2007年02月27日

No. 98

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.98 2006/02/24


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その6)

『イサゴーゲー』の仏訳本の解説(お馴染みアラン・ド・リベラによるもので
す)は、ボエティウスの「概念論」の立場を少し細かく検討しています。ボエ
ティウスは、「類・種」が、物体であるか、あるいは物体に付随する非物体的な
ものかだとして、厳密にどちらなのかは曖昧なままに残しつつ、いずれにしても
「理解」(intellectus)のうちにあると結論づけているわけですが、この「理
解」をどう捉えるべきかという問題を論じているのです。

ボエティウスが言及する「物体的なものから捨象された非物体的なものとしての
類・種」という概念は、アフロディシアスのアレクサンドロス(のアリストテレ
ス思想)をベースにしているもののようです。アレクサンドロスの議論では、物
体に付随する非物体的な実体の把握は「感覚」もしくは感覚機能の所作で、一方
でその非物体的なものを分離し捉える魂の働きとして「知性」(ヌース)があ
る、とされるのですね。後世になれば、このヌースがintellectusと訳されるので
すが、ボエティウスの場合には、「エピノイア」(「概念」、「概念の把握」を
表します)の意味でintellectusを用いていたりします。ではボエティウスのいう
「理解」は、ヌースと厳密に重なっているのだろうか、という疑問が出てきま
す。

で、この解説文は、どうやらボエティウスのいう「理解」(intellectus、あるい
はcogitatio)は、ヌースと厳密には重ならないのではないか、と見ています。
そこでの「理解」は、単なる「見識」とでもなく、また「思惟一般」「知解」で
もなく、「知解可能なものの集約」のような意味になるのではないか、というの
です。ボエティウス自身が述べるところでは、種というのは「集約的思惟
(cogitatio collecta)」だと表現されています。異なる個物は「本質的類似に
よって」(substantiali similitudine)把握されて「種」をなす、あるいはそう
した「本質的類似」から形成された概念が「種」なのだ、というわけです。
「類」はその「種」の「本質的類似」から形成されるもの、ということになり、
先に見た相対的・階層的な関係も保たれます。

この解説では、ボエティウスは「理解」という言葉で、感覚から思惟への橋渡し
を「本質的類似」という観点から考えていて、そころがオリジナルなところかも
しれない、というような言い方をしています。なんだかややこしい感じですが、
要するに主旨としては、上のヌースが感覚的なものから知的対象をもっぱら分
離・捨象するものであるのに対し、ボエティウスのいう「理解」は感覚的なもの
を取り込んで集約するプロセスだ、という感じでしょうか。微妙な違いですが、
後者のほうがより広く包摂的な(やや混淆的な)機能だというわけです。ですが
このわずかな差が、もしかすると思想的に大きな違いを導いていくのかもしれな
いのです。

実はこの解説文、上の話の直前の箇所で、「エピノイア」の捉え方をめぐるアベ
ラールの見方に言及しています。それによると、アベラールはボエティウスを引
きながらも、「エピノイア」を単なる見識(opinio)と見なしているといいま
す。見識といってしまうと、実在するものを内面的に思い描くこと、という含意
が増し、概念論的な考え方とは隔たっていくわけです。解説の言い方に倣うな
ら、哲学的な枠組みが違ってくるのですね。で、その概念論からの乖離のきざし
はすでにしてボエティウスにあって、それがアベラールでもって増幅される、と
いうふうに読んでいるのです。ボエティウスが開いておいた議論から、また別の
次なる議論が導き出されていく……と。そう考えると、なんだかここに、思想の
大きなうねりの発端があるように見えてきます。ま、このあたり(上の話全体も
そうですが)、本来はこの解説を鵜呑みにせず、テキストに即してきちんと検証
しないといけないところですが、それはさしあたり保留にしておいて、ここでは
ひとまずこのアプローチを受け入れておくことにします。その上で、次はそのア
ベラールの注解を見ていくことにします。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その24

