語りと現象学

現象学のパースペクティヴ哲学と詩歌の関係性については、さらにいろいろ思うところもあるのだが、ちょうどツラツラと眺めている河本英夫・稲垣諭編『現象学のパースペクティヴ』(晃洋書房、2017)にも、そうした問題に触れている論考があり、いろいろと刺激を受ける。最終章にあたる、中山純一「現象学の文学化の試み」。現象学の近年の試みとして「現象学の自然化」(一種の形式化・数学化)の試みがあるというのだが、そのような方法では現象学の語りの豊穣さ、個別的・特異的な体験の語りが生かされないのではという問題から、これを批判的に捉え乗り越えようとするのが同論考の主旨。フッサールやフロイトの語りの失敗を取り上げ、さらにそれに対置されるべきものとして詩人的な語りを、ハイデガーや井筒俊彦、バシュラールなどを通じて復権させようという企て。面白いのはここに井筒が挙げられていることか。取り上げられているのは『意識と本質―精神的東洋を索めて』で出てくる、中世ヨーロッパに流出する以前のイスラム思想におけるマーヒーヤ(普遍的本質)とフウィーヤ(個別的本質)の区別。「もの自体が前言語的に語る」(p.192)とされる後者にこそ、ある種の詩人(リルケなど)のアプローチが重ねられる。このあたり、示唆されているのは手がかりにすぎないものの、そこで喚起される問題は、まさに深められてしかるべきもの。

編者の一人、河本英夫による「触覚性転換−−現象学的探求の拡張」にも、「経験が新たな局面に進んだとき、それを記述するためには、現象学者であっても、詩人であることを要求される」(p.71)と、同じような問題意識が示されている。論考は触覚の問題を扱っていくのだが、とりわけその記述の困難が重要なテーマをなす。対象から受ける直接的な身体感覚・運動感覚を伴わない点で、視覚こそが例外的・特殊なものだといった指摘がとりわけ印象に残る。メルロ=ポンティの再考というのもテーマとして興味深い。

音楽の理

先に挙げたアガンベン本『哲学とはなにか』の末尾の付録「詩歌女神<ムーサ>の至芸ーー音楽と政治」では、「哲学は今日、音楽の改革としてのみ生じうる」との書き出しから、人間がいかに「言葉を語る存在として構成」されるかを、ムーサたちの神話を通じて語ってみせる。またそれがいかにポリス(都市)的なものに結びついていたのかも論じている。そこで示唆されるのは、いわば音楽と言語との<あわい>だ。そうしたテーマを立てる瞬間から、それを語る言語もまた、詩的なものとして音楽のほうへ開かれて行かざるをえない。

ここで想起されるのは、ミシェル・セールの小著『音楽』(Michel Serres, Musique, Éditions le Pommier, 2011-2014)の最初の章だ。そちらは、やはり音(声)の発生から言葉の成立への「過程」が、オルフェウス神話として、ムーサとのやり取りとして描かれる、きわめて詩的なテキストだ。アガンベンは論考としての制約からまだ完全に自由ではないが、セールはというと完全に突き抜けた飛翔を遂げている印象だ。哲学がここへきて再び詩に、音楽に接合する様が、まさに小躍りするテキストとして示される、とでもいったところか。アガンベン本の最後の章は「序文を書くことについて」となっていて、「哲学的ディスクールは本来序文的なもの」「哲学はあらゆるディスクールを序文の位置へと運んでいくディスクールである」というテーゼも唱えられているが、セールのこのディスクールは、まさにある種の理想的な序文、軽やかな音楽的序文でもある。

余談ながらアガンベン本の冒頭近くで、ヒトという霊長目が言語をもっていることを自覚するようになったこと、つまり言語を外在化された対象として据えたことが、まさに「人間の誕生」だったと指摘している。この対象化は、果たして言語そのものの効果なのか、それとも何か前言語的な認識論的飛躍の効果なのかという疑問が相変わらず残る。律動のムーサ、音の秩序(歌唱)のムーサ、その根源の記憶のムーサ……いずれにそれが割り振られるのか、あるいはそれもまたムーサたちの<あわい>に位置づけられるのか???

