ナラティブ論は拡張できる?

アンガス・フレッシャー『世界はナラティブでできている 』(田端暁生訳、青土社、2024) を読んでみました。

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物語思考(ナラティブ思考)を、単なるフィクション論などを超えて拡張しようとする試み。物語思考とは、ストーリー、つまり時間的な把握・展開でもって、ものごとを理解しようというもの。その発現形を著者はナラティブと称しています。

従来の哲学が論理を重視するあまり、もう一つの、オルタナティブな思考様式としての「物語思考」を抹消してきたとして、同書はその「偏重」を批判します。で、物語思考は、とりもなおさず、行動のための思考、理論に対立する実践的な思考にほかならない、とぶち上げています。するとその物語思考というものは、単なる「物語」の分析や表現へのこだわりを超えて、人間が用いる一般的思考の一つへと拡大・拡張されることになる、というのですね。生きる上での思考として。

でもこれ、ある意味、カントなどが論じていた悟性や概念についての話を、焼き直しただけのようにも見えますよね。人間は絶対的なアプリオリな論理だけで生きているわけではない、時空間に展開する対象物の概念形成をもってはじめて、理性的に判断できるのだ、みたいな。

いや、まあ、でもとりあえず、物語論・ナラティブ論を、より一般的な思考へと拡大・拡張していくというのは、面白い論点ではあります。でも、やはり気になるのは、先のフィクション論の本でも触れたように、そうした物語思考が悪用されたり、横道にそれたりする現実もある、という点ですね。フェイクニュースの話もそうですし、冤罪の元とされる、司法機関などの見込み捜査とかは、その際たるものでしょう。逸脱への対応も含めて、物語思考の批判(カント的な?)が、問われる気がします。

 

システム正当化?

「自発的隷属論」から進展しているの?

先月ですが、『システム正当化理論』(ジョン・Tジョスト 北村英哉 池上知子 沼崎誠訳)を読んでみました。うーん、結論から言うと、ド・ラ・ボエシーの『自発的隷属論』から、それほど進展してはいないような気が……(苦笑)。もちろん、現代の学術的環境に合わせて、データ的な裏付けや細かい理論的仮説が加わってはいるわけで、ボエシーの印象論的な議論は補強されているということなのでしょうけれど、それにしても、そこから大きく飛躍したという印象はありません。

この議論の要は2つ。1つは、ステレオタイプ化がイデオロギー的な支えをなしているということ。もう1つは、陣営内部が上位層と下位層に分かれ、下位層がなぜか上位層を支持してしまうという構造を持っているということ。

そもそもシステム正当化は、自己正当化、集団正当化では説明できない、ある集団内の「搾取される側であるにも関わらず、搾取する側を支持してしまう現象」を説明するために出て来たものだとされます。でもそうすると、上の2つめの議論は、同語反復にすぎず、説明になっていないような気もするのですよね。

説明らしいものとしては、たとえばシステム正当化の心性は、社会の予測不可能性などの不安感を緩和するなどと論じられています。ステレオタイプがそうした心性を支えているからだ、と。でもこれも同語反復的で、あまり中身を深彫りしているようには見えません。

問題は、不安感の緩和を遥かに超えて、システム正当化は、著者も指摘するように、システム変革への機運を削いでしまうことにあります。この点については異論はありませんが、ではどうするか、という処方箋は示されないまま。システム正当化という主張への異論や反論を受け止めて見せたところで、学問上はともかく、現実的な情勢に対応できる方途が得られるわけでもなさそうです。もちろん、自己肯定感などが強まることで、システム正当化との齟齬が起きる可能性も高まる、とは言われているのですが……。

 

フィクションと現実は……

(bib.deltographos.com 2024/04/28)

ジャン=マリー・シェフェールの『なぜフィクションか』(Pourquoi la fiction, Seuil, 1999)を見ているところです(ざっと3分の2)。少し前に邦訳も出ていますが、原書のkindle版も出ていたので、とりあえずそちらで。

