「二重真理説」異聞 – 1

9月 22nd, 2016 Posted in 学知論, 通史の風景 | 「二重真理説」異聞 – 1 はコメントを受け付けていません。

Pour une Histoire de la 例によって、このところまとまった時間が取れないのだが、空き時間にリュカ・ビアンキ『「二重真理説」史のために』(Luca Bianchi, Pour une Histoire de la “Double Verité” (Conférences Pierre Abelard), Vrin, 2008)を読み進める。とりあえずまだ前半のみ(二章まで)だけれど、これもまた実に面白い一冊。哲学的真理と神学的真理があるといった、中世盛期において糾弾される考え方が、当時本当に広まっていたのかという問題については、その旗振り役だったとされるブラバンのシゲルスやダキアのボエティウスなどの研究が近年進んだこともあって、必ずしも彼らがそうした議論を信奉し教えていたわけではないとの下方修正がなされ、しまいには「それは一種の虚構的な教えであって、中世の論者たちはそんなことを決して教えてはいなかった」との見解でにまで至っているという。でもそう聞くと、これもまた、曲がった棒をまっすぐにしようとして逆に曲げてしまうようなところもなきにしもあらずではないか、というくすぶり感が残りもする。その点を少し詳しく検証しようというのがこの著書だ。

確かにタンピエの1277年の禁令以来、パリ大学などの神学的な教えはある程度一枚岩にまとまった感もあるようだ。ただ著者はそこでちょっと意外な角度から問題にアプローチしていく。まず最初の章で取り上げられているのは、17世紀末から18世紀にかけて活躍した哲学者ピエール・ベールの例。歴史的に、アヴェロエス主義の副産物のように言われている二重真理説を、ベールはなんと宗教改革のルターに帰しているというのだ。で、著者によれば、確かにルターはパリ大学を中心としていた教説、「哲学と神学で、真となるものは同一である(idem esse verum in philophia et theologia」という教説に反対する立場を取っている。と同時に、15世紀の神学者ピエール・ダイイの「真理の協和」理論などを高く評価している。この真理の協和理論の格言「すべての真理はすべての真理と協和する」(omnia vera vero consonant)は、実は13世紀後半以降、『アリストテレスの権威』(Auctoritates Aristotelis)なる当時もてはやされた詞華集によって広く拡散したのだという。もとはグロステスト訳のアリストテレスの文言だというが、この詞華集のせいもあってか、もとの意味はだいぶ曲解されて伝わっているという。本来は、任意の賢者が真理について下す判断が誤っていたとしても、それはその賢者の判断対象が不確かな領域にまで踏み込んでいるからであって、正しい判断さえあれば真理は真として判断されうる、といった二重真理的な意味合いなのだというが、広まったバージョンはむしろ、パリ大学的な、一元論的な真理の格言となっているらしい。この後、1277年の禁令解釈が流転する様子が検討されている。

第二章になると、今度はまず「二重真理(duplex veritas)」の言葉が使われる実例を探る。そこで出てくるのは、一つにはこれは4世紀のマリウス・ウィクトリヌスにまで遡れるという話。その後12世紀から15世紀まで、その言葉はいわゆる二重真理説そのものとは違う意味において、たびたび使われていく(トマス・アクィナスにもあるとのこと)。その後、真偽の中間領域(未確定領域)の存在を主張する15世紀のピエール・ド・リヴォなどの議論があり、これを同時代のギヨーム・ボーダンが二重真理説であるとして批判する。この両者(自由学芸の教師vs神学者)の間には熾烈な論争があったという。このリヴォという人物も興味深く、従来の「創造された」真理と「創造を経ていない」真理の区別のほか、哲学的真理と民衆的・世俗的真理という問題含みな区別を掲げ、この後者を、一部の命題(不確定な偶有的未来に関する命題)は哲学的には真でなくとも神学的には真でありうるという考え方に結びつけているのだという。

