キネクト賛

何周もの周回遅れ(5年くらい遅れてる?)ながら、最近kinect v1を中古で購入し遊んでいる。言わずと知れたxbox 360用の深度センサー&モーションキャプチャデバイス。Processingやopenframeworks(oF)からも使えるということなので、今回購入してみた。実際に触れてみると、これがまたなかなか楽しい。

Mac用のProcessing 3で使うにはドライバなどは不要。ただしライブラリ(アドオン)としてSimpleOpenNIなどが必要になる。oFのほうでは、ofxOpenNIやofxKinectといったアドオンが必要。mac用のoFでは、ofxKinectはすでに標準で入っている。ただofxKinectは少し用途が限られている印象で、少し制約もあるようだ(スケルトンの追跡とかができない)。ofxOpenNIもインストールしてみたものの、コードをコンパイルしようとするとエラーが多々噴出する。macのXcode 11ではコンパイルできないし、qtcreatorでもダメ。というわけで、とりあえずoFではofxKinect、ProcessingではSimpleOpenNIを使うことに落ち着く。

ためしに、こちらの「simple-openniの覚え書き」を参考に、「こじ研」のチュートリアルでofxOpenNIでやっている近距離レーダーみたいなやつを、Processing + SimpleOpenNIで再現してみる。

sketch_radar

画像の深度を上から見た図、ということのようで、これはいろいろ応用できそうな気がする。四肢のトラッキングもできるようなので、たとえばバロックダンスの舞踏譜のような記録を取ったりとか(個人的にバロックダンスは踊れないけれど……)。活用の妄想が膨らむ(苦笑)。

イメージ学に(再び)出会う

イメージ学の現在: ヴァールブルクから神経系イメージ学へ秋はやはりちょっと厚い本に挑む季節でもある(笑)。というわけで、個人的に今年はまず、春先ごろに出ていたこれ。坂本泰宏・田中純・竹峰義和編『イメージ学の現在: ヴァールブルクから神経系イメージ学へ』(東京大学出版会、2019)。ドイツ発の先進的な学際的ムーブメント、イメージ学をめぐる一冊。シンポジウムがもとになった論集ということだが、5部構成の全体のうち、まだ2部のみをざっと眺めただけだけれど、多彩な論考から立ち現れてくるのは、広がりをもった「イメージの現象学」にほかならない。なんといってもこの冒頭部分のうちで目を引くのは、そのイメージ学の中心人物、ブレーデカンプへのインタビューだ。

美術史が取り上げてきた芸術の造形的中心主義から、少しばかり視点をずらしたアプローチをかけることによって、それまでの学知が取りこぼしてきたようなモチーフであったり隠されたテーマであったりというものを拾い上げ、さらに隣接領域の学知を着想源として、それを見えなくしている力学までをも解き明かそうとする。芸術作品が働きかけてくるその様々な動線を見極めること。ブレーデカンプ自身の言葉遣いなら「非媒介的な身振り」なのだそうだが、それは「イメージが表現と表現されたものとの間に入り込む固有の自然力(ピュシス)を示している、という意識を喚起すること」(p.85)だという。そもそも絵画などの作品を見ること自体が、身体そのものの微動(眼球運動など)を伴っているのであって、絶対的な静止状態にはない。ならば、そうした複合的な知覚体験、身体機構の研究もまたテーマにしないわけにはいかない、などなど……。

収録された各論文にも、そうした別様の視点、取りこぼされてきた領域やテーマがそれぞれに息づいている。取り上げられるのは、原寸大写真であったり(橋本一径)、アニメに描かれる身体の不気味さだったり(石岡良治)、甲冑の表象史だったり(イェーガー)、原理主義的なイスラム派により破壊された像の現象学的作用だったりする(ブレーデカンプ)。こうした多彩な着目点と、そこから導かれる学知的広がりは、ある意味とても壮麗だ。そんなわけでこれは、読みかけながら、すでにして個人的に何度も見かえして楽しめそうな論集になっている。

