June 29, 2005

新プラトン主義と「視覚」の問題圏(2)

−−アルベルトゥス・マグヌスへの滞留−−

前回、その後半部分では、主に『鉱物について』をもとに、アルベルトゥス・マグヌスにおける四元素説や質料形相論の関係をさらってみた。今回はその質料形相論を再度復習・整理した上で、アルベルトゥスの視覚論の一端を見ていくことにしよう。

そもそもアルベルトゥスの「再発見」あるいは再評価には、まずもって二人の中世史家が深く関係しているようだ。一人はイタリアのブルーノ・ナルディ、もう一人はフランスのアラン・ド・リベラだ。前者は主にダンテについての研究で知られているが、アルベルトゥスについても、実証研究のいわば嚆矢とされている。それ以前、アルベルトゥスはルネサンス期に人文主義者に批判されて以来、啓蒙主義的な拒絶の対象になったり、一方のドイツの国民的高揚のために担ぎ出され称賛されたりと、思想的・政治的な偏りを被る形で取り上げられるのが常だったという(ド・リベラ『アルベルトゥス・マグヌスと哲学』("Albert le Grand et la philosophie", Vrin, 1990, pp.8-9)。それに対して、アルベルトゥスの哲学的立場、借用・系譜の関係、方法論などを含めて、歴史的文脈に置き直すという作業を初めて行ったのがナルディだとされている。ナルディの『中世哲学研究』("Studi di filosofia medievale", Edizioni di storia e litteratura, 1960)は、ダンテ、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスなど13世紀の思想家を扱った論文をまとめた論集で、それらを貫くテーマとして魂の問題が取り上げられている。もう一人の後者の方は、フランスを代表する中世史家の一人で、特にマイスター・エックハルト(アルベルトゥス・マグヌスの弟子筋にあたる)についての研究で知られている。アルベルトゥス研究についても、前者の衣鉢を継いだ形で取り組んでいるようだ。今回はまず、この二人の書籍を頼りに、「形」をめぐるアルベルトゥスの論をたどり、次いで鏡像について論じたアルベルトゥスのテキストを見ていこう。

* * *

◇形の「胚芽」

前回見たように、アルベルトゥスの『鉱物について』では、形相を与える力、つまり形成力は、物質そのものとは別ものと考えられているようだった。一方でそうした力は、質料に「天上世界から」与えられ、質料の中で持続するかのようにも語られていた。この形成力をめぐる部分はやや不明瞭で、その力がどの時点で、どこに、どのように与えられるのかはいまひとつはっきりしていない。これを、別の論を見ることによって類推的に補いたいというのがここでの主眼だ。そのために、目下の問題との関連で重要な議論をなすものと思われる「形相胚芽説(inchoatio formae)」の周辺を見ておくことにしよう。同説については、上のナルディが詳細な検討を加えている。詳細な議論には立ち入れないが、さしあたりそれがどういう説で、アルベルトゥスの中でどう組み立てられているのかという最低限の部分は押さえておきたい。

伝統的な新プラトン主義的な立場からすれば、そもそも形相は一つの実体をなすために、外部から、すなわち天上世界から質料にもたらされるとされていた。単なる受容体でしかない質料に、天から注ぎ込まれた純粋な形相が結びつき、かくして個物の形が出来上がる、という次第だ。天上世界において形成の原理をなすものが、形相付与者と呼ばれるものである。それはまた能動知性(第一知性)とも言われる。形をつくるものとは、もとを正せば、すなわち知性のことなのだ。このあたりの考え方はプロティノスの発出論に多くを負っている。不定形なる「一者」(絶対神)からまず発出する純粋な知性(ヌース)が、続いて魂(ピュシケー)を導き、次いでその下に世界の事物を創り出すというのがその図式である。形相が与えられるとは、その第一知性が光のごとくに質料を照射することだ、とも言われる。

