November 09, 2005

光に乗って−−否定神学と知性


中世思想の中の視覚と形象を追うというこのシリーズ、今回は「光」のフィギュールを中心にすえて、その基本的な系譜をざっと復習し、次いでエックハルトへと接近していくことにしよう。

◇光と闇

アリストテレスの『魂について』の有名な箇所、430aの10〜25行では、知性(ヌース)が光に喩えられている。「すべてを生み出すもの、それによってすべてが作られるものであるヌースは、ある意味で光のようである。光はなんらかの形で、色の存在の潜在態を現実態にするからだ」というのがその一節だ。この考え方はその後長きにわたり幾度となく反復されていく。知性を光に喩えることは伝統となって中世にまで受け継がれる。前回触れたように、プロティノスの発出論では、神たる「一者」は「純光」にも喩えられていた。さらに時代をくだったアルベルトゥス・マグヌスにおいては、個別の能動知性(それ自体が光に喩えられる)が発動するために天上の光が必要だ、とされていた。

アルベルトゥスの時代に流布していたアリストテレス解釈の代表格は、なんといってもアヴェロエス(イブン・ルシュド)の注解をベースにしたものである。そのアヴェロエスの注釈を見ておくと(『「魂について」中注解』("Middle commentary on Aristotle's De Anima", trans. Alfred L. Ivry, Brigham Young University Press, 2002))、彼は上の箇所を次のように言い換えている(296節、pp.116-117)。「光は潜在態だった色を顕在化させ、色を受け取るもの(透明性)を瞳孔に与える。同じように知性も、知解可能なものを顕在化させ、それを前面に浮かび上がらせる。かくして質料的知性に、知解可能なものを受け取るものが与えられるのである」。同書の校注者イヴリーの訳注を見ると、ここでの透明性とは色を受け取る潜在的な受容体のことで、光は視覚の対象物である色の能動体(作用素)と同時に受容体の方も顕在化させる、という意味であるとされている。視覚を成立させる二つの項、つまり対象物と眼との両方に光は作用し、両者を顕在化させるというのだ。知性(天の、神の知性、すなわち能動知性)もまたそれにパラレルな関係をなしていて、知解可能なものを浮かび上がらせると同時に、その知解可能なものを受け取る個々の知性(可能知性)をも活性化させるという。これぞまさに、神の介入、神の支援というわけだ。前回見たように、アルベルトゥスでは能動知性の議論はそれとは若干異なるように思われるが、とはいえ基本的な図式としては、アヴェロエスのものとそう大きく隔たっているわけでもない。まずはこの点を確認しておく。

一方、光の形象とくれば、当然思い起こされるのが偽ディオニュシオス・アレオパギタの文書だ(長い間ディオニュシオス・アレオパギタのものとされていた、逸名著者による5世紀ごろの文書。新プラトン主義を反映したキリスト教神学が展開する)。それらにおいては逆に、たとえ神的な光であろうとも、神へと遡及する際に打ち捨てるべきものなのだ、とされていたりする。例えば『神秘神学論』の1章の末尾あたりに次のような箇所がある。「なぜならそれは、あらゆる実体を越えて存在するものであり、限られた人々にのみ、ありのままに、真の姿で現れるからだ。それらの人々とは、汚れたものや純粋なものをすべて超越し、神聖なるものすべての頂点の高みへとのぼり、あらゆる神的な光や音、天上からの言葉を後に残して『暗黒』へと入る人々である。神託が述べるように、そこはすべてを越えたものが真に存在する場所である」。神の啓示を受ける者は、光や音、言葉から去って「暗黒」に入っていく、というくだりだ。この後、その一例として神の示現に臨むモーセの姿勢が挙げられている。

アルベルトゥスは『神秘神学論』についても注解を残している。この箇所をめぐる注解を見ておこう(『神秘神学注解』:ここでは仏訳"Commentaire de la <>", cerf, 1993を参照する)。アルベルトゥスは、同じく偽ディオニュシオス・アレオパギタの『天上位階論』や『神名論』にも目配せしながら、『神秘神学』が呈する諸問題に検討を加えていくわけだが、注解書の38節では、「神的は光は人間の知性による神の認識を強化するものである以上、そうした支援を捨ててはならないのではないか」との問いが発せられている(p.98)。それに対する答えは42節に記された一節、すなわち「われわれの欲望は至上の善におけるように、その恵み(光、すなわち認識の支援)に止まったりはしない」という部分に端的に表れている。神的な光は、それ自体を観想の対象としてではなく、あくまで認識を強化するための手段として拘るべきだ、というのだ。それに続く43節では、人間の知性が神に向かって高まる仕方は二つあるとされている(pp.100-101)。一つは自分自身の発見を重ねるという方法、もう一つは神の発するサイン(表徴)を神の体験として受け止める方法だ。この前者の方法において、神的な光は神への導きであると論じられている。その際の光は「ヴィジョンの完成」それ自体をなす。

