2006年11月21日

No. 92

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.92 2006/11/18


------短期連載シリーズ------------------------
タンピエの禁令とその周辺:アラン・ド・リベラ本から(その6)

前回の最後にコメントしたように、リベラ本によると、アヴェロエス思想が教会
に突きつける真の問題、それは「神は全能とはいえず、その権能には限界があ
る」という考え方なのでした。アヴェロエスのテーゼ自体は、「神は、質料がな
ければ一つの種のもとで個体を複数化することはできない」というものなのです
が、トマス・アクィナスの『知性の単一性についてのアヴェロエス派への反論』
が示すところによれば、「ラテン・アヴェロエス派」はこれを読みかえ、「神
は、複数の知性が存在するようにはできない。なぜなら、それでは矛盾に陥るか
らだ」(『反論』5章118節)というテーゼに変えてしまっているのだといいま
す。知性は質料を伴わないものなのだから、複数化はできない、というわけで
す。

トマスが言及している相手はどうやらブラバントのシゲルスのようで、時期的に
前後する両者のテキストには、それぞれ神が論理的矛盾を越えられるかどうかを
めぐる応酬が見てとれるのだそうです。リベラはこれを、トマスの側が誘導して
いるように読みとります。批判を受けて、シゲルスの側がコメントを変えていく
という形です。タンピエがトマスに準拠していることを前提として、リベラはさ
らに「検閲側が考案した誤謬が、後にそれに応答するために公言される誤謬とな
る」のだと述べています。1270年と1277年に示された糾弾すべき命題のリス
トが、「敵対者」のそうした姿勢そのものを作り上げた、もしくは実体化された
……これがタンピエをめぐるリベラの中心的議論です。構築主義を思わせる見方
で、なるほど大変刺激的な視座でもありますが、若干の疑問もなくはありませ
ん。そのあたりの前後関係、情況的文脈の理解は本当にそれでよいのか、果たし
てこれが、リベラの「決め打ち」ではないのか(もっとも、あらゆる論考には、
どこか決め打ち的な部分は必ずあるものですが……)など、いろいろ気になって
きます。目下のところ、手元にはそうした問題を検証するだけの材料はないので
すが、いずれにしても自分なりに慎重に見極めていきたい気がします。

リベラはこの後、アヴェロエス本人の思想はトマスが論難するアヴェロエス派と
は無縁で、啓示の立場から哲学の誤りを正そうという意味では、アラブ系の逍遙
学派を批判するトマスと立場的にむしろ重なってくる、といった議論を展開しま
す。真理は一つである、ということを両者は共有しているというのですね。悩ま
しいのは、トマス自身もまた、タンピエの糾弾リストに抵触するような議論をも
共有していたという点です。「世界の始まりは論理的推論では確定できない(信
仰を通じてのみ到達できる)」というのがそのテーゼです。詳細は省きますが、
これがタンピエのリストの命題91(80)「天空の動きは永遠であるという哲学
者の議論がソフィスト的でないということ、また、思慮深い人間がそれを眼にで
きないということは驚くべきことである」に反するという話なのです。

1回目で触れたように、ヨハネ=パウロ2世は、トマスを信仰の側から哲学を考え
ようとした理想的人物として挙げていたわけですが、このリベラの文脈からする
と、トマスもまた、どこか曖昧な部分を持ち、そのせいもあって、教会の力に押
される形である種の先鋭化を強いられた、というふうに見えてきます。もちろ
ん、教会の制度の中で思考をめぐらしていた当時の知識層が、その制度的な力を
真正面から被っていたのは確かでしょうけれど、リベラの議論を追っていくと、
その力は実にしたたかに、また逃れられない形で、個々人の思想を縛っていたよ
うに見えてきます。リベラの議論はあくまでタンピエとその周辺の状況をめぐり
ながら、個々の思想(アルベルトゥス・マグナス、トマス、シゲルスなどなど)
を検討しているだけなのですが、そこからこうした集合体(組織)の問題、制度
的な力の問題が浮かび上がってくるように思えます。こうなると、その制度的な
力の正体や織りなし、どこからもたらされ、どのように作用していくのかなどの
問題がとても気になってきます。