今回と次回は18章の続きを見ていきますが、それに続く19章の図(譜)を参照
していきましょう。(19章は18章で述べたことの具体例として図が示されてい
るだけですので、訳出は省略したいと思います。)

# # #
Troporum vero alii apti, alii aptiores, alii aptissimi existunt. Apti sunt qui
per solam diatessaron quartis a se vocibus organum reddunt, ut deuterus in
.B. et in .E.; aptiores sunt qui non solum quartis, sed tertiis et secundis per
tonum et semiditonum, licet raro respondent, ut protus in .A. et .D.
Aptissimi vero, qui saepissime suaviusque id faciunt, ut tetrardus et tritus
in .C. et .F. et .G. Hae enim tono et ditono et diatessaron obsequuntur.
Quorum a trito, in quem vel finis distinctionum advenerit, vel qui
proximus ipsi finalitati suberit subsecutor numquam tamen descendere
debet nisi illo inferiores voces cantor admiserit. A trito enim infimo aut
infimis proxime substituto deponi organum numquam licet. Cum vero
inferiores voces admiserit congruo loco, et per diatessaron organum
deponatur; moxque ut illa distinctionis gravitas ita deseritur ut repeti non
speretur, quem prius habuerat locum subsecutor repetat, ut finali voci si in
se devenerit commaneat, et si super se e vicino decenter occurrat.

 トロープスには、(ディアフォニアに)適したもの、より適したもの、最適の
ものが存在する。適したものとは、オルガヌムを、ディアテサロンのみで、4度
で加えるものをいう。BとEのデウテルス(第二旋法)のような場合だ。より適
したものとは、あまり多くはないが、4度だけでなく、トヌスとセミディトヌス
(短3度)を用い2度と3度でも、(主旋律に)応唱するものをいう。AとDのプ
ロートゥス(第一旋法)のような場合だ。最も適したものとは、最も頻度が高
く、最も甘美に響くもので、C、F、Gのテトラルドゥス(第四旋法)およびトリ
トゥス(第三旋法)の場合だ。この場合、トヌス(2度)、ディトヌス(長3
度)、ディアテサロンで伴奏する。
 ただし、トリトゥスがフレーズの終音にかかるか、あるいはその終音のすぐ下
の音になる場合には、主旋律がさらに低い音を用いていない限り、対旋律はトリ
トゥスより低くなってはならない。(オルガヌムにおいて)トリトゥスの低い音
(F)、あるいはそれよりも低い音を配置することは、オルガヌムの場合には
いっさいできない。(主旋律が)より低い音を適切な場所で用いている場合、オ
ルガヌムもディアテサロン(4度)で(低い音を)用いることができる。ただし
その低音のフレーズを離れたならば、つまり反復がなされなくなったら、対旋律
はそれ以前の音の位置へと戻り、終音と重なるなら終音と一致させ、終音がより
高い音であれば、適切に隣接させる。

Qui occursus tono melius fit, ditono non adeo, semiditono numquam. A
diatessaron vero vix fit occursus, cum gravis magis placet illo loco
succentus; quod tamen ne in ultima symphoniae distinctione eveniat est
cavendum.
Saepe autem cum inferiores trito voces cantor admiserit, organum
suspensum tenemus in trito; tunc vero opus est ut cantor in inferioribus
distinctionem non faciat, sed discurrentibus sub celeritate vocibus
praestolanti trito redeundo subveniat, et suum et illius laborem facta in
superioribus distinctione repellat.

