2006年09月26日

No. 88

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.88 2006/09/23

------新刊情報--------------------------------
人文系の出版社が共同で行っている復刊事業「書物復権」が今年10年目を迎え
たそうで、例年以上に充実したラインアップで出してきています。中世関連で
は、カントロヴィッチ『祖国のために死ぬということ』と、マルク・ブロック
『封建社会(1)
(2)』が復刊になります。こうした復刊企画、今後もぜひ長
く続けていってほしいと思います。そのほかの中世関連の新刊は、期せずしてい
ずれも良質な入門書ですね。

『フランスの中世社会−−王と貴族たちの軌跡』
渡辺節夫著、吉川弘文館
ISBN:4642056165、1,785yen

フランス中世の王権論を概説した一冊。12、13世紀の確立期から、14、15世
紀の拡大期にいたるまでを通観しているようです。

『十二世紀ルネサンス』
伊東俊太郎著、講談社学術文庫
ISBN:4061597809、1,050yen

1993年に岩波書店から刊行された『十二世紀ルネサンス−−西欧世界へのアラ
ビア文明の影響』の文庫化です。元の本の副題にあるように、アラブの文化との
関係に力点を置いたところが類書との違いということになるでしょうか。内容は
岩波市民セミナーで行われた講義をまとめたもの。

『恋愛の誕生−−12世紀フランス文学散歩』
水野尚著、京都大学学術出版会
ISBN:4876988153、1,575yen

上の12世紀ルネサンスにも関連しますが、フランスの宮廷恋愛の文学的伝統を
扱った概説書のようです。トルバドゥールの恋愛詩、アベラールとエロイーズ、
マリー・ド・フランスのレー(短詩)、トリスタン伝説にクレチアン・ド・トロ
ワなどなど、押さえておきたいものが満載のようです。


------短期連載シリーズ------------------------
タンピエの禁令とその周辺:アラン・ド・リベラから(その2)

ローマ法王ベネディクト16世の講演での発言が、イスラム世界の大きな反発を
呼んでいます。でも、これは多分に過剰反応の感が強いものです。その当の発言
内容はヴァチカンのサイト(http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/
speeches/2006/september/index_en.htm
)に全文が掲載され
ていますが、これは要するに、理性と宗教の断絶の歴史を振り返り、両者の新た
な接近を模索しようという論旨の論考です(うちのサイトのブログ(http://
www.medieviste.org/mediolog/
)でもちょっと触れました)。

この理性と宗教の分断というテーマ、実は前任者ヨハネ=パウロ2世から受け継
いでいるものです(というか、ベネディクト16世ことラッツィンガー元枢機卿
は当時、教義聖省の責任者を務めていた側近の一人だったわけで、当然といえば
当然ですが)。1980年に出された法王の回勅「信仰と理性」はまさにそのテー
マをめぐるもので、これこそが、リベラの著書『理性と信仰』のそもそもの出発
点になっています。その回勅の論旨はというと、理性と宗教との乖離こそが近世
以降の流れとなり、近代以降は理性にとっても不幸な結果を招くにまで至った
が、両者は本来一体であったのであり、それらは再び融合しなくてはならない、
という話なのですね。ベネディクト16世による問題の講演も、それを踏まえて
います。ただ力点の置き方はやや違っていて、今回の講演では、理性と宗教の
「本来の一体性」はヘレニズム化されたユダヤ世界、つまりキリスト教の誕生の
ころの話とされ、そちらに力点が置かれています。一方、ヨハネ=パウロ2世の
回勅では、その分離の出発点が中世にあることが強調されているようです。リベ
ラはそこに批判の眼を向けていきます。

法王のいう(また、デュルケムの社会学などもそう述べているのですが)中世ま
での理性と宗教の一体性というのは、一種の抽象化の産物なのではないか。これ
がリベラの問いかけです。一体性というと聞こえはいいですが、暗黙の前提と
なっているのは、信仰の側から理性を統べる、神学が哲学を包摂する、というこ
とです。哲学の「自立性」を認めないこと。それが如実に現れたのが、1277年
のタンピエの禁令だったわけです。デュルケムの社会学もヨハネ=パウロ2世
も、中世の大学における神学内部の危機によって、やがて合理的認識へといたる
プロセスが発動したと見ています。ですが、神学内部での「理性への不信」と、
神学から「分離した哲学」の台頭というこのプロセスは、実際には同時的でもな
いし時間的に近くもない、とリベラは言います。

