リアリズム小説——古いか新しいか

ランシエールの文学評論集の一つ、『フィクションの縁』(Les bords de la fiction – Jacques Rancière)をざっと読んでみました。

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学術的な本にも、ある種のドラマトゥルギーがあるとして、マルクスの『資本論』に出てくる布と衣服の対比などが、いわば登場人物のような扱いになっていることを指摘していたりして、ちょっと変わった論評集になっている気がします。

で、とくに印象に残ったのは、19世紀以降の、いわゆるリアリズム小説についての考察。アリストテレスの劇作論以来、フィクションの主人公には、運命を切り開くような能動的な人物が配置され、運命に翻弄されるしかないような、受動的な人物は、あくまで脇に置かれるしかなかったわけなのですが、近代になって、とりわけマルクス主義の影響などによって、この対比が逆転され、受動的とされた人々、社会のありふれた人々が、フィクションの主人公として前面に出されるようになっていきます。ここまではわりと普通の話です。文学研究者のアウエルバッハなどは、ここにフィクションの未来を感じ取っていたりするのだとか。

でも、本当にその対比の構図は逆転したのか、とランシエールは問うてみせます。ありふれた人々も、ひとたび作品に取り上げられると、特異な人物として描かれるのではないか、と。対比の構図は温存されているのでは、と。

かつてのフィクションのように、作品のプロットは時間の経過に必ずしも依存しなくなっており、それに代わり場所の連関などがプロットを支えるようになってきた、とランシエールは指摘します。ジョイスの『ユリシーズ』などが念頭にあるような感じですね。で、そのあたりが変わっても、そこで描き出されるのが、なんらかの特異な人物としてであることに、変わりはないのではないか、というのですね。

こうしてランシエールは、リアリズム小説は、それ以前の小説作品に比べて新しいものであるかもしれないが、構図としては存外に古めかしいものであり続けている、という話にもっていきます。

個人的に、最近、マルカム・ラウリーの『火山の下』や、カルロ・エミーリオ・ガッダの『メルラーナ街の混沌たる殺人事件』を、ちびりちびり読んでいる身としては、なにやらこうした論評が、とても納得できるように思えます。それらの作品では、ありふれたものと、特異なものとが、分化していくプロセスのようなものを、ひたすら読まされている気分になってくるからです。

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言語化はときに追い込む

wowowで配信・放映していたアルノー・デプレシャンの映画『私の大嫌いな弟へ(2022)』を観ました。

ある集まりの席で、何気なく「あんたのこと、ずっと嫌いだった」と弟に言い放った姉。弟は売り言葉に買い言葉よろしく、「そんなこと、知ってたさ」みたいに返す。二人とも笑みを浮かべて。普通なら、これは仲の良い姉弟の、ちょっとふざけただけの会話でしょう。しかしここでは、役者として知られるようになっていた姉と、作家志望の弟の間に、おそらく様々な思いがあったようで、これがきっかけで、二人は20年あまりも、互いを避け続けるようになってしまうのです。

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なかなかすごいシチュエーションですが、胸のうちに抱えたもやもやしたものが、なんらかの言語化によって、いっきに構造体として組み上がる、というのは現実にありうる話ですね。漠然とした思いが、なんらかの言葉によって、まるで回路に流し込まれるかのように整理されるのですが、いちどそうして構造化されてしまうと、人はその構造体にこだわり、その回路を執拗に強化してしまう、という感じです。おもに好き嫌いが絡む場合が多いように思われるこの現象、実は結構そこここで生じているのかもしれません。言わずが花といったことが、表現されてしまえば、もはや取り消すこともできなくなります。

これもまた、身につまされる話ですね。「言葉になっていないものは、ひたすら言語化していけばよい」なんて、必ずしもいえないということです。言語化されてしまったものが、人を追い込んでいくこともある、というのは心しておいたほうがよいかもしれません。

ではその、凝り固まったしこりのような構造を、どう解きほぐしていけばいいのか。映画はそのあたりの問題について、ぐるぐると回りながら、解決の糸口を探していこうとします。もちろんそれは、簡単なことではありません。

デプレシャンの映画は、かなり以前に観た『そして僕は恋をする』など、わりと初期作品から、そうした言語的な現象への独特な感覚が、とても鋭敏に感じられるような気がします。今回のものは、確執が弱まっていく過程を描こうとしている感じですが、でもやはりこの、追い込む言葉のありようが、最も鮮烈に記憶に残る気がします。

 

実存主義関係者の饗宴

最近読んだものから、その2。

サラ・ベイクウェル『実存主義者のカフェにて――自由と存在とアプリコットカクテルを』(向井和美訳、紀伊國屋書店、2024)。サルトルやボーボワール、カミュ、メルロ=ポンティなどを中心に、また、彼らに先立つフッサールやハイデガーら現象学の要人たちなど、20世紀ヨーロッパの思想の展開を、人間的な細かなエピソードでもって描き上げ、一種の群像劇として示しています。

