変わりゆく古楽

(初出:bib.deltographos.com  2023年6月20日)

明日21日は夏至の日。ヨーロッパなどでは音楽祭とかが行われたりしますね。そんな折り、ブルース・ヘインズ『古楽の終焉 HIP<歴史的知識にもとづく演奏>とはなにか』(大竹尚之訳、アルテスパブリシング、2022)を読了しました。

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著者は18世紀オーケストラなどのオーボエ奏者だそうで(2011年に亡くなっているそうです)、古楽について酸いも甘いもかみ分けてきた人という感じですね。基本的に、「古楽」というものの来し方行く末について、細やかに論じた良書です。

全体的に浮かび上がるのは、「古楽」のイデオロギー性でしょうか。対立しているロマン派や現代音楽などとの対比から、そのイデオロギー性がどう深まって現在にいたっているかの見取り図が示されています。また、それが20世紀、それもとくに後半の一時代のものにすぎない、といった相対的な見方もきっちり示されています。やがては、古楽の「運動」も古くさい一潮流として振り返られることになるのだろう、というわけですね。

著者は古楽が主に扱うバロック音楽について、それが修辞学的なものであると認識していて、そうした工夫のないピリオド楽器の奏者などには批判的です。修辞学的な技法は、そもそも楽譜には示されていないことも多いとされ、楽譜絶対主義のようなものは一蹴されています。このあたり、いろいろ面白いエピソードが満載です。

個人的に面白いなと思ったのは、たとえばスラーの扱い・解釈です。バロック期の楽譜にスラーの記号が書かれているのは、本来スラーなど用いない箇所に、あえてスラーを持ち込む必要があったからだという解釈も成り立つという話です。修辞的な伝承・伝統として、書かれたものによらないで伝えられていた技法を、楽譜にわざわざ書いたりはしなかったかもしれない、と。さらに、そもそものスラーの意味すら、現代的な楽譜とは異なっている可能性がある、と。

こうなるともはや、今月の『現代思想』が特集を組んでいる無知学じゃありませんけれど、過去の修辞的伝承はどうすれば復元できるのか、そもそも復元などできるのか、といった不知・無学の問題にぶち当たってしまいそうです。過去のことを本当に理解などできるのか、どこでどう過去の事象、歴史的事象と折り合いをつけられるのか……云々。なんとも悩ましい問題ですが、私たちはそのあたりを、堂々巡りと知りつつ、何度も行き来し吟味し続けるしかないのでしょう。ソクラテスの徳目をめぐる検討のように。

同書は70曲以上のサンプル音源が参考としてあげられていることも魅力の一つです。これはなかなか聴き応えがありますので、ぜひ。

 

「無知」再考

クセノフォン的ソクラテス

この数ヶ月というもの、光文社古典新訳文庫のクセノフォン『ソクラテスの思い出』(相澤康隆訳、2022)を、Loeb版の希語と突き合わせて読んでいました。クセノフォンのソクラテス像というのは、プラトンのものよりも、どこかしら皮肉な(キュニコス的な)強烈さが薄く、好人物な面が浮き出ているような気がします。でも、ギリシア語的には少しとっつきにくい感じです。

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このソクラテス像の違いというもの興味深いのですが、ここでは最後のほうに出てくるソクラテスの学問的姿勢に注目したいところです。邦訳から引いておきましょう。

総じて言えば、神が天空の現象のそれぞれをどのように設計しているかについて思いを巡らすような思索家となることを彼は戒めたのだった。なぜなら、それらは人間には解き明かせないことだと考えていたからであり、神々が明らかにすることをお望みでない事柄を探求する者は、彼らに気に入られはしないだろうと思っていたからである。(p.230)

また、彼は算術を学ぶことも奨励したが、ほかの科目と同じように、これについても無駄な勉強をしないように注意せよと言っていた。しかし、それが有益であるかぎりは、彼自身もあらゆる問題を仲間たちと一緒に考え、探求したのだった。(p.231)

ソクラテスがある種の事象(自然学的なものなど)について、知の対象とすることに制限・制約をかけていたらしいことがわかります。その基準は、人知が及ばない事象(神の領域に属するような)、学ぶことが無駄となるような、答えの出ないような事案、ということのようなのですが、プラトン的なソクラテスが、なんらかの対象について「知る」と吹聴する相手に議論をふっかけ(ているように見えますね)、その相手の無知・不知を引き出していくのは、決まってそうした「制限・制約」を逸脱した相手に対してだということが推察されます。