神話化のプロセス

以前、プルタルコスの『モラリア』から、動物の知性について論じた第63論文「陸生動物と海洋動物はどちらがより賢いか」を読んだが、個人的に、海洋生物についての記述の比重が高かったのがとりわけ印象的だった。観察にもとづくと思われる亀の産卵の工夫とか、伝聞・伝承によるものらしいイルカが難破船を救助した話とか。動物の知性を称揚するあたっては、この後者のように、ときおり神話・伝説の類に言及し、虚実織り交ぜての議論も目についた。今でこそ、そうした伝承譚は無害な神話・伝説としてカテゴライズされているわけだけれど、では新たな神話は生まれていないかといえばそんなこともなく、私たちは案外、多くの神話に取り巻かれて生きている……。

神聖なる海獣―なぜ鯨が西洋で特別扱いされるのかそういう感慨にふけるきっかけは、一つには次の本を読みかけだから。河島基弘『神聖なる海獣―なぜ鯨が西洋で特別扱いされるのか』(ナカニシヤ出版、2011)。これは現代の捕鯨問題についての歴史的背景を負った好著。かつての捕鯨国だったアメリカが反捕鯨に転じたことや、ほかの動物について不問にする不整合的な姿勢などについて、どういう史的な経緯でそうなったのかを、かなり具体的に説明づけようとしている。反捕鯨の現象面だけでなく(それでは表層的なジャーナリズムでしかなくなってしまう)、その裏側(動物の権利をめぐる思想的流れ)、力学(政治家たちの暗躍)、複合性(環境保護団体、ビジネス、マスメディアなどなど)といった様々な側面を捉えようとするところに、アカデミズム的な真摯さがある。様々な要素が組み合わされて出来上がった異物は、まさにさながら反捕鯨の一大神話だ。それは体系をなし、そう簡単には揺るがない。いったんそうした神話系ができてしまうと、それは自走しみずから拡張するようにさえなっていく……。

そういうものはもちろん捕鯨問題だけではなく、これは現代の神話化作用についての重要なケーススタディとしても読むことができそうだ。

このところの設定作業

2週間ほどブログも本読みもお休みして、とくに今週は各種の環境設定に明け暮れる。こういうのは久々だ。まず古いMacBook Airをchrome端末にすべくCloudReadyを入れる。これは簡単。で、それに付属するLinuxをオンにして、Visual Studio Code(VSC)などをインストールして使えるようにする。これも問題なし。で、ProcessingをVSCから行えるようにしてみた。これはすでにWin10の環境でやっていた作業なので、これまたとくに問題なく完了(メモ。こちらの記述を参考。ただし、tasks.jsonに指定するsketch=以下は、${workspaceRoot}ではなく${fileDirname}とかにする)。

さて、問題はここから。せっかくなので、もう一つのアート系プログラミングフレームワーク、openframeworks(oF)もインストールしてみようかと考えた。すでにWin10でVisual Studio版(メモ:なんとVSも2019版では正しく動かず、2017版にダウングレード)、macでqtcreator版(メモ:qtcreatorもoF最新版もダメで、こちらの記事にあるように、qtは4.6.1、oFは0.10.0にする必要あり)のインストールを果たしたので、次はLinux版に挑戦というわけだ。ところがこれでハマる。手順は公式サイトにあるとおり。ところが、cloudreadyに入っているLinux(debianベースのpenguinというもの)では、そもそもinstall_dependencies.shがエラーで止まる。ライブラリの依存関係が変だという表示がでる。問題がありそうなライブラリなどを手動インストールするなどいろいろ試すも、うまく動いてくれない。試しにと、win10環境のWSLで入れたpengwin環境(これもdebian派生のディストリビューション)でもインストールを試みるが、ほぼ同じエラーが出て中断してしまう。

そのWin10環境で、試しにWSLにubuntuを入れて、そちらでoFが入れられるかどうかを試すと、install_dependencies.shは通るものの、compileOF.shがエラーで止まってしまう。エラーで検索をかけたりするも、解決できず。それで試しに、今度はoFのwin10のコマンドライン版というのを入れてみる。msys2という環境を入れなくてはならず結構面倒なのだが、そちらでもoFコンパイルは当初はエラーが出たものの、エラーで検索かけたところmsys2シェルではなくmingw2シェルで行えばよいということがわかり(!)、それで難なくコンパイル成功。ちゃんとサンプルコードのコンパイルもできた。これは単純にうれしい(メモ:ちなみに普通のコマンドシェルでは、やはりエラーが出てダメ)。

