反照のヨーロッパ原像 – カッチャーリ

マッシモ・カッチャーリの『ヨーロッパの地理哲学』(上村忠男訳、講談社、2025)を読んでみました。「ヨーロッパ」というものが立脚している原像のようなものを、ギリシアの古典などを通じて浮かび上がらせようという、ちょっと大胆な試み(エッセイ)です。ここでの「地理哲学(ジオフィロソフィー)」というのは、どうやら地理的な諸条件との関係で浮かび上がる認識や自己意識についての学知、ということになりそうです。大胆な仮定や推論、そして該博な知識を駆使したハードなエッセイで、込み入った文体のせいもあって少し読みにくかったりもします。
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そもそもヨーロッパは、アジアという無限定なものから切り離された、制限されたものというのが、ギリシア時代からの自己認識の根底にあったのではないか。制限されているからこそ、他者とは違う自己として存立しているのではないか。さらにまた、各地のポリスがそれぞれ異なっていたように、それぞれの自己は他の自己と内的な争い(スタシス)を繰り広げ、それを通じて他とともにあることを承認してきたのではないか。そのため、そこでの平和は戦争の一時休止として捉えられていたのではないか。これがヨーロッパの原像だというのですね。

ヨーロッパはまた、オケアノスに囲まれた島としての自己規定もあっただろうといいます。故に、タラソクラティア(制海権をもつ国家の支配)こそが、支配概念の基本担っているのではないか、というのですね。支配の要となるノモス(法)もまた、各ポリスに限定的・制限的なものであらざるを得ず、無制限・無定形のノモスはありないとされます。

とはいえ、ノモスの限定性は、キリスト教時代のヨーロッパにおいて揺らいでいった、とカッチャーリは振り返ります。神がもたらしたとされる自然のノモスは、場所に限定されない無限定なノモスであり、それが場所限定のノモスに対立するようになった、と。限定的ノモスを「引っこ抜く」ことに貢献したものとして、ヘレニズム期のストア派、エピクロス派、懐疑主義などの台頭や、ローマの覇権、近代におけるモノスの脱構築などもあり、こうして「新たな結合としてのヨーロッパ」の概念が成立していく。ただ、そこでもまた、調和の不安定性が解消されることはなく、「平和を争いにつなげてしまう致命的な性格」は温存され、クザーヌスのアポリアよろしく、区別されたもの同士が互いに相手を必要としながら、区別されたものとして消えてしまうまで相互に関係しなくてはならない……。

このように、本来の多島性はかたちを変えながら、キリスト教的ヨーロッパに継承されていくのだろう、というわけです。しかしながら、キリスト教のかたちで単一の神を擁することになっても、その神(つまりは無限なものです)は到達不可能であって、それをとりまく多数の推測が存在するというかたちでした神の顕現の形式はありえません。かくしてヨーロッパの多数性・限定性の構図は温存されたままで、現代にいたるまで長い命脈を保つことになるというのが、カッチャーリの仮説であるようです。今なお、EUが総体をなしえず、多数性を維持した寄り合いのようでしかないのは、そうした原像がいまだに反照しているからなのかもしれません。

カッチャーリによれば、北アメリカなどは隣接する他の複数国家を持たず、境界や制約を海から被っていないため、外に向かおうとする視線や願望を持たず、自身のうちに向け直すという自己完結的な構図を生きているのだとか。うーん、でもそのあたりの見立てはどうなのだろうか、と疑問がないわけでもありません。またアジアに関していえば、翻って中東や東アジアの自己認識の原像はどう導き出せるだろうか、とつい考えてしまいたくもなります。

存在論から「もの」論へ:アガンベン

おお〜、これはいきなりのスマッシュヒットですね。ジョルジョ・アガンベン『最初の哲学、最後の哲学』(平凡社ライブラリー、2025)。同書は、アリストテレスの「第一哲学」が何を対象としていたのか、そしてそれが後世においてどう変転し、形而上学あるいは超越論哲学を導いて来たのか、そしてその行く末は?ということを検討した思想史的考察です。小著ですが、実に多岐にわたる文献を参照し、ポイントを手堅くまとめているので、ある種の入門テキストにもなっているかもしれません。同書をテキストに、あとは出てくる人物名や概念を教師が解説しえたら、それだけで中世思想史入門講座の出来上がり、みたいな(?)。
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第一哲学(『自然学』や『形而上学』で言及されますが)とほかの学知とでは、学の対象とされるものに一つの分割線が走っていると(表現はややちがいますが)アガンベンはみなします。それは、(1) 現実存在と、(2)存在としての存在とのあいだの分割線です。(1)は人が目にするような現実存在、(2)は「端的に」存在と言われるもの、ギリシア的には神的とされるような存在です。後者はちょっとわかりにくいわけですが、これらは後の時代の注解や西欧中世での翻訳などを経て、(1)意味作用(具体物の名)と(2)外示(代示:参照・名指しの行為自体)との分割へと変換されていく、というのが見立てです。