 この音の収斂はトノスが最もよく、ディトノスではそこまではいかず、セミ
ディトノスではまったく収斂にならない。(音の収斂が)ディアテサロンから生
じる適合は滅多にない。というのも、対旋律は低い音でなすほうがより適切だか
らだ。ただし、最後のフレーズでは生じないよう注意しなくてはならない。
 しかしながら、主旋律がトリトゥスの低い音を用いる場合、そのトリトゥスで
オルガヌムを「吊り上げる」。その際には、主旋律は低い音でフレーズを終え
ず、早い音で回し、吊り上げたトリトゥスへと戻り、相互に生じる齟齬を高い音
のフレーズで回避する。
# # #

例によって技術論です。伊訳注によれば、ここでのトロープスは「旋法」と同じ
意味とのことです。オルガヌム、すなわち対旋律は主旋律よりも低い音でつける
わけですが、それには2度、長3度、4度が多用されます(1段落目)。重要なこ
ととして、カデンツァに向けて、トリトゥスにおいてはF音より低い音にしては
いけない、というのが基本ルールなのですね(2段落目)。また、カデンツァは
ユニゾン(同一音)とすることが圧倒的に多いようですが、場合によっては、2
度か長3度にすることもできるものの、短3度はダメで、4度もほとんど使われな
いとしていますね(3段落目)。

このあたり、やはり実例を見ておくのが一番ですね。というわけで、19章の譜
面を挙げておきましょう。譜面の番号は、19章で挙げられている順番を指しま
す。まず1段落目の2度、長3度、4度を交えた実例が譜面1です(http://
www.medieviste.org/blog/archives/19-1.html
)。2段落目のFより低くなら
ないオルガヌムの実例として譜面7が挙げられます(http://
www.medieviste.org/blog/archives/19-7.html
)。3段落目のカデンツァ付近
の音の収斂具合は、譜面5と6(http://www.medieviste.org/blog/archives/
19-5et6.html
)が対応します。4度のカデンツァの例が譜面2と3にあります
http://www.medieviste.org/blog/archives/19-2.html)(http://
www.medieviste.org/blog/archives/19-3.html
)。

また4段落目ですが、カデンツァに向けて音を合わせていく場合に、トリトゥス
で主旋律がFの音に来てしまうと、上の規則によって対旋律はなにもその音に何
も付けられなくなってしまうことになります。その場合はトリトゥスの高い音で
対旋律を保ち(おそらくこれが「吊り上げ」ということでしょう)、主旋律もす
ぐに高い音へ移行してフレーズを終える、という意味のように思われます。この
具体的な例は、譜8と9(http://www.medieviste.org/blog/archives/19-
8.html
)(http://www.medieviste.org/blog/archives/19-9.html)にありま
す。

この譜面9などは、本来低い音で付けるはずの対旋律が、上の音になったりして
いる特殊な例です。この時代にはそのあたりのルールも緩和されていた、という
ことのようです。ここでの対旋律は、一定の音がずっと続くドローン(持続音)
になってしまっていますね。前にも参照した金澤正剛『中世音楽の精神史』で
は、12世紀以降に優勢となるドローン効果の発端はこのあたりにあるのでは、
と述べています。

次回は18章の残りを、これまた19章の譜と合わせて読んでいきましょう。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は3月10日の予定です。

------------------------------------------------------
(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
↑講読のご登録・解除はこちらから
------------------------------------------------------

投稿者 Masaki : 21:03

2007年02月12日

No. 97

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.97 2006/02/10

------新刊情報--------------------------------
このところの暖冬のせいで、なんだか早くもけだるく、「春眠暁を覚えず」とい
う感じだったりもします……(笑)。中世関連書籍も春の兆しでしょうか?

『ロマネスク美術とその周辺』
辻佐保子著、岩波書店
ISBN:9784000025898、9,240yen

著名な美術史学者による、ロマネスク美術を中心とした本格的な論考の集成とい
うことです。写本研究、説話と典礼上の図像、初期中世美術などなど、目次には
実に面白そうなテーマが列挙されています。これはぜひ覗いてみたいところで
す。

『中世における科学の基礎づけ−−その宗教的、制度的、知的背景』
エドワード・グラント著、小林剛訳、知泉書館
ISBN:9784862850027、6,300yen

