ボルヘスの思考実験?

以前『なぜフィクションか』(1999)が良かったジャン=マリー・シェフェール。同著書の10年前に刊行された『文学ジャンルとは何か』(”Qu’est-ce qu’un genre litteraire?”, Le Seuil, 1989)を読んでみました。
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前者が学際的なアプローチだったのに対し、後者はいわば剛直な文学論でした。まだ認知科学や心理学などへの言及もないのですが、文学作品の研究にコミュニケーションという観点を入れているところに、少し野心的な感じを受けたりもします。基本的に文学ジャンルをどう規定し、どう理解すべきかについて論じた本なのですが、「ジャンル」を導く論理というのは実に多彩で、簡単なものに還元できないのではないかという、ちょっと身も蓋もない結論を導いていて、個人的には思わず苦笑してしまいました。

でも、ちょっとおもしろかったのが、歴史的な文脈について考える章。ボルヘスの『伝奇集』に入っている短編「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」を引き合いに出していました。これ、ある種のボルヘスの思考実験(?)みたいなものでしょうか。20世紀の作家(とされる)、ピエール・メナールなる人物が、セルバンテスになりきるという方法で、セルバンテスのものと一語一句変わらない『ドン・キホーテ』を書こうとしたという想定(さらにその断片が残っているという想定)のもと、両者の比較を文芸批評的に行ったというフィクションなのです。

たとえ文面はまったく同じだとはいっても、セルバンテスよりメナールのほうが多義的だという意味で豊穣である、とボルヘスは記しています。シェフェールはこれについて、歴史的なコンテキストがもはや同じではないことの示唆として受け止めています。騎士物語のパロディだったセルバンテスのテキストは、メナールにおいては心理小説・形而上学的小説のジャンルに入れられるべきものになっているというわけです。また、スペイン語を学ぶことから入っているメナールの文体はどこか擬古的、セルバンテスのものは自分の時代のナチュラルな口語になっている、とボルヘスは記しています。シェフェールはここに、ジャンルの問題が、少なくともテキストの創造と受容の2つの問題として示されることを見てとっています。

それにしてもこのボルヘスの作品は、今読むとあまり面白みもないのですが(失敬)、むしろこの、ピエール・メナールの姿勢の極端さらしきものに、ちょっと惹かれるところがないわけでもありません。これ、ある意味でのファンダム的なスタンスの現れにも思えてきますね。ボルヘスはセルバンテスの、そしてシェフェールももしかしたらボルヘスの、なんらかのファンダムを生きている、みたいな?妄想ですけど……。

昔ここで書いたことがあったかもしれませんが、私個人も(ちょっと方向性は違いますが)、もうちょっと古典ギリシア語ができたなら、ヴァレリーの『エウパリノス』とかのギリシア語訳を、偽書として作りたいなあ、なんて思っていました(今でもかすかに思っています(苦笑))。まあ、でもそこまで古典ギリシア語できないからなあ……(遠い目?)。

「現代思想」と日常

昨年秋ごろに出て面白そうだと思った、福尾匠『置き配的』(講談社、2025)を、このところ読んでいました。『群像』連載の単行本化とのことで、多彩なトピックが飛び交う印象です。
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でも、哲学的エッセイだけのことはあって、日常的な話と現代思想系の概念や議論を往還し組み換えつつ、社会のなにがしかの側面について考察するというスタイルになっています。結果的にとてもおもしろい読み物になっていると思いましたが、そのスタイルが現時点で十全に成功しているかどうか微妙な部分もあり(この本自体も、どこか置き配的だという印象もありますね)、個人的には、さらなる洗練・深化に期待したいところです。

中身についても(特に個人的に注目したいところだけですけど)、ごくごく簡便にまとめておきましょう。コロナ以降すっかり定着したように思える置き配ですが、著者はこれを、時代を象徴する新たな現象と捉えています。ネットや批評の世界などのやり取りもまた、ポジショントーク的になり、言葉を「投下」するだけのものになってしまったと述べていますね。批評の内実が急速に失われていく様子が、置き配で共有される配達済み写真の不気味さにも通じている、といった話も出てきます。もはや郵便的(ちょっと懐かしい?)ですらない、置き配的なものになった言説の内実を、ではどうやって取り戻すか、というのがこの本の取り組む目標のようです。

バトラーのパフォーマティブ論や、ドゥルーズ&ガタリの領土の概念など、いろいろなものを駆使しながら各話(連載の)は進んでいきますが、でもやはりこの本が鋭さを見せるのは、ネット環境などの現況をめぐる概観や分析の部分でしょう。たとえば、「ナショナリズムや環境問題などの「大きな物語」が復古したかのように見える現状」について、著者は「つねに私以外の誰かの大きな物語に対する私の小ささ、弱さにおいてしか、われわれはわれわれの実存を安定させることができなくなっている」と喝破します。「誰かの表現を示威的なパフォーマンスとして見なすことにおいて、私は私の表現が実のあるものであると、感じることができる」のだ、と。なるほど、なぜネットで安易にデカい話題が召喚されたりするのかについて、これはなかなか示唆的な文言です。