そこでちょっと、WSLのubuntuでも別シェルにすればうまくいくんじゃないかと思いつき、zshを入れてみる。そのzshからなら、なんとoFのコンパイル成功。やった、と思いきや、サンプルについてはコンパイルまでできるものの、実行するとディスプレイ系のエラーでコアを吐いて終了してしまう。うーん……。というわけで、いろいろやったものの、今のところLinux系はまだうまく動いていない。こんなことしてないで、早くコードそのものを書きたいのだけれどなあ。全般的にoFはすでに古くなっている(2017年止まり?)のが気になった。

アリストテレスと「無限」

Le Séminaire. L'infini: Aristote, Spinoza, Hegel (1984-1985)今週は久々にアラン・バディウの講義録から。1984年から85年にかけての『無限--アリストテレス、スピノザ、ヘーゲル』という講義(Alain Badiou, Le Séminaire. L’infini: Aristote, Spinoza, Hegel (1984-1985), Fayard, 2016)。まだアリストテレスを扱った部分(全体の3分の1で、ちょうど84年の分に相当する)を見ただけだが、今回の講義では、一回目の冒頭部分で、バディウが何を取り上げるのかを明快に語っていたりして、とても参考になる。それはつまり、それぞれの論者の哲学が抱えている「袋小路・行き詰まり」(impasse)を見極めるということ。ここでのimpasseは、二つ以上のものが膠着状態になりつつ、その当の二つのものを際立たせる特異点のようなもののことを言うようだ。前に見たパルメニデス論などもまさにそうで、パルメニデスの議論の根底に、存在、非存在、思惟の三項が、断絶しながらも連なるというパラドクサルな場、あるいは関係性を云々されつつも現実的には関係性を結びえない、まさに手詰まりでありながらその三項をそれぞれ成立させるような捻じれを見いだし、それがバディウ独自のパルメニデス論となっていた。今回のアリストテレスについても、同じような手さばきで、今度は存在論における同様の特異点を示そうとしている。

アリストテレスの哲学は、まずは「現にあるもの」に拘るがゆえに、「存在そのもの」に向き合うことができない。論証や必然性に拘るがゆえに、直観や偶然的なものを排してしまう。しかしながら、そうした対立する項、すなわち思惟されないものは、思惟されるものと表裏一体の関係にあり、思惟されないもの、あるいは思惟されるものとされないものとの分別が、思惟そのものの成立を支えることになる。この図式は時間概念にも見受けられる、とバディウは指摘する。アリストテレスにとって時間は運動によってもたらされるものだが、するとその運動そのものは時間の外にあることになる。アリストテレスの言う「運動」は、私たちが思い描くような運動のイメージと、明らかに同じではない。運動は時間の前・後を結ぶ「瞬間」にも重なる。前・後の関係では、前が終わるところはすなわち後が始まるところでもあり、つねにそこには境界が仮定され、それを飛び越える跳躍も仮定される。けれども境界そのものは特異点として、時間の外にあることになる。一方でその動くものは時間の前・後で同じ一つの存在であり続けることから、運動はまた個物の「一性」の理論でもあることになる。

場所についてもしかり。場所は空虚と、やはり特異的な関係を結ぶ。アリストテレスにとっての場所とはすなわち、物体を囲い込む境界であり、いわば物体に限定をもたらすものだ。ここで無限・無限定なものがあるならば、それは場所への位置づけができないということを意味する。何かが無限であるならばそこには一性もなく、したがって運動もない。時間もない。限定があるからこそ、運動があり時間がある。その意味で、アリストテレスにとって無限というものは「存在しない」。けれどもそれは、存在するものの体制(全体)そのものを支えていると言うこともできる。無限とは踏破が不可能であるような空間、同一性と他性とが切り結ぶ弁証法的な場なのだ、と。一見錯綜した話ではあるけれど、要はここでもまた、前面に出ないものが、前面をなす当のものを裏で支えている、という図式だ。逆に、支えるものは出てこようにも出てこられない。自然は空虚(すなわち無限)を恐れるというが、バディウは「空虚もまた自然を恐れる」と述べている。

では後世において、いかにして無限は前面へと「出てくる」ようになったのか。そこにはもとのアリストテレスを曲解し、無限を神的なものに重ねて実体的にとらえた中世キリスト教思想の流れがあり、次いでその自然化があった。かくしてスピノザこそが、われわれを待ち構えているのだ、と……。このバディウ節、個人的には結構盛り上がる。