さて、6回にわけて、アラン・ド・リベラの『理性と信仰』の議論の一部のみ
を、しかも枝葉を取った幹の部分だけ、駆け足で見てきました。個々の議論はは
るかに細かいですし、アルベルトゥスの倫理の問題など、ほかにも様々な論点が
詰め込まれているのですが、そのあたりは長くなってしまうので取り上げられま
せん。でも、少なくともこうして基本線だけを追うことで見えてくるのは、教会
側が織りなす構成的な(敵を作り上げ、実体化させてしまうという)力もしくは
戦略です。それを批判的に捉えることが、翻って、信仰と理性をめぐる今日的な
問題を考えることに繋がっていく……リベラのこの本は、そういう精神に貫かれ
ています。個々の問題の検証とは別に、そうした基本的な姿勢そのものは、決し
て過小評価してはならない重要な部分だと思います。アルベルトゥスが考えてい
たという、理性と信仰の純粋に並列的な共存は、今日それがどのような様態とし
てありうるかも含めて、とてもアクチャルな問題です。


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その18

今回は作曲技法(というか心得)を説いた15章の続きを見ていきます。

# # #
Item ut more versuum distinctiones aequales sint, et aliquotiens eaedem
repetitae aut aliqua vel parva mutatione variatae, et cum perpulchrae
fuerint duplicatae, habentes partes non nimis diversas, et quae aliquotiens
eaedem transformentur per modos, aut similes intensae et remissae
inveniantur.
Item ut reciprocata neuma eadem via qua venerat redeat, ac per eadem
vestigia.
Item ut qualem ambitum vel lineam una facit saliendo ab acutis, talem
altera inclinata e regione opponat respondendo a gravibus, sicut fit cum in
puteo nos imaginem nostram contra exspectamus.
Item aliquando una syllaba unam vel plures habeat neumas, aliquando
una neuma plures dividatur in syllabas. Variabuntur hae vel omnes
neumae, cum alias ab eadem voce incipient, alias a dissimili secundum
laxationis et acuminis varias qualitates.

 詩がそうであるように、フレーズは等分に分け、ときに同じものを反復した
り、あるいはどこかを多少変えて変化をつけたりする。また重複をとりわけ美し
くするには、重なる部分が過度に異ならないようにし、ときには同一のものを旋
法を変えて用いるか、あるいは上昇と下降で類似の音形を用いる。
 同一の小旋律(ネウマ)のまま引き返させるには、進行したのと同じ音をた
どって戻るようにする。
 ある小旋律を高い音から下降させ、なんらかの周回ないし直線を描かせるに
は、続いて別の小旋律を低い音から始めて、もとの進行を逆にたどらせる。ちょ
うど井戸に自分の姿を映そうとするときのように。
 小節が一つないし複数の小旋律をもつ場合もあれば、一つの小旋律が複数の小
節に分かれる場合もある。その小旋律、もしくはすべての小旋律には、弛緩か緊
張かという質の違いに応じて、同じ音で始めるか、それとも異なる音で始めるか
によって、変化をつけることができる。

Item ut ad principalem vocem, id est finalem, vel si quam affinem eius
pro ipsa elegerint, pene omnes distinctiones currant, et eadem aliquando
sicut et vox neumas omnes aut perplures distinctiones finiat, aliquando et
incipiat, qualia apud Ambrosium si curiosus sis, invenire licebit. Sunt vero
quasi prosaici cantus qui haec minus observant, in quibus non est curae, si
aliae maiores, aliae minores partes et distinctiones per loca sine
discretione inveniantur more prosarum.
Metricos autem cantus dico, quia saepe ita canimus, ut quasi versus
pedibus scandere videamur, sicut fit cum ipsa metra canimus in quibus
cavendum est ne superfluae continuentur neumae dissyllabae sine
admixtione trisyllabarum ac tetrasyllabarum. Sicut enim lyrici poetae nunc
hos nunc alios iunxere pedes, ita et qui cantum faciunt, rationabiliter
discretas ac diversas neumas componant. Rationabilis vero discretio est, si
ita fit neumarum et distinctionum moderata varietas, ut tamen neumae
neumis et distinctiones distinctionibus quadam semper similitudine sibi
consonanter respondeant, id est sit similitudo dissimilis, more praedulcis
Ambrosii.

