2007年01月29日

No. 96

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.96 2006/01/27

------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その4)

以前、『原因論』の拾い読みをしたときに取り上げたクリスティーナ・ダンコー
ナ氏の最近の論文に、「古代末期から中世のアラブへ」('From Late Antiquity
to the Arab Middle Ages : The Commentaries and the >>Harmony between
the Philosophies of Plato and Aristotle<<' in "Albertus Magnus und die
Anfange der Aristoteles-Rezeption im lateinischen Mittelalter"
,
Aschendorff, 2005)というのがあります。これは、アラブ世界に見られるよ
うな、アリストテレスの「逐語的注釈」の成立過程についての論考なのですが、
いくつか興味深いことが指摘されています。

たとえば、プラトン主義の陣営の中でアリストテレスの受容の下地を作ったのは
実はプロティノスで、しかもその受容のアウトラインを描いたのが、ほかならぬ
ポルピュリオスだった、とされています。「実体(ousia)」と「述語関係」に
ついてのアリストテレスの議論が、プラトンの議論(プロティノスが展開したよ
うな)を補完するものであることを見て取ったポルピュリオスは、プラトン主義
陣営の中に、アリストテレスの著作を初めて持ち込んだというのですね。その
後、ポルピュリオスや、同時代のイアンブリコスの書き方を範として、5〜6世
紀ごろの新プラトン主義の論者たちは、アリストテレスの注解を盛んに書くよう
になったといわれます(逐語的注解を初めて記したのは、シリアヌスという人物
だったといいます)、そしてそれがアラブ世界へのギリシア思想の浸透を育んで
いったのだ、という話です。なるほどポルピュリオスは、ある種の手本となった
のですね。

そんな中、『イサゴーゲー』もまた、ギリシア語話者、ラテン語話者の数々の論
者によって、注解の対象にされていったようです。『範疇論』の入門として書か
れた同書が、結局のところかえって論争を引き起こすことになってしまったのは
なんとも逆説的だ、と、1回目に挙げた『イサゴーゲー』の仏訳本の解説は記し
ています。なにしろ、それは後の世の普遍論争にまで至ってしまうのですから
ね。普遍論争では要するに、類概念が実体としてあるのか、それともそれは名辞
にすぎないのかといった意味論が問われるわけですが、この解説はちょっと面白
いアプローチをかけています。類概念をめぐる議論を、ストア派の思想にまで遡
及してみせているのです。

ストア派においては、物体的なもの、非物体的なものが区別されるわけですが、
類というのは概して非物体的なものの側に入れられます。けれどもそれでは、架
空のものと区別がつきません。ポルピュリオス以後の新プラトン主義の人々の語
彙においては、そうした架空のものは「プシレー・エピノイア(psile_
epinoia)」(単純概念)とされ、「epinoia」(概念)とは区別されていたとい
います。そうすることで、普遍概念の実在論を架空のものから救おうとしてい
た、という次第です。5、6世紀のころの新プラトン主義の論者たちは、ストア
派に対峙するために、プラトンとアリストテレスの和解を試みたのだといいます
(このあたり、上のダンコーナ論文とも呼応するものがあります)。上の
「psile_ epinoia」が『イサゴーゲー』でも使われていることから、こうした立
場はポルピュリオスのものでもあったのではないか、とこの解説は論じていま
す。類概念をめぐる問題は、ここにいたってプラトン的イデアなのかアリストテ
レス的概念なのかという問題ではなくなり、むしろストア派批判として、「架空
の」概念というものは果たして存在しうるのか、という問題に置き換わったのだ
といいます。