法王が、理性へと偏らない(理性と信仰とが分離していない)理想的思想家とし
て挙げるのはトマス・アクィナスです。一方、神学と形而上学との分離でやり玉
に挙げられるのはドゥンス・スコトゥスの主意主義です(ベネディクト16世も
このあたりに言及しています)。ですが、トマスにおいても神学と哲学の分離は
見られるように思われます。リベラもそのあたりの事情、つまり分離の始まりに
ついては、もっと詳細に見る必要があると述べています。かくして、リベラによ
る検証が展開していくという次第です。

12世紀ごろからのギリシア思想、アラブ思想の流入は、教会の学僧たち、知識
人たちを大いに揺さぶったのでした。なにしろそれらは、教会の神学と必ずしも
合致するとは限らないからです。彼らはそれらをどのように受容していったので
しょうか。その一つの好例があります。13世紀にいたって、「他所」からのそ
うした学識が、一人の博識な人物のもとで集成されたのです。それがトマスの師
でもあったアルベルトゥス・マグヌスです。このドミニコ会士は「万物博士」と
も呼ばれ、様々な分野にわたる膨大な著作を残しています。神学と哲学の分離の
実情を、リベラはまず、トマスよりも一世代前のこのアルベルトゥスの立場から
検討し直していきます。先取りして言ってしまうと、それはとりもなおさず、当
時の知的世界の豊かさ、寛容さを浮かび上がらせることになっていくのでした。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その16

今回は13章の残りと14章です。さっそく見ていきましょう。

# # #
Memineris praeterea, quod sicut usualium cantuum attestatione
perhibetur, autenti vix a suo fine plus una voce descendunt. Ex quibus
autentus tritus rarissime id facere propter subiectam semitonii
imperfectionem videtur. Ascendunt autem ad octavam et nonam vel etiam
decimam. Plagae vero ad quintas remittuntur et intenduntur. Sed intensioni
et sexta auctoritate tribuitur, sicut in autentis nona et decima. Plagae vero
proti, deuteri et triti aliquando in .a.[sqb].c. acutas necessario finiuntur.
Supradictae autem regulae permaxime caventur in antiphonis et
responsoriis, quorum cantus ut psalmis et versibus coaptentur, oportet
communibus regulis fulciantur. Alioquin plures cantus invenies, in quibus
adeo confunditur gravitas et acumen ut non possit adverti cui magis, id est
autento an plagae conferantur. Praeterea et in ignotorum cantuum
inquisitione praedictarum neumarum et subiunctionum appositione
plurimum adiuvamur, cum talium aptitudine soni cuiusque proprietatem
per vim tropicam intuemur. Est autem tropus species cantionis qui et
modus dictus est, et adhuc de eo dicendum est.

 さらに次のことを思い出そう。普通の歌が証すように、正格では終止音より1
度低い音に下がることはほとんどない。正格のうち、トリトゥスにおいてとりわ
け稀だが、それは1音下のセミトヌスが不完全であるためだ。逆に正格では、8
度、9度、さらには10度上昇することもある。変格の場合は5度上下する。ただ
し、上昇については6度も認められている。ちょうど正格において、9度や10度
が認められているのと同様だ。プロトゥス、デウテルス、トリトゥスの変格は、
ときにa、#、cで終止しなくてはならない。
 以上の規則は、アンティフォナやレスポンソリウムでは特に遵守される。それ
らの場合、歌を詩篇や唱句に合わせるため、一般的な規則に従う必要がある。そ
れら以外では、低音と高音が混同されてしまい、どの旋法なのか、正格なのか変
格なのかわからなくなることがある。また、未知の歌を吟味する際にも、上で述
べた旋律と、その新規の歌とを対比してみることはきわめて有益である。それら
の音の一致から、トロープスの効果によってその属性を知ることができるのだ。
トロープスとは歌の種類であり、旋律とも言われる。次はこれについて述べよ
う。

Capitulum XIV
Item de tropis et vi musicae

Horum quidam troporum exercitati ita proprietates et discretas ut ita
dicam, facies extemplo ut audierint, recognoscunt, sicut peritus gentium
coram positis multis habitus eorum intueri potest et dicere: hic Graecus
est, ille Hispanus, hic Latinus est, ille Teutonicus, iste vero Gallus. Atque ita
diversitas troporum diversitati mentium coaptatur ut unus autenti deuteri
fractis saltibus delectetur, alius plagae triti eligat voluptatem, uni tetrardi
autenti garrulitas magis placet, alter eiusdem plagae suavitatem probat; sic
et de reliquis.
Nec mirum si varietate sonorum delectatur auditus, cum varietate
colorum gratuletur visus, varietate odorum foveatur olfactus, mutatisque
saporibus lingua congaudeat. Sic enim per fenestras corporis habilium
rerum suavitas intrat mirabiliter penetralia cordis. Inde est quod sicut
quibusdam saporibus et odoribus vel etiam colorum intuitu salus tam cordis
quam corporis vel minuitur vel augescit. Ita quondam legitur quidam
phreneticus canente Asclepiade medico ab insania revocatus. Et item alius
quidam sonitu citharae in tantam libidinem incitatus, ut cubiculum puellae
quaereret effringere dementatus, moxque citharoedo mutante modum
voluptatis poenitentia ductum recessisse confusum.
Item et David Saul daemonium cithara mitigabat et daemoniacam
feritatem huius artis potenti vi ac suavitate frangebat. Quae tamen vis
solum divinae sapientiae ad plenum patet, nos vero quae in aenigmate ab
inde percepimus. Sed quia de artis virtute vix pauca libavimus, quibus ad
bene modulandum rebus opus sit videamus.

