2008年10月31日

工人舎マシンにMandriva

2006年末くらいの発売だったと思うので、ちょうど2年くらいを経過したうちの工人舎ミニノートSA1F00A。今から思えば、いわゆるNetbookの先駆け的存在だったわけだけれど、先駆けはどれもそうであるように、CPUが非力なだけでなく、全体に荒削りな部分が多く、フルに活用するには至っていなかった。その後、打ちにくいキーボードにネジを装着する改造を行い、多少は快適度が増したものの、やっぱりXPだと重い。そんなわけで代替OSでも入れて遊ぼうという気になった。やっぱりLinuxかな、ということで、こちらのページを参考にさせていただいた.

問題は、うちにはUSBブートできる外付けのCD-ROMドライブがないこと。Panasonicの古い奴はダメ。とそこで、最近のUbuntuには、Windows側から気軽にインストールできるWubiというインストーラがあることを知り、これを試してみる。Ubuntu 8.04.1(そういえば、今日、8.10が正式リリースだっけね)。パーティションも切らずにインストールできるというのが素晴らしい。けれども、上の参考ページとは違って、なぜかうちのマシンでは内蔵の無線LANを認識せず、イーモバイルのD02HWを差しても認識しない。Wubiで入れるカーネルはちょっと普通のと違うのかしら?これではモバイル用マシンの意味がないので、これは取りやめ。音もちょっと変で、とびとびになる。

で、その次に同じくWindows側からインストールできるUnetbootinというツールでMandrivaを入れてみた。もとはフランス生まれのディストリビューション(Mandrake)でRed Hat系(そういえばSoftware Design誌の11月号に、Linuxのディストリビューションの変遷が表になっているページがある)。今回のは2008.1- springというバージョン。Unetbootinはインストーラがブートするだけなので、とりあえず有線LANで理研あたりのサーバからftpでインストールする。時間はかかったけれど、とりあえず問題なし。で、これも参考ページにあるとおり、内蔵の無線LANは認識しなかったのだけれど、イーモバイルのD02HWとPlanexの無線LANアダプタGW-US54Miniはちゃんと認識してくれて、前者はアナログモデム接続の設定でpppできるし、後者も接続設定をするだけでちゃんと開通した。音も問題なし。これはなかなか快適かも。というわけで、この非力なSA1F00Aも、まだいろいろと使える感じに。

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投稿者 Masaki : 22:17

2008年10月29日

[古楽] エルヴェ・ニケ

昨日だけれど、エルヴェ・ニケ&コンセール・スピリチュエルの公演に行く。確か一昨年だったかに、フランス国内の助成金縮小の煽りを受けてだったか、彼らの来日公演が取りやめになったことがあった。その意味でも今回は待望の来日。で、出し物は例の絶賛されたヘンデル「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」を中心とした構成。前半が前者のダンドリュー「戦争の描写」に続き第1、第2組曲。後半が「合奏協奏曲」からの抜粋に続き第3組曲、そして「花火」とくる。大きな編成なので、それほど小さいわけでもないホールにド迫力サウンドが響き渡っていたのが前半。テンポ設定も速い速い!それでも個人的にはなんだかどっと疲れが出て睡魔が……(苦笑)。で、後半冒頭の「合奏協奏曲」はうって変わって流れるようなしなやかな演奏に。うーん、彼ら本来の持ち味ってこちらのほうなんでは?その流れの延長という感じで、もとより穏やかな第3組曲がぴたっと決まる、という展開。この好印象は「花火」を経てアンコールにまで持続する形に。ニケは観客への挨拶もそこそこに曲を振り始めるのが印象的だった。つなぎの間もそんなに置かないし。で、28日って本人の誕生日らしく、最後に花束が贈られていた。

