『花腐し』

wowowで初夏のころに放映された映画『花腐し』(荒井晴彦監督、2023)。録画してあって忘れていたものを、ようやく観ました。松浦寿輝の原作を、斜陽のピンク映画業界に置き換えたという触れ込みでしたが、個人的には違和感などもなく、とてもシックで豊穣な作品だったように思います(以下ちょっとネタバレっぽいかも)
https://www.imdb.com/title/tt28756694/

はなくたし、という題名は、劇中で説明されますが、「春されば卯の花腐し我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも」という万葉集の歌から。卯の花を腐らせるような長雨ということで、imdbの英語タイトルもA spoiling rainとなっていますね。

長年同棲していた女性が、別の監督と心中してしまい、状況を理解しきれないまま残された主人公の映画監督が、ある古アパートから立ち退かない男と「痛飲」することになり、その不思議な一夜を通じて、彼女のことを悼んでいくという物語。相手の男はマジック・マッシュルームを栽培しているという設定で、いつの間にか、どこからが幻想・幻覚なのかがわからない摩訶不思議な世界に入っていくような感じに。あれあれ、これって幻想譚だったの?みたいな。

でもこの作品を特徴付けるのは、なんといってもヒロインの女性がカラオケの場面で歌う山口百恵の名曲「さよならの向う側」かも。本編中では歌の1番まで歌ったところで画面がカットになるのですが、エンドクレジットでもう一度、今度は2番まで含めた歌唱シーンが。そこで少しだけ粋な演出があって、ちょっと泣ける感じがします。いいですね、これ。

『プロミシング・ヤング・ウーマン』でのAngel of the morning(「夜明けの天使」)とか、『コーダあいのうた』でのBoth sides now(「青春の光と影」)とか、はたまた『シン・エヴァンゲリオン劇場版』での「Voyager 日付のない墓標」とか、このところ、昔の楽曲が新たに作品に紐付けされる例がいろいろありますが、この『花腐し』の「さよならの向う側」も、そうしたリストに加わった感じです。しばらくは、「さよならの向う側」を聴くとこの映画を思い起こさずにはいないでしょう。

世界の知覚と技芸

メルロー=ポンティ絡みで、最近出たメルロー=ポンティ論『問いが世界をつくりだす』(田村正資、青土社、2024)を読んでみました。
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同書はメルロー=ポンティの知覚論、世界認識論について、その真意を解釈しようとする論考のようですが、扱われる問題系でとくに注意を引くのは、なんといっても現象の現れと規範の問題、対象と主観のはざまの問題です。なにかの技芸に熟達した人が、弟子とかの技芸をみて「これは違う」と違和感を示すときの、その規範性はどこにあるのかという話です。感覚にはそもそも判断の要素がありませんし、言葉を伴うような合理的な判断でもありません。ではそれは何なのか、と。

同書の著者は、メルロー=ポンティをもとに、主体が何を知覚するかは、「主体の現在のタスク」「環境の在り方」「主体がもつ運動技能」で決まると記しています。さらに続けて、運動技能とはこの場合、運動を行うのに適した「世界のセッティング」を認識することだと述べています。その認識は、図と地の構図のように、背景から前景へとせり上がってくるものとされます。するとそれは、意味の出現の問題にもなり、意味の出現はもはや、生得的なものの投影か、経験により習慣的に獲得されるものかという二分法を超えたところに在る、と捉えることができます。これぞまさに、同書の副題にうたわれた「曖昧な世界の存在論」の出立なのですね。

主体が世界に開かれ、世界もまた「組み尽くしえない」ものとして現れる。なにやらこれ、ある意味「東洋的」ともいえるような知を感じさせます。これも最近読んでいるものですが、山水画論を通じてテクノロジーを再考するという野心的な試みとして、『芸術と宇宙技芸』( ユク・ホイ、伊勢康平訳、春秋社、2024)があります。
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これによると、中国の画論の伝統に、像というものは現象と印象との間にある、という議論があるのだとか。像は知覚する人から独立した現象ではなく、ある種の類似性にもとづいて知覚されるものであり、その類似性には、主体による判断が必要とされる、というわけです。現前するすべてのものは、否定的な力(地の)と肯定的な力(図の)によって成り立っている、という記述もあります。上のメルロー=ポンティ論と通底する、主体ベースの認識=存在論というところでしょうか。

そして、こちらの本では、老荘思想における「玄」が、ここに関わってきます。深遠さを意味する玄は、有と無に対する第三項として位置づけられ、著者はこの玄を包摂の関係(排他の関係)として捉えるのではなく、有と無を行き来する「再帰」の論理として理解すべきであると主張しています。

興味深いのは、この宇宙技芸(世界を認識する技法)としての山水画という論を導出するのに、著者が、シモンドンやスティグレールなどフランスの科学哲学的な伝統を盛んに引き合いに出してくる点です。その流れ(上流)の一端には、あきらかにメルロー=ポンティの姿も見え隠れしています。

掴みきれない「生命」の存在論

このところ、メルロー=ポンティの自然論を読んでいました(と言っても流し読みですけれど)。コレージュ・ド・フランス講義録『自然』というものです(La Nature : Notes, Cours du Collège de France suivi de Résumés de cours correspondants – Maurice Merleau-ponty, Seuil, 2017)。

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1956年から57年、57年から58年、58年から59年と、3年間の講義を、学生のノートとメルロー=ポンティ自身のメモなどから復元したものとのこと。1年目が詳細に復元されていますが(学生のノートの比重が高い)、2年目は別の学生のノートとメモ、3年目はメモだけからの復元になってしまうので、分量が大幅に少なくなってしまいます。