アルベルトゥスの解釈では、人間の認識を導く光はあくまで手段なのであり、その完成にいたる際には、もはや要をなさないものなのだ。偽ディオニュシオスの書簡への注解(問19)においてアルベルトゥスは、その完成状態の「闇(暗黒)」についてこう述べている。「ディオニュシオスも言うように、闇は二つの仕方でもたらされる。光がないか(中略)光が過剰であるかによって」(p.167)。後者の場合、「光が強ければ強いほど、闇もまた深まっていく」。そしてこれが神の認識に重ね合わされる。「われわれの神の認識が増すほど、われわれは人知を越えたその傑出さを知り、われわれの知性が神の認識には足らないことを知るだろう」(p.168)。

もう一つ、アルベルトゥスのやや前の時代の、ロバート・グロステストによる『神秘神学論』注解も見ておこう。グロステスト(1168-1253)は英国のフランシスコ会士で、広範な著作を残している。当時の学僧にはめずらしく翻訳も手がけており、そのうちの一つに『神秘神学論』もあった。ここで参照するテキストには、翻訳と同時に注解が記されている("Mystical theology", ed. James McEvoy, Peeters, 2003)。

上の同じ一節についての注解を見よう。そこでは、「神的な光」は「理解する力を照らし出すものであり、照らされるに応じて自分自身の行動を取ることができるようになる」(p.76)と解説されている。また「暗闇」は「事実上すべてを知らない状態」であり、そこにこそ「真理があり保持されている」とされる。それに続くモーセのくだりへの注解では、今度は神的な光は二つが区別されている。まず一つは、「多彩な光(lumina vero multa)」で、これは「物質から取り出された表象によって精神に示される」もの、「純粋かつ多彩な光線を発して、人間の知性を照らし出す」(p.80)ものだ。神へと向かう登攀で捨て去るべきものはおそらくこちらだ。もう一つは、「真の、覆うもののない神的な光線(radius vere et incircumvelate)」で、それは「暗く、狭まり、閉ざされているがゆえに、別の意味で真の神秘」をなすもののの中で現れる(p.82)。暗闇とは「認識として受け取るものを排除」する場所だ。グロステストもまた、見ることを知的操作に重ね合わせていて、最初は導きを必要とするものの、究極の光に達する時には、認識はあらゆるものを閉め出すというのである。それが究極の知としての暗闇であり、神を待つための場所だとされる。

グロステストとアルベルトゥスは13世紀の二大碩学だが、その両者が偽ディオニュシオス・アレオパギタの文書にコメントし、その上で微妙なスタンスの差異を見せているというのは興味深い。後者において暗闇はすでにしてヴィジョンの完成状態であるように読める。神に向かう認識の究極の到達点だ。対するグロステストの場合、暗闇は神の真の光が現れる、いわば控えの間であるかのようだ。究極の認識はその先にあるとされるのだ。アルベルトゥスにおいては神の絶対的認識が人間知性には及ばないことに力点が置かれるのに対して、グロステストはその究極の高まりにおける「反転」の可能性に賭けている、というふうにも捉えることができるかもしれない。このあたりの違いは、もしかすると両者のアリストテレス思想の受容姿勢にも繋がる問題なのではないか、という気もしなくない。いずれもアリストテレス思想を受け止めてはいるものの、グロステストは例えばその「世界の永遠性」といったテーゼに反発していたということが知られている。いずれにしても、グロステストには『光について、または形相の端緒について(De luce seu de inchoatione formae)』といった著作もあるようなので、いずれアルベルトゥスとの比較を中心に改めて考えてみたいと思う。

◇エックハルトの方へ

さしあたり、ここでもう一人、神の絶対的認識という問題系に関わった重要人物を取り上げることにしよう。知性を活性化する「光」は、その究極の段階において排除されなくてはならない、というこのいわゆる「否定神学」の流れは、アルベルトゥスよりも後の時代の、マイスター・エックハルトにいたって、また新たな展開を見せるように思われる。そのあたりを簡単に復習しておくことにしよう。