投稿者 Masaki : 23:39

2008年10月27日

「かたち」の不思議さ

『自閉症の現象学』でも取り上げているトピックとして「純粋知覚」の問題がある。自閉症児の知覚が二次元的なものに始終することから、逆に三次元的な理解の本質(見えないものの概念的な取り込み)が明らかになる、というわけだが、こうした問題を別の角度からアプローチしようとしている本に、加藤尚武『「かたち」の哲学』(岩波現代文庫)がある。もとは91年に中央公論社から出されていたもの。こちらが挙げる例は、開眼手術で目が見えるようになった人は、それまで触知していた物体を認識できるか、という17世紀の「モリヌークス問題」なるもの。ここから純粋知覚なるものが光と色だけの世界であって、両者が結合し像を結ぶにはそれなりの馴れというか訓練が必要になるという話が展開する。まさに概念的な知覚方法の「インストール」だ。いったんそれがインストールされると、だまし絵的で三次元的に見える絵柄はそれ以外のかたちには見えなくなるという例が続くが、同書の場合にはそのインストールの手続きそのものへと降りていくことはせず、むしろそのインストール前の世界を取り上げた歴史的な探求に遡及の途を求める。なるほど、これはこれで思想史的な目配りという意味で興味深い(著者が思考実験的に挿入するフィクショナルな話はともかく(笑))。

考えてみると、そうした純粋視覚とまではいかなくても、視覚の安定性が崩れて、どっちつかずのゆらぎが生じるといった体験は、時に美術館などでも味わうことができる。つい先週、上野で開催中のフェルメール展を見たのだけれど、フェルメールそのものの絵よりも、参考展示のほうに個人的には面白いものが多く、フェルメールの影響を色濃く受けているピーテル・デ・ホーホなどは、遠近法の用い方、室内画の窓の位置、明かりの入り方などの微妙な不自然さが興味深く、遠目に全体として見るとあまり違和感がないのに、よく見れば見るほど不安定な視覚体験を味わえる(笑)。ここでも、デ・ホーホの「幼児に授乳する女性と子供と犬」を挙げておこう。

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投稿者 Masaki : 23:14

2008年10月26日

ローレベルプログラミング的現象学

C言語とかのプログラミングを囓ると、ある意味でその中で完結してしまい、より低次のアセンブラとか、機器の出入力を扱う分野はまったくの異世界となってしまう。けれども両者は密接に連動しているわけで、本当はそうした低次の世界の理解がなければ、コンピュータなどの機器を理解することにはならない……。で、まったく同じようなことが、たとえば人間についての現象学的理解についても言えるのだということを、まざまざと見せてくれる一冊があった。村上靖彦『自閉症の現象学』(勁草書房、2008)。まだ読みかけなのだけれど、自閉症児の症例に現象学的なアプローチをかけることによって、定型発達といわれる一般人についての伝統的現象学が取りこぼしててきた部分、まさに上の高次言語の世界とは異質な低次の世界に光を当てようとする、大変スリリングな試み。前半を通じて問題とされる「視線触発」(目を合わせることによる知覚成立の根源か)という概念などは、プログラミング的にはまさに装着機器のドライバレベルの接触・認識の手順という感じ。こうしたプログラミング的発想は実は同書のなかに色濃く出ていて、著者はときおり、「インストール」といった言葉を使っていたりもする。ローレベルの世界に降りていくために、自閉症という症例を考察するというアプローチそのものが、まさに慧眼。なるほどこんな世界もありうるか、という大変刺激に満ちた一冊。

投稿者 Masaki : 23:38

2008年10月23日

後期スコラの経済論

最近、スアレスに俄然興味が出てきた(笑)。16世紀のスペインの神学者・哲学者。まあ、中世の括りには入らないかもしれないけれど、後期スコラ(1300年代から1600年ごろまで)ということで、中世とも一続きの関係にはある。その形而上学とかがなかなかに面白そう(&難解そう)なので(苦笑)。ま、それはともかく。このスアレスにもゆかりのある、サラマンカ大学のほぼ同時代の貨幣論3編を英訳した本をゲット。スティーブン・グレイビル編『後期スコラ貨幣理論原典集』("Sourcebook in Late-Scholastic Monetary Theory", ed. Stephen J. Grabill, Lexington Books, UK, 2007)というもの。収録されているのは、マルティン・デ・アスピルクエタ、ルイス・デ・モリナ、フアン・デ・マリアーナのそれぞれの貨幣論。これらの著者はいずれも16世紀のサラマンカ大学の神学者たち。まだ各編の序文に目を通しただけだけれど、先のウッド本の延長という感じで、16世紀の経済状況と思想状況が複合的に扱われている。すっごく大きな枠としては、16世紀以降、貴金属の新大陸からの流入によって物価の高騰がもたらされ、それらの因果関係や社会的な批判理論として倫理学的な考察が促されたというのが一点。さらに16世紀にはパラダイム転換がおきていて、科学革命の余波というか、個人を経済主体と見る考え方が出てくるほか、個人が価格決定者というより価格受容者と捉えられ、その経済活動に客観的な法則性を探る動きが出てくるというのが第二点。またこの「サラマンカ学派」はオッカム流の唯名論の立場を継承している(抽象概念が心的な構築物に過ぎないとする立場)という指摘もあったり。これらを前提に、ちょっと各テキストそのものを(英訳だけれど)眺めてみようかと。