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これは見事なノンフィクション。精緻な筆致で、長いけれど一気に読ませる労作です。こういう細やかな、エピソードベースで思想史に入門できる本というのは、案外少ない気がします。その意味でも良書だと言えそうですね。

えてして無味乾燥になりがちな思想史の記述に、人間くさいエピソードの数々が、彩りと深みを与えています。こういう記述でもって、いわば立体的に描き出されると、思想史の流れも、また違った風景に見えてきますね。第二次大戦の戦中・戦後の情景や、そこで繰り広げられるサスペンスフルな出来事などは、とりわけ想像をかき立てます。

個人的に興味深かったのは、全体的に、最初に和気あいあいとしていた仲間たちが、やがて状況への反応を通じて、お互いの意思疎通がうまくいかなくなっていくさま。エントロピーの増大、でしょうか?思想家は誰もが、状況に即して、また相手を想定して、なんらかの主張を展開するものだと思いますが、そうした営為には、様々な軋轢や不和を醸し出していく契機が、あらかじめ内在しているのかもしれません。普通に考えて、時間の経過とともに、考え方の違いが際立っていくようになるのは、人の関係の常なのかもしれません。でも大学人やら作家のように、ある種のナルシスト的な人々においては、その傾向はいっそう顕著になっていくようにも見えます。もちろん仲のよいままの人々もいるわけですけどね。

ときに最後は喧嘩別れのようになってしまうのが、なんとも悲しい。ハイデガーをとりまく人々もそうだし、サルトルをとりまく人々もそう。何かこの、集団的な人間関係の悪化というのは、なかなか興味深いテーマかもしれないなあ、と改めて思ったりします。

 

意外に動的なドイツ観念論の展開

このところ、欧米の時事的な出来事が相次いで、なにやら落ち着かない感じもありました。でもまあ、それでもなお普段通りが一番、というわけで、最近読んだものから。

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まずは、kindle unlimitedに入っていた『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』(村岡晋一著、講談社メティエ、2012)。ちょっと途中端折ったりしましたが、通読しました。これ、前から読みたいと思いながら、なぜかめぐり合わせが悪くて、これまで手にとることができていませんでした。もっと早くに目を通しておきたかったなあ、と今更ながら思いますね。

カント、ラインホルト、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルといった、ドイツ観念論の展開を、「アプリオリなものの源泉」をどこに置くかという点に着目し、追っていくという入門書ですね。これ、複雑な観念論をとても見事な整理してみせて、圧巻です。

カントの純粋理性では、対象と主観の関係性が問われるというのに、人間はアプリオリな形式として、対象の「はじまり」を捉えることができない、とされます。そのことを高らかに指摘するラインホルトなどは、では本人がいかにして関係性の外に立つことができるのかを答えていないといいます。フィヒテは関係性の基礎として、自己の定立・非定立の表裏一体性を持ち出してくるようなのですが、しかしそれだと今度は、(対象と主観の)差異のない世界が立上がってしまうことになるのでは、と。

シェリングは、自然と自己との一体性・同族性ということを言い募ります。さらに、差異のある世界を描くために悪の問題や時間の問題を取り上げていくといいます。ヘーゲルは、同じような問題意識から、他者の存在、ことばの問題を考察していく。承認欲求、主人と奴隷(奴隷こそが自由の成立の契機とされる)などの議論は、対象と主観の差異の問題として導入されているのですね。

総じてカント以外の論者たちは、自己を能動的な自由の観点から論じているようなのですが、著者によると、それは同時代に生じたフランス革命が、すべてを自由のもとに再構築したことの、大きな余波だったといいます。観念論の展開は、静的なものではなく、とても動的なものなのだということが改めてわかります。

 

言語化できないものへのアプローチ

先月下旬にwowowで放映された『偶然と想像』(濱口竜介監督作品、2021)を録画で観ました。

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3つの短編からなるオムニバス。少し場面の構成や台詞回しが、映画というより舞台を思わせる部分があって、独特な空気(というか違和感)を生んでいる気がしましたが、長回しの多用などが、そうした違和感を少しだけ和らげている感じもして、なにやらとても独特な映像的時空間を作り上げています。

3つの短編はそれぞれ、とても知的に構成されたシチュエーションや展開が見事です。友達が意気投合した相手が元カレだということがわかり、修羅場を作りかけることになる第一話、作家でもある大学の教員に、ハニートラップをしかけようとして、逆に言葉の応酬を通じて自己の解放を促される顛末を描く第二話、そして偶然の出会いをきっかけに、若い頃の思いを、やっと見つめ直せた2人の女性たちを描く第三話。この第三話などはとりわけ感銘を受けました。

共通のテーマとしては、一つには言語化できないものの言語化の試みというのが、ありそうですね言。語化できないものを、そのようなものと合点できた人々の、なおも言語化したいという思い。静かな画面とはうらはらに、登場人物たちの心の中は嵐がふいていそうです。そういえば以前観た同監督の「『ハッピーアワー』も、やはりそんな感じの力作でした。