ホフハイムのエックハルト(1260-1328)はドミニコ会士で、パリ大学で学び、後にザクセンの管区長となる。短い期間パリ大学で教鞭を執り、その後ストラスブールに赴くが、異端の嫌疑をかけられ、その裁判の最中に没してしまう。若い頃の経歴などには不明な点が多くあるということだが、主な著作は管区長時代のものとされる一般向けのドイツ語説教と、大学での教鞭を執っていた時期とされるラテン語の著作がある。いわゆる「三部作」と称されるそのラテン語著作は、その呼称とはうらはらに、聖書の注解など一部分が残るにすぎない。とはいえその思想は、「人間存在の存在論的・神学的基礎を考察し、それを内的活動の内で実現することを目指している」本質的な神秘思想だとされている(リーゼンフーパー『中世思想史』(『中世思想史原典集成・別巻』平凡社、p.205))。

ベルンハルト・ヴェルテ『マイスター・エックハルト』(大津留直訳、法政大学出版局)は、そうしたエックハルトの神秘思想を丁寧に跡づけている。それによると、エックハルトにおいてまず問題になるのは「離脱」の概念であり、「すべての色を脱しているからこそ、眼はすべての色を認識することができるのである」(『神の慰めの書』、同書による引用、p.37)といわれるように、神にいたる最高の認識にあっては、あらゆる夾雑物を廃していなくてはならないとされるのだ。冒頭のアヴェロエスの「透明」が、ここでは単なる作用を記述するものとしてではなく、認識を高めるための手段として捉え直されている。あらゆる障害が取り払われること……ヴェルテが述べるように、そうした至高の認識段階にあっては、天空の光は暗く見える。空気の混濁による光の屈折などというものがまったくない純粋な光だからだ(p.94)。ヴェルテはこうした否定神学的な思想の流れを偽ディオニュシオス・アレオパギタよりもさらに遡及できるとし、ニュッサのグレゴリウスを挙げている(p.96)。

エックハルトのそうした体系的・戦略的プログラム(離脱から神の認識へといたる道筋を示しているという意味で、まさに一つのプログラムをなしているといってよいだろう)は、光や闇など、視覚的な比喩に満ちているように思われる。では、そもそもエックハルトにとっての視覚とはどういうものだったのだろう?ヴェルテはエックハルトの注釈という形で、「見る」という出来事について、見ることと見られることが同時に成立し、両者は「唯一の出来事のそれぞれ相反する両面であるに過ぎない」(p,113)と述べている。この考え方は、ヴェルテの指摘にもあるように、知覚されるものと知覚するものの作用態(エネルゲイア)での同一というアリストテレスの議論をベースにしている。エックハルトはこれを「出来事の同一性」という形で敷衍し、主客分離の止揚(見る者、見られるものが同一であるならば、主体と客体区分自体が意味をなさなくなる)という形而上学的な問題にまで踏み込んでいく(p.119)。

しかしその同一性は、すでにして差異を導き入れる同一性として考えられている。鏡像について、エックハルトは説教の中で、像というものはその像が映し出す当のものから、手段を介さずに存在を受け取るのだ、と述べているという(p,126)。しかもその存在は、「枝が木から突き出るように」、自然に現れるのだという。鏡像は、映すという出来事において像として成立し、像が映し出されるそのもともとの存在から存在を受け取る。存在から存在がもたらされる、という意味において、これは分有(共有:participatio)の考え方に重なる。ここでもまた、個々の存在は、大もとの存在から成立する。大もとの存在が神とされていることは疑いようがない。

ここで確認しておきたいのは、エックハルトが示す分有や、存在の受け取りといった「出来事」ものが、一挙に、プロセスを経ずに成立しているのではないか、という点だ。出来事の同一性はきわめて直接的・同時的であり、そこには時間的経緯など介在してこないように見える。その点について、具体的なテキストを参照しておこう。取り上げるのはフランスで刊行されたラテン語著作集の第1巻("L'oeuvre latine de Maître Eckhart", vol 1, Les éitions du cerf, 1984)だ。これには「三部作」全体の序文のほか、「提示の書」の序文、そして『「創世記」注解』が収録されている。ここではこの『「創世記」注解』を少しだけ見ておこう。

「はじめに神は天と地を創った」という創世記の冒頭部分の注釈において、エックハルトは自然のプロセスと知的な創造とをはっきりと区別している。「自然の必然によって作用するものと、神の場合のように意思と知性で作用するものとは異なる("(...) secus est de agente necessitate naturae, secus de agente voluntario et intellectum, qualis est deus")」(10節)。その上でこの後者は、複数の事物を「瞬時に=無媒介に(immediate)」創り上げるのだ。「その単一性が複数のものを理解することを妨げないように、複数のものを瞬時に産出することも妨げない("sicut suae simplicitati non repugnat intelligere plura, ita nec producere plura immediate.")」(11節)。このように、順次進行するプロセスは自然的な必然であり、それに対する知性による創造は瞬時に行われるのだ。