ところが前回も見たように、アルベルトゥスの頃になると、質料はそれまでの単なる受容体にとどまらず、なんらかの力をもつものと見なされるようになり、かくして質料がもつ潜在的な力が重視されるようになる。こうして登場してくるのが形相胚芽説だ。簡単に言ってしまえば、形相はすでにして質料の中に胚芽として含まれているのであり、後はそれらが順次起動する(天の力によって)だけだ、という説である。「最初の形相は照射によって質料にもたらされるのではない。質料に創られるものとは形相ではなく形相の胚芽なのだ」とド・リベラは記している(上掲書、p.141)。この場合、創造とは、そのように胚芽として含まれている形相を現実態にすることにほかならない。アルベルトゥスはこの説を、質料と形相の共・永遠性(coaeternitas)を否定するために採用しているという。

井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫、1991-2005)によると、そうした胚芽説は、アリストテレス注釈者として名を馳せたアヴェロエス(新プラトン主義的な流れをも引き継いでいる)が、アヴィセンナの論(新プラトン主義的に、天からの形相付与を創造と見なす立場を取っている)を批判する形で展開した考え方であることを指摘している。「無からは何ものも生じない。生成が起るには必ずそこに基体がなければならぬ。そして基体としての質料には、いわば胚芽としての形相が内存しているのである」(p.356)と同書には記されている。このあたりもそのうち原典に当たって確認したい点だが、いずれにしても胚芽説がアリストテレスの系譜の線上にあることを印象づける一節だ。

ところがナルディは、形相胚芽説は当初、アラブ=ユダヤの新プラトン主義から派生させた形としてロバート・グロステストが唱えた「場」の力の考え方を指すものだったといいつつも、一方でアウグスティヌスが『創世記注解』において、種子にやどる形成力(種子的理性)の考え方に言及してることをも指摘している。それが後にトマスなどの碩学、あるいはアヴェロエス主義者らによって、質料に内在する力、質料にあらかじめ存在する不完全な「形」の芽として解釈し直されていく、というわけだ(ナルディの上掲書、pp.75-77)。13世紀に導入された「質料への力のシフト」という変化を考える上で、これは多少とも問題を投げかける論点かもしれない。質料への力のシフトを、単線的に13世紀のアリストテレス受容にのみよるものと見るのではなく、複線化した影響関係ないし系譜を考える必要があるかもしれないからだ。後でもう一度触れるが、そもそも新プラトン主義とアリストテレス解釈とのそれぞれの系譜は、様々な面で混濁したり分岐したりと様々な動きを見せているようで、中世のより早い時期から、複合的な思想的うねりを作り上げているようにも見えてくる。

◇形を導くもの

形相が励起する(こう言ってよければだが)そもそもの因は何だろうか。ナルディによると、アルベルトゥスは「質料と欠損の混合」がそれにあたると考えているという。欠損(privatio:アリストテレスでは「ステレーシス」)は、アリストテレスにおいては多少用語の意味にゆらぎがあり、否定的な意味合いで使われる一方で、形相を受け取るという質料の属性を指すものとして肯定的にも使われている、という(p.85)(余談ながらこうした欠損概念は、新プラトン主義の系譜の中にも見られる。例えばプロクロスの『神学提要』には、存在が善を求めるのは、その存在に欠落(エンデエース)があるからだ、と記されている(提題9))。アリストテレス的な意味での欠損は、質料の変化全般を導く因をなしており、質料は欠損ゆえに変化の原理そのものと化しているのだが、アルベルトゥスの場合には、質料そのものは変化の原理ではないとし、欠損は質料に結びつく別の本質であるとされる(p.87)。欠損はいわば、質料の受動的な潜在性(可能性)に加えられる「現実態に向かう性向」をなすのである。質料それ自体は可能態でしかないが、それに現動化の動きをもたらすものが、この欠損なのである(p.88)。純粋な潜在態としての質料がまずあって、現実態への性向としての欠損が加えられる。アルベルトゥスはこのように、質料の力について二段階説を取っている。そしてこの「加えられる性向」こそが、上で言う形相の胚芽そのものなのだ。

