応酬へ?

前回取り上げた『<現在>という謎』(森田邦久編、勁草書房、2019)には、物理学の側から哲学への期待(もしくは苦言?)として、「新しい物理学や新しいテクノロジーが垣間見せてくれる世界を捉える新しい言語や概念体系を作ってくれる」(p,161)ことが要請されている。哲学の使命というものはそれだけではないだろうけれど、もちろんこれも確かに重要な一側面ではある。しかしながら今や、そうした新しい学知のための言葉や概念は、その学知の出身者にこそ委ねられていくのだろうか。いやしかし……なんてことを思うのは、関連書としてカルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版、2019)を見てみたから。ロヴェッリは1956年生まれの著名な理論物理学者で、この本でもちょっとだけ触れられるループ量子重力理論の提唱者。そうした先端的な学者が一般読者のために著したのが同書とのこと。

原題は「L’ordine del tempo(時間の順序)」。もとになっているのは古代ギリシアのアナクシマンドロスの言葉で、ほかにも同書には、アリストテレスやデカルトなどはもちろん、哲学史家でなければ言及しないような史的な著者たちまで(たとえばセビリアのイシドルスとか、ベーダ・ウェラビリスとか、マイモニデスとかその他いろいろ)言及されたりして、その博学ぶりをいかんなく発揮している。

同書の基本的な柱となっているのは、相対性理論が示したように、時間というものは相対的なものでしかなく、そもそも実体としてあるのではない(世界そのものからして実体で構成されているのではない)こと、時間は変化を可視化したものにすぎず、そうした変化が時間の矢として扱われるのは、熱量が絡む場合に限られること、熱量の変化、すなわちエントロピーこそが、運動を、すなわち変化を(それすら近似的・統計的な記述にすぎないとされるが)現出させていることなどなど。すべてにおいて視点と記述(語法)こそが問題なのだ、と喝破される。物理学において時間は、外的な性質として扱われるのに対して、哲学が調べようとするはあくまでその内的な性質にとどまることが指摘されてもいる。そうであるなら、両者の意思疎通がそもそもうまくいくわけがない、という気もする……。

しかしこの時間の内的な性質の記述というのも、ときに興味深い問題を提起する。これまた関連書として見たものだけれど、青山拓央『心にとって時間とは何か』(講談社現代新書、2019)では、たとえば意志による判断がいつ下されるのかといった問題に絡んで、神経学的な実験が紹介されている。二つの写真を見せてどちらかを選ばせる(ボタンを押させる)実験で、その結果、脳の反応は、意志的な写真の選択にわずかに先んじたりすることが明らかになったのだという。ではそこから、意思をもつことに対応する心理現象というものはないかもしれないという仮説が成り立つのだろうか。意志の自覚は、つねに後づけとしてなされるものなのか。さらにチョイス・ブラインドなる実験も言及されている。被験者に写真などを選ばせ、それをすり替えて説明を求めると、多くの場合、すり替えに気づきもせず、ときには自分が選択したこととして理由を述べることもあるという現象だ。選択の理由もすべて後づけでしかないのか。

著者はどちらに対しても、哲学の側からの批判を加えている。前者に対しては、そこで示された脳の反応が、選択(ボタンを押すという行為)に関連している確率は6割程度しかなく(あらかじめボタンを押すために身構える、予測している、といった反応が、結果に出ていたりするわけだ)、意志の自覚より前に脳が決断していること確証にはならないとしている。後者に対しては、日常的な「本気の」選択であれば関係するはずのリスク評価などが、介在していない特殊な実験にすぎない、と。このように、批判的な視座をもって他の学知を眺めることも、哲学に求められるべきスタンスであることは確かだろう。では上で言われているような、物理学の示す時間の外的性質に、哲学はどう批判を加えうるだろうか?そもそもそれは可能だろうか?

現在という謎(そして時間という謎)

森田邦久編『<現在>という謎――時間の空間化批判』(勁草書房、2019)を読み始める。このところ個人的に見たいくつかの書で、時間をめぐる解釈が取り上げられていたこともあって、よく言われる科学者と哲学者の認識の隔たりというのを、もう少し見ておきたいと思ったからだが、最初の章からまさにそれが鮮明に浮かび上がっている。

物理学者からすると、相対性理論と量子力学をもとに、「現在」という時刻はあくまで「座標系に依存した便宜的概念」にすぎないとされる。物理学的には、未来に計測を行って初めて確定するような過去の出来事というものもあるといい、さらに絶対的な同時性といった概念も措定できないという。相対論からは、たとえば単に高低差があるような場所でも、地球の自転によって、時間の流れにすでにして差ができる。したがって、異なる場所の二人の人物に、絶対的な同時性はありえないということになる、と。

