またしても物理本で(電子本が出ていないので)、『世界の独在論的存在構造』(永井均、春秋社、2018)を読んでいるところです。まだ半分ほどしか読み進んでいませんが、これはとても面白い一冊ですね。デカルトの「われ思うゆえにわれ在り」の「われ」つまり私は、厳密に考えるならば、対象化された私(の表象とか)などではありえず、私、と言いながらも、そこに具体的な対象のない、無内包のものでしかない……。いわばモナド的なもの、あるいは一人称視点を徹底したもの、というふうにしか理解できません。同書はこうした、ある意味誰もが感じていながらそうは語ってこなかった内実をあえて言語化し、それがいったい何であるのかという難問に迫っていこうとするエッセイ(試み)なのですね(こんな紹介でいいかどうかもわかりませんけれど)(苦笑)。
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その問題を考えるために、著者はいろいろな道具立てを用意しています。たとえばルイス・キャロルのパラドクス。PならばQが成立する条件で、PであるのでQである、という論理関係がある場合、最後の「Qである」を必然的にそうなると見なすのか、それとも可能性としてQでありうるのかと見なすのかで、話が変わってきてしまいます。で、必然として導かれるという話は、可能性の話につねに回収されてしまって、現実に到達できません。前者をアキレス、後者を亀とするなら、アキレスは亀を振り切って進むことができません。論理式では導けるはずのQに、現実としては至らないというパラドクス。神の存在証明の問題も、まさにここにある、というわけです。
そしてそれは唯一の現実として<私>(私という現実としての無内包のもの)についてもそうで、デカルトのようにいくら懐疑的なもの(欺く神によるもの)を取り除いていっても、最後に<私>が残るという部分(現実)は、そうした神の欺きによって欺かれることがありえない、ということになり、ひいては創造する神ですら、現実としての<私>には触れることができない、ということも導かれることに……。時間論の<現在>もまさに同じ構図になっている、と著者は力説します。
見事なまでに隘路をたどる旅です。それはなんとも刺激的で、晦渋に見える文章も、その実、たいそう共感できるものだったりします。