では、最初は未分化だった質料にそうした形成の原理を与えるのは何だろうか。この問題になると、アルベルトゥスは新プラトン主義的な立場に多少とも揺れ戻るように見える。形成の原理は自然の場に宿る力であり、それは天上世界から第一原因を介して注がれる流出の結果なのだ。そして質料に加えられる欠損とは、天上世界が質料に残す刻印だというのである(p.89)。第一原因は第一知性でもあり、いわばこれは知性の刻印ということにもなる。また、形相の胚芽が形相へと「成長」するためには、形成力が宿っているだけでは不十分で、そうした成長を支えるには外的な作用が必要だとし、第一原因(神)の再度の介入を想定してもいる(p.29)。ここにおいて私たちは、前回『鉱物について』で見た形成力の議論に戻ってきたといえる。形をなす力は「場」に、あるいは質料に内在する。とはいえそれは天上から与えられたものだ。そして場の潜在力は、天上世界の支援を受けて初めて現働化していく。ここで展開している思想はアリストテレス的な質料形相論と新プラトン主義の伝統的立場との、一種の折衷案にほかならない。

上の図式は基本的に無機物をめぐるもののように読めるが、これは有機物にも適用されている。有機物の特徴は、まずもってそこに魂が宿るとされることにある。ド・リベラに即して簡単にそちらもまとめておくと、まず魂についてのアリストテレスの立場、「魂は肉体の形相である」という立場を、アルベルトゥスは機能の面においてのみ受け入れ、魂の本質はむしろ知的実体なのだと考えた。肉体の形成は魂の一つの機能にすぎないのだ。しかもアルベルトゥスは、魂の内部に構成的な区分を見て取る。魂は現実態(quod est)と本質(quo est)から成り、神によって後者に存在が与えられることになって前者が得られる、というのがその図式である。この区分は構成的原理でもあり、魂が知的実体であるということをここに重ねると、現実態からは可能知性(何かになる能力)が、本質からは能動知性(創り出す能力)が導かれることになる。同一の実体の中にこうした契機が宿っている点が、アルベルトゥスのオリジナリティなのだ。例えばより新プラトン主義的であるとされるアヴィセンナの場合、能動知性は天上世界にある単一の知性(神)でしかないのに対し、アルベルトゥスにおいては、能動知性は魂の中に構成的原理として宿っているとされるのだ。能動知性はこうして個別化されるのである。ただしアルベルトゥスは、そうした能動知性(の光)が発動するためには、より豊かな光を認識する必要がある、とも考えている(ド・リベラ『ライン地方の神秘主義』("La mystique rhéane", Editions du Seuil - Points, 1994)pp.46-50)。

魂もまた、完成形(理性的・知的な性質)へと形成していくためには、内在する構成的原理だけでは足りず、やはり天上世界からの介入がなければならない。天上世界(の諸存在)はかくして二度、つまり最初の原理の刻印と、後のその発動とにおいて介入するのである。それはどのようになされるのだろうか。そのプロセスについては明示的な論及はないようだが、一つ注目されるのは、アルベルトゥスがそれを光(知性の)と称している点だ。

光は照らし出すもの、明るみに出すものとして、知性のアナロジーになっている。そのようなアナロジーとしての「光」にも、やはりプロティノス以来の流出論が関係している。この点も上掲のド・リベラ『アルベルトゥスと哲学』の中で細かく検討されている。ここでは基本的な部分だけ押さえておくと、まずプロティノスの流出論は基本的に、最高善をなす「一者」からその善性があふれ出し、順に叡智、霊魂が作られるというものだった。この一者は時に「純光」などとも呼ばれ、光の比喩は早い段階からあったもののようだ。しかもこの一者は、伝統的に形相付与者、能動知性としても言及されてきた。能動知性とはすなわち、その働きにおいて質料からその形相を引き出すもの、とされる。