投稿者 Masaki : 23:35

2008年10月21日

久々にガジェット雑感

先月末に携帯をW-ZERO3からアドエスに替え(型落ちのために実質負担ゼロ円のキャンペーンをやっていたので)、せっかくだからとWMWiFiRouterの旧版(最新の1.20はアドエスでは動かない)を入れてパーソナルホットスポットを実現してみた。これまでDelegateLauncherとか使っていて、iPod TouchでWebブラウジングとかやっていたけれど、WMWiFiRouterならメールも使える。これでうちのiPod Touchは、米国で出ていた前世代のiPhone程度にはどこででもネットが使えるようになったわけだ。速度は遅いけれど、結構いい感じ。出先で重宝しそうだ。ちなみにWMWiFiRouterのサイトは、ライセンスを購入しないと旧版がダウンロードできないところに基本的な設計のまずさを感じる(苦笑)。おいおいって感じ。また、これは起動時にレジストリの書き換えとかやっているようなので、念のために電話機のバックアップとか取っておかないとね。([追記]事前にICSinstall.cabというネット接続の共有化ツールをあらかじめ入れておかないといけないのだけれど、これもサイトに登録しないと入手できない。これもちょっと難儀なところだが……。)

それにしてもこういう状況を見ていると、PHS300(イーモバイルのデータカードでパーソナルホットスポットを実現できるってんで、春くらいに話題になっていたっけ)の国内販売が遅れている(?)こととか、やっとウィルコムがそういうのを作る気になったこととかに、ほかのキャリアやらナニやらの政治的な圧力みたいなものを疑いたくなってしまう(笑)。政治的圧力というと、最近流行のNetbookマシンたちに、国内販売向けの場合にUbuntuとかのLinuxが搭載されないのも、どこか政治がらみ臭い(?)。DellのInspiron miniとか、Ubuntuをチューンして乗せるとか言っていたのに、今販売サイトを見るとUbuntuのウの字もなくなってしまっている。軒並みXPだもんなあ。まあ、マニアは勝手に各種Linuxとか入れるだろうけれど、そうじゃない一般的普及の観点からすればプリインストールはとても重要だと思うのだけれど……。そもそも、別のチョイスも提供するというのが健全なはずでは?

投稿者 Masaki : 23:55

2008年10月20日

[古楽] リュート音楽で欧州紀行

この見出しのコンセプトによる、リュートの師匠こと水戸茂雄氏の新作CDが出ている(とは言うものの、ご本人から直接購入させていただいたもので、店頭販売はまだかな?目白のギタルラ社(東京古典楽器センター)あたりにはすでに並んでいるかもしれないけれど)。『リュート音楽によるヨーロッパ巡り Part I - ルネサンス時代』(wasabi wsbcd-2002)。ルネサンスリュートというとダウランドばっかりという既成概念をこれで破壊しましょう(大笑)。本当に渋いのはむしろ大陸ものだということが、この端正な演奏からよくわかるというもの。珍しいドイツもの(タブラチュアも特殊)のほかフランスもの、そして白眉のスペインもの(ビウエラ演奏)はミラン以下まさに黄金時代の7人衆、さらにイタリアものは、ダ・ミラノのほか、ガリレオの父親ヴィンチェンツォ・ガリレイのリュート曲がむちゃくちゃ渋い。今後バロックリュート編も予定しているという話なので、そちらも大いに期待。*ちなみに水戸氏は今週水曜にリサイタルが新大久保のルーテル教会で22日7時から。

ジャケット絵はヨーロッパ地図だが、これはよくみたら有名な「オルテリウスの世界図」からヨーロッパ部分を拡大したもののよう。1570年刊行の『地球の舞台』と題される地図帳の巻頭部分。その全体図を挙げておこう。