ホメロスと海 – ストラボンの地理学冒頭

9月 15th, 2016 Posted in 古典語・古典学系 | ホメロスと海 – ストラボンの地理学冒頭 はコメントを受け付けていません。

Geographie: Introduction Generale, Livre I (Collection Des Universites De France Serie Grecque)少し前にストラボン『地理学』の最終巻を一通り読み終えた。あまり精読という感じではなかったのだけれど(字面を追っただけ)、それでもナイルからエチオピア方面まで、地誌、植生、動物、風習、宗教などなど、さながら博物学のような記述がとても印象的だった。で、その勢いで今度は冒頭(第一巻第一章)から見ていくことに(Strabon, Géographie: Introduction Générale, Livre I (Collection Des Universités De France Série Grecque), Les Belles Lettres, 1969)。この冒頭部分もなかなか興味深い。地理学の嚆矢は誰かという問題に、ストラボンは躊躇なくホメロスと即答する。で、さらに興味深いのが、ホメロスによる居住域の記述に関連して、ストラボンがまずはその周辺を取り囲む海を取り上げていること。ホメロスの記述と後代の人々(ポセイドニオス、クラテス、ヒッパルコスなど)のコメントを突き合わせる形で、とりわけ後代の人々を批判したりしながら話は進む(海流の話、海が循環的に連続している話、内海の話……)。そこから詩人論(地理学が博識が必要とされ、詩人こそがそうした博識をもつ賢者とされる)、詩作論(さながらオデュッセイアの地理学的な検証か?)にも接近していく感じで、このあたり、なんの本だかわからなくなるほど。個人的にも、ちょっとこのあたりでいきなりホメロスに寄り道をしようか、なんて思いが沸いてくる。

ケアする側の創発的対応

9月 10th, 2016 Posted in 現象学系 | ケアする側の創発的対応 はコメントを受け付けていません。

仙人と妄想デートする: 看護の現象学と自由の哲学こちらはケアする側の対応へ現象学的にアプローチする一冊。ある意味、先のマラブー本と合わせて読むのは興味深いかもしれない。村上靖彦『仙人と妄想デートする: 看護の現象学と自由の哲学』(人文書院、2016)。現象学的な見地から看護の現場でのフィールドワークを続いている同著者の何冊目かの著書だが、この一見不可思議な印象を与えるタイトルが何よりも利いている。看護の仕事に取り組む人々が、ケア対象者の千差万別の状況に対応するには、マニュアルに書かれていることなどに頼るわけにはいかない。そこでは、著者が「実践のプラットフォーム」と呼ぶ動的な、それ自体変化していくしかない創造的な規範・ルールの束を、それぞれの対応者が作っていくしかない。それがいかに創り上げられていくのか、それが動的にいかに変化するのか、そういう領域にここでは現象学が切り込んでいく。そこから浮かび上がるのは、なんとも奥深い、それでいてどこか身近な、意思伝達の下部に横たわるリアルな層にほかならない!

破壊的可塑性

9月 7th, 2016 Posted in アルシ・エクリチュール論, 日曜哲学, 現象学系 | 破壊的可塑性 はコメントを受け付けていません。

新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考えるカトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』(平野徹訳、河出書房新社、2016)を見ているところ。とりあえず、冒頭部分の第一部。マラブーの本は、以前ちょっとだけ読んだことがあるけれど、脳がもつ可塑性という概念を、どこか形態的なもの(神経系の再編など)から機能的なもの(心的機能)へと話をすり替えるような議論で、しかもそれをなにか新たな可能性の発現としてのみ解釈している感じで、正直ちょっと抵抗を覚えたものだった。それからずいぶん経って、その解釈(その書きっぷりも)が大きく変化していることを知る。アルツハイマー症による人格の激変(著者の祖母だという)を間近で見たというのがモチーフの一つになっているようなのだが、そのような「別の誰かになってしまう」という現象の存在を、外傷による人格の変化などの事例と合わせ、内的・外的原因の区別をいったん取り払って、両者を同じ分類で俎上に載せるというのが、同書の特徴的な出発点だ。両者は「破壊的可塑性」と著者が呼ぶ概念で括られる。そこから、脳科学、認知論、精神分析などの諸要素について新たな読み替えを提唱する、という戦略のようだ。