米国の科学史家グラントが96年刊行したものの邦訳。グラントの邦訳には『中
世の自然学』(横山雅彦訳、みすず書房)もありましたが、これはすでに品切れ
のようです。本書は、17世紀の科学革命に中世はなんら直接的な貢献をなさな
かったというそれまでのスタンスを反省・一新し、より広い見地から、中世が果
たした貢献を見直した著作、という位置づけですね。アリストテレス主義の問題
をいろいろ扱っているようです。

そういえばこのグラント、ちょうど本国でも『自然哲学史−−古代から19世紀
まで』("A History of Natural Philosophy : From the Ancient World to the
Nineteenth Centry"
, Cambridge University Press)が出たばかりです。400
ページ足らずで、19世紀まで駆け足で自然哲学の歴史を通観するというのです
から、これはまた相当な力業かもしれません。

『中世賤民の宇宙−−ヨーロッパ原点への旅』
阿部謹也著、ちくま学芸文庫
ISBN:9784480090478、1,300yen

個人的にもとてもなつかしい一冊の文庫化。昨年秋に亡くなった中世史学の第一
人者の、代表作の一つですね。中世の死生観、時空間の変遷、職業差別の問題な
ど、いずれももとの刊行当時(1987年)は今以上にホットな問題でした。同書
は一度、『阿部謹也著作集』にも収録されましたが(99年)、今回は文庫とい
うことで、より幅広い読者を獲得しそうです。

『中世ラテン語入門・新版』
国原吉之助著、大学書林
ISBN:9784475018784、6,720yen

同じ著者による同名の著書が、かつて南江堂という出版社から出ていたのです
が、これはとっくに品切れ。で、これはおそらくその新版なのでしょう(まだ現
物を見ていないので詳細は不明ですが)。久しくそうした和書がなかっただけ
に、これはとりあえず買い、という気もします(笑)。


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その5)

「類(genus)」や「種(species)は実在するのか心的なものなのかという、
普遍論争にいたる問いかけを早い時期から掲げたのは、『イサゴーゲー』の翻訳
を手がけた、ほかならぬボエティウスその人でした。ボエティウスの『イサゴー
ゲー注解』は「中世思想原典集成」5巻にも収録されていますが、ここではス
ポット的に、ポール・ヴィンセント・スペイド編『中世の普遍問題に関する5つ
のテキスト』("Five Texts on the Medieval Problem of Universals", Hackett
Publishing Company, 1994)から、ボエティウスの『イサゴーゲー第二注解』
の抜粋(英訳)を見てみます。

ボエティウスはここで、『イサゴーゲー』の序文で棚上げになっている「類」
「種」の形而上学的身分とでもいうものに、あえて問いを投げかけます。「類と
種は存在し存続するのか、それとも理解と思惟によってのみ形成されるのか」。
存在しないという立場の基本的議論はこうなります。類は複数の種に共通するも
のである以上、一つではない。しかるに実在するものは、すべてそれぞれ一つと
して実在する。したがって類は実在しない。類と種が相対的関係にある(このこ
とは前回・前々回見ました)以上、種もまた一つではないことになり、よってそ
ちらも実在しない。また、類を包摂する上位の類は無限に存在しなくてはならな
いが、それでは類は完結することがなくなってしまう。以上のことからも類は実
在しない……。

反対の実在論の基本的議論はどうなるでしょうか。仮に類も種も理解によっての
み掌握されるものであるのなら、理解はすべからく理解の対象である何らかの事
物から生じるものである以上、類も種も、みな現実に存在しなくてはならない。
さもなくば空虚な理解、誤った理解となってしまう……。これに対してボエティ
ウスは、その弁証法的合一を次のように試みます。理解は対象から生じるが、そ
の対象自体が存在する必要はない。誤った理解はむしろ構成、つまり本来は結合
しないもの同士の結合(想像力による)から生じる。一方、抽象・捨象による理
解では、対象は存在しなくとも理解としては誤りではない……。

