マジックリアリズム!

マジックリアリズム(魔術的リアリズム)というと、日常的世界の描写に、非日常的なものが突然フッと差し挟まれる、という例の描写ですね。ラテンアメリカ文学などで多用されていました。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』とかですね。ものや人体が突然浮遊したりする描写が代表的で、Netflixで配信していたドラマ版『百年の孤独』でも、いろいろ浮んだりしていましたね(笑)。でもまあ、マジックリアリズムってそれだけじゃないよなあ、とは思います。

今やいろいろなところで使われているらしいこの技法ですが、先日wowowオンデマンドで観たインド映画『私たちが光と想うすべて』(2024年、バヤル・カバーリヤー監督)では、「え?」と思う使われ方をしていました。これ、ちょっと斬新だったかもしれません。
https://www.imdb.com/title/tt32086077/

後半のとても重要なエピソードとして、主人公の看護師の女性が、村人が見守る中、海岸で溺れていた(?)男性を救助します。担ぎ込まれた民家の老婆は、二人が夫婦だと勘違いするのですが、その直後、二人きりになったところで、ドイツに出稼ぎに行って帰ってこない夫がその男性に乗りうつったかのように、二人は夫婦としての最後の(?)会話を交わすのです。

とっかかりは少し違和感を覚えますが、マジックリアリズムなんだろうな、と思って観ていると、なんかいいんですよね。これ。遠くにいるはずの夫に対する、女性側からの内面の吐露として、とてもいい場面設計になっていたと思います。おそるべしマジックリアリズム。可能性はまだまだ広がっていそうです。もっとも、緻密に計算した場面設計でないと、観る側が理解できなくなってしまうので、ぎりぎり紙一重のところが勝負なのかも。

プラトン的自然哲学?

大部の紙の本はもうあまり読みたくないのですが、そうも言っていられないこともあります。もはや研究とかには無縁(目がしょぼいので、大量の文書を読むのは無理)ですが、なにかこう、大きな刺激を受けたりしたときなどには、やはり扱われているおおもとの本とか、見てみたい衝動に駆られます(習性みたいなものでしょうかね?苦笑)。……というわけで、シェリング・ルネサンスに惹かれて、イアン・ハミルトン・グラントの『シェリング以後の自然哲学』(浅沼光樹訳、人文書院、2023)を読み始めてみました。まだざっと三分の一くらいです。
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グラントは同書で、シェリングの初期の著作だった『ティマイオス注解』を足がかりとし、シェリングが自然学の刷新を試みているという見立てを示すわけですが、それは一言でいうと、「プラトン的な」(プラトン主義的ではなく)自然哲学だというのですね。近代的な哲学の礎をなすとされるのはカントですが、そのおおもとはアリストテレスだとされたりもしますが、自然学に限ってはいても、その系譜をそっくり批判するのが、シェリングの自然哲学なのだというのです。

アリストテレスからカントにいたる系譜の何が問題なのかというと、そこでは有機的自然と無機的自然が分断されていて、自然学が物体論に限定されてしまっていることだといいます。彼らが扱う自然は、形相的な意味の自然にすぎず、述語付け可能な本質に過ぎない、と。あるいは、(あえてアナクロニズム的な言い方になっていますが)現象学化した自然学なのだ、というわけですね。それに対してシェリングの唱えるものは、両者を分断しない、「全」の自然学だとされています。非物体をも排除しない自然学、ということですが、それはどういったものになるのでしょうか。

どうやらそれは、『ティマイオス』でイデアの受け皿とされているコーラ(場所、器の意)をも扱う自然学、ということのようです。それはとりもなおさず、力能あるいは生成の自然学なのだ、と。質料(コーラ)とは、要するに自然がイデアに与える力能のことであり、それについての考察は、いわば質料の生成論ということになるのですね。

これ、要は、無秩序な世界から秩序がどう出現するのかという問題を、ある種、一元論的に考えるというスタンス、ということになりそうですが、気になるのは、どうもシェリングにしても、それについては成功してはいないみたい(?)、という点でしょうか。続きの部分を読んでみないとわかりませんが、考察が頓挫するなら頓挫するで、いかにしてそうなってしまうのかを、辿ってみないといけません。

