














投稿はX、Blueskyで行っています。また、bib.deltographos.comでも順次公開しています。















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長いことジャズ系はそんなに好きではなかったのですが、この5,6年くらいでしょうか、歳とってきたせいか、「結構ハマる音楽が満載だな〜このジャンル」、と思うようになりました。ジャズと一言で言っても、史的にもいろいろあるわけで、それがまた裾野が広くて面白いんですよね。もちろん、カジュアルなリスナーです。酒場でジャズ談義で絡んでくるようなオヤジは、(話相手になるのも、目指すのも)御免こうむりたいです(笑)。
5月に開催されているクラシック系の「熱狂の日音楽祭(LFJ)」とかでも、最近はディキシーランド・ジャズ(中川ファミリーの)があれば、ほぼそれだけを目当てに行く感じです。スウィング系よりはモダンジャズ、あるいはビバップ系とかが面白いけれど、これもいろいろありすぎて、あまりこだわると迷子になりそうです。50年代・60年代とかのモード・ジャズ、フリージャズ、70年代以降のフュージョン系なども同様で、あたりまえですが全然追いきれません(苦笑)。まあ、代表作などをつまみ食いするのがせいぜいでしょう。ちなみに個人的に最近のヘビーローテはソニー・ロリンズとかだったりします。
FMの大友良英氏の番組で、少し前に「ジャズ本」を紹介する企画がありました。そこで紹介されていた一冊『世界史はジャズで踊る』(村井康司、文藝春秋、2026)を読んでみました。ジャズの成立にいたる音楽的な源流の数々について、アフリカ系の人々の翻弄の歴史とからめて紹介するという、人類学的にも読み応えのある一冊でした。冒頭にあったのですが、日本に来る以前のラフカディオ・ハーンがニューオリンズに行き、そこで「ピアノをバンジョーのように奏でる」黒人演奏家について記していたという話が、なんだかとても印象的でした。バンジョーのようにピアノを弾く、っていうのがいいですねえ。
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今年はマイルズ・デイヴィスとジョン・コルトレーンがともに生誕100年だとのことで、FMとかでも特集が組まれたりしていますが、コルトレーンよりはデイヴィスのほうに比重が偏っている感じはありますね。映画との絡みでGoogle検索かけたりすると、デイヴィスは『死刑台のエレベーター』(彼が手掛けた即興の映画音楽)とかがドドーンと表示されたりしますが、コルトレーンのほうは、本人の軌跡を追うドキュメンタリー映画のサントラが紹介されます。『チェイシング・トレーン』(2016)です。
https://music.apple.com/us/album/chasing-trane-the-john-coltrane-documentary-original/1443174849
で、なぜかついでにセロニアス・モンクのドキュメンタリー映画も合わせて紹介されたりします(笑)。こっちは『ストレート・ノー・チェイサー』(1988)です。「ストレートでくれ、割る水とかいらねえ」というタイトルがいいですね。これ、制作総指揮はクリント・イーストウッドなんですね。
https://music.apple.com/jp/album/straight-no-chaser/268557390
前回の投稿で、今ここに無内包なものとしてある「私」も、どこかリミナルなものかも、とおいうことを記しておきましたが、リミナルと言うからには、どこかに通じている途中経過的な意味合いも含まれていなくてはなりません。では、その向かう先はどこなのか。でもこれ、実はとてもシンプルな問いにすぎないのかもしれません。
そう思えたのは、高橋源一郎の『ぼくたちはどう老いるか』(朝日新聞出版、2025)に目を通したから。老いの問題を小説家がどうさばくのかと思っていたら、なんと、ある種の注釈書みたいになっていました。
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前半は哲学者の鶴見俊輔が著した『もうろく貼』(2010)についての著者のコメンタリー。あらゆる状況がいつしか肯定されていく、老いによる変化・変質を、高橋氏はダンテ『神曲』に描かれた「煉獄」のようなものとして(罪を認め、清められ、許される段階として)、「もうろく」に重ね合わせています。なかなか面白い読み方です。
後半は家族から見た、第三者視点からの「老い」ということで、吉本隆明の長女、ハルノ宵子『隆明だもの』(2023)や、有吉佐和子『恍惚の人』(1972)、私小説の作家、耕治人の短編小説、谷川俊太郎の詩などが取り上げられています。どれもが老いと死のまわりをめぐる、味わい深い考察・言及になっています。
若いうちはどこか観念的なものだったり、恐怖の対象だったりした「老い」や「死」ですが、年齢が進むにつれて、観念や恐怖としては薄らいで行くのかもしれません。そしてその無内包な自分自身が味わう、どこか振動のような、わずかな(微かな)動きこそが、愛おしいものになっていくのかもしれません。高橋源一郎はこう記しています。
ぼくが、ぼく自身の内側をいくら覗いて見ても、そこに確固たる「自分」は見当たらない。もやもや渦巻く、不定形な流動体に、ことばを投げ込む。すると、ささやかな反応がある。なにかしら意味ありげな反応が。それを、愚かにも、ぼくたちは「自分」であると思いこむのである。- location 3421