さらにボエティウスは、ストア派的な物体/非物体の議論を持ち出してきます。
物体に付随する非物体的なもの、たとえば物体の輪郭などは、存在(非物体的)
としては物体に依存する(そもそもの物体がなければ、輪郭もありえない)もの
の、心的にはそれ自体として分離して措定できる。ところで、類や種も、非物体
的なものである場合もあれば、物体的なものである場合もある。前者であれば非
物体的なものとして個別に捉えることができるし、後者の場合でも、理解におい
ては物体の性質は捨象され、「形相」であるかのように捉えられる。よって、類
や種は理解のうちにのみあるとして差し支えない……。

類と種が相対的関係にあるということで、ボエティウスはこのように、それらす
べてが心的事象なのだと結論づけます。反プラトン的、アリストテレス寄りの考
え方ということになりそうですが、ボエティウスはこの節の最後で、一種の留保
というか、周到に(?)こんなことを付け加えています。「以上の話で、両者に
決定的な判断を加えているのではない。それはより高度な哲学的議論となるだろ
うから。ここではあくまで、『イサゴーゲー』がアリストテレスの『範疇論』の
ために書かれたものを考慮して、アリストテレスの見解を採用したのだ」。こ
の、議論を開いておくというあたりが、まさにスコラの先駆的な感じを醸してい
ますね。いずれにしても、これがボエティウスによって後世にまで伝えられる
「概念主義的」議論の核心的部分です。当然ながら、こうした立場への反論も出
てくるわけですが、このボエティウスの立場については、先の『イサゴーゲー』
仏訳本の解説が少し細かく吟味していますので、次回、ひとまずそちらもまとめ
ておきましょう。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その23

今回は18章の冒頭部分です。ディアフォニアを扱った章です。ディアフォニア
というと、一般には不協和音のことを言いますが、9世紀から12世紀にかけての
音楽理論では、広くオルガヌムと同義とされていたのだそうです(Naxosライブ
ラリーの音楽中辞典を参照)。本書でも、普通の不協和音の話かと思っていると
面食らってしまいます(私もそうでした−−苦笑)。ではさっそく、実際に見て
いきましょう。

# # #
Capitulum XVIII
De Diaphonia, id est organi praecepto

Diaphonia vocum disiunctio sonat, quam nos organum vocamus, cum
disiunctae ab invicem voces et concorditer dissonant et dissonanter
concordant. Qua quidam ita utuntur, ut canenti semper quarta chorda
succedat, ut .A. ad .D. ubi si organum per acutum .a. duplices, ut sit .
A.D.a., resonabit .A. ad .D. diatessaron, ad .a. diapason; .D. vero ad
utrumque .A.a., diatessaron et diapente; .a. acutum ad graviores diapente
et diapason. Et quia hae tres species tanta se ad organum societate ac ideo
suavitate permiscent, ut superius vocum similitudines fecisse monstratae
sunt symphoniae, id est aptae vocum copulationes dicuntur, cum
symphonia et de omni cantu dicatur. Dictae autem diaphoniae hoc est
exemplum:
[figura]

第18章
ディアフォニア、すなわちオルガヌムの規則

 ディアフォニアとは、音が対立することをいう。互いに背く音が、調和が取れ
た形で異な響きを奏でたり、異質な形で共鳴したりする場合、私たちはその音の
対立を「オルガヌム」と呼ぶ。たとえばそれを、AとDのように、主旋律との間
が4度の開きで鳴るように用いたりする。そのオルガヌムを高音aでもって二重
化し、A D aのようにすることもでき、その場合、AからDはディアテサロン(4
度)、Aからaまではディアパソン(オクターブ)となる。DからAまで、および
aまでは、それぞれディアテサロン(4度)とディアペンテ(5度)となる。高音
のaから低い音(AとD)へはそれぞれディアペンテ、ディアパソンとなる。これ
ら3種の音は連なってオルガヌムを形成し、甘美に混ざり合う。先に示した音の
類似性がそうだったように、これがいわゆるシンフォニア、すなわち、音の適切
な組合せと称されるものである。シンフォニアはあらゆる歌について述べること
ができる。ではディアフォニアといわれるものの例を示そう。
(図)http://www.medieviste.org/blog/archives/guido12.html