クセノフォン的なソクラテスは、本文にも出てくるように、助産婦的な役割を担い、いろいろ思い悩んだりする若者に、しかるべき忠告を与え手を差し伸べ、知を広げる手伝いをする善良な人物のイメージです(もちろん、凝り固まった相手などには、厳しく追い込んでいく姿も活写されてはいるのですが)。要するにそれは、制限・制約の手前にある対象についての話なのですね。

その制限・制約は具体的に何を指すのか、なにゆえに必要とされ(有益性と言われていますが、では有益性とは?)、それを踏み越えるとどうなるのか、といったあたりが気になります。広範に整理してみたいところですが、誰かやって論考にでもまとめてくれないかなあ(他力本願)。

「不知の自覚」とは

これにも関連しますが、ちょうど青土社の『現代思想』6月号が「無知学/アグノトロジーとはなにか」という特集を組んでいて、そこに納富信留氏が「知らないということ」という論考を寄せています。

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ソクラテスの「不知」は、そもそも相手をへし折るためになされる議論ではなく、納得のいく答えが今度こそ得られるのではないかという希望が前提にある、と納富氏は強調します。ソクラテスの不知は誤解にまみれているというのですね。

ソクラテスが対話の最初に自分は「知らない」と宣言し、対話編の最後で結局はその不知を確認するだけになっているとしても、ソクラテスは不知の自覚にとどまりつづけているのではなく(不知の知覚そのものの維持が難しい、と納富氏)、絶えざる探求を続けてはじめて、自己と知との関わりが真に見極められるのだ、とこの論考は核心部分で述べています。

ソクラテスによる「知らない」という表明は、探求初期に必要な浄化の下準備などではなく、探求の全体をつうじて最後まで基礎となる決定的な自覚であり、それのみが真に知への関わりを可能にする条件だと言えるはずである」(p.413)

とはいえ、一つ疑問なのは、ではソクラテスは弟子たち(というか、集まってくる若者たち)に、そのような過酷ともいえる探求を奨励していたのかという点です。どうもそうとは思えないふしがあります。上に示したように、弟子たちへのソクラテスの接し方は「助産婦的」なものだったとされるわけですが、そのことと不知の自覚はどう関連するのでしょうか。もちろん、思い込みによる「知の確信」を戒めていただろうことは十分考えられますが、それ以上に踏み込んだ不知の自覚への手ほどきはありえたのか云々。このあたりが、あまりクリアに見えてこないようにも思われます。プラトンとクセノフォンのソクラテス像の違いもあり、このような単純そうに見える問いでも、探求・考察の途はそう簡単ではなさそうです。

(初出:deltographos.com 2023年6月12日)

ブリュノ・デュモンの『ジャンヌ』

先月後半の第76回カンヌ映画祭の二週間、wowowでは特集として近年の受賞作を放映していました。ほとんどが2年前の第74回のもので、とりあえず、レオス・カラックスの『アネット』、ヨアキム・トリアーの『私は最悪。』、パルムドールに輝いたデュクルノーの問題作(?)『TITANE/チタン』などを観ました。うーん、どれもどこか小粒な感がいなめません。どうもこの年の傾向として、ある種の「変な」登場人物たちが、周りを巻き込んでいくという感じのものが多かった印象ですね。そういえばもう一つの問題作(?)『LAMB/ラム』も第74回の「ある視点」部門で賞を取ったのでした。

でも、それらよりも個人的に引き込まれたのは、第72回の「ある視点」部門でスペシャル・メンション(特別賞みたいなもの)を獲得した、ブリュノ・デュモン監督作品の『ジャンヌ』です。

ジャンヌ・ダルクを描く作品ですが、これはある意味すごいものを観たという気になりました。長回しの多用、独特の人物描写(動きの少ない登場人物たち、本筋とは一見関係ないかのような人物紹介を長々としていくシーケンスなど)、一風変わった場面構成(砂地で繰り広げられる会話)や独特なシーンの切り取り(戦闘シーンなどはありません)、俯瞰的な角度からのショット(それが実に効果的です)、などなど、どれも実に計算された画面です。そう、どこか昔のロベール・ブレッソンの映画を彷彿とさせます。

https://www.imdb.com/title/tt8669356/

そしてなによりも音楽!ジャンヌの心情を表すオフの声などを、歌にして流すという斬新な手法ですね。ジャンヌを演じたリズ・ルプラ・プリュドムの、どこか憂いをたたえたまなざしも、とてもいいですね。

