オリヴィによる「悪」の問題

1月 16th, 2017 Posted in オリヴィ研, フランシスコ会系 | オリヴィによる「悪」の問題 はコメントを受け付けていません。

昨年の今頃(正確には一昨年の12月)、目標の一つとして掲げていたものの、あまり時間が取れずに先延ばしになっているのが、メディアヴィラのリカルドゥス(13世紀末)を読んでいくこと。今年はもう少し精力的に取り組みたいところだ。そんなわけで、まずは悪の問題(もしくは悪魔論)、すなわちフランスで出ている校注本の第4巻に注目したいと思っているのだけれど、その校注者(アラン・ブーローとリュック・フェリエ)の序文に、悪魔に関する13世紀末ごろの神学上の議論はことのほか少なく(正面切って論じたものは、リカルドゥスのほかにはトマス・アクィナス、ペトルス・ヨハネス・オリヴィの議論くらいしかないという(!))、わけてもオリヴィのものが独特で際立っているということが記されていた。なので、いったんそちらへと迂回してみることに。

Traite Des Demons: Summa, II Questions 40-48 (Bibliotheque Scolastique)そちらも同じ叢書から校注・対訳本が出ている。アラン・ブーロー校注・訳のペトルス・ヨハネス・オリヴィ『悪魔論ーースンマ第二巻問題40から48』(Pierre de Jean Olivi, Traité des démons: Summa, II Questions 40-48 (Bibliothèque scolastique), éd. Alain Boureau, Paris, Les Belles Lettres, 2011)がそれ。概要を記した同書の序文によれば、オリヴィの論の特徴は、(1)アンセルムス的な、悪の存在論的不在を否定し、(2)悪を自由のもう一つの面であると規定し(スコトゥスの先駆)、(3)悪魔の失墜を終末論的図式から解釈して人間による未来の行為の可能性を開き、(4)理性をもった被造物(人間、天使、悪魔)を、地位として近く、変動的な存在と位置づけていることにあるという。

さしあたり個人的に興味深いのは(2)の側面で、これは問題41「堕罪の可能性は私たちの自由の一部をなしているか」で扱われている。オリヴィの見解によると、堕罪の可能性には受動的なものと能動的なものとがあり、それを受動的なものとのみ見なすならば、人間には厳密な意味での自由がないし、一方で能動的・恣意的自由のみを自由と見なすならば、堕罪の可能性は自由には含まれない。ところが人間の自由とはこの二つの複合なので、堕罪の可能性は自由の一部をなしている。そこには、実体的(本来的)自由には属さない、罪を犯す偶有的な性向が付随するのだ、と……。本来的自由とは神の有する自由であって、そこにはなんら制約はないだろう。しかしながら創造された自由(被造物の自由)は、そうした不完全な制約がつきまとう。善の欠如・不在で考える以上に、悪の問題は大きなものであることを、オリヴィはたしかに見据えているように見える。

ハイデガーと革命運動

1月 9th, 2017 Posted in 日曜哲学, 見・聞・読・食 | ハイデガーと革命運動 はコメントを受け付けていません。

哲学とナショナリズム―ハイデガー結審これも年越し本から。思うところあって、中田光雄『哲学とナショナリズム―ハイデガー結審』(水声社、2014)を読んでみた。ハイデガーのナチスへの加担について再考した一冊。古き良き哲学書を彷彿とさせる晦渋な文章だが、基本的にはハイデガー哲学の基本図式、ドイツにおけるナチス運動の展開、そして両者の関係性などを取り上げ、ハイデガーが厳密に何に加担し、何に加担していないかを明らかにしようとしている。全体の重要なポイントというか、中心的な枠組みをなしているのが、西欧語においていわゆるbe動詞が含み持つ、「〜である」というコプラの用法と、「〜がある」という存在規定の用法だ。前者が織りなすのは事象が相互に照応する、秩序ある世界であり、後者はそれに対するある特定事象の屹立を示すものとなる。これは一種の上部構造と下部構造でもあって、前者によって後者は取り込まれ、全体の下支えとして閉覆・亡失されてしまう。ハイデガーはまさにそうした「〜である」の織りなす秩序に、その底部をなす「〜がある」の実存・存在を暴き出すことで、そこにある種の哲学的な社会革命運動をもたらそうとしているのだ、と解釈される。それはハイデガーの思想の要所として、繰り返し出てくる図式だとされる。