とはいえ、ポルピュリオスの類概念は、プラトン主義的なイデアの実在性から微
妙に離れている印象は確かにあります。そこには「唯名論的な傾斜」が感じられ
るのです。引き続き上の解説によれば、ストア派への批判的なスタンスは、その
後廃れていき、類概念は実在するか概念かという問いの形で、再びプラトンVS
アリストテレスの対立の構図へとシフトしていきます。そしてポルピュリオスの
「概念主義的」な面が取り上げられていくのですが、その一端はボエティウスに
あるとされています。もとよりボエティウスの注解は、中世への影響という点で
どうしても避けて通れないものです。そんなわけで、以上の経緯も踏まえなが
ら、私たちもいよいよその注解へと足を踏み入れていかなくてはなりません。


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その22

今回は17章の後半を見ていきます。

# # #
Sed ne gravis tibi imponatur necessitas quod ad hunc modum vix cuilibet
symphoniae minus quinque accidant voces et ipsas quinque transgredi
saepe ad votum non suppetat: ut tibi paulo liberius liceat evagari alium
item versum subiunge vocalium, sed ita sit diversus ut a tertio loco prioris
incipiat, hoc modo:
[fig]
Ubi cum duobus ubique subsonis in quibus quinque habeantur vocales,
cum videlicet cuique sono et una subsit, et altera satis tibi liberior facultas
accedit et productiori et contractiori pro libitu motu incedere. Unde et hoc
nunc videamus qualem symphoniam huic rhythmo suae vocales attulerint.
[fig]

 この方法では、どんな旋律であろうと5つより少ない音を割り振ることはほと
んどできず、また、多くの場合、望むがままに5つを越えた音を割り振ることも
できない。けれども、だからといってことさら大きな負担を強いられてはならな
い。多少とも自由の余地が残るよう、同じ歌詞の上に別の音列を加えればよい。
ただしそちらは、たとえば先のものの3つめの文字から始めるなどして、次に示
すように違いを設けること。
(図) http://www.medieviste.org/blog/archives/guido10.html
 ここでは、音の下に二重に5つの母音が置かれており、任意の音の下に一つの
母音が対応するが、もう一つの候補もあることで、より自由に音を選択でき、よ
り長くも、より短くも、望みのままに進行することができる。ではここで、この
音のリズムがどのような旋律を作るかを見ておこう。
(図)http://www.medieviste.org/blog/archives/guido11.html

In sola enim ultima parte hoc argumentum reliquimus, ut melum suo
tetrardo conveniens redderemus. Cum itaque suis tantum vocalibus
quidam aptam sibi adeo vindicent cantilenam, non est dubium quin fiat
aptissima, si in multis exercitatus de pluribus potiora tantum sibique aptius
respondentia eligas, hiantia suppleas, compressa resolvas, producta
nimium contrahas, ac nimis contracta distendas, ut unum quod accuratum
opus efficias.

 最後の部分でのみ、私たちはこの規則を踏襲していない。歌をしかるべくテト
ラルドゥス(第4旋法)に戻すためである。このように、母音に適した歌がおの
ずと要求されることもある。疑いようもないことだが、この上なく適切な結果は
おのずと生まれるのではない。より多くの可能性について研鑽を積み、最もよい
響きをおのずと選択できるようになり、足りない部分を埋め、圧縮した部分は引
き延ばし、過度に長い部分は縮め、過度に縮んだ部分は延ばし、この上なく入念
な作品を作り出してもらいたい。

Illud praeterea scire te volo quod in morem puri argenti cunctus cantus
quo magis utitur, coloratur, et quod modo displicet, per usum quasi lima
politum postea collaudatur, ac pro diversitate gentium ac mentium, quod
huic displicet ab illo amplectitur, et hunc oblectant nunc consona ille magis
probat diversa; iste continuationem et mollitiem secundum suae mentis
lasciviam quaerit, ille utpote gravis, sobriis cantibus demulcetur; alius vero
ut amens in compositis et anfractis vexationibus pascitur; et unusquisque
eum cantum sonorius multo pronuntiat, quem secundum suae mentis
insitam qualitatem probat.
Quae omnia si dictis argumentis assiduo exercitio inhaeseris, ignorare
non poteris. Immo et argumentis utendum est donec ex parte
cognoscimus, ut ad plenitudinem scientiae perveniamus. Sed quia haec in
longum prosequi proposita brevitas non exposcit, praesertim cum ex his
perplura valeant colligi, de canendo ista sufficiant. Iam nunc diaphoniae
praecepta breviter exsequamur.

