ジョルダーノ・ブルーノの質料論

原因・原理・一者について (ジョルダーノ・ブルーノ著作集)漠然と、そろそろ腰を据えてジョルダーノ・ブルーノを読むのもよいかな(笑)と思い始めている昨今。今週は空き時間に、改めて邦訳の著作集から原因・原理・一者について (ジョルダーノ・ブルーノ著作集)』(加藤守通訳、東信堂、1998)を見ていた。これは5つの対話からなる対話篇。いろいろ興味深い点も多く、第5対話で展開する「正反対のものの同一」の無限概念を説明するくだりなどは、すべてがある種の一元論的世界観で貫かれていて圧巻。けれども個人的にはまず、質料について能動的な面が強調されているところ(この言い方は巻末の訳者解説より)が、とくに眼を惹かれる。第4対話では、質料はペリパトス派が言うような純粋に受け身のもの・可能態などではなく、諸形相をみずからのうちに内包し(胎内にもつ、と表現される)、現実性の泉をなすと言われている。変化するのは質料そのものではなく、質料の周りのもの、つまりは複合体にほかならない。加えて、質料は完全体なのでそもそも形相を求めたりはせず、形相のほうがむしろ不安定なものとして、質料を求めるのだとされる。かくして質料は神的な存在であるとまで言われている……。

本文で示唆され、また解説でも述べられているが、これはプロティノスに絡んだ質料観ということのようだが(実際プロティノスは本文中でたびたび引用される)、そのあたりは厳密に詰めてみたことがないので、時間ができたときの検討課題の一つに加えておこうかと思う。質料観の変遷史というのは、なかなか面白いテーマかもしれない(と、これまでもたびたび言うだけ言ってきたような気がするが(苦笑))。

再びテオフラストス(『植物原因論』第二巻)

Théophraste Livres I et II: Les Causes Des Phénomènes Végétaux (Collection Des Universités De France)引き続き読んでいるテオフラストス『植物原因論』(Théophraste Livres I et II: Les Causes des Phénomènes Végétaux (Collection des Universités de France), trad. Suzanne Amigues, Les Belles Lettres, 2012)。第二巻がようやく読了手前。この第二巻は、植物の生育状況の差がどのような原因によって生じているかをテーマとしている。土地や水分、気候などが影響するのは、第一巻でも記されていた通り。もちろんバランスが重要という見識は全体を貫いており、諸条件は良すぎても悪すぎてもいけないとされる。面白いのは、ある程度悪条件であるほうが、植物の生育には好都合だという捉え方。たとえば水は植物にとって必須だが、多すぎると発育が阻まれ、実もならない。水はむしろ少ないほうが、生育のためには好都合であり、ある種のストレスがかかるほうがよい、といった話が繰り返し強調されている。また、たとえば実を豊かに成らせるには、そうした諸条件を適切にコントロールすればよいとして、人為的な介入の可能性が繰り返し示されてもいる。それに則って栽培法・農法の話が展開していくことになりそうだ。

(雑感)今週の足跡 – ディープラーニング

直感 Deep Learning ―Python×Kerasでアイデアを形にするレシピこのところ、空き時間にディープラーニングで遊んでみている。理論的な話はいくつか読んだので、そろそろ実践もかじってみたい、という感じ。とは言っても、まだ初歩の初歩にあたるMNISTの手書き数字認識と、それに続く画像分類を試してみただけ。参考書としてアントニオ・ガリ&サジット・パル『直感 Deep Learning ―Python×Kerasでアイデアを形にするレシピ』(大串正矢、久保隆宏、中山光樹訳、オライリージャパン、2018)を用いている。ど素人にとってもkerasは分かりやすい……。それでも、学習精度を高めるための工夫というあたりはすでにして興味深げなトピックだ。スコアを競う感じでなかなか楽しそうな雰囲気。

また、いつもの癖で、こうした技術をたとえば人文知の領域でどう活用できるだろうかということもつい考えてみたくなる。画像認識ならば(ベタだけれども)中世の手書き写本の認識とかができるのでは、とか(少し前に、あの誰も読めないヴォイニッチ写本を機械学習にかけたツワモノが、もとはどうやらヘブライ語らしいという研究結果を出したという話があった)、でもやはり主流となるのは自然言語処理のほうだろうか、とか。自然言語処理のほうも、そのうち遊んでみたいところ。

 