最近観た秀作二本

配信で最近観たうちから、これはいいなあと思ったものを二つほど。一つは『ブラックドッグ』(グアン・フー監督作品、2024)。wowowオンデマンド(なぜか5月31日までになっています)とu-nextで配信中です。
https://www.imdb.com/title/tt28131427/

北京オリンピックが間近に迫っているという文脈の中、ゴビ砂漠の辺境の町では野犬の捕獲が大々的に行われます。そこに参加させられたムショ帰りの青年(エディ・ポン)が主人公。この青年と、群れから離れた黒い野犬(とても精悍な感じの犬です)とが、いつしか親しくなっていくというのが主筋になっています。

全体に引き気味のキャメラがとてもいいです。冒頭、砂漠の道を一台のバスが走っていくと、あたりにわらわらと野犬たちが姿を現し、そのせいかハンドルを切り損なったかのようにバスが横転してしまいます。このあたりのワンショットからして、観る側を惹きつけますね。

話は全体として、主人公が自分の人生で喪失した様々なものを、わずかづつ埋め合わせていくという感じで進んで行きます。再生の物語ですね。まるでキャメラが、少し離れたところで寄り添う感じに佇んでいる感じがしたり、主人公や野犬の、ときに静謐な佇まいと、映画的なギャグ(というか、笑わせどころというか)とが、いい塩梅に散りばめられていたりしていて、映像空間として実に秀逸です。77回のカンヌ映画祭「ある視点」部門で最優秀賞を取ったというのもうなずけます。

もう一つは、Netflixで配信されている『トレイン・ドリームズ』(クリント・ベントリー監督作品、2025)。舞台は20世紀初頭のアメリカ。森林伐採や鉄道敷設に従事する季節労働者の一生を、ジョエル・エジャトンが見事に演じています。
https://www.imdb.com/title/tt29768334/

こちらの作品もまた、喪失の重圧を静かに受け入れ、乗り越えようとする話になっています。ただこちらは、大きな悲劇に心を砕かれる様があまりに痛々しく、主人公はひたすら長い時間をかけて、自分がなしてきたことの後悔や悲しみを受け入れていくほかありません。重苦しい展開ですが、それでも友人に救われたり、娘の姿を投影した若い女性を助けたりと、いろいろなエピソードが散りばめられて、大自然の中で再び自分を見出していくという讃歌になっています。

本質と現象のあいだ

佐々木隆治『マルクス 資本論 第3巻』という一種の逐次解説本を、このところ読んでいます。マルクスの資本論は普通、商品や余剰価値についての原理・本質論が展開する第一巻がなんといっても有名すぎて、エンゲルスがまとめたという第二巻や第三巻は、結構ノーマークだったりするのではないでしょうか。個人的にもそうなのですけど(笑)(なにしろ経済方面はとりわけカジュアルな読者なので)、でもたとえばこの第三巻は、利潤率の成立などの、いかにも現実的な経済学的な話が展開するようで、その意味ではちょっと興味深いものがあります。
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まだ前半ですが、この解説本の記述は非常にとっつきやすくて好感が持てます。一貫して取り上げられているテーマは、いわゆる物象論で、本質論で成立した生産物の価値が、現実世界においていかに転倒し、市場価値、市場価格として成立するかという問題ですね。なるほど、本質論にとどまっていた理論が、現実世界のほうへと接近していくという図式になっているわけですが、とはいえ、やはり理論的考察であることは変わらず、現実の複雑な構図をそのまま扱うわけではく、あくまで抽象化された「現象」を、理論でもってまとめ上げるというスタンスになっている印象です。

本質論と現象論とを区別しているとはいうものの、たとえば同書が「マルクス均衡」と呼ぶ、商品需要と商品供給の均衡状態を、社会的な総労働の均衡的配分として見るという考え方(つまり、仮にいずれかの業種に不均衡があっても、それを解消するために業種間で労働力が移動することにより、労働の総量としては均衡が図られるということ、でしょうかね?)などは、すでにして抽象化されたモデルにすぎません。現実の問題としては、業種への嗜好性その他もろもろの要因によって、機械的に労働が社会的な均衡をなす方向に向かうとは限らないと思われます。そのモデルは、本質論よりは現実寄りの、一段下(?)の抽象レベルの事象を説明しているにすぎないのでは?