 また、次のことも知っておいてほしい。純粋な銀と同様、あらゆる歌は、用い
られることで色合いを増す。好ましくないと思われるものも、利用によってやす
りで磨くように磨かれれば、後には大いに称賛されるようになったりもする。ま
た、人や気性も様々で、ある人には気に入られないものが、他の人からは重んじ
られたりもする。同質性を喜ぶ人がいるかと思うと、違いのほうを評価する人も
いる。気まぐれな気性ゆえに継続やしなやかさを求める者もいれば、厳粛な気性
ゆえに抑制の利いた歌に感じ入る者もいる。また、まるで常軌を逸したかのよう
に、複雑で、回りくどく、苦行のような曲を味わう者もいる。各人は、おのれに
内在する気質に合った曲を、たっぷりと響かせればそれでよい。
 ここで述べた規則を、すべて熱心に適用するならば、もはや無視してやりすご
すことはできなくなるだろう。さらに、学知を部分的にしか有していない場合、
十全な学知へと達するよう、この規則を活用してしかるべきである。とはいえ、
ここでは簡略さを信条としており、長々と述べることは求められておらず、ま
た、それでは実に多彩な話になってしまうので、歌に関してはこれは充分としよ
う。では次に、ディアフォニア[不協和音]について簡単に説明しよう。
# # #

図を見るとわかるように、楽譜の末尾の歌詞の「hauriat」のhaに対応するFだ
けが、上の図の対応表に従っていません。表に従うなら、Fは母音eまたはuの音
です。ですがここは第4旋法のカデンツァ(G音)にもっていくために変更して
いるというわけです(auが融合してuになったわけではないようです)。仏訳本
の注によると、こういう下から上がって終わるやり方は「ガリカン」(ガリア聖
歌のもの?)といわれるもので、グイドはこだわりを見せているのだとか。

今回の箇所でとりわけ目を引くのは、規則と自由という相反するものへの、グイ
ドの考え方でしょうか。原則は原則として尊重しながら、その適用については縛
りを緩める、というのが主眼なのですね。あえて二列の音を付すことで、よりよ
い解決に向けて、作曲者(歌い手)の自由度が増す、というくだりもそうです
し、旋法上の規則とぶつかる場合の処理もそうです。アメとムチというわけでも
ないでしょうけれど、このあたりにはグイドの教育に関するスタンスが垣間見え
ている気もします。また、前にも言及しましたが、かなり大まかな括り方なが
ら、12世紀ごろの時代精神(あえてそう表現すれば、ですが)には、こうした
原則に対するその適用の自由を重んじる機運というものが感じられるようにすら
思えます。経済活動への関わり方もそうなら、神学上の議論もまたそうで、音楽
論もパラレルな関係にあると言えそうな感じですね。

仏訳本の注は、最後の段落の「部分的学知から十全な学知へ」というくだりにつ
いて、字義的な意味のほかに、当時の著者たちが好んで用いていた新プラトン主
義的な含み(学知の目標を、人間の不完全な知から、神の十全なる知への移行に
見るという考え方)があるかもしれないとしています。ま、多少穿った見方とい
う感じもしますが、確かにプラトン主義的な伝統はパラダイムをなしていたわけ
ですから、そういう解釈もありかもしれません。

次回は本文末尾での予告通り、ディアフォニアを扱った18章を見ていきます。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は02月10日の予定です。