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投稿者 Masaki : 23:36

2008年10月18日

洞窟のアルケオロジー

これは音楽の関連書というべきか……分類に迷う。土取利行『壁画洞窟の音』(青土社、2008)。旧石器時代の音楽の原風景を求めて、南仏のレ・トロワ・フレール洞窟に赴き、そこに描かれた楽器とおぼしき壁画を目にし、さらにはクーニャック洞窟内での演奏を実現させた著者の、その体験記を中心に、楽器の起源や芸術の考古学に関する知見をまとめたエッセイなどを収録した一冊。なかなか刺激に満ちている。洞窟の壁画芸術をめぐっては以前、港千尋『洞窟へ』(せりか書房、2001)という名著があったけれども、今回のものは音響や楽器に着目した点が斬新。考察の深さという面ではちょっと物足りない感じもあるけれど(諸説紹介的なところに止まっているかなと)、それにしても着眼点と実体験に基づく報告部分に見るべきところが多い気がする。うん、このあたり、パフォーマーならではの記述なのだろうなあ、と。同書の刊行と同時くらいに、そのクーニャック洞窟での演奏CDが出ているということなので、そちらもぜひ聴いてみたいところ。

投稿者 Masaki : 23:24

2008年10月15日

ヴェネツィア史

ピエロ・ベヴィラックワ『ヴェネツィアと水−−環境と人間の歴史』(北村暁夫訳、岩波書店)をズラズラっと読む。ヴェネツィアのラグーナ(潟)の保全をめぐる人間の取り組みを中心主題に据えた、一種の環境史もしくは技術史(と言ってしまうと語弊があるのだけれど)の試み。扱う時代は文書史料が豊富に15世紀以降(から現代まで)が主だけれども、とにかく治水や環境保全(今で言う)技術の継承のために、様々な官職や制度が作られ、一種の行動規範が形成されていったヴェネツィア共和国の趨勢が興味深い。不安定なエコシステムに立脚するため、人為的な介入は即決されなくてはならない事情が、ある種の規範意識やら行動感覚をもたらしていたということが、多面的に語られていく。

こういうのを読むと、では先行する中世はどうだったのかなと俄然興味が湧いてくるわけなのだけれど、その文脈で興味深いものというと、まず挙がるのは堀田善衞の作品だったりする(かな?)。『聖者の行進』(徳間書店)所収の「傭兵隊長カルマニョーラの話」が、舞台となるヴェネツィアの歴史的背景を活写している。ヴェネツィアの場合にはまさにその地理的条件が、イタリア本土との微妙な関係を生み、また一方で外交と戦争の絶妙なバランス感覚を生んだのではないかという話。うーむ、資源に乏しい国、環境的な問題がつきまとう国が生き残るための手はずをどう整えるかというのは、やはり人ごとではないなあと思ったりもする……。

投稿者 Masaki : 22:34

2008年10月11日

再びオリヴィの自己認識論

うーん、トマスなどとは対極的な13世紀のフランシスコ会の論客、ジャン・オリヴィもなかなかに面白い。少し前に読んだドミニク・ペルレールの『中世の志向性理論』では、ジャン・オリヴィの場合、知性が対象に向かう際の志向性というのを知性にあらかじめ内在する性向という形で規定していて、その志向性そのものが問われない点をペルレールが指摘していたわけだけれど、それよりも少し前の論考として、フランソワ=グザヴィエ・ピュタラズ『13世紀の自己認識』(François-Xavier Putallaz, "La connaissance de soi au XIIIe siècle", Vrin, 1991)を読んでいるところ。ちょうど2章目のオリヴィの章。トマスが論じるような、スペキエスを挟んでの感覚と知性との結びつきといった議論にオリヴィはまっこうから反対する。ここで問題となるのが自己認識。その場合の知解対象は何か、という問いから、オリヴィは独創的な思想へと突き進む。まずは経験的な暗黙知的な次元での自己認識。それはあくまで知性的なものなのだけれど、感覚的な要素を取り込んでもいて、オリヴィは両者を分離するのではなく、両者が渾然一体となったようなものを想定していて、感覚的体験と感覚世界の知的な理解は一続きのものなのだという。さらにそこから導かれるのは、知解対象とは結局普遍などではなく、あくまで個でしかないというかなりラディカルな議論だ。このあたりの論の展開は、ほとんどオリヴィの『命題論第二書の諸問題』問76に集約されているらしいので、これはぜひとも読んでみたいところ。

ピュタレズのこの本はかなりピンポイント的で手際よい整理だという気がする。このほか、ロジャー・マーストン、フォンテーヌのゴドフロワ、フライベルクのディートリヒなどで各章が立てられている。また興味深い箇所があればメモとして取り上げることにしよう。