無意識的テーマと中世の写本

En sommeアラン・ブーロー『とどのつまり(大全のもとに(?))ーー中世スコラ学の分析的用途のために』(Alain Boureau, En somme – pour un usage analytique de la scolastique médiévale, Éditions Verdier, 2011)という少し変わり種の一冊を読んでみた。ちょっと読みにくい小著なのだが、現代においてスコラ哲学の写本を読む愉しみについて、著者が思うところを語った「スコラ学の薦め」みたいなエッセイ。著者のブーローは、前に少し取り上げたメディアヴィラのリカルドゥスの『討議問題集』の校注・訳などを手がけている人物。リカルドゥスについてはその後に『自由討論集』の校注本もシリーズで刊行されているので、そのうち見てみたいと思っているが、それはさておき、ブーローのこのエッセイ本では、中世のテキストへのアプローチとして、内容的・形式的な構成そのものに注目することで、なんらかの無意識的メカニズムを見いだすような方法を提唱している。たとえば、スコラ哲学における霊魂論の射程を推し量るには、自我・超自我・無意識のような精神分析学的な概念の一種のバリエーションとして見ることなども、拒んではいられないと明言する(そうした「傍受」ないし「逸脱」は、宗教学的な伝統の広がりによって許容されるのだ、という)(第一章)。確立した自我と世界の分節との心的な葛藤を、解消するでも説明づけるでもなく、ただ変奏として示されるがままに、テキストに見いだしていくというわけだ。

そうした実例は数多く取り上げられている。ブラバンのシゲルスによるゼノンの引用から、トマス・アクィナスの「逸話」まで、多岐に及ぶ。けれども個人的に惹かれたのはとくに第二章。上のリカルドゥスの校注で著者が出くわしたという事例の数々が面白い。まず、通常の中世ラテン語にはないfunditasという言葉が出てくるというのだが、どうやらこれはprofunditas(深み)からリカルドゥスが接頭辞らしきpro(意図する方向性、正しさを示すとされる)を取り去って、ネガティブな意味をもたせようとしたものなのだろうという。次に、リカルドゥスの『自由討論集』のベルリンの写本には、写字生による誤りが散見されるといい、たとえばfestinatio(性急さ)を、fantasmatioというラテン語にない語で綴っているのだという。明らかにfantasma(亡霊)を念頭に置いた語と考えられ、人間が亡霊と化してしまう可能性という、写字生が本来のテキストから離れた意味に取っていた可能性があるという。また、同じくリカルドゥスのテキストから、fascinatio(魅了されること)のコノテーション(副次的意味)についての議論の箇所で、fascinusという語が記されている写本があるといい、もともとfascinusはファルス(男性性器)の意味でもあり、なにやら写字生もしくはリカルドゥス本人の無意識が暗に示されているかのようだという。しかも上のベルリン写本では、このfascinatioすらも、ときにfantasmatioで置き換えられているというのだ。fascinusはfacinus(悪行)で置き換えられていたりもするのだとか。手淫の暗示?ブーローが示唆するように、いずれにしてもなんらかの精神分析的なテーマが浮かび上がるかのよう。通常の校注作業で修正され、そぎ落とされていくそうしたディテールにも、また別様の光が当てられそうな感じで、興味は尽きない。

レクトン、イデア、コーラ再考(アガンベン本)

哲学とはなにかこれは想像以上に重要な一冊だ。ジョルジョ・アガンベン『哲学とはなにか』(上村忠男訳、みすず書房、2017)。タイトルからすると入門書のような感じに思われるかもしれないが、中味はまったくそのようなものではない。一言で言うなら、言語表現と意味論、言語と哲学的思考のあわい(狭間)を、古典的テキストへの参照を駆使して根底から再考しようというもの、というところか。前半後半のそれぞれにハイライトがあり、まず前半の第一章「音声の経験」は、かつてデリダが批判を試みた西欧の音声中心主義の再検討を行っている。そこで明らかになるのは、デリダによるプラトンの読み・形而上学批判が必ずしも正確ではないかもしれず、実は西欧の形而上学の伝統の根源には、はじめから音声ではなく文字が置かれていたという可能性(!)だ。このあたりの議論はとても興味深いもの。いずれにしても、個人的にも対話篇『ピレボス』などはちゃんと読みたいところ(というか、同書が参照している各テキストを網羅的に読んでいきたいところだ)。

そしてまた、特筆されるべきは後半のハイライト。第三章「言い表しうるものとイデアについて」は、ストア派の言う「レクトン」(言い表しうるもの)の再検討から始まる。そこで提示される仮説はなんとも興味深い。つまり、ストア派の「レクトン」とプラトンの言う「イデア」が実は重なり合うのではないか、というのである。例のプラトンの第七書簡には、「円」を例に、認識の五つのステップが示されている。まずは「えん」という音声、その定義、像。ここまでは可感的なものなのだが、これに四つめとして「魂のなかにあるもの」としての知識が加わり、最後にはイデアが想定される。ストア派の言うレクトンは、可感的なものはもとより、「思考の運動」たる知的なものとの符合性も排除されている。したがってそれは五つめとされるイデアに重なる以外にない……。ただ、ストア派のレクトンは、思考・言語活動との密接な関係をそのまま維持しているために(上の四つめと五つめにまたがっている)、後代の人々はレクトンを思考もしくは言語活動と混同してきたのではないか、よってプラトンのイデアも、概念と同一視されてしまったのではないか、と。