この図式に、ドイツ哲学がもとより孕んでいた一種のナショナリズム(民族主義)が重ねられる形で、ハイデガーの初期ナチス運動への賛同が理解される。欧州の諸民族がひしめき合う中にあって、ドイツ民族は一つの民族として普遍の相において屹立しなくてはならない……こうして、本来ナショナリズムとは相容れないかに見える哲学的な普遍的思考が、存在論を介してややねじれた形で結びつく。それはナチスの初期の運動の理想に呼応するというわけだ。けれども現実には、「〜である」に結局は呑み込まれてしまうかのようにナチスの運動は変貌していき、ハイデガーの目した企図も頓挫することになる、と。では、同書が示すように、ハイデガーのナチスへの加担は本質的な加担ではなく、ドイツ・ナショナリズムの伝統とドイツ哲学の共通特性の類同性をもっているにしても本質的な同一性ではないとして、ハイデガーを無罪放免すればそれでよいのだろうか。それほどまでに「〜である」の蔓延が猛威をふるうものなのだとしたら、少なくともその固着化を、あるいはそうしたbe動詞に立脚する図式そのものの妥当性を分析するのでなければ、ハイデガーの未完の運動を継承するものとして新たに引き合いに出されているEU運動にしても、再び同じような陥穽に陥ることになるのではないか(現にそうなってきている?)、といったことを思わないわけにはいかない。

アーレントによるソクラテス(または思考と道徳)

1月 5th, 2017 Posted in 情念・倫理学・主意主義, 日曜哲学 | アーレントによるソクラテス(または思考と道徳) はコメントを受け付けていません。

責任と判断 (ちくま学芸文庫)今年も年越し本(読みかけで年を越した本)がいくつか。そのうちの一つが、ハンナ・アレント『責任と判断 (ちくま学芸文庫)』(ジェローム・コーン編、中山元訳、筑摩書房、2016)。もとの邦訳は2007年刊。アーレント(個人的には慣例的にこの表記を用いている)の道徳論を中心に、情況への発言なども合わせて収録した一冊。とりわけ、思考と道徳との関係性についての考察が大きな比重を占めているように思われる。とりわけ重要とされるのは、最も長大な「道徳哲学のいくつかの問題」(1965年から66年)という連続講義だけれど、より端的に思考と道徳の関係性を扱っているのは「思考と道徳の問題–W. H. オーデンに捧げる」(1971年)という文章。アーレントによると、たとえばカントは、人間の意志には「理性的根拠にも「ノー」と言うことができる」として、義務の概念を導入するという。その義務は自明なものではなく、ただそれに従わない場合の自己への軽蔑という脅しが道徳律を形作るというわけなのだが、アーレントは道徳をめぐるこの構図を、「自己との関わり」という観点でいっそう深めようとする。その際に引き合いに出されるのは、ほかならぬソクラテスだ。というわけで、以下そのあたりの話を簡単に抽出しておく。

ソクラテスにあって問題とされるのは「自己との不一致」だ(『ゴルギアス』)。人は道徳の問題についてたやすく心変わりすると認識される。プラトンはゆえに、『法律』において、法律を書き下ろして「定着させる」ことが必要だと説く(年末にみた『政治家』でも、聖人君子がありえないからこそ法の統治で妥協しなければならないとされていた)。けれどもソクラテスは、そうした法すらもが容易に置き換わってしまうことを憂慮する。立法のプロセスも含めて、議論や言葉、推論は際限なく「歩き回る」のであり、真の説得など到底できないのだ、と。しかしながら、とアーレントは言う。ソクラテスはそこでなお、そうした議論を止めることができない相手として、自己というものがあるとしている、と。「一人のうちにいる二人」としての自己。そしてこの自己との一致(もちろん不一致もありうる)こそが、倫理の基本になるとされる。悪しきことをした自己と一生過ごすことを、人は堪えられないというわけだ。