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投稿者 Masaki : 13:12

2007年01月16日

No. 95

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.95 2006/01/13


------新刊情報--------------------------------
新年になって早くも2週間ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。今年もどう
ぞよろしくお願いします。ではさっそく、昨年末までに出た新刊をピックアップ
しておきましょう。

『中世の旅芸人』
ヴォルフガング・ハルトゥング著、井本しょう二、鈴木麻衣子訳
法政大学出版局、ISBN:9784588008597、5,040yen

中世の旅芸人を総合的に取り上げ詳述した本のようです。レパートリーから服装
や出自、神学や司牧での取り上げられ方、世俗の権力との関係など、様々なテー
マを取り上げていますね。これはなかなか面白そうです。

同書もそうですが、このところ中世の音楽関連で、いくつか参考書が出ていま
す。ファンタジー系の本という紹介のされ方だったので、ちょっとノーマーク
だった一冊に、夏ごろに出た上尾信也『吟遊詩人』(新紀元社)があります。ト
ルバドゥールやミンネゼンガーの代表的な人物を、総覧的にまとめた面白い参考
書です。さらに、秋には音楽史の名著とされた概説書、今谷和徳『中世・ルネサ
ンスの社会と音楽』(音楽之友社)
が全面改訂されて刊行されました。そちらも
お勧めですね。

『ユダヤ人の歴史 古代・中世編』
ポール・ジョンソン、阿川尚之ほか訳
徳間文庫、ISBN:9784198925321、1,000yen

3巻本で出たユダヤ人の歴史。その1巻目がこれで、旧約聖書時代(もちろん、
考古学的見地を踏まえたものです)から説き起こし、中世の迫害の歴史にまでい
たるようです。著者のポール・ジョンソンは元新聞記者の評論家・歴史家で、邦
訳ではほかに『ルネサンスを生きた人々』(富永佐知子訳、ランダムハウス講談
社)というのも最近出たばかりです。

『もうひとつの中世のために』
ジャック・ル・ゴフ、加納修訳
白水社、ISBN:9784560026229、8,190yen

大御所ル・ゴフの邦訳が続いていますが、これは重要な論文集。暗黒視されがち
だった中世のイメージを塗り替えようとしていた、最盛期の20年間に発表され
た論考をまとめたものですね。時間・労働・文化という3つのテーマが交錯しま
す。ちょっと値段が張るのが難点ですが……。

『フランス中世文学を学ぶ人のために』
原野昇編、世界思想社
ISBN:9784790712299、2,415yen

「学ぶ人のために」シリーズの最新刊。このシリーズはいつも、入門というより
ももうちょっと詳しい記述になっていて興味深いものがあります。ここでも、聖
人伝、武勲詩、短詩(レー)、『薔薇物語』、ファブリオなどなど、テーマ別に
様々なジャンルと年代で紹介していくようです。原書で読むための文献案内付
き。


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その3)

『イサゴーゲー』の基本的な内容は、前回まとめた前半に集約されているといっ
てよいでしょう。後半は、前半の話を形を変えて繰り返しています。具体的に
は、「類」「種」「差異」「固有」「偶有」のそれぞれの概念が相互にどういう
関係にあるか(共通点は何で、違いは何か)ということが列挙されていきます
が、その基本となるのは、前回も出てきた「述語に何を取れるか」という問題で
す。

「類」は「種」を述語にできますが、同様に「差異」も「種」を述語にできま
す。ではその違いはというと、「類」は「差異」より幅広い述語を取ることがで
きることです。「動物」という類は、人間、馬、鳥、蛇など様々な種を取れます
が、「四足動物」という差異は、四つ足のものとそうでないものという種を分か
つだけです。前回も触れたように、類が「それは何か」に答えるのに対し、差異
は「それはどのようにあるか」に答えるのでした。実際のところ、類は差異をも
潜在的に内包できます。ポルピュリオスは、類を質料に、差異を形相に喩えても
います。