 ほぼすべてのフレーズは、主音、つまり終止音に向けて、あるいは、もし代わ
りに類似の音を選ぶ場合にはそれに向けて進行させる。ときには同じ音で、すべ
ての小旋律、あるいは大半のフレーズを終わらせたり、始めたりしてもよい。関
心のある向きは、アンブロシウスの実例を参照されたい。また、こうした規則を
ごくわずかしか守らない散文のような歌もある。散文の場合のように、場所に
よって区切りやフレーズが分別なく大小まちまちでも、気に留めないような歌で
ある。
 けれども私は、韻律を歌と呼んでいる。私たちは、詩句の脚韻を踏むがごとく
に演奏することが多いからである。ちょうど、詩句そのものを歌う場合にそうす
るように。その場合、2小節からなる小旋律ならばそれを越えて続かないよう、
つまり3小節、4小節と入れ替わらないように、気をつけなくてはならない。つ
まり、叙情詩人があれこれの韻を加えるのと同じように、作曲する者も異なる多
様な小旋律を合理的に構成するのである。小旋律やフレーズの変化が適切なもの
になるようなら、そうした差異は合理的なものであることになる。ただし、小旋
律は小旋律同士、フレーズはフレーズ同士で、類似する形で共鳴的に応答するよ
うにする。つまり、実に甘美なアンブロシウスの歌に見られるように、異なりな
がらも類似するということだ。
# # #

今回は少し訳語を整えました。distinctioがフレーズというのはそのままです
が、旋律と訳したりしていたneumaは「小旋律」に変更してみました。また、
syllabaは文法的な意味を含んでいるというので(仏訳注による)音節としまし
たが、やはり「小節」のほうがしっくりくるような気がします。これで少しはわ
かりやすくなった……でしょうか?後半で出てくるアンブロシウスは、4世紀の
ミラノの司教で、賛歌を数多く作った人物とされています(アンブロシウスの比
喩的解釈によって改宗のきっかけを得たというアウグスティヌスが、その作曲に
ついて証言しています)が、こうした音楽論などで言及される場合には、伝統的
にそうした聖歌全般のことを指すようです。

今回の箇所も技術論ですから、内容的にはそれほど込み入ってはいません。調和
の考え方を受けて、規則性を大事にしていることがわかります。類似するものが
差異をともないながら反復されて多様性を作っていく、というあたりの考え方に
も、新プラトン主義のコスモロジーなどが遠い残響として感じられます。そうい
えば上のアンブロシウスが用いた比喩的な聖書の解釈も、アレクサンドリアの
フィロンやオリゲネスなど、新プラトン主義色の濃い人々の方法論を持ち込んだ
ものなのでした。一般にアンブロシウス賛歌と言われるもの(ミラノとその周辺
で歌われているもの)も、東方聖歌などからの借用が数多く見られることなどが
特徴的とされています。音楽と思想は、まさにパラレルな関係を保っているので
すね。

15章の心得の話はまだ続きます。次回はその残りの部分を見ていきます。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は12月02日の予定です。

投稿者 Masaki : 01:00

2006年11月07日

No. 91

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.91 2006/11/04
*申し訳ありませんが、今回も都合により短縮版です。文献講読シリーズはお休
みします。

------新刊情報--------------------------------
秋も深まりつつある今日この頃、中世関連の新刊も続々出てきていますね。

『古代末期の形成』
ピーター・ブラウン著、足立広明訳、慶應義塾大学出版会
ISBN:4766413210、3,360yen

ブラウンの著書もこのところいろいろ訳されてきています。さらに今後の刊行予
定もあるようで、楽しみですね。これは原著が1978年のもので、4編の講演を
ベースにした論文集です。それまでの通説に反して、古代末期(2〜4世紀)が
知的に豊かな時代だったという、有名なブラウンの革新的テーゼを示した名著と
されるものです。その是非をめぐる議論もまた興味深いところですが、とりあえ
ず一つの視座として、その革新的論考にはぜひ触れておきたいものです。

