ふたたび創作・製作奨励の本

ちょうど一年前くらいに出て、ネットなどでもちょっと話題になっていたような気がした千葉雅也『センスの哲学』。kindle unlimitedに入ったようなので、早速読んでみました。おお、これも悪くないですね。柔らかい語り口による哲学入門という感じです。最近はこういう本が多くなってきて、時代を感じさせるものがありますが、一方でゴリゴリに難解な議論をふっかけてくるようなものが無くなっていくのも、ちょっとさみしいように思います。ま、それはともかく。

同書は、「センスがいい・悪い」というときの「センス」をキーワードに、ドゥルーズ哲学のほうへ、とりわけ芸術論のほうへと接近していきます。
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著者は「センス」の基礎が、「反復」と「差異」に帰着することを示します。ドゥルーズ的なキーワード「強度」も、強弱の「リズム」と言い換えてみせます。絵画でも音楽でも、文学でもグルメでも、なんらかの文化的な作品を鑑賞する際に、鑑賞者に訴えてくるものの正体とは、実はこの「リズム」なのだ、というわけです。あらゆるものはパターンとその破れから成る、と。この破れという部分が重要で、著者はこれを「予測誤差」と捉えます。予測できる安心感と、それを覆らせる意外性、ですね。つまり偶然性がどのくらい入り込むかです。そのさじ加減で、美であったり、カント的な崇高(圧倒的な美)であったり、作品に対する鑑賞者の感じる味わいが多様化するわけですね。

この本のいいところは、そうした議論から、個々人が行う創作・製作行為をも見据えていこうとしているところです。先の「庭」の話とも通じている話ですが、鑑賞者の味わいは、そのまま裏返って、創作者の味わいにもなります。それこそがもしかしたら重要かもしれない、と。人が生きる・生きていく、そのための<根本的な必然性>ゆえにこそ、外部にはたらきかけていくための反復もまた必要になっていくのだ、と。これはAIにはなしえないことだ、と著者は言っています。そういう根本の必然性に支えられたアウトプットが、原理的にありえないからです。この断絶ゆえに、AIの先にあるとされるAGI(人間の知能に匹敵するような汎用的な人工知能)というのは、もしかしたら案外遠いものなのかもしれないなあ、とちょっと思いました(どうなるかはわかりませんけどね)。

とりあえず、個人の創作的行為(鑑賞もまたある意味そういう行為にほからないでしょう)の、この上ない賛美・推奨の書として、同書を受け止めておきたいと思います。

時代劇とストイックさ

アマプラに入った『侍タイムトリッパー』を観てみました。序盤は昔のドリフのギャグみたいな感じで少し乗れない感じでしたが、途中から俄然面白くなりました。クライマックスの「真剣勝負」は迫力満点の見事な出来ですね。
https://www.imdb.com/title/tt32277931/

作品はメタ要素を入れてコメディやSFなどとのクロスオーバーみたいな感じになっていますが、テーマとしての時代劇のありようを、殺陣という要素から考察しているような感じも悪くありません。で、なにより良いのが、主人公のストイックさでしょうか。最近の時代劇の主人公に共通するキャラ設定です。これぞまさに時代劇の王道、という風でもあります。

フランスで公開が始まって好評だという『碁盤切り』の主人公も、まさにそんな感じでした。刀を振り回すだけが時代劇ではない、というところに力点があるように思われるストーリー展開も魅力的です。囲碁の因縁の決着は、やっぱり囲碁でつけないと、みたいな。これもジャンルとしての時代劇に、その本来の面白さの本質はどこにあるのかを考察した末の、一つの回答という感じです。ちなみにこれ、imdbのデータベースでは英語題名が『Bushido』でエントリされていますね。
https://www.imdb.com/title/tt31522349/

これも最近アマプラで観ましたが、少し前の『仕掛人・藤枝梅安』(2部作)もいいですね。こちらも静謐な画面構成などが見事です。池波正太郎の原作ですが、なんともストイックな、それでいてときに荒々しい主人公を中心に、刀を振り回すだけではない新感覚時代劇という感じになっています。バディものとしての面白さもあります。とくに第2部のほうですが、刀を振り回す相手に、基本的に接近戦でなくては対応できない仕掛人がどう対応するのかが、逆に見どころになっていたりもします。
https://www.imdb.com/title/tt24076340/

考えてみると、西部劇なども近年のものほど銃撃のアクションは少なくなっているように思えます。ジャンルが深まるというのはこういうことなのかもしれませんね。より思索的・自己考察的なっていく、というか。そういう流れで新しい作品が作られていくことは、個人的にはむしろ大歓迎です。

「遠近」の歴史というアプローチ

少し前ですが、なんとはなしに読み始め、一気に面白く読めたのが、黒木朋興『ロックと悪魔』(春秋社、2024)。ヘヴィ・メタルの悪魔的なイメージが、どのような文脈で生じているのかを、まさに「遠近」の両方の歴史からアプローチしていくという、なかなか刺激的な本でした。
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「遠近」の歴史というのはつまり、長いスパンと短いスパンの歴史を交互に描いて、その両方の中に「悪魔表象」という事象を位置づけた、ということです。遠いほうはキリスト教史、近いほうはロック・ミュージックの歴史です。

著者の慧眼というか、そもそもの着眼点が良いですよね。ヘヴィメタがほぼプロテスタント系の地域に限られることを指摘し、なぜそうなっているのかを、歴史的な文脈に探っていくというアプローチです。音楽に限らず、悪魔表象は主に、プロテスタント文化の文脈から生まれているのではないか、という話です。

