2008年11月04日

哲学から言語を見る

中世の言語論とのからみで、ジョルジョ・アガンベン『言語と死』(G. Agamben, "Il linguaggio e la morte", Piccola Biblioteca Einaudi, 2008)を読んでいるところ。もとは1982年刊。いや〜、これがまた実に面白い。まだ途中なのだけれどね。ハイデガーとヘーゲルによる「言語の外部」についての考察を追うというのがメインストリームなのだけれど、分析のための手がかりを得るべくにいったん古代・中世にまで遡及し、そこから取り出してきたある種の言語論の根底をもとに、あらためて両者にアプローチするという構成。で、その根底として、まずは修辞学的な文法の隆盛が挙げられる。これは古代以来の形而上学と密接に結びついていたといい、とりわけ重要なのが中世における代名詞の扱いで、「純粋存在」(神はそういうものだとされるわけだけれど)の形而上学の成立と代名詞の意味論的な考察とは時を同じくしているのだという。とくに指示詞、シフターとして、発話行為そのものが指示されるような場合だ。このあたりはとても示唆的(多少アガンベン独特の横滑りも感じられるけれど)。存在するものから存在への形而上学的な超越の関係は、体系的言語に対する発話行為の関係と対偶のような配置になる、という次第。

次に指示詞のいわゆる「指示」とは何かを考えていけば、言葉を乗せる声(それは言語が有する場だ)そのものにいきつく。声は行為であり、古代からすでに意味への志向と捉えられてきた。かくしてそれは、再び形而上学の基礎へと返り咲くことにもなりうる(デリダを超えて?)。さらにまた、それはまだ意味する手前の段階として、大きな意味の裂け目を開くことにもなる……とまあ、一貫して言語の外部を考える同書は、ある意味、哲学の目線から再び言語を見直すことを促しているとも言えそうだ。その昔、記号学などが流行った当時には、ある著名な言語学者が「哲学的な存在論はしょせんBe動詞をめぐる考察にすぎない」などと勝ち誇った雄叫びを挙げていたものだけれど(苦笑)、ことはそう単純ではなく(中世などに遡及すると、そのことはよく見えてくると思う)、哲学と言語学(あるいは記号論)相互の視線の応酬がときに根底的な問題を焙り出すこともありうるわけで、そのあたり、改めて押さえておきたいところ。

投稿者 Masaki : 20:02

2008年08月27日

エーコ本から:ダンテの言語論

前にも記したが今年の夏読書の一方の本命、エーコの『ツリーから迷宮へ』。これの中盤、第7章にあたる「様式主義者とカバリストの狭間のダンテ」が短い論考ながらとても面白い。前半はダンテの言語論とされる「De vulgari eloquentia」(俗語の能弁さについて)を取り上げる。人類創成の際にアダムが語った言語は何かという問題について、ダンテはどうもそれを通常考えられていたような特定の言語(ヘブライ語の古語)とは見なさずに、一種の内在的な「言語能力」、はるか後の生成文法の祖型のようなものを考えていたのではないか、というのがそのメインの論点。ダンテの言う「forma locutionis」はそういう能力を指すのではないか、という次第。だからこそ、後世に見られたような完全言語の追求(これはエーコの別の本になっているけれど)へと向かうのではなく、むしろ当時の俗語だったイタリア語を、その内在的な言語能力の高みにまで引き上げることへと注力することになるというわけだ。そして後半、今度は『神曲』の天国編から、神の名を「I」「EL」と呼び表している点を手がかりに、ダンテが同時代のユダヤ教のカバラ主義(アブラハム・アブラフィアのもの)の影響を受けている可能性を探り、上のforma locutionisの考え方の源泉もそこにあるのではないかという話になっていく。いや〜思わず唸ってしまうような展開にほれぼれ(笑)。

さらに10章目の「ルルス、ピコ、ルルス主義について」も同じような問題系を扱っている。ライムンドゥス・ルルスのいわば「アルス・コンビナトリア」な論述技法の概略を示し、やはりアブラフィアのカバラ主義との関連を探るのだけれど、今回はむしろその影響関係は限定的であるとして、ほかの影響圏へと探りを入れていく。アウグスティヌス的なプラトン主義のほか、ラヴジョイ言うところの「大いなる存在の連鎖」、とりわけマクロビウスの影響など、複合的な影響関係が示唆されるのだけれど、いずれにしもここでも問われているのは言語をめぐるある種の思想形態。うーむ、上のダンテの言語論も、ルルスについての再考も、個人的にもこの秋以降改めて探索してみたいものだなあ、と。

投稿者 Masaki : 22:45