昨年の秋から冬にかけて、個人的に以前関心のあった分野の二冊が文庫で刊行されました。一つはマリニウス(マーリー二ウス表記)『アストロノミカ』(竹下哲文訳、講談社学術文庫、2024)。マリ二ウス(個人的に長音表記はあまり好きでないので、こう記しますが)は、1世紀ごろのローマの詩人とされています。本作があるので、占星術師ともされていますね。占星術の基本的な事項が、韻文の詩として詠まれて いきます。占星術そのものよりも、個人的には詩としてのほかの要素がとても興味深く思われました。
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もう一つは、待望のプラトンの『ティマイオス』(土屋睦廣訳、講談社学術文庫、2024)です。西洋中世への影響力という意味では最重要のテキストなのに、これまで文庫版がなかったのが不思議でした。個人的にもこれまでなんどか通読していますが、何度読んでもわかったようなわからないような、不思議な感覚に浸ることができます(笑)。今回は、とりわけ訳者の解説が読みたくて購入しました。
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とくに前者に顕著ですが、同心円的な天空を描く天動説の世界観は、観察者の立ち位置、つまりは人間の「自己」が中心となった、世界に広がる心、みたいな構図になっています。後者においても、たとえばアトランティスの話などもそうですが、中心(四方へと航海する場所ということで、中心的です)にまつわる話が多々盛り込まれています。天が円形・球形に作られた話でも、魂が引き伸ばされ(拡張され?)て、回転運動をなすとされたり。重要なのはとにかく「中心」なのですよね。神々について語っていようとも、観察者としての人間の存在が、ほぼ中心に位置づけられ鎮座している感じです。西欧の古代世界は、このようにひたすら人間が中心の構図、まさに「自己中」なのだ、というわけでしょうか。そしてこの構図は、その後の諸世紀を経ても、たとえ地動説に移行しようが、進化論が唱えられようが、脱構築が唱えられようが、ひたすら温存されていくように思われます。
では東洋の古代世界はどうなのでしょうか。通俗的な理解では、仏教の瞑想など、自己の無化、中心の空位の思想のように言われたりすると思いますが、果たしてそれは脱中心化と言えるのでしょうか。原典(一次資料)ではありませんが(仏典などは読んだことがないので)、たとえば最近刊行された論考、エヴァン・トンプソン『仏教は科学なのかーー私が仏教徒ではない理由』(藤田一照ほか監訳、Evolving、2024)などを見ると、どうもそうではなさそうです。
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同書は、仏教モダニズム(現代世界に流布している、原理主義などをふくむ仏教の潮流)について、とくに「自分たちの宗教のみが正しい」「自分たちが説く仏教は科学と親和的だ」などとする立場を批判しています。中でも、自己の非実在という論点や、悟りとは非概念的な何かであるとする主張などが、科学的・哲学的議論に耐えるものではないことが指摘されています。どうも一元論的世界観は、二元論的な議論にさらされると、さっさと退散し引きこもるか、あるいは無理やりにでも理論武装するかになりがちで、仏教世界にあってもまた、「自己中」的な面が、かえって少なからず強靭に構造化されている印象を受けます(古代の仏教がそうだったのかどうかは知りませんが)。人間中心主義の外へと逃れることは、かくも難しい…ということなのでしょうか?