シャルル・クロと知覚論

12月 9th, 2016 Posted in 人為(技術)・記憶・媒介学 | シャルル・クロと知覚論 はコメントを受け付けていません。

シャルル・クロ 詩人にして科学者―詩・蓄音機・色彩写真少し前に取り上げたシャルル・クロ(そのときはクロスという表記にしたが、これは誤り。正しい読みはクロとのことなので、訂正しお詫び申し上げる)。邦語での唯一の研究書というが出ていると知り、早速見てみることにした。福田裕大『シャルル・クロ–詩人にして科学者―詩・蓄音機・色彩写真』(水声社、2014)。シャルル・クロの詩人としての側面と、科学者としての側面とを、立体的に浮かび上がらせる試み。とくに科学者としての側面については、各種の技術史的なクリシェに絡め取られたクロの固定的イメージを越えて、その実像に迫ろうとしている。クロの科学研究として同書でとくに扱われるのは二大主要業績とされている色彩写真と蓄音機。クロの研究は全体的に理論家としての側面が強く、いずれも実際の機器の開発に至っているわけではないというが、同書を読む限り、そこには視覚・聴覚の内的な機能面を要素に分解してまた組み立て直すという、科学本来の(こう言って良ければデジタル指向な)方法論のある種の先鋭化が見られるようにも思われる。著者はというと、そこにベースとして、特徴的な知覚論の存在を見いだしている。つまりクロにとってのそうした研究は単なる技術開発ではなく、もっと奥深いところで、知覚そのものの探求に結びついているというのだ。「知覚器官の実際の組成ではなく、それらが駆動させている機能に目を向け、このはたらきを再現しうる一個の力学的モデルを構築することによって、曰くそれを「演繹的に」検証しようとした」(p. 245)。

機能としての知覚。なるほど、これはとても興味深い視点だ。色彩写真でも、当初クロは、今風のカラー写真ではなく、なんらかの装置を用いて色彩を再現するという方法を考えていたのだという。三原色へと色彩を一度分解して、それを再構成できるのであれば、そこに装置が介在していても構わない、ということのようで、つまりクロが模索しようとしていたのは、視覚が認識する色彩のプロセス全体であり、開発の対象もそうした認識プロセスに組み込まれるシステムであればそれでよかったのだ。蓄音機の発想についても同様で、いったんなんらかの痕跡に置換された音を、その痕跡をもとに再現するという一連のプロセス(さらには最初期のピアノ演奏の自動記録装置にも同じ発想が見られるという)は、聴覚機能のまさしく外在化で、聴覚とその記録・再生装置とがシステムをなすような技術が模索されていたのだ、と。前の『ル・モンド・ディプロマティック』紙の記事で取り上げられていた惑星通信論はこの論考では取り上げられていないのだが、クロの全集も最近入手したので、そのうちそちらについても読んでみて報告しよう。

プロテスタントとスコラ主義

12月 6th, 2016 Posted in 近代初期・近世のほうへ | プロテスタントとスコラ主義 はコメントを受け付けていません。

改革派正統主義の神学―スコラ的方法論と歴史的展開宗教改革以降の神学についても概略を押さえておきたいと思い、ちょうど出ていたW. J. ファン・アッセルト編『改革派正統主義の神学―スコラ的方法論と歴史的展開』(青木義紀訳、教文館、2016)にざっと目を通した。本格的論文集かと思いきや、なんとプロテスタント神学(という言い方を同書はあえてしていないのだけれど)の歴史にまつわる入門書。こちらとしては願ったり叶ったりという感じだ。全体的な流れが掴めるようにとの配慮から、先行するカトリックのスコラ学の概要や、それを支えたアリストテレス思想の概要までちゃんとまとめてある。そして本題となる「改革派」の神学。そちらも年代区分を設定し(1560年から1620年の初期正統主義時代、1700年ごろまでの盛期正統主義時代、1790年ごろまでの後期正統主義時代)、それぞれの概要や代表的論者のサンプルを紹介している。

原書が2011年刊ということで、迅速な邦訳刊行。近年の研究動向が様々に指摘されていることなどもあって、重要視されているのかもしれない。全体を貫くのは、歴史的な連続の相で(断絶ではなく)宗教改革の動きを見ようとする視点。たとえばルターの有名な提題は、スコラ的な方法論の最たるものである神学討論を申し込むという形を取り、その行動そのものはきわめて中世的だったと見ることもできるという(p.87)。人文主義全般もまた、方法論的には中世のスコラとの連続性の中に立っていたとされる。1500年前後の大学の歴史からは、スコラ主義と人文主義の深刻な対立などなかったことがわかってきているという(p.116)。カルヴァンにしても、その批判対象はスコラ的伝統そのものではなく、あくまでソルボンヌの後期唯名論神学だといい、『キリスト教綱要』においては古いスコラ的分類を採用したり、その有用性を認めたりしているのだという(p.119)。歴史的な像は少しずつ塗り替えられているという次第だ。