でも、本当はこの3年目の講義が、一番興味深いところかもしれません。1年目、2年目は哲学上の「自然」概念の史的変遷をたどり直すという趣旨で、デカルトからカントへの概念的継承の話が続きます。でも、最近の個人的関心からすれば、やはり、ユクスキュルの環世界やドリーシュのエンテレヒー論などの話が出てくる2年目の後半とかが、とても面白いです。そして3年目には、生命の存在論、とりわけ個体発生論に関わる、現象学的な存在論の話になっていきます。

ここが真骨頂という感じなのですが、残念ながら講義の詳細は復元されていないし、著者の言わんとするところも、どこか抽象的かつ独特な用語法で語られている印象もあって、大まかな枠組みの説明しかなく、明確にはわからないままです。

でもまあ、これは致し方ないところ。講義もここで完結したわけではないようですし、後期というか、晩年あたりのメルロー=ポンティについて、もう少し見てみたいようにも思えます。もちろん、フロイトのリビドー論への言及とか、主体と対象の「はざま」の問題とか、当時の思想的潮流の中で展開される、どこかわかりにくい記述を、今風に組み替えていくような作業も必要かもしれません。

(書影:Google booksより)

はじまりは否定

今度は初期のデリダ。少し前に邦訳で出た『思考すること、それはノンということである』の原書が、Kindleで出ているのを見かけたので、読んでみました。”Penser c’est dire non” (Seuil, 2022)です。
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本当の最初期(助手時代)の講義録(1960年から61年にかけてのソルボンヌでの講義)。のちのデリダの独特な表現はまだ確立されていないので、とてもかっちりした精緻な哲学的議論ですが、ところどころに、のちの独特な用語法や言い回しを予感させるところもあったりして、とても興味深い文章になっています。ドゥルーズなどもそうですが、デリダもまた、表現の妙味の下層には、本来的にかなり精緻な議論がかっちり組まれていそうなことが、改めてわかる気がします。

題材となっているのはアランの「考えるとはノンということ」というテーゼで、これを読み解きながら、否定性というものが、哲学の存立基盤の重要な要素をなしていることを明らかにしていきます。考えるということはそもそも、ただぼーっとしているような状態から脱することを意味するわけで、その意味では、与えられた「現在」の状況を、あるいは自分自身を、安寧に受け入れているだけ(ウイと言う)では、そこから抜け出すことはできません。「そうではない」(ノンと言う)といきり立つ契機がなければ、考えというものは成立しません。改めて認識する、意識するとは、否定から始まるというわけなのですね。

アランの場合、そこから信仰(宗教的ドグマ、あるいはドクサ)への、かなりラディカルな批判・拒絶が導かれるといいます。「信じる」ということは、すでにして自由な判断を奪われている状態であり、真理に到れるのは、そうした自由な判断があればこそです。本来的に、判断の自由こそが、真理を真理として成立させるのだ、というわけです。そしてその出発点には「否定」がある、と。

デリダはさらにそこから、否定の在りようにまで沈降して行きます(援用されるのは、現象学系の議論ですね)。というのも、いくら根底に否定・否認があろうとも、真理の正当性・価値への信頼がなければ、そもそも否認もできないからです。そうした信頼があってこそ、事実上の真理の欠如への対応として、否認が在りうるというわけなのですね。このことからデリダは、否定する当の対象というのは、実体として存在するものではなく、一つの「取り憑き」(hantise)として明滅的に在るのだ、と言います。するとここから、否定・否認は、実のところ判断に先立つもの、判断の手前の隘路、ということになります。

哲学の根本としての否認。これは今やとても重要になっているように思います。少し前ですが、とある仏教の僧侶の法話(というか雑談?)で、仏教思想にかこつけた差別論みたいなものを聞かされてしまいました。たとえ寺のような狭い空間であっても、そういうドクサ(あるいはドグマなのでしょうか)がまかり通ってしまうのは問題でしょう。こういう言論には、ふむふむと聞き入るのではなく、やはりとことん反論が必要ではないかと改めて思った次第です。

ポール・オースター初期作品から

少し前に書いたように、ポール・オースターを読み始めています。まずは初期作品から、ということで、『ガラスの街』と『幽霊たち』を読んでいました。
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どちらも、探偵小説を模した形になっているのが面白いですね。ただ、従来の探偵ものとはいろいろな意味で違っています。依頼を受けて誰かを見張ることになる探偵。でも依頼の全体像が見えず、何のために何をやっているのかがわからないという、とても不条理な状況に徐々に追い込まれていきます。いつしか探偵自身が、ある種のアイデンティティ・クライシスに陥るまでに。

それでも、読ませどころは色々あって、たとえば見張っている当の相手に、変装して接触したりするところの緊張感など、なかなかヴィヴィッドに迫ってきます。『幽霊たち』の最後の方などは、ちょっとしたハードボイルド風味だったり。

この「ジャンルもの」に寄せながらも、なにやらとても不穏な世界観、ある種の狂気すら感じさせる心理描写、淡々と繰り返されるルーチンがどこからか逸れていく横滑り感などが、重層的に展開していくあたり、なんとも不思議な魅力をたたえています。ポール・オースターおそるべし(笑)。

基本的にKindleで読んでいるのですが、初期作品(ニューヨーク三部作とされているのですね)にはもう一つ、同じような探偵ものらしい『鍵のかかった部屋』というのがあるようですが、残念ながらこれは電子書籍化されていません。というわけでちょっとおあずけです。とりあえずほかの小説へと進んでいきたいと思います。