ホッブズの一元論的唯物論とか

おそらくはご多分にもれず(?)、読みかけで放置したような積読本(未読了の山)というのも個人的に結構あります。最近少し整理したときに再び出てきた『リヴァイアサンと空気ポンプ』(シェイピン&シャッファー、吉本秀之監訳、名古屋大学出版局、2016)もその一つですが、ちょっと思うところあって、少しばかり読み進めてみました。
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17世紀、ロバート・ボイルが空気ポンプの実験で証明しようとした「真空」をめぐり、ホッブズを筆頭とする当時の反対派や賛同者たちの議論を浮かび上がらせた同書。科学史的にはもちろんボイルのほうが主役ということになるのでしょうけれど、個人的には、前に読んだときもそうでしたが、ホッブズの側につい肩入れしてしまいそうになります。それほどまでに、ホッブズが唱える一元論的唯物論が興味深いからでしょう。

世界は物体(物質)で充満している、というのが基本スタンスで、物体でないものは存在せず、ゆえに真空もありえない、というのがボイルに対するホッブズの議論の核心部分ですが、同書によれば、これをホッブズは、社会秩序へと敷衍してみせ、物体以外のなにか(真空も含めて)を持ち出すことは、社会秩序を壊すものでしかない、というふうに、政治的目的のための議論としていたことが示されています。

物体しかないとする以上、ホッブズは、よく知られているように教会からも糾弾され、また王権神授説を否定したことで、国王派からも睨まれていました。一方でそのラディカルな唯物論にもとづき、ホッブズは人間の、欲動的で自己保存志向な本来の姿を想定し、その無軌道な「自然状態」を抑制するために、強大な権力をもつ超越的な統治機構として「リヴァイアサン」を構想したのでした。

でも、この壮大な構想とどこかちぐはぐな感じもするのが、ホッブズの現実的・実践的な対応だったりします。強大な権力機構を夢想していたのに、クロムウェルの共和制をわりと素直に受け入れたりとか。ボイルとその賛同者たちへの批判でも、実験が閉鎖的なサークルでなされていることや、それが哲学的な営為と相容れないことなど、どこか細かい難癖を付けているような印象があったりもします(もちろん、それなりの解釈はありえるでしょうけれど)。ホッブズの人間臭さ……なのでしょうか。

シェイピン&シャッファーの本は、ボイルとホッブズの周囲の人々の話も織り交ぜ、群像劇的な面白さもありますが、なかなか紙の活字本を追うのはしんどいので、とりあえずおしまいまでざっと目を通したものの、細かい点までは追えていません。うーん、少し頑張ってそれらを拾いながら、今度はボイルの側を主軸にして読み直したい誘惑にもかられますが、どうしようかな〜と迷っているところです。再び未読了の山に埋もれる(ちゃんと通し読みしていないので)ことになるのか、どうなのか……?

EPWING辞書(古典語)の現在

長いこと、ギリシア語などを読むために、MacでEPWING辞書を使ってきました。愛用してきた検索ツールはLogophileです。Logophileは2022年に開発を終えていますが、とりあえずIntel版Macでならば動くし、RosettaでAppleシリコンでも使えるみたいだったので、これまで継続使用してきました。でももうじきRosettaもサポートを終えるということで、新しい検索ツールが必要だなと思い始めました。

AIが便利なので、Webベースの検索ツールでも自作できないかなとも思ったのですが、辞書ファイルの解析でさっそく躓いてしまったので(tokenを食いまくり、あげくに出てきた解析ツールはイマイチで)、結局、やはりそこは他力本願で、ということに(笑)。

目をつけたのは、Linux系のツールです。超古いMacbook AirにchromeOS flexを入れているのですが、これに付随するLinux(debian系ですね)で使えるものがいくつかあり、Mac版が出ているものもあることがわかりました。まず、Qolibri というツールがありました。でもこれ、Mac版だと検索結果のパネルが文字化けしてしまうという難点がありました。次に今度はGoldenDictというのも見てみました。これも開発がすでに終わっているようですが、GoldenDict-ng(ngはニュージェネレーションのようです)という派生版が出ていて、こちらは今でも更新されているようです。で、これにMac版があります(https://xiaoyifang.github.io/goldendict-ng/install/)。

辞書ファイルも問題なく読み込め、表示も悪くありません。とりあえずこれは良さそう。というわけで、こちらに乗り換えてみることにしました。今のところ、すこぶる快適です。

ちなみに、辞書ファイルそのもの(個人的には大昔にダウンロードしたものを今も使いまわしていますが)も、今や新規の入手はとても面倒になっています。昔のEWPING for the classicsという貴重なページは、すでに事実上なくなっており、とくに辞書ファイルは見当たりません。唯一見つかったのは、dotsrc.orgのミラーサイト(https://mirrors.dotsrc.org/osdn/classicalepwing/)でした。ただしこれは、もとのファイルの名前がわからないと、どのファイルをダウンロードしたらいいかわからないですね。うーん……。これから始めようという殊勝な若い人にとっては、ちょっと難儀な状況ですかね。