また、もう一つの全体的な視点として、改革派神学の多様な系統という論点がある。改革派スコラ主義の評価はもはや、たとえばカルヴァン一人だけで代表させるわけにはいかない、とされる(p.268)。いきおい、歴史記述は群像劇的になってこざるを得ないというわけだ。○○主義と言及してよしとするわけにはもういかない、と(p.271)。それはどんなモノグラフについても言えることで、歴史研究の醍醐味はまさに、微細な部分にいかに入り込み、様々な水脈をいかにすくい上げるかというところにあり、研究全般がますますそうなってきている印象だ。

「主体の考古学」の底流

12月 2nd, 2016 Posted in アルシ・エクリチュール論, 主体、知性、スペキエス | 「主体の考古学」の底流 はコメントを受け付けていません。

L'Invention Du Sujet Moderne: Cours Du College De France 2013-2014 (Bibliotheque D'Histoire de la Philosophie)久々にアラン・ド・リベラを読んでみた。とはいえ、いまなお続いている「主体の考古学」シリーズの最新刊ではなく(そちらもそのうち見たいとは思っているのだけれど、なかなか着手できない……)、今回はコレージュ・ド・フランスでの2013年から14年の講義録『近代的主体の発明』のほう(Alain DE LIBERA, L’Invention du sujet moderne: Cours du Collège de France 2013-2014 (Bibliothèque d’histoire de la philosophie), Paris, J. Vrin, 2015 )。リベラの思考や参照は、相変わらず中世にとどまらず、近現代などとも盛んに行き来する。さながら、古楽演奏の大御所が必ずしもバロックにとどまらず、いつしか古典派やロマン派などにまで解釈を広めていったりもするかのようだ。ただ今回は講義録ということで、いくぶん読みやすくはなっている。主体についての議論ということでまずはフーコーが引き合いに出されているのだけれど、実は一連の議論の発端には、ニーチェ(魂、自己、主体は三つの「迷信」だとする)があったことをリベラは告白している。

近代的主体概念は一般にカントに始まるとされ、さらにその後のハイデガーなど、その思想圏の中心にはドイツがあったというふうに描かれる。リベラはそれをさらに遡ろうとし、まずは教会制度の仲介を経ないで信者が神と向き合うようになった14世紀初頭の神秘主義(エックハルトなど)に、主体概念成立の萌芽を見る。前々回の記事で取り上げたケーニヒ・プラロンの議論では、そのドイツの神秘主義は、フランスを中心とするスコラの伝統へのアンチとして、ドイツのある種のナショナリズムに絡んで復元されたという経緯があるらしいが、ここでのリベラはむしろ、ドイツに奪取された近代的な主体概念の歴史をいわば脱構築して、ふたたび覇権をフランスやイタリアに取り戻そうとしている感じにも読める(これは多少穿った見方だけれど)。主体概念成立に多少とも寄与した論者たちとしてリベラが参照するのは、ペトルス・ヨハネス・オリヴィ、アクアスパルタのマテウス、さらにはオーベルニュのギヨームだったりする。それぞれの議論が、はるか後世のハイデガーやニーチェの議論のレンズを通して立体的に捉えられる。もちろんそれはある種のアナクロニズムなのだが、その考察を通じて、主体の成立に何が必要だったのか、どのような認識、どのような構造がそうした主体概念を支えてきたのかを考え直そうとする。そんなわけで、これは単なる思想史の枠にはとうてい収まらない(ゆえにリベラのような大御所ではければできないし許されない類の)、まさしく哲学的営為になっている。

プロクロス『パルメニデス注解』第三巻から

11月 29th, 2016 Posted in プロクロス研 | プロクロス『パルメニデス注解』第三巻から はコメントを受け付けていません。

Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: 1re 2e Partie Livre III - Introduction Partie Au Livre III (Collection Des Universites De France)ストラボンは一端中断して、少し前からプロクロス『「パルメニデス」注解』の第3巻をレ・ベル・レットル版(Proclus, Commentaire sur le Parménide de Platon: 1re et 2e partie, Livre III (Collection des Universités de France), C. Luna et A.-P. Segonds, Paris, Les Belles Lettres, 2011)で読んでいた。第3巻は原文+詳細な注をまとめた分冊と、その文献学的な序論を収めた分冊との2冊に分かれているのだけれど、とりあえずこの原文部分だけを一通り読了。同じこの校注版で第2巻まで読んでからずいぶん時間が経ってしまったが、実はこの第3巻と続く第4巻が全体のメイン部分をなしている。そこでは形相(εἴδη)の問題が多面的に語られているからだ。第3巻の冒頭に、同書が以下に扱う問いとして次の4つが挙げられている。「形相は存在するか」「形相は何であって、何でないか」「形相の性質とは何か、どのような固有の属性があるか」「現実の個物は何故に形相に参与するか、またどのような形で参与するか」。最初の2つが第3巻で、残る2つが第4巻で扱われる(らしい)。