後成説と学際性

今週は各種雑用のせいで、あまり本を読む時間が取れず、マラブー『明日の前にもほんのわずかしか進んでいない(やっと半分まで)。けれどもそこで取り上げられた比較的最近の遺伝子研究の話(第7章)がなかなか興味深い。2000年代以降になって、また新しい潮流が出てきているということのようだ。要は遺伝子万能説のようなものが後退し、ゲノムがなすのは個体への環境の影響に一定の制限を設け、それに反応する能力を与える程度だという話になってきているということ。遺伝子そのものとは別筋の、ある世代の細胞から次の世代の細胞へと伝えられる遺伝の可能性が開かれているとされ、たとえば植物が季節の変化を細胞レベルで記憶しているとか、マウス実験での食餌制限の差が次世代の子に明らかに影響を残しているとかいう話が紹介されている。遺伝子プログラムの単純展開という説は、今や有機体と環境から構成されるシステムの展開という説に取って代わられてきている、とマラブーはまとめている。環境からのフィードバックを得るための各種バックドア的なものの存在が、遺伝子による決定論の牙城を切り崩しているということだろうか。

人文学もそうだが、科学そのものも諸説の見直しは確実に進んでいるようで、旧来の説をいつまでも保持できない。ただ悩ましいのは、そうした新説・新事実を伝える論文へのアクセスは専門性などが仇となってどうしても限られ、一般向けの書籍なりにまとめられるにはそれなりの時間を要すること。だからネット時代だろうと学際性につきまとう遅れ、哲学が「黄昏に飛ぶミネルバのフクロウ」でしかないという状況は変わらない。あるいはそれどころか、逆にその遅れや隔たりはいっそう増しているかもしれない、とさえ思えるフシもある。

面白いのは、マラブーに言わせれば、前成説と後成説の論争の継承者たちであるそうした科学者たちが、一般向けに書くものの中で、後成説的なものを正面切ってではなく、隠喩的にしか語らない傾向にあるという点だ。後成説は解釈的自由に属するとされ、そこでは解釈のイメージが問題となる。マラブーはある意味健気にも、それがむしろ哲学との対話を開く契機になるかもしれないと語るわけだが、これもまた、哲学ないし人文学固有のアクセスの限定要因に阻まれないとも限らない。学際的な対話はいつになっても険しい道なのか……。

カントと後成説

明日の前に

このところ空き時間にゆっくり読んでいるのが、カトリーヌ・マラブー『明日の前に』(平野徹訳、人文書院、2018)。まだやっと三分の一の5章までだが、これが決して侮れない力作。ここで提唱されているのは、一言でいうならカントの読み直し。同書がとくに注目し中心課題に据えているのが、アプリオリなもの(先験的なもの)が実は根源的には「獲得されたもの」である、という逆説めいた議論。これがカントの言明としてあるのではなかったか、という問題だ。たとえば認識上のカテゴリーが、カントにおいては、予め備わっている超越論的なものというよりも、獲得されるものとして受け止められ、当時の生物学的知見から借用した「後成説」的に説明されていたりするというのだが、そうなるとアプリオリとアポステリオリの区別、前成説・後成説の区別は、カントにおいては重なり合わないことになり、思考そのものに反・超越論的で発生的な過程があるかのように読めることになる。もっとも、カントのテキスト上のそうした箇所はどこか曖昧な場合が多いようで、多義的な解釈が可能でもあるらしい。この解釈上の重大問題を、同書はカントの諸テキストと同時代以降の研究書を突き合わせながら検証していく。当時の生物学における発生論的知見が、カントにどれほどの影響を与えていたのかも興味深いが、それ以上に、当然ながらこれはカント哲学の根幹にかかわるある種の地雷原でもある。そこをどう回避しうるのか。これはなかなかサスペンスフルな設問だ。

メイヤスーが相関(主体と対象との根源的な相互関与の構造)主義批判を打ち出し、アプリオリな総合以前の「先立つもの」を持ち上げていることに絡めて、マラブーはそうした動きが実はカントのある種の読み方、つまりカントにおける基礎付けの欠如を指摘する傾向を改めて浮き彫りにしていることを指摘してみせる。その上で、そうした読み方のさらに先に思弁的実在論を、やや性急に展開するのが果たしてよいのかどうかを、カントの読み方の「可能性の条件」を丁寧にたどることで検証するというのが、マラブーの基本的モチーフとして冒頭に掲げられている。というわけで、これは古くて新しい問題を改めて捉え直そうとする一冊でもあり、と同時に、思弁的実在論とはまた違う別の道をどこかに見いだそうとする試み・苦行でもあるようだ。それはどういうかたちで立ち上がりうるのだろうか?

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