類と種は、当然ながら前者が後者を包摂する関係にあります(ポルピュリオスに
おいては、類と種はそれぞれ相対的な上位概念・下位概念なのでした。それはま
た、先行と後続の関係にもなります)。では、類と固有はどうでしょうか。これ
また当然ですが、それらは種を介した関係となります。「人間」が種なら「動
物」が類、そしてたとえば「笑えること」が固有となります。内包関係・前後関
係は明らかですね。種と偶有の関係もしかりです。さらに同じように、差異と種
の関係、差異と固有の関係、差異と偶有の関係、種と固有の関係、種と偶有の関
係、固有と偶有との関係という形で、組合せのそれぞれについて特徴が記されて
いきます(固有と偶有の関係についてのみ、偶有が内因性か外因性かでさらに話
が分かれます)。

とにかくここで基本的なことは、上位概念は下位概念を内包し、先行するという
こと、さらに両者を切り出すのは、両者の様態の違い(「それは何か」と「それ
はどのようであるか」)、もしくは帰属関係の違い(「内因」と「外因」)だと
いうことです。ここまで、難しい話ではまったくありません。こうした言葉の述
語関係の話は、アリストテレス『範疇論』でも基本線をなしています。とはいえ
『範疇論』では、これらの話に具体的に言及されるのは最初のあたり、つまりII
からIII章と、10の範疇の1つめ「実体」(ousia)を扱ったV章で少し関係する程
度です。その意味では、『イサゴーゲー』は『範疇論』のこの肝心な導入部分に
ついての、読解と理解を助けるための別様のまとめ、もしくは解説、ということ
になりそうです。

* * * 

以上、大まかな内容をまとめたので、次に今度は、『イサゴーゲー』の後世への
伝播の話を少し見て、それからいよいよ各時代の注解へと足を踏み入れていきた
いと思います。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その21

『ミクロログス』ももう17章です。あともう少し、おつき合い願います。今回
は章の前半を見ていきます。

# # #
Capitulum XVII
Quod ad cantum redigitur omne quod dicitur

His breviter intimatis aliud tibi planissimum dabimus argumentum
utillimum visu, licet hactenus inauditum. Quo cum omnium omnino
melorum causa claruerit, poteris tuo usui adhibere quae probaveris
commoda et nihilominus respuere quae videbuntur obscoena.
Perpende igitur quia sicut scribitur omne quod dicitur, ita ad cantum
redigitur omne quod scribitur. Canitur igitur omne quod dicitur, scriptura
autem litteris figuratur.
Sed ne in longum nostra regula producatur, ex hisdem litteris quinque
tantum vocales sumamus sine quibus nulla alia littera, sed nec syllaba
sonare probatur earumque permaxime casus conficitur, quotienscumque
suavis concordia in diversis partibus invenitur, sicut persaepe videmus tam
consonos et sibimet alterutrum respondentes versus in metris, ut
quamdam quasi symphoniam grammaticae admireris. Cui si musica simili
responsione iungatur, duplici modulatione dupliciter delecteris.

第7章
発話できることはすべて歌にできる、ということ

 以上のことを簡略に述べたので、今度はきわめて簡易でこの上なく便利な、そ
れでいてあまり語られてこなかった別の議論を示そう。それによって、すべての
歌の基礎がわかれば、自分で適切と思えるものを利用し、不適切と見なすものを
排除することができる。
 よって次のことを吟味してほしい。発話されることはすべて書き留められるよ
うに、書き留めたものはすべて歌にできるのだ。したがって発話できることはす
べて歌うことができる。歌の表記は文字で表せる。
 ただし、私たちの議論を冗長にしないためにも、私たちはそうした文字のうち
5つの母音字のみを取り上げよう。ほかの文字や節が、それらなしに音を響かせ
ることはできないと思われるし、様々な部分において甘美な協和が見られるたび
に、それらの関わりがこの上なく感じられるのである。韻律において、多くの場
合に詩句相互に協和と照応が、ほとんど言葉のシンフォニーをなすように。同じ
ような照応でもって音楽が加わるならば、二重の変化によって喜びも倍増しよ
う。