ただしこれには一つの前提がある。それは自己との対峙は思考を通じてなされるということだ。思考というものは元来、純粋に内的な営為であることから、現実的な秩序、あるいは「現れの世界」の外にあるものとされる。一般的な常識に反するなど、一見して「役に立たない」ものでもある。あるいはそれは一種のシニシズム、ニヒリズムをも呼び覚ます危険な営為でもありうる。けれどもそうした思考がなされない場合、自己との一致は目されず、悪しきことへの規制もかけられない、とソクラテスは言うのだ、とアーレント。内的な対話を放棄してしまうなら(そのような事態はいともたやすく、しかもたびたび起きてしまう)、もはや倫理の芽は摘み取られるしかない。人が組織の歯車になるような事態は、まさにそうした思考の放棄に連動している。ひとたび犯罪などの悪しきことをなせば、そのことは忘れ去られ、顧みられることはない。もちろん、思考がもたらすそうした道徳性にはおのずと限界がある、とアーレントは言う。ただ、その規制的歯止めがまったくなくなれば、極端な悪すら起こりうる……。問題の大きさに対して、示される処方が一見なんとも非力に見えてしまうが、それでもなお、これがまさしくベースラインをなしている、とアーレントは見る。この上にアーレントは、「力の余剰」とされる意志の問題をカントに即して考察しようとする。そうした意志の判断もまた、思考に密接に結びついているのだ、と……。

さしあたり、ここに関連して、偽書かもしれないとされる『ヒッピアス(大)』とプラトンの書簡集を読むことが今年の課題の一つに浮上した。

古来の古典語学習

1月 2nd, 2017 Posted in 古典語・古典学系 | 古来の古典語学習 はコメントを受け付けていません。

Learning Latin the Ancient Way: Latin Textbooks from the Ancient World明けて2017年なり。賀正。というわけで、今年の一本目は例によって古典語についての話。エレナー・ディケイ『古代の仕方でラテン語を学ぶ』(Eleanor Dickey, Learning Latin the Ancient Way: Latin Textbooks from the Ancient World
, Cambridge University Press, 2016
)という一冊を年末に眺めてみた。ローマ時代のギリシア語圏の人々は、必要に迫られてラテン語を外国語として学んでいたといい、それらの人々がどのような教材を用いていたのかを実例(の英訳)を交えながらまとめた一冊。この、「古代の人々がどのようにラテン語を学んでいたか」という着眼点がまずもって素晴らしい。そこから具体的な教材(とくに残っているのが3、4世紀のもの)の検証に入っていくのだけれど、大きな特徴として、当時は逐語的な対訳本が使われていたことが示されている。対訳本のカバーする範囲は多岐にわたり、日常生活的な会話本から、トロイア戦争についての各種物語、イソップの寓話、より専門的なところでは、ハドリアヌスの判決や奴隷解放についての論文など、実に多岐にわたっている。テキストブックはそんな感じだが、興味深いのは文法書。当時は学習対象の言語で書かれた文法書(つまりラテン語で書かれたラテン語文法書)を、習い始めのころから用いていたのだという。もちろん教師がいて、それを解説するというやり方だったのだろうと推測されるけれど、なかなか初学者にはハードだったのではないかなと思われるところだ。また、すべての学習者がラテン・アルファベットを修得していたわけではないといい、ギリシア語のアルファベットで転記された教材もあったという話も面白い。巻末にはラテン語・ギリシア語の対訳教材の実例(英訳なし)や、語が分割されていないテキストの例、さらには文献情報も付されていて、とても参考になる。