また、哲学領域で近年進行しているかに見える、「理論的なもの」への熱量の減衰についての議論も示唆的です。著者は「理論的な知はその内と外のスイッチを可能にする回転扉としてしか機能していない」としつつ、その上で、「理論が構築される現場には(中略)具体的な手触り、その時間の厚み、そのサイズ感も同時に刻まれているはず」、「理論に固有の具体性があるはず」だと述べています。

つまり、もとになっている具体性にまで降りていって、理論を見直すことを推奨しているようなのですね(このあたり、昨年大いに共感した『庭の話』に通じる部分もあります)。その可能性を開く事例として、ラトゥールのアクターネットワーク理論による諸理論の組み換えが挙げられています。オリゴプティコン(ごく限られた視野しか与えないもの、つまりなんらかのエージェントが、特定の文脈に置かれることで、広範囲のトレースを可能にするということですね)がもたらす新たな風景でもって、事象を捉え直すこと。これが、議論の内実を取り戻すための、解答の一端ということになる……のでしょうか。このあたり、もっと具体的な実践として考えてみたいところではありますね。

組み入れられた戦争

ピエール・クラストルの『暴力の考古学:未開社会における戦争』(毬藻充訳、平凡社、2026)を読了しました。これ、以前は現代企画室から出ていたものですね。
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扱っているテーマは、副題にあるように、未開社会において戦争というものがどう位置づけられているかです。戦争を攻撃的本能(狩猟に結びついた)の発露に還元しようとする見識(ルロワ・グーランなど)や、経済活動(貧困のなかで生き残るための)に結びつける解釈を、論理的に退け、次いで戦争を交易(交換)の延長上に位置づけるレヴィ=ストロースの議論が批判されています。そのあたりの批判は、とくに力を入れている感じです。

クラストル自身の立場はというと、未開社会の戦争は、あくまで防衛のためのものとして、社会の構成・存続に一役買っているというものです。未開社会は多数の共同体がそれぞれ分散する形になっていて、それぞれが相互に侵犯しないように配慮しているというのですね。共同体には、分化(分かれてほかの体制になっていくこと:他の社会への権力の移譲なども含まれます)に抵抗する保守主義が基本的にあり、社会を維持するために「敵」が必要とされるのだ、戦争は「永続」するものとして構造化されているのだ、と。

その意味で、未開社会は、国家としての統一などにも敵対し拒否するとされています。外的な法とか、服従とかを受け入れられないというのですが、現実問題として、いったん国家ができてしまうと、もうもとの社会には戻れず、圧倒的なかたちでそこへの服従が生じてしまいます。そのようなプロセスのなかで、未開社会がみずからに組み込んでいた戦争は、どのような扱いになっていくのでしょうか。さらに、国家もまたスケール感こそ違うものの、戦争をどこか構造的に内部に取り込んでいるようにも映ります。社会に組み込まれていた戦争は、骨抜きにならずに、国家の戦争に吸い上げられて存続していくのでしょうか。同書では触れられないそのあたりの問題を、どう考えればよいのかが、とても気になるところです。

顔役というキャラ

少し前に取り上げた『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』では、なんといってもルイス・クー演じる「顔役」が、存在感といい佇まいといい、他に圧勝していたと思うのですが、こういう、局所的な集団・コミュニティにおける顔役というキャラは、アクション系の作品に限らず、作品を締める重要な要素だという気がします。そのことを改めて感じさせたのが、少し前に配信で観た『ワン・バトル・アフター・アナザー』(ポール=トーマス・アンダーソン監督作品)での、ベニチオ・デル・トロでした。
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デル・トロが演じたのは、ディカプリオ演じる主人公の娘が通う、空手の道場の先生なのですが、同時にメキシコ系移民(だったかな?)を助ける、コミュニティの顔役でもありました。ディカプリオを難局から救う重要キャラでもあります。ショーン・ペン率いる機動隊が、移民らのたむろする場所に乗り込んできたときに、あたりの全員を実に手際よく逃げさせるくだりとかが、なんともカッコいいんですよねえ。

現実世界でこういう「顔役」がいたら、悪いこともいろいろしている犯罪者かもしれませんけれど、映画の中、あるいはもっと広い意味での「物語」の中では、そのあたりは捨象され、ときにはトリックスター的な性格を付されたりして、筋の運びを生き生きと展開していったりします。多くの作品において、そうしたキャラは必要とされるような気がします。物語論的に綿密に分析したことはないですが、理論的・作品構造的にもしっかりと位置づけられるはずです。

