イブン=ハルドゥーン

みたびピーター・ターチン本がらみですが、14世紀の歴史家ハルドゥーンについて復習しようと、以前紙の本で読みかけて積読状態になっていた森本公誠『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫、2011)を、電子本で改めて通読してみました。うん、これも名著ですね。

ハルドゥーンの思想や生涯についてまとめた論考と、主著である『歴史序説』の抄訳を合わせたものです。ここに描かれるハルドゥーン像は、実に近代的な思想を持ち合わせていた稀有な人物というふうです。
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問題の「アサビーヤ」(連帯意識)は、同書によると、もともと「イスラームに対立する部族党派心」を表す、非難の対象としての言葉だったといいますが、ハルドゥーンはこれを、社会集団がまとまる際の基礎をなすものと解釈し、それが歴史の発展をもたらす動因でもあった、と捉えるのですね。その意味で、王権の成立に際しては、アサビーヤは宗教以上に重要だとされているようです(宗教も、アサビーヤなしでは成功しない、というのです)。

この主要動因をもとに、ハルドゥーンは王朝の三世代論(ターチンは四世代論と称していましたが、いずれにせよ一〇〇年前後で一つのターンをなすという説)を唱え、またその勃興から荒廃までを五段階に分ける王朝五段階説を説いている、と。連帯意識に裏打ちされて成立する王権は、一方で人間の闘争本能から、強力な支配権でもって専制化しようとし、そうした指導者のもとに置かれた人民は、生活の破滅の危機にさらされ、結果的に専制的支配者に服従しなくなる、という一連の流れが、あらゆる政体を通じて繰り返されるというのです。

労働や富といった経済問題についても、なにやらとても近代的な論点を出してくるハルドゥーン。秘数学や錬金術、占星術などに科学的見地から批判を試みたりもしているといい、また、普遍概念に拘泥しやすい学者は政治には不向きであるといった、現実的・実利的な認識も持ち合わせていたりするようで、その多面的な思想はとても面白そうに見えますね。

世界システム論も面白い

前回の投稿で取り上げたピーター・ターチンの本に触発されて、世界システム論についても少し見てみたくなりました。で、積読の中から、岩波の『思想』2024年4月号(1200号:特集「危機の世紀」)を引っ張り出して読んでいるところです。この中の、諫早庸一「「14世紀の危機」の語り方」がなかなかすごいですね。
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西欧史中心のウォーラー・ステインに対して、ジャネット・アブ―=ルゴドが唱えた脱西欧中心化した(中東から中国までを捉えた)世界システム論。ただそれは13世紀までの話。アブ―=ルゴドは、14世紀(とくに後半)にはそのシステムが衰退・崩壊の危機を迎えると言い、きっかけとなったのはモンゴルによる中央ユーラシアの統合と、その後の黒死病のパンデミックだったとしているのだとか。これに対して、諫早氏はその説の検証を批判的に進めて行きます。

で、この論考は、黒死病の広がり(ビッグバン)が生じたのは14世紀初頭の限られた期間であり、時期的なズレから、パンデミックがシステム崩壊の原因とは言えないと断っています。さらに、たとえばイブン・バットゥータが『大旅行記』で報告したような国際交易路の活況も、14世紀初頭までの話であって、中期の状況ではなかったとしています。では、何が13世紀までの世界的なシステムの崩壊を招いたのか。論考は、それはモンゴル帝国の解体(コアをなしていた「移動」の寸断と政体の小規模化)だと指摘します。なんと、帝国による統合ではなく、帝国の解体・衰退が主因だというのですね。

なんだかこれ、実証はなかなか無理でも、推論として、ターチンの議論と組み合わせて考えてみたいところです。解体とか崩壊とかの言い方についても、ユルゲン・パウルの言い方を紹介し、「次第に消えていく」ぐらいがいいところだろうと指摘していますね。歴史研究の示唆するところは、今更ながらとても興味深いですねえ。私たちの文明も、小説などに描かれるように一気に崩壊してディストピアになるのではなく、ゆるやかに衰退して徐々に消えていく、みたいになるのかもしれません。

数理モデルと人文知

さほど期待せずに読み始めたら、結構面白くて一気に読み通してしまったのが、ピーター・ターチン『エリート過剰生産が国家を滅ぼす』(濱野大道訳、早川書房、2024)でした。なにやら扇動的なタイトルにも思えますが、著者みずからが提唱する「歴史動力学」(クリオダイナミクス)という、数理モデルを用いた歴史研究(動態分析ですね)の一つの結論がこのタイトルだというのです。なんと、14世紀の歴史家イブン・ハルドゥーンの「アサビーヤ」(社会連帯の概念)の独自解釈が、根底にあるのだとか。
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社会の統合期と崩壊期との繰り返しの速度は、社会の中のエリート層(支配層)がどれだけ過剰生産されるのかと、相関関係にあるという見立てです。社会的なエリートが増え、組織化されているうちはいいのですが、それが集団として社会そのものに異を唱えるようになると、社会変革はもとより、はては国家の転覆までもが導かれる、というわけです。同書の主眼は最近のアメリカの社会情勢に注がれているのですが、ターチンは、出身国のロシア(ソ連時代に米国に亡命しているのですね)の事例を引いているほか、革命の成功例・失敗例としてウクライナとベラルーシの例を挙げていたりもします。

社会の不安定度の予測モデル(MPFモデル)の中核には、相対賃金(大衆の貧困化とエリートの過剰生産をもたらす)と富のポンプが置かれているといいます。ターチンは、社会的な力学のモデル化が「ほんものの人間を見失いがちになる」という欠点についても自覚しており、いくつかの典型例のショートストーリーも散りばめています。