投稿者 Masaki : 23:37

2008年10月08日

株価暴落の日に

少し前に文庫で出たケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』(間宮陽介訳、岩波文庫)を、このところ暇があると少しづつ読んでいたのだけれど、これ、何の予備知識もなく取りかかるのはかなり無謀だということがわかった(爆笑)。リファーされている議論とかが皆目わからないので、何のこっちゃらという部分が少なくないのだけれど、まあ、とりあえずメインストリームだけ追えればよいかな、と。やはりこういう本は丁寧な解説本から入るのが正しいアプローチかと反省しきり……。

で、これに関連して(関連は少ないのだけれど)少し中世の前経済学的な思想についても触れてみたいということで、ケンブリッジの中世学教科書シリーズから、ダイアナ・ウッド『中世経済思想』(Diana Wood, "Medieval Economic Thought", Cambridge Univ. Press, 2002)を読み進めているところ。とりわけ3つ目の貨幣についての章が面白い。中世盛期以降の貨幣に関する議論がアリストテレスの倫理学・政治学をベースにしていることを示した後、トマス・アクィナスの整理に沿って貨幣の機能を分類し(価値の尺度、交換の手段、蓄財)、それぞれについての思想潮流をまとめてみせている。さらに背景にも触れていて、貨幣経済の「離陸」は950年ごろで、とりわけ神聖ローマ皇帝のオットー時代の経済発展が寄与しているのだという。その後、銀山の発見などで潤沢な貨幣が出回ることになり、地代や給金などのやりとりが賦役や現物ではなく貨幣に取って代わられていく。しかしながら銀山が枯渇したりして貨幣の流通量が減ると、14、15世紀には大きな景気後退が生じたりもしているのだとか。なるほど、このあたり、神学者たちの議論とのかねあいなどもあってなかなか面白そうではある。

……なんてことを思っていたら、入手したばかりの『中世思想研究』第50号に、トマスの金銭使用論についての考察が掲載されていた。なかなかタイムリー。最後の部分に、金銭のみが増殖する市場の定置についての批判が込められている。トマスの示す「寛厚」こそが、市場での営為の倫理的側面を開く契機だという次第。今まさに再びそういうオルタナティブを考えることが求められているのだ、と。

さて、上のダイアナ・ウッド本の表紙を飾っているのが、イングランド東部サフォーク州はウェンヘイストンにある1480年ごろの『最期の審判』図(Doom)から、「魂の計量」の一部分。もとは小修道院の礼拝堂の内陣を飾っていた板絵。天秤に乗せられているのは信者と異教徒か。経済的な発想が宗教の教義内容にまで浸透している様を表しているような感じ。

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投稿者 Masaki : 19:35

2008年10月07日

Macでもcgreek環境

パソコンネタが続くが、DiogenesはWindows版やMac版もあるので、そのMac版も落としてきた。で、こうなると入力もCGreekにしたいと思うのようになる。で、検索してみると、MacUIMという入力メソッドがあることが判明(こちらのページにリンクが)。なんとこれに、anthyのほかm17n-grc-mizuochiがオプションとして入っていた!インストール後(ちなみにうちの環境は、iMac G5でTiger、いまだに(笑))に「システム環境設定」を開くとMacUIMの設定アイコンができていて、これをクリックすると(読みこみに時間がかかるけれど)変換エンジンからこれを選択できる。またフォントもLucida Grandeあたりに変えておく。あとはメニューバーから「uim(日本語)」を選び、さらにメニューアイテムからm17n-grc-mizuochiを選択する。これで快適に入力できる。開発している方々に感謝。考えてみると、CGreekは文字を書く順番のイメージで入力する(たとえばaを打ち、それから気息記号(Vかv)、アクセントを(/か?)を打ち込む)。これがGreekKeysなどだと、逆に気息やアクセントのマーカを選んでから文字を入れる。ウィンドウズのpolytonic greekレイアウトも同様。まあ、このあたりは好みだけれど……。

投稿者 Masaki : 23:35

2008年10月05日

Ubuntuでギリシア語環境

先にiBook G3に入れたUbuntuだけれど、せっかくなのでギリシア語環境を整えることにした。まず以前からあるEmacs用の古典ギリシア語入力環境CGreekを入れる。CGreekのホームページに行くと、ちゃんとUbuntu用のパッケージが。マニュアルを参照しながら問題なくインストール。最初表示がおかしかったのだけれど、いったんログアウトして再度ログインすると、Emacs上でちゃんと入力できるようになる。このフォント、どこか古めかしい感じだけれど、個人的にはなかなか良い(笑)。