マルクスがどのあたりの現実のレベルまでを考察の対象に据えようとしていたのか、寡聞にして知らないのですが、このあたりを突き詰めていくと、なにやら本質と現象の認識をめぐる、哲学的な問題をも召喚しそうで、読む側としてもちょっと身構えてしまいそうです。

ちょうど、ナフサの問題をめぐり、政府見解が「量は足りている」としつつ、現実問題としての滞りについて「流通の目詰まり」と表現している話が、構図としては似ているかもと思ったりしました。「流通の目詰まり」というのもかなり大まかな、現実的な細やかさを捨象した表現で、この物言いのレベルで現実を語るのは、ちょっと大雑把すぎるのでは、と思いますね。政治はもっと細やかな現実にこそ対応できる・対応すべきものであってほしいのですけどねえ。

白黒+スタンダードサイズの可能性

白黒で、しかもスタンダードサイズのインディ系映画を2本、wowowオンデマンドで観ました。どちらも間接的ながら移民・難民がテーマになっている作品です。

一つは『Tatami』(2023)。イスラエルの監督(ガイ・ナッティブ)とイラン出身の女優(ザーラ・アミール)の共同監督による、ほぼ史上初の作品なのだとか。トビリシ(ジョージアの首都)で行われた柔道の世界選手権。それに出場したイラン代表の女子選手が、決勝でイスラエルと対戦しそうだとの予想により、棄権するよう自国の当局から脅されてしまいます。家族まで人質に取られてしまうのですね。同じく圧力を受けるコーチ。このコーチ役を、監督も努めたアミールが演じています(『聖地には蜘蛛が巣を張る』の主演の人ですね)。
https://www.imdb.com/title/tt26674818/

この映画、明暗をくっきり出したライティングで、白黒の画面を見事に活用しているように思えました。スタンダードサイズなのも、試合会場などの明るい被写体と、その手前の控えのドアなどの対比などにとてもよくフィットしています。緊張感のあふれる物語を、巧みなライティングと画面構成で見せているようで、サスペンスがいや増す作りです。

もう一つは『フォーチュンクッキー』(2023)。こちらは原題が地名のフリーモントになっています。アフガニスタンから来て、中華料理店向けのフォーチュンクッキーの工場で働く女性が主人公。単調な日々の繰り返しと孤独、そして描かれてはいませんが祖国脱出の壮絶な体験のせいで(?)、慢性の不眠に悩まされている主人公は、フォーチュンクッキーの占いの文章を書く作業を担当するようになります。ところがそこで、自分の電話番号を書いたことで、停滞している生活がにわかに動き出して行きます。
https://www.imdb.com/title/tt8591526/

微妙なユーモアや緩やかな展開のペースなど、初期のジャームッシュの映画のようだ、なんて前評判を聞いていましたが、どちらかというとカウリスマキの映画を彷彿とさせたり。『Tatami』とは対照的に、こちらの白黒画面とスタンダードサイズは、思いっきり人物を真ん中において、変な言い方ですが、観る側に「おいでおいで」をしているような、オープンさを感じさせます(笑)。

昔、シネマテーク・フランセーズがシャイヨ宮にあったころは、スタンダードサイズの白黒作品を壁(スクリーンなわけですが)いっぱいに大写しで写せる設備があり、前のほうの席で観ると、その没入感たるや半端ではありませんでした(iMaxとかが、そのあたりの先祖返りな感じがします)。うん、この作品はそういう感じで、大写しで観たい気がします。それって究極の贅沢という感じですけどね。いずれにしても、白黒やスタンダードサイズも、表現の多様性をもたらしうるという意味で、まだまだ捨てたものではない、ということを改めて感じたのでした。