ここでの可塑性はリハビリなどで発現する形態的・機能的な組み替えなどではなく、まさに破壊による急激な、突発的な変容。その状態から「脳の苦痛」の表現が発せられているのではないかという。たとえば認知症患者には、一種の退行現象が見られるとされるのが一般的だけれど、著者によると、それは世間的によく言われるような「子供への回帰」ではない。幼年期に帰ったように見えて、それは患者本来のものではない幼年期、生きられるはずのない幼年期でしかないと著者は言う。なるほど、認知症の患者に対して、発症前との連続的な相を重視して接するというのが現行のケアの基本になっているが、ここではそれにあえて、徹底的に断絶の相を導入し、そこから見ようとしているところがとても共感できる。とくに親族など、過去の患者を知る者がその患者に接する実地体験からすると、この断絶の相を無視することはできない。患者は端的に、過去から切り離されているように見えるからだ。ここでの議論では、むしろその断絶の相を重視することで、新たな解釈(および治療?)の可能性を見いだせないかと問うている。また、脳損傷における脳の自己触発という考え方も興味深い。破壊を触発するものが脳みずからの内部に潜んでいること、なにがしかの内的力学の達成を、損傷後の患者の振るまいが語ってはいないか、という問いかけだ。かつて神経科学的に否定されたフロイトの「死の衝動」議論を、別様に復権できるかもしれない可能性が示唆されている。

アヴェロエスと「悪魔的なもの」

9月 2nd, 2016 Posted in 主体、知性、スペキエス | アヴェロエスと「悪魔的なもの」 はコメントを受け付けていません。

Averroes L'inquietant (Romans, Essais, Poesie, Documents)以前、ちらっと言及したことのあったジャン=バティスト・ブルネ『不穏なるもの、アヴェロエス』(Jean-Baptiste Brenet, Averroès L’inquiétant (Romans, Essais, Poesie, Documents), Les Belles Lettres, 2015)を読んでいるところ。一般向けの小著で(140ページ強)、アヴェロエスそのものというよりはアヴェロエス主義(の離在的知性の話)の諸問題を、テーマ別に読みやすくまとめている。離在的知性の話がラテン中世において、どのような想像領域をいかに、またなにゆえにかたち作っていったのか、というのがメインテーマとなっている。専門の論文ではなく、かといって単なる入門用の概説でもない、両者の中間的な読み物という位置づけが面白い。人文系の老舗レ・ベル・レットルにしてこういうのを出すようになったのだなあ、と。

テーマは多岐にわたっているのだけれど、個人的に興味深かったのは8章。中世のどこかの段階以降(文献的に初出が特定されていないようなのだが)、アヴェロエス主義は悪魔的なものと明確に結びつけられてしまったという話。たとえば16世紀のヤコポ・ザバレッラはアヴェロエス派を批判して、離在的知性が身体に偶有的にのみ結びつくのだとしたら、それは悪魔憑きと変わらないではないかと述べているという。デカルトに対する批判などでも、その霊魂論(『情念論』)での身体と精神の結びつきが「偶有的」だとして、アヴェロエス派への批判を持ち出してくるものがあったという。また、有名な一群の絵画「トマスの勝利」でも、フィリッポ・リッピによるサンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ教会の壁画の場合、トマスの足元に倒れているのはもはやアヴェロエスではなく、悪魔の象徴だという。

何がアヴェロエス主義と悪魔を結びつけたのか。著者はそこに、アヴェロエス派の人間観が抱えていた問題を見る。つまり、そこでの人間観は、離在的知性と認識する身体とは実質的に統合されておらず、間欠的に接続するだけで、人間は結局外部に対して無防備なまでにただ開かれている、ということになる。ゆえに人間は常に脅威にさらされているのだ、と。もちろん反アヴェロエス主義の側の人間観も、内的に神の働きかけを受けるという意味で人間は完全にはふさがっていない。けれどもそれは透過性をもちつつも個的な自律、基本的な統一性を保っている。これに対して、存在論的に知性が分離しているとなれば、それは外部に対して開けっぴろげになってしまう。当然、悪魔的なものがつけいる隙にもなる、と。文献的な論拠をさしあたり脇にどけておくなら、なるほどこれは確かに面白い視点だ。思わず小さく唸る……。

↓そのリッピによる壁画の一部。
Filippino_Lippi,_Carafa_Chapel,_Triumph_of_St_Thomas_Aquinas_over_the_Heretics_02 (1)