デイヴィドソン

9月 6th, 2010 Posted in クロスオーバー | no comment »

ドナルド・デイヴィドソン『真理と述定』(津留竜馬訳、春秋社)を読む。やや晦渋なところはあるとはいえ、これも滅法面白い(笑)。基本的は問題は、命題の真偽はどこでどう決まるのかというもの。デイヴィドソンは分析哲学系を中心に様々な先行研究を吟味・批判しながら、漸進的に自説へと突き進んでいく。自説へといたる前段階の各論の吟味が、複雑ながらとても魅惑的に見えるから不思議だ。軽快なメスさばきというところ。前半が真理の問題、後半が述定の問題。前半ではとくにタルスキによる真理定義(「引用符解除的」と称されるもので、論理命題が文のトークン(具体物)といかにして同値になるかという話)の批判が縦糸となっていて、最終的には文のトークンを産出する言語使用者との結びつきを再考するというアプローチへと至る。話し手と聞き手(解釈者)が、最低限は字義通りの意味を共有するとの前提から、そこで交わされる文の命題内容も、両者にとって共通の何かによって決定されるはずだということになり、ではそれは何かという問題が後半に持ち越される。

で、後半では、今度はプラトンやアリストテレスによる述定問題(文において命題がどう統一されるのかという問題)の発見をさらってみせ、そこから近現代の論者(とくにラッセルやストローソン)の名詞と述語をめぐる数々の議論を振り返り、さながらオッカムの剃刀を駆使しまくって、不要な項の設定などをなぎ倒していき、しまいには「述語が言語外の実在と個別の関係をもつことはない」という、傍目にはドキっとするような議論へとたどり着く。近年の分析哲学では述語の範疇が大きく拡張されているという話なので、この厳密に唯名論的な立場はなにやら甘く危険な香りがする(笑)けれど、それはともかく、述語(動詞)をある種の純粋な操作子に見立てると文としての意味の把握が楽、みたいな実感は外国語学習者ならたぶん一度ならず感じることだと思うので、案外これも「普通の感覚」の敷衍なのかもしれない、なんてことを考えたり……。

で、話を戻すと、真偽を決定するものは述語についての何なのかという問題が残っているのだけれど、述語は(フレーゲ的に)不完全さをもった関数表現的なものとされ、結局は概念を真理値に写像するものだとされる(本物の関数は対象を対象に写像するのに対して:ダメット流)。うーむ、ある意味ミニマリスト的なテーゼ。これの是非はさしあたり置いておくしかないけれど、それにしてもここまでたどり着くまでに同書は実に紆余曲折を孕んでいて、そのあたりが読む楽しみでもあるのだけれど、一番最後にタルスキに戻り、その再評価(形式意味論の手法を自然言語に適用しても、真理は定義できないということを早々と論じていた)が切々と語られる下りはなにやら感動的でもある。

プセロス「カルデア神託註解」 1

9月 4th, 2010 Posted in カルデア神託の周辺(プセロスなどを読む) | no comment »

Τοῦ Ψελλοῦ ἐξήγησις τῶν χαλδαϊκῶν ῥητῶν

Ἔστι καὶ εἰδώλῳ μερὶς εἰς τόπον ἀμφιφάοντα.

Εἴδωλα λέγεται παρὰ τοῖς φιλοσόφοις τὰ συμφυῆ μὲν τοῖς κρείττοσιν ἐλάττονα δὲ ἐκείνων τυγχάνοντα · οἶον συμφυὴς ὁ νοῦς τῷ θεῷ, καὶ τῷ νῷ ἡ λογικὴ ψυχή, καὶ τῇ λογικῇ ψυχῇ ἡ ἄλογος, καὶ τῇ ἀλόγῳ ψυχῇ ἡ φύσις, καὶ τῇ φύσει τὸ σῶμα, καὶ τῷ σώματι ἡ ὕλη. Εἴδωλον οὖν τοῦ μὲν θεοῦ ὁ νοῦς, τοῦ δὲ νοῦ ἡ λογικὴ ψυχή, τῆς δὲ λογικῆς ψυχῆς ἡ ἄλογος, τῆς δὲ ἀλόγου ἡ φύσις, τῆς δὲ φύσεως τὸ σῶμα, τοῦ δὲ σώματος ἡ ὕλη. Ἐνταῦθα δὲ τὸ χαλδαϊκὸν λόγιον εἴδωλον φησι τὴν ἄλογον ψυχὴν τῆς λογικῆς. Συμφυὴς γὰρ αὐτῇ ἐν τῷ ἀνθρώπῳ, καὶ χείρων ἐκείνης.