(1)は外部世界での実在(の可能性)を前提とした名辞、(2)は実定命題をつくるすべてのもの(トマス・アクィナス)、あるいは第一ウーシア、要は中身はあとから用意される、認識の際に先につくられるらしい心的な容れものみたいなものでしょうかね。

中世を通じて存在概念自体が力を失っていく中、(2)は「もの論」(ティオロジー)として、近世にいたるまで形而上学の対象としての命脈を維持していくとされます。存在とはなにかという問題系が、もの(res)とはなにかの問題系にシフトしていく、というのですね。形而上学はかくして、存在を欠く「或るもの」の一般学になっていくというのです。逆説的に(2)には、志向的存在として固有の存在論的地位すら与えられるのだ、と。

具体物の名や概念ですらなく、ただそれを参照する矢印、概念のまとうアウラのようなものが、抽象度の高い学知の対象になったというわけなのですが(アガンベンはそれをみずからの仮説と称していますが)、その繊細な史的過程を取っ払って眺めると、なんだかひどく空虚な話にも思えます。アガンベンはカントやハイデガーをもってしても、(1)と(2)との分割・分裂が決して埋められるに至っていないことを指摘した上で、分裂した両側を揺れ動くのみの「超越論的幻想」から身を引き、両側を考察しなおしてそれらの中間点での認識を試みることだけが、哲学を科学の名に値するものにするのだろう、としています。なんとも壮大な史的議論に、その行く末を慮る荘厳なメッセージが添えられているかのようです。

データとエピソードのバランス

このところ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』(トム・スタンデージ、服部桂訳、ハヤカワ文庫NF、2024)を読んでいました。19世紀の電信技術のあけぼのから、後続技術によって廃れるまでの通史を、エピソード豊かに詳述した好著です。
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興味深いのは、電信の発展とともに、報道や外交、物流といった既存の体制が、揺さぶられつつも適応し、新しいハイブリッドな体制をしつらえていく様子でしょうか。「インターネットが社会に与えた影響が似ている」と、著者は指摘しています。ちなみに原著は1998年刊行なのです。著者がジャーナリストで、エピソードベースで読みやすいですが、実証的なデータとかがもっと入っていたらさらに有益だったかもしれません。

その意味でちょっと良かったのが、これまた最近読んだ『立ち読みの歴史』(小林昌樹、ハヤカワ新書、2025)です。奇しくも、こちらも早川書房刊ですね。
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立ち読みが主題ですが、江戸期からの書店・雑誌店の通史になっています。立ち読みを阻止するために本屋の親父が出してくるハタキの由来などにも触れていて、興味深いエピソード満載です。時代背景やら書籍の流通の仕方など、随所に様々なデータも紹介されて、とても立体的な通史が描かれています。ところどころ、具体的な証拠やデータが入っていて、著者の実証へのこだわりのようなものが実感できます。

ゴリゴリの研究書ではない一般向けのこうした教養本は、どうしてもエピソード重視にならざるをえないのだと思いますが、やはり実証的なデータも適宜添えてほしいものだと思います。要はバランスなわけですが、これも案外難しいところなのかもしれません。

輻輳する物語たち?