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冒頭はとても面白いです。フィクション(本でも映画でもゲームでも)が隆盛する現代にあってもなお、西欧世界には、プラトンに端を発する、「フィクションへの恐れ」のようなものが執拗に存続している、その正体は難なのか……そんなことをめぐって話が進んでいきます。フィクションへの恐れとはつまり、その根底にあるミメーシス(模倣)の、人を巻き込み絡め取ってしまう伝播力への警戒感です。それに乗っかるかたちで、フィクションは現実との境界を突き破ってくるのではないか、圧倒的な現前の力でもって人を騙してしまうのではないか、と人(とくに西欧の)は恐れるというわけです。

著者のシェフェールは、しかしそれは問題を取り違えている、と指摘します。フィクション(文化的な作り物としての)は現実に闖入してはこない。そのあいだには大きな理論的飛躍がある。そもそもミメーシスには、楽しみのために想像力を用いるという、ポジティブな効果もあるではないか(アリストテレスがその点を評価している、と)……。ここから、「フィクションとは、ミメーシスとはそもそも何であるか」という問題が大きく取り上げられることになります。

シェフェールはこの問題に、いわば機能主義的な一元論で取り組んでいるように思われます。ミメーシスとはつまるところ、対象となる表象の認識にほかならず、対象が虚構か現実的なものかでの、機能的な違いなどない、と考えるのですね。もちろん対象が虚構か現実かでの区分もありえないくはないわけですが、もとが一元的であると捉えるなら、その区分はあくまでも事後的な、本質とは関係のない区分形式にすぎなくなります。そのようなスタンスから、心理学や文学理論などの様々な論者の主張が検証されていきます。形式分類論みたいになっていくので、このあたりは少し退屈な気もしますが……。

とはいえ、この機能主義的な一元論は、総じてとても強力です。現実と虚構の取り違えはそもそも原理的に起こりえないということになるからです。なるほど、文化的な作品世界なら、そのような取り違えは、実際に起こらないし、原理的にも起こりえないのでしょう。それは誰もがうっすら感じていることで、そこにあえて理論的な枠を設定してみせた、というのが同書の大きな功績なのかもしれません。

でも、今やフィクションと現実との境界は、また別の次元、別の社会的文脈で混交するような事態にもなっています。ここをどう考えるのか。そのあたり、一元論に突きつけられる新たな問題ということになるのかもしれません。

 

「小さなコミュニティ」論

(bib.deltographos.com 2024/04/12)

ローティ

NHKでやっている「100分de名著」シリーズは、番組は見たことがないのですが、テキストは何冊か手に入れて読んでいます。で、最近取り上げられていたのがリチャード・ローティの『偶然・アイロニー・連帯』。エッセンスが手際よくまとめられている感じで、個人的には好印象でした。

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同テキストの著者、朱喜哲氏のまとめによると、ローティが考える哲学は、絶対的真理や本質を求める営為ではなく、偶然性に寄り添うものでしかありえない、人は己自身の記述をつねに改訂していく可能性に開かれていなくてはならない、と説くものなのですね(そういえば、『訂正可能性の哲学』でも、ローティは言及されていました)。

そしてそのための契機として、小さなコミュニティ(連帯)による会話の継続性がとても重要になると説いているのですね。大きな権力や、固着した概念などに抵抗する上で、そのような小さなコミュニティこそが、大きな武器になるかもしれない。これがローティの説く実践だ、というわけです。いいですね、これ。「小さなコミュニティ」論は、これからとても重要になりそうな印象です。

このテキスト本(または番組)を受けてか、『偶然・アイロニー・連帯』(岩波書店)そのものも結構売れていると聞きますが、とても残念なのは、Kindle版が固定レイアウトだという点です。岩波書店さんはもうちょっと考えていただきたいですよね。月刊の『世界』も、昨年末からリニューアルして電子版も出ていますが、こちらも固定レイアウトなんですよね。ちょっとそれ、安易すぎませんか。ローティ本は、できれば文庫化して(分冊でもいいので)、普通に電子書籍を作っていただきたいです。