ド・リベラによれば、アルベルトゥスの場合、一者(つまり神)は第一の知性、第一の原理とされ、そこから階層化された知性の体系が流出すると考えている。あたかもそれは一種の分光であり、かくしてその第一の知性の光は人間知性にまで及んでいる、とされる(ド・リベラ、上掲書、p.137)。先に見たように能動知性は人間の魂の中に個別に宿っているからだ。人間の個別的な能動知性が十全に働くには、上位の能動知性に与らなくてはならない。それはつまり上位の能動知性を「知る」ということだ。なにしろ、ここで問題になっているのは知性なのだから。分光がより大きな光源とどのような関係を結ぶのか。光・流出・知性という諸概念を、アルベルトゥスは重ね合わせているのだが、ギリシア=アラブ的な光の比喩をかなり丹念に扱っているところに、(偽)ディオニュシオス・アレオパギタ的な神の顕現に関する理論の取り込みが意図されている、とド・リベラは見ている(p.145)。ただし、そうした「光」の議論は、哲学と神学、逍遙学派と新プラトン主義の間で揺らいでいる、とも付け加えている(p.146)。いずれにしても、天上世界の介入と光の比喩の間には、知性論を挟んで、認識論的な問題が横たわっているように思われる。こうなるとアルベルトゥスがディオニュシオスの『神秘神学論』につけた注解を詳しく参照することが必要になってくる。これは次回以降に取り上げるエックハルトにも関連する話になっていくと思われるので、その際に改めて見ることにしよう。天上世界の知性の介入が光に喩えられることの意味は、回を改めて考えていくことにしよう。

* * *

◇鏡像の問題

以上、きわめて思弁的な議論を駆け足で見てきた。中世における光学や形の問題は、必ずやそうした思弁的議論に結びついているわけだが、そのあたりに深入りすると、今ここで辿っている本来の光学思想の系譜から大きく離れてしまいかねない。ここでは再び視点を変え、形がどう作られるかではなく、形がどう目に映るのかという問題を、アルベルトゥスのテクストに即して見ておきたい。取り上げるのは、『鏡に生じる形について』という小論で、これは近年、校注と詳細なモノグラフィーを合わせた労作が刊行されている(Henryk Anzlewicz, "De forma resultante in speculo -- Die theologische Relevanz des Bildbegriffs und des Speigelbidmodells in den Fruhwerken des Albertus Magnus", Teil I & II, Aschendorff Munster, 1999)。『鏡に生じる形について』はアルベルトゥスの初期の著作の一つとされ、単独の写本のほか、同じく初期のものとされる『人間について("De homine")の一部をなす形の写本もあるという。とりあえずここでは、テキストの核心部分を取り出し、結像の問題を見ておくことにする。

アルベルトゥスにとっての鏡像とは、「物体や実体ではないが、偶有性としてある何か」("aliquid, non tamen corpus vel substantia, sed accidens", 上掲書、Teil I、p.191)である。鏡像は鏡の中を動くように見えるものの、それは運動ではなく、むしろその都度生成しているのである("illa forma non movetur neque per se neque per accidens, sed semper nova generatur", p.192)(ちなみにアルベルトゥスによれば、光もまたそうなのだという)。生成に際しては、見る側の動き、鏡の動き、そして像を伝達する媒質をなす空気(の遅さや乱れなど)の3つの要因が介在し、その都度、直前の像を消しては新たな像を作り上げるのだという。鏡に映し出される(生じる)のは、あくまで形相の像(species formae)なのであり、形相そのものではない。鏡像がもつ長さや幅は、長さや幅の像(species longi et lati)なのだ(p.194)。目にできるものは、あくまで物体が纏う外観ないし備え(habitus veil dispositio)にすぎない……。このあたりの鏡像の議論は、すでに見たロジャー・ベーコンの光学理論に重なるもののように思われる。アルベルトゥスは明言していないものの、ここでの像(species)は、ベーコン的な「物体が媒質への働きかける、その作用」に近い印象を受ける。

この基本的立場でとりわけ重要な点は2つあるだろう。まずは「その都度の生成」という部分である。これを受けて思い起こされるのは、アヴェロエスの「世界は一瞬ごとに新しく創り出されている」というテーゼ(井筒俊彦の前掲書、p.355)だ。アヴェロエスの議論は、世界の創造と無始性とは矛盾しないというものである。世界の創造と時間の創造は共に行われたのであり、世界の出現の前に空虚な時間があったのではない。また、世界の創造を時間の一点に限定することは、ひいては神を時間的に限定・束縛することになってしまう……。世界の創造が過去の一点ですべて終わってしまったとするのは、神学者の誤謬なのだ……。アヴェロエスのこの論は、世界の永遠性(無始性)というアリストテレス的テーゼを、世界の創造という一神教神学と和解させる試みと解される。とはいえ一般に、西欧においては、アヴェロエス主義と称される一派を除き、そもそもそうした無始性の議論は受け入れられてこなかった、とされている。だがここで興味深い指摘がある。瀬戸一夫『時間の民族史』(勁草書房、2003)などによれば、現世が時間とともにその都度創造されていて、現在にこそ創造主の力が働いているのであって、現在の前後となる一寸先も一寸前も、いっさいは闇なのだという発想は、すでに11世紀のランフランクスなどに見ることができるのだという(同書、p.177)。こうした時間論・存在論的な思想が伝統が仮に脈々と息づいていたのだとしたらどうだろうか。表面的にはアヴェロエスを一部はねつけながらも、実は大きな思想潮流として、その思想内容の一端はすでにして受け入れられていた可能性もあるのではないか。とすれば、上で見たように能動知性が個別化したのと同じく、このような「その都度の創造」論が、いわば希釈化(個別化)した形で「その都度の生成」論に転じていた可能性もあるのではないか、と思われるのだ。創造をめぐる大きな理論が、個別的な像の議論にまで影響を及ぼしているとしても、それほど不思議なことではないのではないか。