そういえば、アカデミー賞のノミネート数で、上の『ワン・バトル……』をも凌駕してしまった『罪人たち』(ライアン・クーグラー監督作品)でも、そういうキャラがいました。それはウンミ・モサク演じるシャーマン的登場人物、アニー(ブードゥーの施術者・ハーバリスト)ですね。
https://www.imdb.com/title/tt31193180/

現地のコミュニティで信頼が寄せられていることを感じさせるほか、異常な事態が吸血鬼に関係していることをいち早く見抜いたり、対策を助言したりして、筋の展開に大いに関わっています。あまり目立たない存在であっても、こういうのは作品上、とても重要だと思われます。

ニヒリズムを超えていくために

少し前に、熊野純彦『サルトル:全世界を獲得するために』(講談社、2022)を読みました。サルトルの『存在と無』を中心とした解説本です。サルトルは学生のころに読んだきりで、結構忘れていましたが、少しだけ懐かしく(苦笑)思い出したりしました。が、しかし……。
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サルトルのわかりにくさは、一つには、その独特(当時はそう感じられました)の言い回しの妙のせいだと思われます。例えば、カフェで不在の人物を想起するような場面で、その人がいた過去と、いない現在が断絶していることを、サルトルは「切断面」とか呼んだりします。でも、切断面なんて言われると、逆にその主観的判断はどういう空間的位相(トポス)を考えていて、なにゆえに「面」だと言っているのかがわかりません。さらにその過去と現在の違いを、「時間の裂傷」などと言ったりもしますが、ではなぜそれは「傷」なのか。このあたりも漠然としていたように思います。

「存在の表面における無の煌めき」などの表現も同様です。外部に存在するもの(即自)を認識する主観が、外部にではなく存在する「自己」(つまり対自)をも同時に、かつ前提として、非定立的に認識していなければならないとしても、そのことを単純に「無」だとか「無の煌めき」だとか呼ぶのは、そもそもあまり意味をなさないのではないか、という疑問もあります。

また、そこから「対自に絡みついている無」を「対自の自由そのもの」とみなし(これもよくわからないのですが)、ゆえに「存在者をすべて無にできる」(存在者についての懐疑を徹底できる)とするあたりなどは、対自が含み持っている非定立の自己認識の話からはもはや逸れてしまっている印象しかないのですよね……。さらにその上で、その自由をもとに状況を、世界を選びとれと言われてもなあ……。やはりちょっとサルトルは個人的に合わない感じが濃厚です(苦笑)。

……そんなことを改めて解説本の読後感としてもったのですが(サルトルの著作を読んだあとも、似たようなモヤモヤが残ったのを思い出します)、この「無」についての話は、その後に江川隆男『哲学は何ではないのか:差異のエチカ』(ちくま新書、2025)を読んで、少しクリアになりました。これは小著ながら、とても刺激的な良書と感じられました。
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西洋哲学の全体は、これまで「同一性」を中心に形成されてきて、そちらを特権化し差異を劣ったものとみなしてきたとする著者は、同書で静かに、その転換を訴えています。同一性(実体)は事物の本質とされ、位階序列の上位をなし、二元論的・二項対立的を煽り、差異をなすものを貶め、排除してきたというわけです。差異とされるものを否定するニヒリズムの思考、ですね。これはプラトンのイデア論の図式です。ホワイトヘッドが言ったという、西洋哲学はプラトンの注解にすぎないという言葉が、何度か繰り返し引用されています。

しかし、一方でそうしたスタンスが、あまりにも多くの軋轢や社会問題を結実させている現実があり、ゆえに同一性中心の哲学を転換する途、別の道筋を探らなくてはならない、と同書は訴えます。それが差異を肯定する反・哲学の途だというわけです。

同一性を中心に考える場合、主観の認識対象としての実体が措定され、その周りに様態が、あるいは偶有が付加されるというかたちになります。サルトルが「無」と表現する対自あるいは対他なども、対象の二重性(個体と一般化された事物)と主観の二重性(主観そのものと他者の中にある「私」、つまりは共同主観性)にほかならず、総じてそれが差異を否定するニヒリズムであることに変わりありません。ここで重要なのは、むしろその「実体からその中心性を奪って、逆に実体を様態のまわりで回転させること」であると著者は言います。

著者の訴える差異の哲学は、ドゥルーズから採られた思考実践であり、ドゥルーズにより解釈されたスピノザ、ニーチェなどが系譜として挙げられます。ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」、その発展形としての属性の一義性(スピノザ)、(永劫)回帰の一義性(ニーチェ)。それらを通じ、さらにその先へと進むような思考様式を鍛え上げようというのがここでの企図なのですね。二元論・二重性が消尽していくような未来、「自然が作動する配列そのもの」、「超越論から並行論への転換」、まだ現れたことのない思考様式。ユートピア的?そうかもしれませんが、たとえかすかでも、希望の光はあってほしいものです。