このブログではさほど取り上げていないけれど、昨年2016年は古典語学習者としては、教材の刊行において充実していた1年だったような気がする。あまり聴けなかったけれど、放送大学でのラテン語講座も始まったし(教材はヘルマン・ゴチェフスキ『ラテン語の世界 (放送大学教材)』(放送大学教育振興会)、7月にはマルティン・チエシュコ『古典ギリシア語文典』(平山晃司訳、白水社)も出た。これも時間があるときに眺めたりすると、結構発見があったりして興味深い。語学はどの言葉でも奥が深いことを改めて感じさせてくれる。また、これは古典語というと語弊があるが、井筒俊彦全集の一つとして、3月にはアラビア語入門 (井筒俊彦全集 第十二巻)』(慶應義塾大学出版会)が再刊となった。アラビア語は個人的に、イブン・シーナの『治癒の書』から自然学をアラビア語・英語の対訳本で読み進める作業を、時間があるときに少しずつ行っているだけなので、一般的な基本語彙などを結構忘れてしまっている。そんなわけで、この井筒版の教科書で復習しようと思いつつ年を越してしまった。今年はぜひそちらにも取りかかりたい。

ラテン語の世界 (放送大学教材) 古典ギリシア語文典 アラビア語入門 (井筒俊彦全集 第十二巻)

プラトンの『政治家』

12月 23rd, 2016 Posted in 古典語・古典学系 | プラトンの『政治家』 はコメントを受け付けていません。

Statesman. Philebus. Ion (Loeb Classical Library)一連の対話篇のなかでも、あまり読まれないのでは、と思われる(?)『政治家』を、思うところあって眺めてみた。例によってLoeb版(Plato, Statesman. Philebus. Ion (Loeb Classical Library), Harvard Univ. Press, 1925-2006)。後期対話篇とされるものの一つで、『ソピステス』の続編。これまた話がいろいろな方向に飛びつつ、錯綜しながら語られていく一篇。たとえば、政治家の技法というものが、最初は群れを率いる羊飼いになぞらえられる。けれどもそれはいつしか否定され、今度は織物師の技法に比較される。ところがこれもなにやら雲行きが怪しくなっていく。その間には、クロノスが統治した時代の神話とか、事物の分類に関する議論とかが差し挟まれたりして、全体が「脱線」(?)したりもする……。結局どこに行き着くのかといえば、真正なる政治家とは最高の学知を備えた王者でなくてはならないが、それが事実上ありえないからには、それに準ずる法による統治に落ち着くしかない、という着地点だったりする。ある意味なんとも奇妙(というと語弊があるけれど)なテキストだ。

Platon, la politiqueこれについては、コルネリウス・カストリアディスによる講義『プラトンの「政治家」について』(Cornelius Castoriadis, Sur le politique de Platon, Paris, Éditions du Seuil, 1999)があり、そちらも併読してみた。同書をめぐる1986年の、社会科学高等研究院での講義録。これで多少とも全体的な構成やテーマについての見通しがよくなった。カストリアディスはこのテキストを大きく、「二つの定義、八つの挿入話、三つの余談」から成ると腑分けしてみせる。二つの定義は上の、政治家を羊飼いと織物師にたとえていることに対応する。その上で、実は三つめの定義というものが、三つめの余談にあるとされ、それが学知・学識としての政治家像だとされる(残り二つの余談は、クロノスの神話と各政治体制の評価)。

『政治家』の本文では、真正の王者が統治することが真の理想だとされていて、そこでは誰も口を挟むことのない法が敷かれるとされる。一見するところ、王者が強大な権力を握る体制に見える。カストリアディスはこれについて、当時のアテナイが民主制に移行している中での「王政」を説く点に、プラトンの独自性を見いだしている。その上で、プラトンのそうした権威主義・絶対主義(全体主義という言葉ではアナクロニズムになってしまうと述べている)は、急進的なものであって、決して保守的(懐古的)ではないと評価している(p.162)。過去に戻ろうとする気はいささかもないという意味で、それは反動的な理想主義ですらなく、むしろ『国家』で描かれた、王政(ましな)→寡頭政治→民主制→暴政の繰り返しから脱するための壮大な計画を描いているのではないか、というわけだ。過ちを犯しやすい人間の性が強調され、それぞれの政治体制に欠陥があるといった指摘もなされるプラトンの文章は、『政治家』においても、確かに『国家』同様、なにがしかの当時の社会的現実を念頭に置いている感触が濃い。そうした中での思索的奮闘として読むことができそうだ。