さらにエックハルトは、最初の「天と地」という二分割に質料形相論を重ね合わせているように見える。特にそこでの「地」は原初の質料を意味するとされている(翻って天は形相を担うことになる)。「質料はそれ自体無定形であり、あらゆる要素の形相を欠いているが、それはあらゆるものになれる潜在態であり、それゆえにあらゆる名称が引き合いに出されるのである((...) materia in se informis est, carens forma omnium elementorum, potentia tamen ad omnes, propter quod omnium nomina sortitur, (...))」(29節)。この箇所は、創世記の2節目に出てくる、地、闇、海、風などがいずれも質料に言及しているという解釈を示した部分だ。エックハルトは、四元素はすべてここに言及されるということを強調している。特に注目されるのは原始の海(深淵)を覆う「闇」の解釈で、闇はここで四元素のうちの火を指しているのだという。「ここでは火が『闇』と呼ばれていることを指摘しなければならない。なぜなら、火はみずからの周囲を照らさないからだ。それは星の出現を意味している」。これに続く次の一節は、上の「離脱」の問題系と関連していて興味深い。「照らすものはみな視覚を妨げ、その背後にあるものを見えなくする。それが照らさない理由は、その希薄さ(質料の)にある(Lucens enim omne sistit visum et prohibet videri quae post ipsum est. Ratio autem non lucendi est sua raritas.)」(30節)。このように闇は元素の一つ「火」であり、しかもそれは照らすことのないものだとされる。

では、照らすものである光とはいかなるものと解釈されるのか。「闇が深淵の表面にあり」という『創世記』の2節目の注釈部分で、闇というのが光の欠如であることをエックハルトは明示している。「闇とは欠如である−−光の欠如が闇である。深淵のとは第一質料のことである((...) per tenebras intelligitur privatio - lucis enim privatio tenebrae sunt - per abyssum autem intelligitur materia prima, (...))」(35節)。ここから、上の29節と合わせて、光が形相であることが類推される。第一質料の上方に元素としての「火」があるわけだが(元素もまた位階をなしていることを思い起こそう)、それは潜在態としてあり、いまだ形相を欠いているのだ。

次に「光あれ、と神は言った」という箇所の注釈を見ると、そこでは御言葉そのものが光なのだということが述べられている。「神が光を生み出す前に語ったとは読めない。なぜなら、まずもって御言葉そのものが光だからだ((...) deus non legitur fuisse locutus ante lucis productionem, primo quidem, quia ipsum verbum lux est, (...))」(65節)。続いて、エペソ書5章から、「現れ出るすべてのものは光である」という句を引用している。ここでもまた、光が形相に重ねられていることを読みとることができる。光が差すところに像が浮かび上がる。それは瞬時であり、プロセスを経ることはない。潜在態は光を受けていきなり顕在化する。これがエックハルトにおける創造の捉え方であるように思われる。しかもそれは上の出来事の同一性(作用する側とされる側との、現象の同時的成立)という考え方を引き継いでいる。このあたり、アルベルトゥスにやや感じ取れる、どこかプロセス的な発想とは対照をなしているように思われる。

また、付言するならば、ここに挙げた顕在化という論点、現象の同時的な成立という議論は、冒頭で見たアヴェロエスの考え方にきわめて近いように思われる。一般に、エックハルトの思想的背景はアウグスティヌス主義の色合いが濃いとされているが、少なくとも光をめぐるテーマに関する限り、アヴェロエスの影響は存外に大きいように思われる。アルベルトゥスとの比較も含め、アヴェロエスの受容の問題は改めて考えていきたいところだ。余談ながら、E.Z.ブランとアラン・ド・リベラの共著『マイスター・エックハルト−−御言葉の形而上学と否定神学』("Maître Eckhart, Méaphysique du verbe et thélogie néative", Beauchesne Editeur, 1984)の補遺のページには、アヴィセンナ、アヴェロエス、マイモニデスなどの影響関係からエックハルトの思想を、特にその神の示現の存在論化という観点から捉えようという提言が見られる。このような広い視野に立った、より詳細な検討も興味深い課題となりそうだ。

このように、中世における同時代的な東方世界、アラブ世界からの影響関係はやはり見逃せない。すでに何度か感じたことではあるが、視覚や光の問題を眺めていくと、どうしても東方の思想圏の方へも目を向けていかざるをえない。そんなわけで、今後はこのシリーズも、西欧と東方世界とを往還するような形で、さらに様々な思想の流れを見ていきたいと思う。


(Text:2005年9月〜10月)

投稿者 Masaki : November 9, 2005 01:56 PM