16世紀のトリエント公会議を境にカトリックは、悪魔への言及の度合いを小さくしていくのに対して、宗教改革を経て聖書の内面化を推し進めたプロテスタント側では、実体としての悪魔という表象の比重が高まっていくのだといいます。善悪二元論はもともと、本来一元的世界観だった初期キリスト教に、ゾロアスター教、マニ教の影響によって生じたものとされますが、それが紆余曲折を経て、プロテスタント文化の中で再び息を吹き替えしていく、というのがなんとも興味深いですね。

近い歴史でも面白いことが起きています。初期のヘヴィメタのバンドは、悪の表象を歌い上げるにしても、社会批判的にそのテーマを扱っていたといいますが、それがやがて反社会性から純粋にエンターテインメントへとシフトし、悪の表象が前面に出てくるようになって、次第にキリスト教社会(プロテスタント系)から、「悪魔的なもの」として排撃されるようになっていく、というのです。悪魔に言及し、それっぽいコスチュームでステージに上がっても、実際には敬虔なプロテスタントだったりするミュージシャンもいるのですね。個人的に、ヘヴィメタの歴史はあまり知らなかったので、社会史的にもこれはとても面白い現象だと思いました。

著者はマラルメの研究者とのことで、なるほど記述のスタイルなどは研究者風です。でも一気に読ませる文章です。幕間的なコラムも読み応えがありますね。この本自体が極上のエンターテインメントでもあるし、労作でもあります。

異世界嵌入もの

今年始めに亡くなったデヴィッド・リンチ。その追悼の意味もあって、少し前、久しぶりに『マルホランド・ドライブ』(2001)を観ました。これ、個人的にリンチの作品の中でもとりわけ好きな一本で、何度か観ています。とっつきやすさでも、一位二位を争う作品だと思っています。
https://www.imdb.com/title/tt0166924/

『ツイン・ピークス』あたりからとても顕著だったと思いますが、リンチの作品は「異世界嵌入もの」とでも言ったらよいでしょうか、作品世界の中に、その世界に対する異世界のようなものが唐突に嵌入してくる、みたいなのが多いですよね。それで作品が複雑・難解と言われてしまうわけですが、『マルホランド・ドライブ』は、その中では割とわかりやすいものになっている印象です。

こういう異世界嵌入に対して、作品内で登場人物がどう反応するかは、大まかなサブジャンル分けの指標になるかもしれませんね。登場人物がまずもってその異世界を認識するかどうかも問題です。認識し、それに対応しようとすれば、それだけでホラーなどになりえますし、認識できてもただ振り回されるだけだと、一種の不条理ものになっていきます。認識しないけれど、さしあたり目前の事態に対応するという場合、ある種のミステリーものとかに。認識せず、対応もできないという場合は、メタものや不条理ものなどいろいろな可能性がありそうです(『マルホランド・ドライブ』はここに入るでしょうか)。作り方によっては不条理を通り越して作品そのものの意義が失われそうになったりすることも(シャマランの『ハプニング』とか?)。

さて最近、国書刊行会のスタニスラフ・レム・コレクションに入っている『捜査』と『浴槽で発見された手記』の合本が、ようやく電子書籍化されたようで、さっそくkindle版を読んでみました。どちらも不条理な物語です。
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『捜査』は78年刊行の文庫本(深見弾訳)を読んだことがありますが、今回のは台詞回し(の訳)のせいか、少しわかりずらさというか不条理感が増している印象です。いずれにしても、これもまた、異世界嵌入ものという感じで、上の最後の類型(というほどのものでもないけれど)に分類されそうですが、挿話として統計的・確率論的な話、AI的な判断が人間の管理を逃れるみたいな話が先取りされていたりして、今読むとなにやら示唆的です。

庭師たれ、とその本は言い。

昨年の春くらいに、ローティとか東浩紀とか、社会体制の行き詰まりに抗するための方策として、小さな共同体を推奨する議論をいくつか目にしました。でも、ではそうした共同体があまり快適でない場合はどうするのかな、という疑問もありました。実際日本では、趣味の集まりなどもすでにしてそうですが、新たに参入するときの壁(すでにある上下関係とか、求められる儀式的な身振りとか)はそれなりに高いように思います。

ところがここで、期せずして、共同体なんていらない、個人としてなにがしかの「制作」に励むことが、体制の内破への第一歩だ、と説く本が出てきました。これは嬉しい。宇野常寛『庭の話』(講談社、2024)です。
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タイトルが地味だったこともあって、あまり期待せずに読み始めたものの、実によく練られた実践推奨の書、という感じです。プラットフォーム(大手のSNSなど)上での相互承認ばかりに始終するようになった今のネット社会。そにおいて失われている、「世界に事物に直接手でふれる」ときの手触りを取り戻すためには、では何が必要なのか。同書は、必要とされるのはネットと自然の世界のはざまに置かれるべき「庭」であり、そこでの人間的な「制作」の営みである、と主張します。

庭も制作も、もちろん比喩的なものです。人が手を加えることで自然の中から切り出され、適切に整備・維持されるものとしての「庭」は、ネットが中心となった社会環境の中に重ね合わされるとき、どのようなものとして立ち現れるのか。著者はすでに散発的に行われている自主的な試みの数々をもとに、「庭」と括ってみせたその概念の可能性を広げて行こうとしているようです。

制作もしかり。単なる消費でも浪費でもなく、それらの果てにみずから事物にふれるための実践として推奨されています。単に共同体に群がるのではない、それはある種の孤高の営みですが、それがいたるところで散発的に(場所も対象も多様なかたちで)行われていくことで、承認の欲望にのみ囚われた心性が、再び事物の方へ、事象の方へ開かれて行くのでないかという、一種の賭けです。この賭けに、個人的にはぜひ乗りたいです!