もう一つ注目できるのは、形相とその像(species)とを区別している点だ。上の『鏡に生じる形について』の校注書第2巻で、著者のアンツレヴィッチは、アルベルトゥスが用いる「像」を意味する各種の用語を、広範なテキストをもとに解説しているが、このspeciesについても、アルベルトゥスの様々な著作に見られるそれぞれの意味を取り上げ、意味別の系譜を実に丹念に辿っている。これを見ると、かなり広範な意味があることが分かるのだが、ここでは詳しくは取り上げられない。ただ、ここでの話との関連で次の点だけメモしておこう。アンツレヴィッチは、アルベルトゥスのspecies概念が、formaやsimilitudeに近い意味で用いられている場合があると指摘し、speciesという語によって考えられているのは、「そのもの性」、形相の実体だと述べている(Teil II、p.126)。そのため、視覚などの「感覚的なものに訴えるspecies(species sensibilis)」に言及する場合には、「感覚的に捉えられた限りでの形相」のことを意味しているのだという。媒質や、魂の感覚的能力によって捉えられる形相とは、そうしたspeciesのことなのだ。言い方を変えれば、そうした形相の実体は媒質(もしくは感覚的能力)との関連においてのみ存在しうる。逆に言えば、speciesを取り出すことができるものが媒質(または感覚)なのだということになる(pp.126-127)。forma specierum(形相の像)という言い方についても、アルベルトゥスは「様々な質料に分与された形相」("formae disparate super materias diversas")と述べているという(p.129)。形相は質料と一つになって形をつくるものだが、通常、それ単独では存在しない。一方で目に見えるものは形相そのものではなく、形相の目に見える実体なのである。そしてそれは、媒質によってこそ目に見えるものとして写し取られている……。この図式もさることながら、ここでは媒質(それもまた一種の質料ではあるのだが)に像を写し取る力がある、という考え方も押さえておく必要があるだろう。これもまた、上に述べた質料形相論の、一種の「拡張」であると考えられるからだ。アルベルトゥスにあって、「質料の力」という議論は、鏡像の議論にまで及んでいるように思われる。

* * *

以上のメモからさしあたり確認できるのは、アルベルトゥスがコスモロジー的な大きな理論を、形を変えて鏡像の問題という小さな事象にまで適用していることと、それを同時代的なアリストテレス主義と新プラトン主義の織りなしによって構成していることだ。今回はアルベルトゥスのテキストそのものよりも、その代表的な研究をもとに思想内容を概観してみた。本来ならばやはり、一つづつ具体的なテキストにあたって検証すべきところだが、アルベルトゥスのテキストの広範さと、そのあまり芳しくない刊行状況・入手可能性もあって、今すぐには取り組めない作業だからである。テキストそのものへのアプローチ、ならびに上にまとめてみた諸点の確認は、将来的な課題としておくことにしよう。さしあたり、光と形象、視覚論の思想圏めぐっていくこのシリーズとしては、次回は上でも少し触れた「光」の比喩の問題を再度概観し直しながら、アルベルトゥスからその弟子筋であるマイスター・エックハルトへと接近していくことにしたい。

(Text:2005年5月〜6月)

投稿者 Masaki : June 29, 2005 10:11 PM