『中世ヨーロッパにおける死と生』
水田英実ほか著、渓水社
ISBN:4874409415、2,100yen

毎年出ている広島大学の中世研究会によるシンポジウムのアクト。なんだか勢い
を感じさせます。今回は死と生というテーマで、内容もトリスタン物語やチョー
サーの作品論など、文学作品に関わるものが主のようですね。そういえば余談で
すが、つい最近『トリスタンとイゾルデ』が映画化されて公開されたばかりです
ね。未見ですが、なかなかの評判のようです。

『中世ヨーロッパの書物−−修道院出版の九〇〇年』
箕輪成男著、出版ニュース社
ISBN:4785201231、3,150yen

『パピルスが伝えた文明』『紙と羊皮紙−−写本の社会史』に続く、著者入魂の
ヨーロッパ中世の書物史。今回はやはり写本の歴史を総括的に、教父時代から聖
ベネディクトゥスの時代、さらにはシャルルマーニュのカロリンガ・ルネッサン
ス、そして14世紀ごろまでを見据えて描いているようです。今後、中世の書籍
商に関する書籍も出るかもしれないようで、ぜひ期待したいところです。

『中世の預言とその影響−−ヨアキム主義の研究』
マージョリ・リーヴス著、大橋喜之訳、八坂書房
ISBN:4896948815、10,290yen

個人的にも少し囓りかけなのですが、フィオーレのヨアキムの歴史神学はとても
面白いですね。で、そのヨアキムを扱った大分な研究書が邦訳で出ました。そも
そもこのような書籍の邦訳が出るということだけでも、とても嬉しく思います。
ヨアキムの場合、その思想内容だけでなく影響関係についても様々な研究がなさ
れています(ある意味、そうした後世への影響関係の方が主軸になっている感じ
さえありますね)。同書では13世紀から16世紀あたりまでの影響関係が綴られ
ているようです。著者のマージョリ・リーヴスは1905年生まれで、2003年に
亡くなっています。ヨアキム研究の第一人者ですが、戦前ではまだめずらしかっ
た女性研究者として、オックスフォードで活躍した人物なのですね。この著者の
邦訳が出るのは、今回が初めてのようです。

『楽園の歴史2−−千年の幸福』
ジャン・ドリュモー著、小野潮ほか訳、新評論
ISBN:4794807112、7,350yen

これもまた、上のヨアキム主義にも関係する一冊ですね。アナール派第3世代の
重鎮ドリュモーによる、楽園の歴史三部作の第2弾です。すでに『地上の楽園』
が出ていますが、そちらはエデンの園をめぐる、いわば失われた楽園の形象を膨
大な史料で解き明かすものでした。今回の2巻目では、中世から近世までの千年
王国思想を辿っていくもので、むしろ未来時制での楽園思想を捉えるというのが
中心になっていきます。中世の神学議論から近世の革命思想へと命脈を保ってい
く、救済思想の系譜を描き出すという壮大な試みです。

『世界の尺度−−中世における空間の表象』
ポール・ズムトール著、鎌田博夫訳、法政大学出版局
ISBN:4588007955、5,880yen

中世の文学史家による、中世の空間表象をめぐる網羅的な書籍です。原著は93
年のもの。この邦訳、昨年の夏くらいでしたか、一度出版元のホームページでア
ナウンスされ、その後いったん引っ込んだようで、どうなったかと思っていたの
ですが、ようやく刊行されたのですね。著者のズムトールは詩論などで有名です
が、こちらも邦訳はおそらく初めてです。


------短期連載シリーズ------------------------
タンピエの禁令とその周辺:アラン・ド・リベラ本から(その5)

前にも触れたとおり、1277年のタンピエの禁令に先だって、そのための調査委
員会が1276年に出来たのでした。ですが、時間的な問題もあり、かなり限定さ
れたテキストしか検証していない可能性がある、とリベラは指摘しています。そ
の委員会がどのような作業を行ったのかは推測するしかないということですが、
いずれにしても、検閲する側が創造性を大いに発揮していたのではないか、とい
うのが基本的な仮説として示されています。検閲側にとっては、哲学の想定され
る中身を予め囲い込んでおくことが問題だったといい、哲学の側がしかじかの問
題をどう考えるか、ということを、実際にそのような問題を論じた具体的な文献
がなくとも、先回りして考えていた、というわけなのです。そしてそのことは、
後世にまで大きな波紋を投げかけていきます。

