返しも多く、こちらの関心の薄い箇所などはさらっと流せる(笑)感じだったのだけれど、グレゴリオスのテキストは、前にも感じたことがあるのだけれど、ちょっと文章が締まっている風でこちらも緊張したりする。勢い、辞書を引く回数も増す。全体的に、逍遙学派系よりも新プラトン主義系のほうが、語彙の使い方とか文章の凝り具合とかがウワテな感じ。少し精読に近くなりそう。

あと、目下のもう一つの主軸は、アガンベンのひそみに倣って、「経済神学」みたいなことを改めてちゃんと考えてみようかなということ。というのは、アガンベン『王国と栄光』の序文に、個人的に大いに盛り上がってしまったから(笑)。キリスト教世界にあって、「三位一体のオイコノミア(経済=救済体系)が、統治機構の基盤を観察するための特権的なラボをいかになしうるかを示す」というその展望がシビれるでないの(以前に読んだマリー=ジョゼ・モンザンあたりのイコンの問題系ともつながってくるかしら、なんて)。

投稿者 Masaki : 00:04

2008年09月01日

[古楽] 夏の終わりはもっさりと……?

昨日はまたも例年のビウエラ講習会に出かける。ムダーラの「コンデ・クラロス」で受講(あいかわらずルネサンス・リュートで)するも、最後の受講生コンサートで大いにコケる(爆笑)。最近こういうパターンが多いなあ。演奏ストップから曲の中途解体まで、弦が切れるとかの物理的トラブル以外の悲惨な事態はほとんど一通り経験しつつある。で、おかげで人前で弾くときの緊張感もだいぶ薄らいだものの、ちゃんと人前で聴かせられるようになるには、長い時間がかかるなあと認識を新たにしているところ……。ま、それはともかく。

あれれ、クールダウン曲も今回はいまいち……か?『ハカラス!--サンチャゴ・デ・ムルシアの18世紀スペイン・ギター音楽』という一枚。98年発売のものの再販売らしい。ポール・オデットがバロックギターを弾き、なんとまあ、アンドリュー・ローレンス=キングがハープとプサルテリー、ペドロ・エステバンのパーカッションほかという、なかなかの取り合わせ……なのだけれど、うーん、なんかちょっとこれ、どこか「もっさり」(笑)した印象。18世紀のスペインともなると、理知的で様式美あふれるビウエラ曲から、もっと即興的かつ先鋭的な(というか単純化されていくというか)舞曲へと移行していくのだというけれど、この収録曲はその移行期にあたるのか、どちらにも成りきっていない感じで、個人的にはちょっと脱力してしまう感じ。テンポ設定もなんだかノリが悪いような(?)。それに録音レベルがやたら低い(ボリュームをかなり上げないとちゃんと聞こえんよ)。ちなみにタイトルのハカラは民族舞踊の名称でもあるけれど、同時に夜中に騒ぐ連中のことでもある。

そのせいか、ジャケット絵はゴヤの『鰯の埋葬』。鰯の埋葬というのは、スペインで灰の水曜に行われるフェスティバル。肉の代わりに鰯を食するっていうので、それを弔うのだとか。

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そういえば、どこか鰯を連想させる首相が辞任だそうで……。Le Mondeの速報メールでも伝えている。

投稿者 Masaki : 23:11