Has itaque quinque vocales sumamus, forsitan cum tantum concordiae
tribuunt verbis, non minus concinentiae praestabunt et neumis.
Supponantur itaque perordinem litteris monochordi, et quia quinque
tantum sunt, tamdiu repetantur donec unicuique sono sua subscribatur
vocalis, hoc modo:
[fig]

In qua descriptione id modo perpende, quia cum his quinque litteris
omnis locutio moveatur, moveri quoque et quinque voces ad se invicem ut
diximus, non negetur. Quod cum ita sit, sumamus modo aliquam
locutionem, eiusque syllabas illis sonis adhibitis decantemus, quos
earumdem syllabarum vocales subscriptae monstraverint, hoc modo:
[fig]

Quod itaque de hac oratione factum est, et de omnibus posse fieri nulli
dubium est.

 このように、私たちは5つの母音を取り上げよう。おそらくは、それがかくも
多くの協和を言葉に与え、それだけ多くの調和を歌にもたらすだろう。それをモ
ノコルドの文字の下に順に記しておく。母音は5つだけなので、それぞれの音の
下に母音が記されるよう、次のように繰り返す。
(図)http://www.medieviste.org/blog/archives/guido08.html

 この図においては、次のことだけ考慮しよう。すべての発話はそれら5つの文
字だけで動く以上、先に述べたように、5つの音もそれぞれの母音と互いに結び
ついて動くことができる。そんなわけなので、ここでは任意の表現を取り上げ、
音をあててその節を歌ってみよう。母音はその節の下に示す。
(図)http://www.medieviste.org/blog/archives/guido09.html

このフレーズでできたことは、間違いなくあらゆるフレーズで可能である。
# # #

今回も図が出てきますが、これは伊訳本がわかりやすく示しているので、これを
転載させていただきましょう。内容的にこの箇所の主眼は、歌詞の母音部分を音
の表記に対応させる、ということです。こういう規則を作っておけば、とりあえ
ずどんな歌詞にでも、一応旋律をつけることができる、というわけでしょうか
(もちろん、カデンツァなどほかの各種規則がそれに被さってくるわけです
が)。ここで示される、アルファベット文字とその下に記された母音という組合
せは、まさにドレミの誕生の一歩手前というふうです。

よく知られた話ですが、ここでちょっと復習しておくと、いわゆるドレミという
音階名は、洗礼者ヨハネの祝日(6月24日)の第二晩課で歌われる、「ヨハネ賛
歌」の一節、「Ut queant laxis resonare fibris mira gestorum famuli tuorum,
solve polluti labii reatum, sancte Ioannes.(あなたの僕たちが、その行いを讃
えて弦を(声帯を?)鳴り響かせられるよう、汚れた唇の罪をぬぐいたまえ、聖
ヨハネよ)」から、それぞれut、re、mi、fa、sol、laを取ったものなのでし
た。この6音(ヘクサコルドですね)の呼称が、グイドによって考案されたも
の、とされています。utは後世になってdoに変えられ(通説では、Dominusか
ら取ったのだと言われます)、さらにsancte Ioannesの頭文字からsiが付け加え
られた(これも通説ですが)といわれます。

この発案がグイドに帰されるという、そのアトリビューションそのものが本当に
確かなのかどうかは不明ですが、いずれにしても、ドレミの呼称の優れていると
ころ、つまりモノコルド上の抽象記号ではなく、子音と母音を組み合わせて語調
を整え、覚えやすくしている点は、その教育的な配慮・合理性指向という意味
で、まさにグイドの考え方に適っているように思えます。

母音と音を対応させるというこの話はもう少し続きます。次回はその17章の後
半を見ていきます。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は01月27日の予定です。

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投稿者 Masaki : 23:20