一方、哲学の側は「現に存在する」という感覚をもとに、「存在するイコール現在である」という定式を出したりもする。けれども物理学の側からは、そうした「いまある感」が、「いま見ているあなたが物体に投影している「いま」」にすぎないと指摘されている。要するに、主観的現在にせよ、個々のそうした主観的現在が同時であるはずだとする絶対的同時性にせよ、ある種の信念でしかなく、実在するものではないのだ、と。

なるほど哲学の側は分が悪そうに見える。けれども、たとえばかつてのストア派などにおいては、時間の措定が仮のものでしかないといった議論に及んでいた可能性もあるようにも見える。再びプルタルコスの対話篇を見ておくと、登場人物たちの話から察するに、ストア派の人々は、現在が過去と未来に挟まれた境界線上の一点をなすといくら仮構したところで、それはある程度の厚みをもった時間幅でしかなく、現実的なものとはいえないと考えていたように思われる。現実的には「いま」というものは実在せず、人が「いま」と想像するものは、未来と過去とに同時に属していると見るのがよい、とストア派は言う(『モラリア』第72論文、41章)。さらにそこからの帰結として、同時に生じたとされる出来事は、その出来事以前と、その出来事以後から成るとされる。すると厳密な同時性というのはありえないことになる(ように思われる)。さらにその帰結として、結局は「時間」というものが全体として廃絶されることにもなるのではないか、と。

対話篇の登場人物は、当然ながらこれが一般通念に反するとして批判しているわけだけれども、ストア派のそうした議論は、現代的な物理学のスタンスと奇妙にも響き合い、通底しているかのようで、アナクロニズムではあるけれども、そのあたりがなんとも興味深い。

普遍と個物再び

プルタルコスの『モラリア』第72論文、対話篇の「一般概念について―ーストア派への反論」(ちなみにLes Belles Lettres版で再読中)に、「全体」をめぐるストア派の言説をあげつらう箇所(第30章)がある。この対話篇の登場人物によれば、ストア派の論者たちは、実在しないのに「何かである」と言える事象は多々あり、その最たるものが「全体」である、と述べているという。「無限の空虚で世界の外にあることから全体は物体でも非物体でもない。したがって全体は実在しない。よって全体は働きかけもしないし、働きかけを受けることもなく、場所にすらない。場所にないならば、動・不動のいずれでもない。重さもない」と彼らはいうのだそうだ。するとそこから「物体でないものがその部分に物体を含み、非在のものがその部分に存在を含み、重さのないもののがその部分に重さや軽さをもつものを含む」ことになって、一般概念にこれほど反する観念はほかに思いつかない、とこの登場人物は宣言する。

けれどもこのストア派の側の議論のほうがむしろ面白い気がする。その議論では続けて、全体は「それを超えるものはないので何かの部分ではないし、総体でもない。総体は秩序だったのものの述語となるものだが、全体は秩序だってはいない。全体には何らかの原因があるわけでもないし、何かの原因になるわけでもない」とされる。したがって全体は、通常ならば「無」の述語となるすべての述語を取ることになる、と。この対話篇の登場人物たちは、ストア派は残念だという感じで嘆くのだが、いや、実は残念なのはこの登場人物らのほうではないか、という気がしないでもない。ストア派の言説をより深く読み込んでいけば、かえってそうした非在の概念の分析から、物体の実体性、実在性、あるいは一般概念の存立根拠のようなものも導けるのではないか、と。

そんなことを改めて思うのは、田口茂・西郷甲矢人『<現実>とは何か――数学・哲学から始まる世界像の転換』(筑摩書房、2019)を読んでみたからかもしれない。数学者と哲学者との対話を通じて練り上げられた議論というだけで、すでにして刺激的な一冊。しかもそれが実体などの、存在論的な議論に向かうとなれば、これはもう、良い意味で見過ごすわけにはいかない。そしてなんといっても、同書が企てているのがまさに一般概念・通念の転回だからでもある。

同書が問うているキーとなる問題は次のようなものだ。普遍的なものの認識が成立するには、必ずやまずは特定の個別的なものから出発しなければならない。法則が成立するには必ず個別の事象・現象が必要だ。けれども後者から前者が導かれるプロセスは必ずしも意識されない。その「変換」が成立するためには個別の事象と「同じ」他の事象が見いだされ、「置き換え」の可能性が開かれれなくてはならない。ではそこでいう「同じ」とはどういうことか。置き換えの可能性は何が担保するのか。著者たちは量子論とそこから導かれる統計的法則、そして圏論を引き合いに、置き換えの可能性や同じであると見なす根拠が、実は設定された観察の条件に依存すること、したがって法則は「ある」というよりは都度「作られる」ものであり、それ自体としては不定であることなどを論じている。

