前に『アナロギアの考案』(”Inventio analogiae”)が面白かったジャン=フランソワ・クルティーヌを、久々に読んでいるところ。『存在の諸カテゴリー』(J.-F. Courtine, “Les catégories de l’être – Études de philosophie ancienne et médiéval”, PUF, 2003)。『アナロギア……』に先立つ論集。ここでもまた、οὐσίαの意味論的変遷とか、「存在のアナロギア」が導かれる前提条件としてのネオプラトニストの注解とか、言語的アプローチから哲学的な意味を引き出すという方法論が見事に冴えわたる。ウーシアに関してはボエティウスの翻訳と、さらに先立つクィンティリアヌス、アウグスティヌスの場合の意味の変遷が問題になっているし、「存在のアナロギア」説では、アップストリームに位置する初期注解者たちの偏向が問われる。アフロディシアスのアレクサンドロスやアスクレピオスらは、συνώνυμοςとὁμώνυμοςの関係性の解釈の中で、プラトンを批判するというアリストテレスの意向を文字通り反転させてしまうのだという。このあたり、なかなかに味わい深い分析が展開する。
中世の言語論とのからみで、ジョルジョ・アガンベン『言語と死』(G. Agamben, “Il linguaggio e la morte”, Piccola Biblioteca Einaudi, 2008)を読んでいるところ。もとは1982年刊。いや〜、これがまた実に面白い。まだ途中なのだけれどね。ハイデガーとヘーゲルによる「言語の外部」についての考察を追うというのがメインストリームなのだけれど、分析のための手がかりを得るべくにいったん古代・中世にまで遡及し、そこから取り出してきたある種の言語論の根底をもとに、あらためて両者にアプローチするという構成。で、その根底として、まずは修辞学的な文法の隆盛が挙げられる。これは古代以来の形而上学と密接に結びついていたといい、とりわけ重要なのが中世における代名詞の扱いで、「純粋存在」(神はそういうものだとされるわけだけれど)の形而上学の成立と代名詞の意味論的な考察とは時を同じくしているのだという。とくに指示詞、シフターとして、発話行為そのものが指示されるような場合だ。このあたりはとても示唆的(多少アガンベン独特の横滑りも感じられるけれど)。存在するものから存在への形而上学的な超越の関係は、体系的言語に対する発話行為の関係と対偶のような配置になる、という次第。