面白いのは、その数理モデルを駆使して、大まかな未来予測にまで踏み込んでいる点でしょうか。大変革期の2020年代の後、2030年代にかけて、エリートが減り、政治的ストレスが弱まり、急進派の多くが穏健化し、結果的に社会が安定するものの、富のポンプは作動し続けるので、また次第にエリートが増えていき、そしてまた同じことが繰り返される、という図を描いています。

ターチンの数理モデルは、当然ながら、それを支えるデータがなければ始まりません。そのモデルは、歴史の専門家たちが集める膨大な知識を、客観的かつ科学的な方法で活用し、なんらかの一定のパターンや、そのバリエーションを導こうとするものだ、と説明されています。なるほどこれは、まさにガブリエル・タルドなどが提唱した、常によりいっそう細やかになっていくべき統計学、の実践例そのものと言えるかもしれません。その意味でも、これからは理数系重視だとか何とか言って、人文知を顧みようとしないなど、もってのほかですよねえ。

同名作品に注意

うーん、今回はやられました。注意していたつもりだったんですけどねえ。暑いとやっぱりボーっとしちゃうのでしょうか?

少し前にネットで『ラスト・ブレス』という映画の短評を読んで、なかなかおもしろそうだと思ったのでした。潜水夫らがトラブルに巻き込まれる話を、丁寧に描いているというような話でした。で、wowowで『ラスト・ブレス』というのを放映することを知り、夏にタイムリーだな、と思って期待していたのです。ところが……。

あれ?サメ映画なの?え?という感じで目が点になってしまいました。なんと邦題が同名の別の『ラスト・ブレス』だったのです!こちらです。
https://www.imdb.com/title/tt14827150/

原題も、このサメ映画はThe last breathで、上の潜水夫ら(ウッディ・ハレルソンとか出ているようです)のトラブル映画はLast breath。定冠詞がつかないんですね。うーむ、紛らわしい。

でもま、気を取り直してちゃんと観てみました。B級ですが、それなりに真面目に、手堅く作っている印象でした。もちろん、お約束のB級特有のアラも結構あったりしますけどね(水底が明るすぎたり、水の濁りがなさすぎたり、ボンベ捨ててからの脱出の素潜り部分が短すぎたり……などなど)。また、なんとこの作品、2023年に山でおそらく遭難して亡くなった名優ジュリアン・サンズ(実にいろいろな作品に出ていますね)の遺作でもあったのですね。その意味では、観てよかったなという作品でもありました。

でもまあ、同名作品にはちょっと注意が必要かもしれませんね。最近少し配信などのおすすめで、公開前後の作品と同名、もしくは近いタイトルの作品が表示される機会も増えています。最近笑ったのは、公開されて間もない、犬視点のホラーだという『グッドボーイ』と原題が同じ作品、『犬人間』(ノルウェーの映画)というのがあって、犬の着ぐるみを着せられた「飼い犬」が登場するという、なにやらシュールで変テコな監禁ものサスペンスなのでした。

ネット社会が奪う「余裕」?

少し前に話題になっていた、稲田豊史『本を読めなくなった人たち――コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中央公論新社、2026)を、先日ようやく読みました。若い人たちを始めとし、多数の人々が書籍を重視しなくなっている現状を、多角的に捉えた良書でした。
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コスパ・タイパ重視(やな言葉ですけどね)から、ネットですらもはやごく一部の短い文章しか消費されなくなっているらしい昨今。活字というか、文字情報は全般的に、もはや情報取得の中心を占めなくなっているという同書の指摘は、なかなか強烈です。長い文章もさることなら、行間に託された文章の機微とか、果てはオープンエンディングも、もはや人々は受け入れ難いのだ、と(あ、でもこれはわかる気がしないでもないですね)。

同書の慧眼は、それと絡めて、出版業界の諸問題、ひいては読者の問題へと切り込んでいくところでしょうか。無料抜粋がてんで販促になっていない話とか、電子書籍の問題点とか、書店の取り組みの難題とか。確かにカフェ併設の書店などで、本が売上を伸ばすようにはあまり思えません。また、生活に追われる今の学生からすれば、書籍はお金をつぎ込めるような対象ではない、というあたりの話も、確かになあと思うしかありません。全体的な経済的沈下とネット社会の一般化が余裕を奪い、その影響は、書籍販売などへのしわ寄せにもなっている、というわけなのですね。

同書に先立つ、同じ著者の『映画を早送りで観る人たち〜ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社、2022)も見てみました。こちらも相当鮮烈です。
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倍速再生の一般化を手始めに、映画や映像作品の受容・消費を変化についてまとめあげた力作。そこから浮かび上がるのは、若い人たちが置かれた、かなり特殊な、切迫し閉塞した状況です。オタク的なものに憧れつつも、膨大な視聴対象作品を前に、内容を先に知ってから(倍速で予習したりしながら)、余計なストレス(途中のサスペンスとか)をなるべく感じずに、安心して(結末を先に知ってから)消費したい、そうしないと無駄な時間を過ごすことになってしまう(無駄や失敗はとにかく避けたい)……などなど。もちろん同書も、そうした視聴者・消費者に応答する、映画・アニメ業界、評論などの関連業界の現状も絡めて、まとめ上げています。

およそ誰もが余裕を失い、手っ取り早い消費で済ませながらも、なにかに没頭している自分を称賛したい。なんだかとても悲痛な、涙ぐましい努力です。これではまるで、かつて寺山修司の本のタイトルにあった、「地球をしばらく止めてくれ、僕はゆっくり映画を見たい」の、まさに逆さまの世界のようではないですか。二つの書籍は、あくまで現状認識の書として、改善策を提案したりはしませんが、ここまで変容が進むなか、安易な対処法ではとても歯が立たないのは歴然です。