フォンタマーラ

これも「小さなコミュニティ」論に関連するかもしれません。kindle unlimitedで出ていたので、イニャツィオ・シローネの小説、『フォンタマーラ』(齋藤ゆかり訳、光文社古典新訳文庫)を読んでみました。

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シローネを読むのは初めてです。共産党員としてファシズム政権に追われたものの、スターリンのソ連を見て失望し批判するようになって、イタリアの共産党から除名されたという異色の経歴をもつ作家です。

で、この『フォンタマーラ』ですが、題名になっている村にくらす。自称「どん百姓」たちが織りなす群像劇です。町から突然やってきた行政官たちに蹂躙され、村の水源や土地すら奪われ、赤貧の中で暮らす「どん百姓」たち。それでも彼らは毒を吐き、呪詛をなげつけながら、必死に自分たちの土地で暮らそうとします。描かれるのは貧しい人々の哀しみですが、同時にそこには、なんとも言えないおかしみ、皮肉なども込められています。その活写がすばらしい。ただひたすら悲惨なのではなく、悲惨さのなかに人間讃歌があふれている……そんな感じの作品です。小さなコミュニティでの会話は、やがて大きなうねりへと転じていく、のでしょうか。そのプロセスの端緒を、描き出しているような印象を受けます。

 

ランシエールの美学

(bib.deltographos.com 2024/04/05)

アルチュセールの弟子筋にあたるジャック・ランシエールは、一時期よく取り上げられて、名前をよく聞いていた気がします。でも、その思想内容の核となる部分については知らないままでした。カイエ・デュ・シネマなどで映画評をやっていたのも知ってはいましたが、ちゃんと読んでみたことがありませんでした。で、昨年ですが、新作らしい『アートの旅』(Les voyages de l’art, Seuil, 2023)という一冊がKindleで読めることを知り、せっかくだからと早速見てみました。

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同書は6つの小さな論考(講演など)を集めたもののようです。ランシエールは、同書を通じて次のようなアートのパラドクスを読み解こうとしているように思えます。主に19世紀以降(18世紀末から)のアートが、それまで宗教や貴族身分への奉仕であったのをやめ、アートそれ自体としての完成形を目指そうとするとき、そのアートにもともと内包されている根源的な不完全さ(アート以外の何か、あるいは完全・不完全の緊張関係、あるいは芸術がはらむ人間そのものの疎外など)を、むしろ指し示してしまう、というパラドクスです。

アートは宗教などの他のものに仕えているときですら、アートそれ自体の完成をめざす動きを伴うものだったはずなのですが、いざそうした外的なしがらみがなくなってみると、むしろアートの中にあった製作者の疎外の力学であるとか、様式への極端な拘泥であるとか、何らかの別筋の社会的なものへの奉仕にからめとられてしまうこととか、様々な縛りの要素がむき出しに出てくるようになってしまった、というわけですね。けれどもそれらの諸要素は、結局はアートそのものがもとから、「構成的に」含んでいたものであり、それらのしがらみからは容易に逃れられず、アートは、それが目指す自由との分裂関係・緊張関係に常におかれてしまうのだ、と。

そうした分断というか分裂状態を、ランシエールはヘーゲルやカントの美学、音楽や建築のアプローチ、さらに共産主義系の造形アートや政治的なものとの関連などを取り上げながら、それぞれの領域でまずは概論として示し、次いで個別の実例などを紹介しつつ描き出してみせようとします。俯瞰から個別へ、ということでしょうか。この、分断の線を引きつつ、その緊張関係の力学を語ろうとするやり方には、なにかどこかなつかしい感じすら漂います。ネットの時代になって、今こういう仕事をする人って、もうあまりいないかも、という気がします。