“自分の中にはなにもないとしても、自分の中が仮に空虚であったとしても、そのことに絶望せず、世界を呪わず、「役割」をまっとうせよ、と鶴見さんはいうのである。「にもかかわらず」の転調を、僕は美しいと思う。- location 3443”
日本では秋に公開ということで、空間系ホラー映画らしい『バックルームズ』に期待しています。で、これを観るための準備ということで、『リミナルスペース――新しい恐怖の美学』(Alt236、佐野ゆか訳、フィルムアート社、2025)に目を通しました。
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人の姿が見えず、どこかに至る途上の限定的な、それでいてどこまで(いつまで)続くのかわからないような移行の空間。それがリミナルスペースだというわけで、一種の「非場所」とされています。それだけに、そこに足を踏み込むことも、あるいは単にその光景を目にすることだけでも、どこか落ち着かない気分にさせられます。一種の迷子感というか。
この本は、そうしたリミナルスペースの写真集のようでもあり、どこか不穏な建築物から始まって、絵画、ネット上のアート・写真系の諸作品、ビデオゲームや映画などの画面などに次々に言及しながら、その独特で不穏な「美学」を、ある意味「体系的」に紹介していきます。うーん、いいですね。個人的にこういう絵や写真は大好きな部類です(笑)。
『バックルームズ』のもとになった動画の話なども、もちろん言及されていますが(第3章)、その後に出てくる『紙葉の家』(マーク・Z・ダニエレブスキー)という書籍の話が、個人的にはとても興味深いです。ある一家が体験する奇妙な出来事について、ある老人が書いた学術論文に、ある刺青師が注釈をほどこす……というなんともいえない入れ子構造なのだとか。もとの一家の体験する出来事というのも、家の寸法のズレを探っていくところから、家の下に巨大な空間が開かれていることを発見する、みたいな話らしく、それが迷宮のような文章で表されているのだとか。なんとも面白そうじゃないですか。そのうち手に入れたいところです。
でも、考えてみると、こうした「リミナル」な、どこへ通じてるかすぐにはわからない不安な心的イメージというのを、なにげなく読んでいる本の中にも、ときおり見出すことができるなあ、と思い至ります。というか、喚起されるというか。たとえば永井均の「哲学探求」シリーズなども、ある意味ではそういう本かもしれません。春くらいに『世界の独在論的存在構造――哲学探求2』を読んで、そこから遡って『存在と時間――哲学探求1』を読んでみたのですが、「人称と時制をめぐる無内包の内包」という議論を読むたびに、どこか薄暗い駐車場みたいな場所から、鉄パイプを組んだような階段が突き出ていて、その先に何があるのか皆目わからない、みたいなイメージが執拗に浮かんできたりしました(苦笑)。
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外側から限定することのできない「現在」や「私」といったものは、それ自体移行的な、すなわちリミナルなものと言うこともできるのかもしれません。移行的?だとするとそれはどこに向かうのでしょうね。ひたすら移行するだけで、行き着く先も定かではない、みたいな?うーん、リミナルなものの魅力であったり恐怖であったりするものは、案外そういう一人ひとつの「私」そのものに帰着するのかもしれない、なんて思えてきたりもします。
みたびピーター・ターチン本がらみですが、14世紀の歴史家ハルドゥーンについて復習しようと、以前紙の本で読みかけて積読状態になっていた森本公誠『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫、2011)を、電子本で改めて通読してみました。うん、これも名著ですね。
ハルドゥーンの思想や生涯についてまとめた論考と、主著である『歴史序説』の抄訳を合わせたものです。ここに描かれるハルドゥーン像は、実に近代的な思想を持ち合わせていた稀有な人物というふうです。
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問題の「アサビーヤ」(連帯意識)は、同書によると、もともと「イスラームに対立する部族党派心」を表す、非難の対象としての言葉だったといいますが、ハルドゥーンはこれを、社会集団がまとまる際の基礎をなすものと解釈し、それが歴史の発展をもたらす動因でもあった、と捉えるのですね。その意味で、王権の成立に際しては、アサビーヤは宗教以上に重要だとされているようです(宗教も、アサビーヤなしでは成功しない、というのです)。
この主要動因をもとに、ハルドゥーンは王朝の三世代論(ターチンは四世代論と称していましたが、いずれにせよ一〇〇年前後で一つのターンをなすという説)を唱え、またその勃興から荒廃までを五段階に分ける王朝五段階説を説いている、と。連帯意識に裏打ちされて成立する王権は、一方で人間の闘争本能から、強力な支配権でもって専制化しようとし、そうした指導者のもとに置かれた人民は、生活の破滅の危機にさらされ、結果的に専制的支配者に服従しなくなる、という一連の流れが、あらゆる政体を通じて繰り返されるというのです。
労働や富といった経済問題についても、なにやらとても近代的な論点を出してくるハルドゥーン。秘数学や錬金術、占星術などに科学的見地から批判を試みたりもしているといい、また、普遍概念に拘泥しやすい学者は政治には不向きであるといった、現実的・実利的な認識も持ち合わせていたりするようで、その多面的な思想はとても面白そうに見えますね。