19世紀の歴史家エルネスト・ルナンは、「教会史における糾弾は、誤謬の公言
を前提とする」と述べているのですが、リベラはこれを「教会史における糾弾
は、誤謬の公言を先取りする」と言い換えてみせます。つまり、教会側からなさ
れるなんらかの非難は、一種の解釈の枠組みを与えてしまい、後続する人々の解
釈の方向性を歪めてしまう、ということです。タンピエの禁令当時も、たとえば
ライムンドゥス・ルルスなどの、「ラテン・アヴェロエス主義」(これははるか
後世の呼び名ですが)の敵対者たちは、論敵の個々の議論を批判するというより
も、基本的にタンピエの示した批判の一覧をもとに、相手を攻撃していたといい
ます。

ルナンへの批判というのは今では一般的になっていますが、まさにルナン本人
が、その誤謬先取りの罠に陥っていたというのですね。タンピエの禁令の攻撃対
象が「アヴェロエス主義」(ルナンはアヴェロエス主義なるものを世に広めた立
役者の一人です)にあったということをルナンは主張したのですが、たとえばブ
ラバントのシゲルスの思想内容などを、シゲルス本人のテキストからというより
も、タンピエの糾弾を「もとにして」、ルナンは捉えているらしいのです(フィ
オラヴァンティなどの研究が言及されています)。「アヴェロエス主義の歴史記
述は、1277年の検閲を別の手段によって継承したものにすぎない」と、リベラ
は述べています。

アヴェロエス主義と括られたものは、アヴェロエス本人の思想とは直接的には関
係がありません。タンピエの禁令で最も重要な位置を占める、二重真理説にもア
ヴェロエスは与してはいないのです。もともとタンピエの禁令自体も、トマス・
アクィナスの『知性の単一性についてのアヴェロエス派への反論』が検証の格子
として示したものを、タンピエが具体的に適用するという形で展開している、と
見ることができます。ですが、トマスはアヴェロエスの思想そのものについて議
論しているのではなく、あくまで当時の大学を中心に台頭していた魂と知性をめ
ぐる考え方が、アリストテレス思想の歪曲であるとして論難していたのでした。
タンピエはそれを、禁令として、検閲という形で受け継いだという次第です。け
れどもその過程で、トマスの議論の一節(「われわれの意図は、そのような立場
が、哲学の原理にも、信仰の教義にも反することを示すことにある」−−1章2
節)が、どうやら二重真理説なるものを虚偽的に導いてしまったようなのです
(確かに上の一節は、論敵が哲学の原理と信仰の教義を分けていることを暗示し
ているようにも取れます)。これもまた、解釈の枠組みのなせるわざでしょう
か。

そしてなによりも問題なのは、実はアヴェロエスが喚起する真の大問題が、タン
ピエの議論によって見えなくなってしまっている、という点です。当時の教会を
真に揺さぶりかねない問題、それは神の権能にも制約はあるのではないか、言い
換えれば、神は全能ではないのではないか、という問題なのでした。理性か信仰
かといった問題をも吹き飛ばしてしまいかねないその問題は、しかしながらこれ
また教会側の解釈の枠組みのせいで、これまで歴史家の認識の中にきちんと入っ
てこなかった、ということをリベラは指摘しています。このあたり、正面切って
その問題を掲げるかわりに(それでは教会にとっての自殺行為にもなりかねませ
ん)、実際は誰も説いていない二重真理説をいわば「捏造」して攻撃し、そうい
う問題を育みうる土壌そのものを廃絶してしまおうというわけだったのでしょう
か。そうだとすれば、かなりしたたかな政治的・レトリック的な戦術です。いず
れにしても、げにおそろしきは解釈の枠組み、といったところですね。
(続く)

*本マガジンは隔週の発行です。次回は11月18日の予定です。

投稿者 Masaki : 23:36