イデアの言語的表現の分析からは、「アリストテレスの解釈の不適切さ」と「プラトンの理解のより正確な理解に向けて接近していくこと」とが明らかになる、とアガンベンは主張する。プラトンはイデアを、後代の人々が考えるような実体的なものとして考えていたのではなく、「事柄それ自体」として捉えていたのではないか、というのだ。イデアは可感的な対象物と、いわば同名異義性をもっているし、可感的事物はイデアに与ることによって名前を受け取る。その意味で、イデアは名づけの原理のようでもある。プラトンは「それ自体」(αὐτός)という前方照応的代名詞でもってイデアの性質を表現し、ひいてはそれが前提のない、存在の彼方にあるような原理・始原を召喚することをも可能にしているのではないか、というのだ。ところが一方のアリストテレスは、これを「なにかこのもの」(τόδε τι)のような指呼的代名詞でもって表されているものと見なす。それはアリストテレスによるイデア批判の端緒であるとともに、イデアをまさに「普遍的」(τὰ καθόλου:アガンベンはこれを「全体にしたがって言われるもの」と字義的に訳すことを提唱している)なもの、と実体的に見なす解釈の発端にもなる。ここから、古代末期(ポルピュリオスやボエティウス)から中世を通じて継承されていくような、一般的なものを「普遍的なもの」として実体化し切り離すような考え方が展開していく(アガンベンはそれを、最悪の誤解と評している)。

さらには、イデアと場所の問題も取り上げられる。これは当然ながらプラトンの「コーラ」(場所・空間)の解釈に繋がっていく。イデアは場所(トポス)のうちには存在しないとされ(アリストテレス、シンプリキオス)、端的に知覚されないもの(άναίσθητον)だが、それが厳密には知覚の不在を知覚するという意味であるとするならば、同じくコーラもまた「感覚作用の不在にともなわれた雑多なものが混ざり合った推論によって触知しうる」とされ、イデアとコーラは「感覚作用の不在を通じて交通しあっている」ということになる、と。ここから、コーラは質料と同一視すべきではない、むしろイデアと結びつく(!)という驚くべき帰結が導かれるのだ。きわめて強烈な印象を残す、アガンベンの新たな境地、と言えるかもしれない。

大ヒッピアス

Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library)法概念を扱ったテキストということで読んでみたプラトンの対話篇『大ヒッピアス』(Loeb版:Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library))。けれども例によってこれも多様な読みができる一篇。基本的に美の定義をめぐる対話ということなので、意味論の方向へと開いていくというのがまずは順当な読み方になるのだろうか。この問題については、対話は美的な行いとはどんなものかという問いから入っていくのだけれど、そこから、美しいものをそのようなものとして成立させているのは美によってか、対象から離れての美はありうるのか、たとえば有用性は美であるか、美の強度(という言い方ではないにせよ)はどのようにして決まるのか、視覚・聴覚を介した快が美なのか、全体と部分の美的な通約可能性はあるのか等々が問われていく。

ロゴスと深淵―ギリシア哲学探究ざっとネットを見ても、これらの問いを分析哲学的に整理している次のような論考が見いだされる。土橋茂樹「居丈高な仮想論難者と戸惑うソクラテス」(中央大学『紀要』第42号、1999)。同論考はとくに、具体的な議論に入っていくところでソクラテスが一人語り的に導入する「仮想の論難者」(ある者からこう問いかけられた、というソクラテスの語りでその論難者は言及されるのだけれど、後にそれはどうやらソクラテス自身であるかのように示される)に注目していて、なぜソクラテスは最初、ヒッピアスに直接向き合わないのかという点について、面白い解釈を示している。要は、ヒッピアスの当初の立論の信念に対してソクラテスが示した対立的な信念に、ソクラテス自身がコミットしておらず、それにコミットする人物を立てる必要があったからではないか、というわけだ。これに関連してちょうど思い出したのだけれど、以前読んだ山本巍『ロゴスと深淵―ギリシア哲学探究』(東京大学出版会、2000)の最初の章「鉄の孤独と対話問答法」でも、対話問答の現場にいるヒッピアスとソクラテス、そしてそこで言及される第三者的なソクラテスの織りなしについて論じていた。この三者は「わたし」と「われわれ」の微妙な間をつくっていて、ちょうど、視覚の美と聴覚の美のどちらにも共通のものがないにもかかわらずどちらも美しいとされるというソクラテスの議論に、重なり合っているのではないかという解釈が導かれている。共通するものがないことを力説するヒッピアスに従うなら、「われわれ」にないことは「わたし」にもないことになってしまう。こうしてテキストの末尾においてヒッピアスは、「一人にしてくれたら、もっと厳密なことが言える」みたいに言うのだが、対するソクラテスはそれを二人でともに探求することを促す。ソクラテスの対話志向・二人幻想のようなものが、美をめぐる議論にも投影されているということになるというわけか。

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