プセロスによるカルデア神託註解

「像にも、光輝く場所に入る部分がある」

哲学者たちによれば、像とは上位のものと性質を共有しつつ、それらに対して実は下位であるものと言われる。たとえば知性は神と性質を共有するし、理性的魂は知性と、非理性的魂は理性的魂と、ピュシスは非理性的魂と、肉体はピュシスと、質料は肉体とそれぞれ性質を共有する。そんなわけで、知性は神の像であり、理性的魂は知性の像、非理性的魂は理性的魂の像、ピュシスは非理性的魂の像、肉体はピュシスの像、質料は肉体の像なのである。ここでカルデア神託は、非理性的魂は理性的魂の像であると述べているが、それは人間のうちにある非理性的魂が、理性的魂と性質を共有しつつそれに劣るからである。

カポディモンテ@上野

9月 3rd, 2010 Posted in 見・聞・読・食 | no comment »

昨日だけれど、暑い最中の上野は国立西洋美術館で、「ナポリ・宮廷と美 – カポディモンテ美術館展」を見る。80点と少なめの展示なせいか、比較的短時間でぐるっと一周できる。でも展示内容はなかなか。前半はイタリア全般もの。入ってすぐのコレッジョ「聖アントニウス」とか、ティツィアーノ「マグダラのマリア」とか、続くグレコの「燃え木でロウソクを灯す少年」とか。絵画のほか、素描、コレクションもとのファルネーゼ家の工芸品などもあって、もうちょっと点数があったらもっと面白かったろうなあなんて思いつつ巡る。後半はナポリのバロック絵画。個人的には、ジェンティレスキの「ユディトとホロフェルネス」が生で見れたのが嬉しいかも。この「斬首場面」はもう端的に臨場感溢れるド迫力。ユディトの絵はもう一つあったけれど、それとは全然印象が違う。うーむ、クリステヴァの『斬首の光景』を再読してきたくなったのだけれど(単純だなあ)、例によってどこに積まれたか不明な状態……(苦笑)。

スアレス研 – 閑話休題

9月 1st, 2010 Posted in スアレス研 | no comment »

クルティーヌ『スアレスと形而上学の体系』の読みは夏をまたいでしまったが、とりあえず第五部はスアレスは再び後景に退き、むしろ同時代から後世への思想的布置の中に、形而上学、とくに存在論がどう成立しどう位置づけられるのかを多面的に論じている。とりわけ中心的に出てくるのは、オントロジーという用語を初めて使ったとされるゴクレニウス(16世紀末から17世紀初めごろのドイツのスコラ学者)と、その形而上学の下位分割を理論的に用意したとされるペテリウス(スアレスと同時代人で、ローマで教鞭を執っていたとされる)。また、17世紀初頭の形而上学の体系化に大きく寄与した人物として挙げられているのはクレメンス・ティンプラー(同じくドイツの神学者)。ほかにもいろいろ個人的には知らない名前がたくさん出てきた。なかなかに興味深い。とはいえスアレスそのものの話から離れてしまっているので、そのあたりは割愛。また、続く章ではスアレスとデカルト、スアレスとライプニッツといった話も出てくるのだけれど(影響関係というわけではない)、さしあたり同じく割愛(苦笑)。

というわけで、秋(まだ夏という感じだけれど)からは、スアレス絡みということで、ヴァンサン・カローの『原因すなわちラティオ』あたりを読んでいこうかなあ、と。あと、オリヴィエ・ブールノワの『存在と代示』とかも。詳しくはまた今度。

過ぎゆく(?)夏の諸々……

8月 30th, 2010 Posted in 見・聞・読・食 | no comment »

相変わらずの暑さの中、昨日は例年のビウエラ講習会。今回もリュートで参加する。曲はフエンジャーナ(Fuenllana)の「con que la lavare(何で洗えばよいのでしょう)」。これがぱっと見よりも難しく、準備段階から悪戦苦闘する。ま、難曲挑戦シリーズということで勘弁してもらおうかと。懲りずにまた頑張ろう(苦笑)。

講習会では、受講生全員分の楽譜のコピーが配られるのだけれど、その中に先日のフレンチタブラチュアのビウエラ曲集からのコピーがあって(ナルバエス)、そのページにクピド(?)の絵とともにこんな羅語が(たぶん元のナルバエスの曲集からのものでしょうね)。

Ne ingenium volitet,
Pauperitas de primit ipsum

接続法っすね。「才能がふらつかぬように。貧しさはおのずと頭をもたげるのだから」。ぱっと目には「虻蜂とらず」みたいな意味でしょうかねえ。ちょっと気になって出典はないかと、岩波の『ギリシア・ラテン引用語辞典』とか見てみたのだけれど、載っていないみたい。でもこれ、いろいろ含みをもたせる解釈もできそう(笑)で、個人的には気に入った一句。そういえば余談だけれど、最近『ラテン語名句小辞典』(野津寛編、研究社)というのが出た模様。これはそのうちゲットしよう(笑)。

昨日深夜(今日の未明)にBSで放映されていた今年のバイロイト音楽祭の『ワルキューレ』。無事録画できていた。これから2日くらいかけてちゃんと見ようっと。先日(21日)深夜には世界初とかいう「生中継」で同じ演目が放映されていたけれど、一幕目を見たあと、なんと1時間ものインターバル(生中継だから仕方ないのだが)があって、こりゃつき合ってらんないと思い寝てしまう。そもそも、野球とかサッカーとかじゃないんだから生中継ってあまり意味がないような気も……(苦笑)。