この作品は二部構成の第二部で、第一部の幼いころのジャンヌを、このリズが演じています。第一部では後半、別の女優さんがジャンヌを演じるのですが、第二部はリズが再びジャンヌを演じるというかたちになっています。第一部のほうは、全編、複合ジャンル的(ロックからバロック、アラブ系音楽まで)音楽劇という野心的な試みになっていますが、ちょっと動きが単調というか、あまり成功している感じがしませんでした。むしろこの、心理劇的に深みの出たこの第二部こそが、すべてを補ってあまりある、という感じです。

ジャンヌ・ダルクを描いた作品は、カール・ドライヤーのものからジャック・リベットの映画、さらには活劇に特化したリュック・ベッソンものまで、いろいろ観てきましたが、このブリュノ・デュモンの一本は、まだこんなことができるのかと、とても納得した作品でした。

(初出:deltographos.com 2023年6月7日)

【書籍】ブルシット・ジョブ

資本主義の命運


 連休中に、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ——クソどうでもいい仕事の理論』(酒井隆史訳、岩波書店、2020)を読んでみました。著者はこの邦訳が出てまもなく急逝してしまいました。世の中の役に立っていないと当事者本人が蔑むような仕事、ほとんど何のためにあるのかわからないように思える仕事が、世の中にますますあふれかえるようになったのは、実は資本主義が抱える構造的なひずみ、その当然の帰結にほかならなかった、と著者グレーバーは喝破してみせます。まさに慧眼ですね。

 ひずみというのはつまり、経営者層と労働者側との圧倒的な格差にほかなりません。前者は、著者言うところの「経営封建制度」によって守られ、自由市場という幻想の裏で権力などと結託して財をなします(かつて、やはり急逝したベルナール・マリスなども、自由な市場というものはまったく存在していないのだと説いていたのを思い出します)。

 一方の後者は、中世の神学的議論を個々人に移し替えた北ヨーロッパの思想的伝統(プロテスタンティズムがその中心ですが、思想そのものはそのかなり前、中世のころからありました)ゆえにか、人は労働しなければならないという教えをたたき込まれ、多様な価値を奉じるどころか、単一の金銭的価値(労働価値)だけの奴隷のようになって、つまらない、無意味だと自身が感じる仕事に精を出すことになるという次第です。

 その両者を支えているのは、同じ資本主義経済のイデオロギー(名ばかりの効率の偏重、生産者主義から消費主義への流れなど)であり、やはり経済学の理論がそれを強化している(人間の複合的な動機を、あえて計算機械のように単純化してしまうことなど)ということになります。

 ここから抜け出す方途はあるのでしょうか。生活と労働とを切り離すための手段として、ベーシックインカムの議論を取り上げたりもしていますが、どこか懐疑的な扱いでもあるように思えます。グレーバーはあくまで、現状認識を変えるための批評として同書を著しているのだと強調しています。ここでもまた、従来のものとは別様の数量化、データ化がキーになるような気もします。ベンサムの功利主義などを、拡張するようなことはできないものかしら、などなど。

 (初出:deltographos.com 2021年5月8日)

Early Greek Philisophy VIII

第8巻はソフィスト(パート1)、ソクラテスも


 Loebの初期ギリシア哲学シリーズ。第8巻はソフィストたちのパート1。プロタゴラス、ゴルギアスといった、プラトンの対話編に登場する人々が取り上げられるほか、ソクラテスも入っています。これがちょっと興味深い点ですね。そのほかにプロディコス、トラシュマコス、ヒッピアス。

 分量的に多く割かれているのはプロタゴラスとゴルギアス。プロタゴラスといえば、やはり「人間は万物の尺度である」という発言が有名です。認識の相対性について述べている、なんて解説されますが、むしろこれは、人間あってこその事物という見方のようで、プロタゴラスは事物の流体的な面と、それを感知する感覚の移り変わりなどを強調していたのかもしれません。セクストス・エンペイリコスなどがそういう感じで解釈していますね。ゴルギアスはまさにレトリックの人という印象を与えます。

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(初出:deltographos.com 2021年10月8日)