そしてまた、条件は法則を支えながらも、法則に書き入れられることはない。しかもいったん法則が成立するとなれば、もとになった個別事例は置き換えうるものとして、それ自体は消去されてしまい、法則はあたかもなんらかの実体概念のように捉えられるようになる。けれども実は不定のものでしかなく、自然はそうしたものの上にあり、また数学という営為も、そのような不定性を突き詰めていく学問なのではないか。そこからさらに同書は、自・他の置き換え可能性から倫理の問題、そして決定論と自由の問題を論じるところにまで突き進んでいく。

ストア派の時代にはなかった道具立てが、現代にはある。そのことを強く噛みしめる。

歴史記述の諸問題

歴史記述の黎明

今年の初めに続き、アルナルド・モミリアーノは仏訳本だけでも読んでおきたいと思い、今度はNRFの『歴史記述の諸問題――古代と近代』(Arnaldo Momigliano, “Problèmes d’historiographie ancienne et moderne“, Éditions Gallimard, 1983)を取り寄せてみた。英語およびイタリア語で発表された論文をまとめたもの。フランス独自の編集なのかもしれない。古代ギリシアからローマ、さらにはユダヤ教・キリスト教世界、中世、ルネサンス、近代と、ギリシアの歴史記述の伝統がどう扱われてきたかについての各論の数々、そして書評論文などから成る。さしあたりいくつかの論考を眺めてみた。初っ端を飾る「ギリシアの歴史記述」はいわば概論、2つめの「古典世界の歴史家とその聴衆――いくつかの示唆」は受容史。ほかに興味深い章題には、「歴史記述史のなかのヘロドトス」、「西欧におけるポリュビオスの再発見」などなど。

古代ギリシアの歴史家と言えば、まずは誰よりも前5世紀のヘロドトスとトゥキディデスが双璧。ヘロドトス以前にももちろん先達はいる(ギリシアの神話の系譜をまとめたミレットのヘカタイオス)し、同時代人もいた(局所的な歴史を記したレスボス島出身のヘラニコス)が、まずはその二大巨頭の比較論が興味深い。ヘロドトスの独自性は戦争史の秩序立った語りと、戦争の原因をめぐり民族誌や政体史を始めて活用した点にあった。一方、トゥキディデスは民族誌を援用することなく、軍事の歴史と政体史を、直接的な近因と遠因の双方の視点から描き出すという方法を取った。民族誌は基本的にギリシア人と蛮族とを分ける発想をもとにしていて、それに依拠するかぎり、非ギリシア語圏については粗末な言及しかないという。

一方、この両者にはもちろん共通点もあって、ヘロドトスは自分が直接目にしたことを重んじ、トゥキディデスもそれを継承し、同時代史をとくに重んじていた。局所的な地方史よりもギリシア全体の歴史に目配せしようとするところも共通する。散文から派生した「歴史」を、他のジャンルから区別されたものとして確立していくのも両者だ。それは神話の要素が後退していく頃合いと時を一にしてもいた。

モミリアーノは、そうした記述やアプローチの継承関係についてさかんに言及している。歴史記述は古代ギリシアにおいては学として確立されていなかったが、それでもトゥキディデスの方法論は継承されていく。著名な歴史家の多くが、祖国を離れた流浪の状態で歴史記述を行っているとの指摘も示唆的だ。トゥキディデス、クセノフォン、クテシアス、テオポンポス……さらに時代が下るとポリュビオスやハリカルナッソスのディオニュシオスなどなど。戦記と政治史を中心とするトゥキディウスのモデルは、前4世紀にもてはやされ、後のヘレニズム期、ローマ時代、ビザンティン帝国期へと受け継がれていく。一方でクセノフォンが平行して用いた私的な思い出を語るというスタイルは、長い時間をかけて人物伝、ひいては自叙伝へと発展していく。

歴史書の受容史もまた見逃せない。ヘロドトスが定期的に公の場での朗読会を開いていたことが示されている。トゥキディデスはそれにかなり批判的だったという(聴衆が好むのは驚異的な話で、それがないと朗読会は盛り上がらないことなどを指摘しているのだという)。ヘロドトスは朗読会を通じてかなり高額の報酬を得ていたらしい。朗読会はその後も長く継承されながら、一方で文書の拡散に伴い重要性を失っていく。デモステネスはトゥキディデスを8回も筆写したというし(ルキアノスの記述)、ブルトゥス(前1世紀のローマの軍人)はファルサロスの戦いの前日までポリュビオスを要約本を読んでいたのだとか。こうした小ネタ的な言及も興味深い。