第14章
旋律と音楽の力

 鍛錬を積むことで、そうした旋律の属性、いわば表情の違いを、一度聞くだけ
で認識できるようになる。ちょうど民族に精通した者が、多くの外見の人を前に
して彼らを見分け、「これはギリシア人、これはスペイン人、これはラテン民
族、これはチュートン人(ゲルマン)、これはガロワ人」と言えるように。ま
た、そうしたトロープスの多様性は心理の多様性に対応している。デウテルスの
正格の急な動きを喜ぶ者もいれば、トリトゥスの変格の甘美さを好む者もいる。
テトラルドゥスの正格の快活さを楽しむ者もいれば、その同じ旋法の変格の優雅
さを評価する者もいる。
 様々な音が聴覚を楽しませることは驚くに当たらない。色の多様性は視覚を喜
ばすし、香りの多様性は嗅覚をくすぐる。味の変化は舌を楽しませる。まるで身
体の窓から、甘美さを湛えた事物が奇跡のごとく心に侵入してくるように。かく
して、なんらかの味や香り、あるいは色彩の知覚によって、心の、また身体の健
康が増減するのである。その昔、医者アスクレピアデスの歌は、ある狂人を狂気
から回復させたと言われている。また、別の者は、キタラの音に欲望をかき立て
られ、狂乱のあまり女性の寝室に押し入ろうとしたという。その後、キタラ奏者
が旋律を変えると、その者は欲情を恥じて、混乱したまま退却したという。
 ダビデもまた、悪魔のようなサウルをキタラでなだめ、その悪魔的な蛮行をそ
の芸術の潜在的な力と甘美さで打ち破ったのだった。とはいえ、その力は、ただ
神の叡智のみが十全に知るものであり、ゆえに私たちはおぼろげにしか捉えられ
ない。とはいえ、私たちはわずかながらその技の力について語ってきた。ゆえに
今度は、適切に作曲するには何が必要かを見ていくことにしよう。
# # #

14章は音楽の効用について述べています。なんだかこれ、最近の音楽療法など
を思い起こさせますね。アスクレピアデスは前1世紀に活躍したローマの医者
で、注によるとこの逸話はマルティアヌス・カペラの『フィロロギアとメルクリ
ウスの結婚』からのものですが、カッシオドルスの『音楽教程』やセビリャのイ
シドルスの『語源録』3巻の音楽の項目でも言及されているようです。また、キ
タラの逸話はボエティウスの『音楽教程』1巻の最初にある逸話ですが、ちょっ
と細部が違っていたりします。ダビデの話は第1サムエル記の16章23節にあり
ます。この話もカッシオドルスやイシドルスなど、たびたび引用されているよう
です。また「私たちはおぼろげにしか……」というくだりは、コリント人への第
1の手紙、13章12節のもじりなのですね。その箇所、ラテン語版では
「Videmus nunc per speculum in aenigmate」と記されています。

また、最後のところに「ad bene modulandi」とありますが、実はこれ、アウグ
スティヌスの『音楽について』での音楽の定義なのですね。musica est
scientia bene modulandi(音楽とは美しく造形する学知である)というわけで
す。なるほどグイドのテキストのこの箇所だけでも、実に様々なリファレンスが
重ね合わせられているわけですね。アウグスティヌスの『音楽について』は、師
匠と弟子の対話形式で、新プラトン主義的な音楽受容論、美学論として有名で
す。そこでは、音楽は世界の秩序に重ね合わせられています。音楽の概要を扱う
1巻と、秩序について考察する6巻とを合わせた羅独対訳本がMeinerから出てい
るほか、ネット上でもhttp://www.fh-augsburg.de/~harsch/aug_mu00.html
にテキストがあります。

次回は作曲論について記された15章を見ていきます。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は10月07日の予定です。

投稿者 Masaki : 2006年09月26日 01:07