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次に今度は、Emacsだけでなく普通のエディタでも入力できるようにする。CGreekは今やSCIMに対応していて、ちゃんとそれができるようになっている。/usr/share/m17n/以下にgrc-mizuochi.mimというファイルがあれば、SCIM入力メソッドの設定メニュー(全体設定)から選択可能になる。このファイルが入っていない場合には、CGreekのメーリングリストのアーカイブ(2006年9月の01151)から取ってこれる。設定したら一度SCIMを再起動する(または再ログインしてもよい)。さらにフォントもフリーのDejavuフォントあたりをインストールする(sudo apt-get install ttf-dejavuとやる)。これでエディタからDejavuフォントを選択し、SCIMの表示パネルからgrc-mizuochiを選べば入力が可能になる。うーん、ワンダフル。CGreekはキーのバインディングが良くてとても楽に入力できる。WindowsのPolytonic Greekのキーボード設定よりも、またMacのGreekKeysよりも優れていると思う。うん、こちらに鞍替えしよう(笑)。

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(ちなみに入力したテキストはニュッサのグレゴリオス『魂と復活について』より)

さらにさらに、これはこちらのページに情報があるけれど、Diogenesというギリシア語文献購読ツールがある。これのLinux版を入れてみた。これはすごい。TLGやPerseusを読むためのツールだけれど、CD-ROM版のTLGをもっていなくても(なにしろオンライン会員なので:苦笑)、LSJが組み込んであるので辞書として使える。うーん、素晴らしすぎてびっくり。世間のギリシア語環境は着々と進展していたということか、としみじみ(笑)。

投稿者 Masaki : 21:22

2008年10月03日

表玄関の模様替え

このブログの親ページというか表玄関というか、Silva Speculationis(http://www.medieviste.org/)のトップページを気分一新、久々に模様替えしてみた。とはいえパーツとかは一緒だったりするのだけれど(苦笑)。ローカルで編集してftpツールで載せるという古いやり方ではなく、CMS(コンテンツ・マネジメント・システム)で管理したいなあと前から思っていたのだけれど、つい最近Wordpressをいじる機会があって、本来はブログ管理ツールだけれど、とりあえずこれでトップページにすりゃいいんじゃないの、と思うようになったので、ざっとやってみた。ちょっと細かいところのカスタマイズができていないけれど、まあ、とりあえず最初の形はできたかなと。というわけで、今後ともどうぞよろしく(笑)。

投稿者 Masaki : 23:32

2008年10月02日

[古楽] トリゴナーレ2007

トレゴナーレ古楽祭というのがあるそうで、オーストリアのケルンテン州で開かれているらしい。で、毎年CDが出ている模様。その2007年度版のCDを聴く。2枚組の『エレメンテ』(Elemente -Trigonale Festival of Early Music 2007 / Various Artists)(Raum Klang、RK2705)。参加アーティストはヒリヤード・アンサンブルやイル・ジャルディーノ・アルモニコなど古参から、あまりよく知らないグループまで、いろいろ。演奏曲目も、マショーからテレマン、モーツァルト、ハイドンまでいろいろ。でも、ちょっと知らないグループの知らない曲目が実に面白い。1枚目のアンサンブル・ユニコーンによる1400年頃のキプロスの宮廷の音楽は、まさに当時の世俗曲の典型。個人的にはとても気に入る。2枚目のコンチェルト・アマリッリによるフランチェスコ・マンチーニ、ジョヴァンニ・ベネデット・プラッティの曲もリリックな感じでお気に入りだ(オーボエがなんともいい感じ)。なかなかお薦めの一枚かもしれない。やっぱりいいねえ、ライヴ・パフォーマンスは(笑)。

全体としては、題名にあるような諸元素をテーマにしている。そんなわけでジャケット絵もヒエロニムス・ボスの『世界の創造』。これは『快楽の園』のいわば扉部分(裏側)として有名。16世紀初頭の作で、マドリードのプラド美術館所蔵。実際は枠があるのだけれど、ジャケットではそれを省いて合わせてあるところがニクいかも(笑)。

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投稿者 Masaki : 23:33