個体化論は哲学を書き換えうるか

一昨年刊行されていたジルベール・シモンドン『個体化の哲学--形相と情報の概念を手がかりに』(藤井千佳世監訳、近藤和敬ほか訳、法政大学出版局、2018)。シモンドンのこの書(もとは1958年の博士論文)、内容的には大きく前半と後半に分かれ、前半では技術的事象の個体化、後半は有機的事象の個体化を扱っている。かなり以前に、前半と後半の一部(生命論のあたり)を原書のほうで読んだことがあったが、諸般の事情で後半の残り部分は放ってしまっていた。そんなわけで、ようやくその心理的事象を扱った部分(事実上の第3部か)を、この邦訳で見てみることにした。この書そのものは、個体が発生してくる力動的な位相に着目し、そのプロセスを一元論的に捉え、それを足場として従来の哲学的な諸概念の書き換えを目するという、実に壮大な可能性を感じさせる一篇だ。それだけに全体を通じて晦渋であり、すんなりといかない。邦訳でも同じことだが、そこを少し我慢して読み進めると、刺激的な世界が広がっているのがわかる。というか、その重要性が色あせていないことを改めて思う。

ここでの個体化とは、生成、発生、展開などを含む抽象概念で、不安定な環境から個体が、その不安定さを解消するために「せり上がってくる」(自己構成する)こと、個体のいわば一般的な前景化を言う。個体が発生することによって、個体を取り巻く環境とその個体そのものには、個体発生前の状態(前個体)と、個体発生後の不安定・不完全な状態(超個体)が生まれ、そのような分化によって「意味作用」が生じる。構成された個体(人間の場合)には、結果として個体内部から環境を眺める位相、すなわち「主体」ももたらされる。個体化に次いで今度は個体の内部で「個性化」が永続的に繰り返される。個体化と個性化の永続性の一貫性を担うものとして「人格」も成立する(第二部二章「心理的個体化」より)。

シモンドンが提唱するこの抽象的な図式をもとに様々な問題を捉え返すと、従来の考え方では不十分だという点が多々出てくることにもなる。個体化論は発生的な面を捉える真の一元論に位置づけられることから、翻って、たとえば心身二元論への抜本的な批判がありうる(ベルクソン哲学への批判)。唯物論的な一元論、唯心論的な一元論すら、実際には非対称的な二元論にすぎないとして一蹴される。また、個体発生は認識論やそれにともなう存在論に先立つとされ、むしろ個体の存在についての考察こそが、認識論に先立つものでなくてはならないということにもなる(デカルト哲学への批判)。集団論(社会論)もしかり。集団は諸個人が信念や神話を共有することによって成立するのではないとされる。信念は「グループの分離や変質の現象」(p.494)でしかなく、実在しておらず、同様に、集団を支えるとされる神話や臆見も、実は「グループの個体化の操作が力動的かつ構造的に延長したもの」(同)にすぎない。そもそもグループ自体が二次的な個体化にすぎず、個別の諸個体を重ねたものでしかなく、その意味でグループに属さない孤立した個体も、必ずしも不完全なものとは見なされない(否定されない)。「人間は社会的動物」というテーゼに、これはある意味真っ向から対立する(アリストテレス哲学への批判)。

同じように、自然が人間に対立するという考え方も否定される。自然はむしろ存在の最初の位相であるとされ、個体と環境の対立は二次的な位相だという(p.504)。自然は全体に対する個体の相補物、個体が不完全さを克服するために必要とする残余、個体を超え出るものだ。時間論も個体化の理論に立脚すると別様の図式になる。現在こそが過去との未来のあいだの転導をなし、過去と未来に対する意味作用をなす、と。言語についてもしかり。言語が人間に意味作用の獲得を可能にすると述べては不十分だ、と断じられる。言語を支えるための意味作用が先行して初めて、言語がありえるのだ、と。言語は情報を運ぶものにすぎず、意味作用は個体化がもたらすそのものである、と。情動もしかり。情動は個体化された存在の構造のうちにはなく、「集団的なものの個体化において意味作用として発見されるポテンシャル」(p.520)なのだ、と。

……このように、シモンドンは実に広範な議論の書き換えを提唱する。個別の議論はほとんどメモ書きのようでもあり、読む側がそれぞれ深めていくしかないように思われるが、いずれにしても新しい刺激的な(当時も今も)哲学的視座がここにはヒントとして示されているといってよい。それはまさにプロセス実在論と呼んでよいものだろう。