ここで詳細に紹介することはできないけれど、第3巻でのプロクロスの議論の要点は、プラトン主義的な流出論の因果関係と、範型(παράδειγμα)としての形相の区別にある印象だ。デミウルゴスによる形相の産出は、みずからの内にある源泉による場合と、知的なイデアによる場合とがあるとされる(802.30)。デミウルゴスはすでにして神的存在としては身分が低く、一者と多の両方の特徴を併せ持っているとされる(806.26)。そんなわけで、そもそも像ではないとされる(むしろ原因的なものとされる)知的なイデアは、すべての現実態の源泉になっているわけではなく、そこにはイデアに拠らない部分的・感覚的なものが含まれてくる。たとえばそれは部分の問題や、「悪」「悪しきもの」の問題に関わってくる。形相はあくまで全体に関わるのであり、部分的なもの(指や髪の毛など)単独の形相があるというわけではないとされる。また、プロクロスが報じる体系では、創造されるものは必ずやなんらかの善に参与しているとされ、ゆえに悪は形相に由来するものではないか(欠如など)、その悪すらも善になんらかの形で参与しているのだとされる。

ちなみに余談だけれど、この校注版のもとになっているテキストは、前回のエントリで触れたヴィクトール・クザンが編纂した二つの版なのだとか。うーん、クザン恐るべし。続く第4巻は長いので、読み終わるのはしばらく先になりそうだが、そのうち取りかかることにしたい。

哲学研究と中世主義:アベラールの例

11月 25th, 2016 Posted in 近代初期・近世のほうへ, 通史の風景 | 哲学研究と中世主義:アベラールの例 はコメントを受け付けていません。

Medievisme Philosophique Et Raison Moderne: De Pierre Bayle a Ernest Renan (Conferences Pierre Abelard)さてさて本筋に戻って、中世哲学関連の話を。このところ、中世哲学の研究史についていろいろと興味深いトピックが出てきている気がするが、これなどはまさにその王道というか、正面切っての精力的な取り組みになっている。カトリーヌ・ケーニヒ・プラロン『哲学的中世研究と近代的理性–ピエール・ベールからエルネスト・ルナンまで』(Catherine König-Pralong, Médiévisme philosophique et raison moderne: de Pierre Bayle à Ernest Renan (Conférences Pierre Abélard), Paris, J. Vrin, 2016)。18世紀から19世紀にかけての、中世研究の成立史を追った一冊。全体は四章構成になっていて、最初が概論的な中世研究史、次がアラビア哲学の認識問題、第三章は神秘主義vsスコラ哲学、第四章はアベラールの受容の変遷史を扱っている。著者本人も序文で記しているように、全体を俯瞰した後、徐々に問題圏を絞り込んでいくという構成になっている。

個人的に注目したいと思ったのは、とくにこの第四章のピエール・アベラールの受容の変遷。18世紀の啓蒙主義時代のアベラール評価は、基本的にその自伝や同時代の証言などにもとづき異端的とされ、さらにエロイーズとの手紙などの関連で、物語的な(ロマネスクな)人物像で彩られていた。さらにその異端的な部分(スピノザ主義の先駆として、あるいは無神論者として)がドイツの哲学史研究者によって強調され、19世紀初頭までそうしたネガティブな評価が優勢だったという。普遍論争の絡みでも、アベラールはプラトン主義者と見なされ、実在論の人という形で評価されたりもしている(まあ確かに、そのように読める箇所がアベラールのテキストには随所に見られるのだけれど)。これに異を唱える先鋒となったのが、ヴィクトール・クザン(Victor Cousin, 1792-1867)で、主に校注版の編纂を通じて、アベラールの評価を180度変えていくことになる。聖書の注解書に見られる正統教義の理解(スピノザ主義や無神論ではない)、『sic et non』に見られるスコラ哲学の嚆矢的なスタンス、師のロスリンを発展させた形での概念論的なスタンス(プラトン主義ではなく、むしろ唯名論に近い)などなど。

こうした新たな像をひっさげて、いわば殴り込みをかけた(と言っては言い過ぎかな)クザンは、それを通じて、古代とルネサンスの間をとりもつ中世の評価を変え(断絶から連続性へ)、中世思想におけるフランスの地位を高め(スコラ哲学の伝統の嚆矢として)、さらにそのフランスのスコラ学を近代ヨーロッパの黎明の中心に据えるという、一大変革をもたらそうとした、と著者は捉えている。そこには、きわめて政治的な目的と手腕とが見いだされるのだ、と。このあたり、学問にまつわる微妙な政治的きな臭さも含めて、リアルポリティクス的に大変興味深い議論ではある。