Daily Coding 8月の振り返り

投稿はX、Blueskyで行っています。また、bib.deltographos.comでも順次公開しています。

夏のジャズ系雑記

長いことジャズ系はそんなに好きではなかったのですが、この5,6年くらいでしょうか、歳とってきたせいか、「結構ハマる音楽が満載だな〜このジャンル」、と思うようになりました。ジャズと一言で言っても、史的にもいろいろあるわけで、それがまた裾野が広くて面白いんですよね。もちろん、カジュアルなリスナーです。酒場でジャズ談義で絡んでくるようなオヤジは、(話相手になるのも、目指すのも)御免こうむりたいです(笑)。

5月に開催されているクラシック系の「熱狂の日音楽祭(LFJ)」とかでも、最近はディキシーランド・ジャズ(中川ファミリーの)があれば、ほぼそれだけを目当てに行く感じです。スウィング系よりはモダンジャズ、あるいはビバップ系とかが面白いけれど、これもいろいろありすぎて、あまりこだわると迷子になりそうです。50年代・60年代とかのモード・ジャズ、フリージャズ、70年代以降のフュージョン系なども同様で、あたりまえですが全然追いきれません(苦笑)。まあ、代表作などをつまみ食いするのがせいぜいでしょう。ちなみに個人的に最近のヘビーローテはソニー・ロリンズとかだったりします。

FMの大友良英氏の番組で、少し前に「ジャズ本」を紹介する企画がありました。そこで紹介されていた一冊『世界史はジャズで踊る』(村井康司、文藝春秋、2026)を読んでみました。ジャズの成立にいたる音楽的な源流の数々について、アフリカ系の人々の翻弄の歴史とからめて紹介するという、人類学的にも読み応えのある一冊でした。冒頭にあったのですが、日本に来る以前のラフカディオ・ハーンがニューオリンズに行き、そこで「ピアノをバンジョーのように奏でる」黒人演奏家について記していたという話が、なんだかとても印象的でした。バンジョーのようにピアノを弾く、っていうのがいいですねえ。
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今年はマイルズ・デイヴィスとジョン・コルトレーンがともに生誕100年だとのことで、FMとかでも特集が組まれたりしていますが、コルトレーンよりはデイヴィスのほうに比重が偏っている感じはありますね。映画との絡みでGoogle検索かけたりすると、デイヴィスは『死刑台のエレベーター』(彼が手掛けた即興の映画音楽)とかがドドーンと表示されたりしますが、コルトレーンのほうは、本人の軌跡を追うドキュメンタリー映画のサントラが紹介されます。『チェイシング・トレーン』(2016)です。
https://music.apple.com/us/album/chasing-trane-the-john-coltrane-documentary-original/1443174849

で、なぜかついでにセロニアス・モンクのドキュメンタリー映画も合わせて紹介されたりします(笑)。こっちは『ストレート・ノー・チェイサー』(1988)です。「ストレートでくれ、割る水とかいらねえ」というタイトルがいいですね。これ、制作総指揮はクリント・イーストウッドなんですね。
https://music.apple.com/jp/album/straight-no-chaser/268557390

リミナルな「私」の行き着くところ

前回の投稿で、今ここに無内包なものとしてある「私」も、どこかリミナルなものかも、とおいうことを記しておきましたが、リミナルと言うからには、どこかに通じている途中経過的な意味合いも含まれていなくてはなりません。では、その向かう先はどこなのか。でもこれ、実はとてもシンプルな問いにすぎないのかもしれません。

そう思えたのは、高橋源一郎の『ぼくたちはどう老いるか』(朝日新聞出版、2025)に目を通したから。老いの問題を小説家がどうさばくのかと思っていたら、なんと、ある種の注釈書みたいになっていました。
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前半は哲学者の鶴見俊輔が著した『もうろく貼』(2010)についての著者のコメンタリー。あらゆる状況がいつしか肯定されていく、老いによる変化・変質を、高橋氏はダンテ『神曲』に描かれた「煉獄」のようなものとして(罪を認め、清められ、許される段階として)、「もうろく」に重ね合わせています。なかなか面白い読み方です。

後半は家族から見た、第三者視点からの「老い」ということで、吉本隆明の長女、ハルノ宵子『隆明だもの』(2023)や、有吉佐和子『恍惚の人』(1972)、私小説の作家、耕治人の短編小説、谷川俊太郎の詩などが取り上げられています。どれもが老いと死のまわりをめぐる、味わい深い考察・言及になっています。

若いうちはどこか観念的なものだったり、恐怖の対象だったりした「老い」や「死」ですが、年齢が進むにつれて、観念や恐怖としては薄らいで行くのかもしれません。そしてその無内包な自分自身が味わう、どこか振動のような、わずかな(微かな)動きこそが、愛おしいものになっていくのかもしれません。高橋源一郎はこう記しています。

ぼくが、ぼく自身の内側をいくら覗いて見ても、そこに確固たる「自分」は見当たらない。もやもや渦巻く、不定形な流動体に、ことばを投げ込む。すると、ささやかな反応がある。なにかしら意味ありげな反応が。それを、愚かにも、ぼくたちは「自分」であると思いこむのである。- location 3421

“自分の中にはなにもないとしても、自分の中が仮に空虚であったとしても、そのことに絶望せず、世界を呪わず、「役割」をまっとうせよ、と鶴見さんはいうのである。「にもかかわらず」の転調を、僕は美しいと思う。- location 3443”