Potes et cantum cum organo et organum quantum libuerit duplicare per
diapason; ubicumque enim eius concordia fuerit, dicta symphoniarum
aptatio non cessabit.
Cum itaque iam satis vocum patefacta sit duplicatio, gravem a canente
succentum, more quo nos utimur, explicemus. Superior nempe diaphoniae
modus durus est, noster vero mollis, ad quem semitonium et diapente non
admittimus, tonum vero et ditonum et semiditonum cum diatessaron
recipimus, sed semiditonus in his infimatum, diatessaron vero obtinet
principatum. His itaque quattuor concordiis diaphonia cantum subsequitur.

 主旋律にオルガヌムがあり、そのオルガヌムが許容するのであれば、その主旋
律をディアパソン(オクターブ)で二重化することができる。それらが調和する
限りにおいて、いわゆるシンフォニアの適切さは失われない。
 音の二重化については充分に示したので、私たちが用いる方法に即して、歌に
随伴する低い声部について説明しよう。上に述べたディアフォニアは「固い」も
のだが、私たちが用いるのは「柔らかい」ものだ。私たちの場合、セミトノス
(半音)とディアペンテ(5度)は用いず、トノス(2度)やディトノス(長3
度)、セミディトノス(短3度)とディアテサロン(4度)を認めている。ただ
しセミディトノスは最下位におき、ディアテサロンを最上位とする。この4つの
関係で、ディアフォニアが歌に随伴するようにする。
# # #

このように、ここでのディアフォニアは、主旋律に付される対旋律のことを言っ
ています。別の音が鳴るということが、ディアフォニアの原義なのですね。オル
ガヌムというのは、いわゆる多声楽曲のことで、すでにある主旋律(厳密ではあ
りませんが、ここではcanensをそう訳出しています)と対旋律から成る楽曲で
すね。伊語訳の序文では、この段落最初の定義部分の訳というか解釈について
長々と論じていますが(concorditer dissonant et dissonanter concordantと
いうあたりの厳密な意味についてです)、ここではあえて字義的に訳出しておき
ました。最初の段落では、4度、5度、8度の協和音のみで声部が構成されている
伝統的なものが取り上げられています。例として上げられた3声のオルガヌム
は、9世紀の理論書『ムシカ・エンキリアディス(音楽提要)』に言及されてい
るといいます(仏語訳の注)。

それに対して3段落目では、「私たち」の方法論というのが出てきます。「固
い」ものと「柔らかい」ものという形で二つの種類のオルガヌムが対置されてい
ます。一つは上の伝統的な4度、5度、8度のもの、もう一つは4度を基準にしな
がら場合によっては3度を許容するもの(ただしそれは最下位、つまりあまり勧
められないということのようですが)というわけですね。この章に続く19章
に、実例の図(楽譜)がいくつか紹介されているのですが、それにこの「新し
い」オルガヌムの実例が見られます(たとえばこちら→http://
www.medieviste.org/blog/archives/guido13.html)。2度や3度は長いこと不
協和ということで嫌われてきたものでしたが(3度を多用するイギリス風ディス
カントゥスが入ってくるのはもう少し後だったはずです)、そちらを受け入れ、
むしろ5度を使わないというのは、とても興味深い点だと思います。時代的な変
化ということなのでしょうか。グイドの時代の「新しさ」は、あるいはこんなと
ころにも感じられるのかもしれません。

次回は18章の続きです。オルガヌムのいろいろな面について論じられていま
す。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は2月24日の予定です。

------------------------------------------------------
(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
↑講読のご登録・解除はこちらから
------------------------------------------------------

投稿者 Masaki : 21:11