再びポール・オースター。今度は新潮文庫版『写字室の旅/闇の中の男』(柴田元幸訳)をkindleで読みました。相変わらずというか、最初何がどうなっているのかわからないところから始まって、やがて複雑な、錯綜した事態が浮かび上がるという中編2作でした。
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とくに『闇の中の男』は、目覚めた男が最初は穴の中にいて、外は内戦の始まっているもう一つの米国らしいということが明らかになってくるという、なにやら今風(?)の状況ををも思わせます。その米国はどうやら9.11の同時多発テロもなかった世界なのですね。SFめいている?いやいや、ここから作品には、もう一つの時間軸が登場し、作家の老人と孫の対話が展開します。これと「もう一つの米国」の話が、交互に語られ、やがてこの対話のほうがメインになっていきます。デシーカやサタジット・レイ、小津安二郎などの映画についての話などから始まるこの対話は、この時間軸が現実世界の側にあることを、妙にビビッドに思わせるものになっています。二つの時間軸は、それぞれある種の悲劇的な事象へと向かっていきます。

思うにこれは、作家が投げかける創作世界の、もとより複数的な性格と、それらのなんらかの輻輳についての考察なのかもしれません。個人的にちょっと消化しきれていない感もありますが、とても惹きつけられる一作でした。

理念と現実の溝

このところ、文庫入りしたデリダの『アデュー:エマニュエル・レヴィナスへ』(藤本一勇訳、岩波文庫、2024)を、これまたスローテンポで読んでいました。
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イスラエルが、ガザでの非人道的な行為に出、さらに暴走を進めてイラン攻撃にまでいたってしまったこのところの情勢に鑑みるに、レヴィナスが唱えていたような無限・無条件の歓待、理念の極北であるかのような「イェルサレム」、歴史の終末的ビジョンとしての「第二のシオニズム」などとの圧倒的な分離・溝に、文字通り打ちのめされそうな気分になっているなかでの読書です。

こんな時期に読んだためか、つい現実的な情勢とのリンケージについての言及はないのかと探ってしまいます。もっとも、デリダ的にはそのような志向こそがむしろ宙吊りにされなくてはならないものなのかもしれません。理念的なシオニズムの対局としての政治的シオニズムは、凡庸なナショナリズムに傾きがちだとデリダも言います。そのうえで、「政治的なものの彼方」こそが称揚されなくてはならないと説くわけなのですが、一方で、政治的に確立される平和にも、「自然の暴力性の痕跡」が「際限なく不可避的に保存されている」とされます。純粋とされるもののなかで織りなされる不純性。なんとも重苦しい両義性です。

他である限りでのなんらかの他者が、顔の顕現のうちで、すなわち顔の退隠または訪れの家で、なんらかの仕方で「迎え入れられた」ことにならなくては、平和を語ることに意味はありません。同じもの(同者)とともにでは、平和のうちにあることになりません。(location: 1925)

そう語るデリダは、「先-根源的なプロセスなき平和」と、現代国家による政治とのあいだを媒介するルールや図式をどこに見出すべきかと問うてはいます。でもその問いへの応答として、デリダがレヴィナスから見つけてくる文言は、再び絶対的に隔たった他性を前提としたうえでの、歓待をめぐる細やかな理念の分析のほうへと立ち戻ってしまうように見えます。故意か不慮かの区別なくあらゆる殺害者をも迎え入れる避難都市(歓待を処罰に転じるような?)、現実的な法に反する法の創造、政治的なものと法的なものを哲学的な意味で超越するような正義の法、などなど。

倫理は政治と法に命令を与えます(中略)。ですが逆に、このように指定された政治的ないし法的な内容のほうは規定されないままであり、すなわち、知と一切の現前化の彼方、一切の概念や直感の可能性の彼方でつねに規定されるべきものとして残留します。その内容は、単独的に各人が引き受ける言葉と応答責任のなかで、各状況のなかで規定されるべきものであり、そのつど唯一の分析(中略)から出発して規定されるべきものです。(location: 2606)

どこか細やかさが逆にアダになって(?)、現実世界と理想・理念の分断はいっそう際立っているようにも見えますね。デリダはその溝に哲学の「沈黙」を見ているようです。しかし一方でデリダによれば、レヴィナスはユダヤ的な「選び」(選民思想の)を、ナショナリズムの誘惑から切り離すという困難な企てを行おうとしていた、ともいいます。あえて哲学の沈黙を破ってでも、「倫理から政治と法を演繹する」必要性、倫理・政治・法の関係を規定する必要性を訴えていた、というのです。

ならばデリダおよびレヴィナスにならって(というか後を追って)、ときに両義的でもあるような細やかな理念を手にしつつ、「最良」もしくは最も「悪くない」現実的な規定を、個々人がひたすら考え続けていかなくてはならない、ということになりそうです。結局はそこに帰着するのかって?いやいや、そこはほら、両者のもとに手にした理念で、少しだけ以前とは違う仕方で。