2007年03月27日

No. 100

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.100 2006/03/24

早いもので、本メルマガは4周年、100号となりました。これもひとえに、読者
の皆さまのご支援の賜物です。ここに改めてお礼申し上げます。本誌は、今は無
きPubzineで創刊して以来、melma!に移り、さらにロリポップに移って今に
至っています。ヨーロッパの政治や思想などの問題は、多くが中世にその根っこ
をもっている、というスタンスから、その根を探るためのささやかなゾンデとし
て創刊したメルマガですが、今後もその原点を忘れずに、いろいろなテーマを取
り上げていけたらと思います。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


------新刊情報--------------------------------
寒の戻りも一段落でしょうか。春先の新刊をまとめておきましょう。

『パンとぶどう酒の中世−−十五世紀パリの生活』
堀越孝一著、ちくま学芸文庫
ISBN:9784480090522、1,115yen

ヴァチカンの法王庁図書館が所蔵する『パリ一市民の日記』という逸名著者の日
記を手がかりに、パリの歴史地図を軽快な足取りで散策するという好エッセイ。
当時のパリのインフレの様子などを丹念に読み込んでいくあたりなど、かなり面
白い読み物になっています。歴史記述に触発された知識の記憶と想像の翼との邂
逅、とでもいったところでしょうか。

『シャルルマーニュ伝説』
トマス・ブルフィンチ著、市場泰男訳、講談社学術文庫
ISBN:9784061598065、1,208yen

19世紀のアメリカ人作家ブルフィンチは、ギリシア・ローマ神話などの著作で
知られていますが、ほかにもアーサー王物語やこのシャルルマーニュ伝説を扱っ
たものなどがあります。これ、おそらく以前別の文庫に入っていたものだと思い
ます。伝説の集成に関心のある方はぜひ。

『絵解きヨーロッパ中世の夢』
ジャック・ル・ゴフ著、樺山紘一監修、橘明美訳、原書房
ISBN:9784562040506、4,515yen

ル・ゴフの著作の邦訳刊行が続いていますね。こちらの原書は2005年にSeuilか
ら刊行された"Heros et merveilles du moyen age"ですね、めずらしいことに、
原書の表紙の装丁をそのまま採用した形になっています。内容は、カテドラル、
シャルルマーニュ、修道院、桃源郷、ユニコーンなどなど、中世の英雄譚や夢想
を通じてみた「イマジネール」の歴史ということのようです。図版が150枚も使
われているとのこと。

『ヨーロッパ中世の宗教運動』
池上俊一著、名古屋大学出版会
ISBN:9784815805548、7,980yen

中世の「霊性」というものを多角的に捉えた研究書のようです。隠修士、カタリ
派、ベギン会、鞭打ち苦行団などなど、あまり個別に詳しく取り上げられること
が少ないテーマも含め、総覧的に捉えている印象を受けます。同じ著者の『ロマ
ネスク世界論』(名古屋大学出版会、1999)の続編という位置づけですね。


------古典語探訪:ギリシア語編-------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(予告編)

100号を記念して、次号から新連載といきたいと思います。題して古典語探訪・
ギリシア語編。先のラテン語編では中世語の文法を概観しましたが、中世ヨー
ロッパに関係してくるギリシア語文献は、むしろ古代から古代末期にかけてのも
のが多くなるので(中世の著者たちが言及しているものです)、普通に古典語を
やる必要がありますね。で、ここではその古典ギリシア語の文法の復習などをか
ねて、いきなり「ハリー・ポッター」のギリシア語訳の冒頭を読んでいこうと思
います。プラトンとかアリストテレスとかを読み始めると思想的な問題などに邁
進していきそうになるので(笑)、純粋に文法や語彙の拡充という意味では、こ
ういうものも悪くないかなと思っています。

使用するテキストは"Areios Pothr kai he_ philosophou lithos" Ancient Greek
Edition trans. Andrew Wilson, Bloomsbury
です。ここから毎回1、2節を見て
いく感じにしたいと思います。ただ、このメルマガはテキスト形式ですので、気
息記号などのついたギリシア語の表記はできません。ですので、原則ローマンア
ルファベットにおきかえて話を進めますが、毎回画像ファイルかなにかでギリシ
ア語表記のテキストへのリンクを用意したいと思います。アルファベットのおき
かえは、次のように対応させることにします。

アルファ: a ベータ: b ガンマ: g デルタ: d エプシロン: e ゼータ:z
エータ: e_ セータ: th イオタ: i カッパ: k ラムダ: l ミュー: m
ニュー: n クシー: ks オミクロン: o ピー: p ロー: r シグマ: s タ
ウ: t ユプシロン: u フィー: ph キー: x プシー: ps オメガ:o_

気息記号、アクセント記号は割愛しますが、必要があるときにはなんらかの形で
示すことにします。実際に進めてみて、不都合があればまた再考します。という
わけで、次号からとりあえず始めてみたいと思います。


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その26

1年以上にわたり読んできたグイドの音楽論も、いよいよ最後の章を迎えまし
た。有名なピュタゴラスの逸話が紹介されている箇所です。今回は一気に読んで
しまいましょう。

# # #
Capitulum XX
Quomodo musica ex malleorum sonitu sit inventa

Erant antiquitus instrumenta incerta et canentium multitudo, sed caeca;
nullus enim hominum vocum differentias et symphoniae descriptionem
poterat aliqua argumentatione colligere, neque posset unquam certum
aliquid de hac arte cognoscere, nisi divina tandem bonitas, quod sequitur
suo nutu disponeret.
Cum Pythagoras quidam magnus philosophus forte iter ageret, ventum
est ad fabricam in qua super unam incudem quinque mallei feriebant,
quorum suavem concordiam miratus philosophus accessit primumque in
manuum varietate sperans vim soni ac modulationis existere, mutavit
malleos. Quo facto sua vis quemque secuta est. Subtracto itaque uno qui
dissonus erat a caeteris alios ponderavit, mirumque in modum divino nutu
primus XII, secundus IX, tertius VIII, quartus VI, nescio quibus ponderibus
appendebant.

第20章
音楽がいかに金槌の音から生まれたか

 古代の楽器は粗悪で、様々な歌があったが、音楽としては粗野なものだった。
異なる音や旋律の説明を、なんらかの論証をもってまとめることのできる者はい
なかった。神の善意がようやくその意思の帰結をもたらしたのでなければ、この
技法について確かなことを知ることもできなかったろう。
 ピュタゴラスという偉大な哲学者があるとき道を歩いていて、ある工場にやっ
て来た。そこでは、5本の金槌で1つのかな床をたたいていた。その調和の甘美
さに驚いた哲学者は、そこへ近づいていき、音とその抑揚の質は叩く手の違いに
よるのだろうと考え、まずは金槌を持ちかえさせてみた。だがそうしてみても、
音の質は変わらなかった。調和の取れていなかった一つを除き、ほかの重さを
量ってみたところ、驚いたことに、神の意思が働いたかのように、最初が12、2
つめが9、3つめが8、4つめが6となっていた−−ただし重さの尺度は不明であ
る。

Cognovit itaque in numerorum proportione et collatione musicae versari
scientiam. Erat enim ea constitutio in quattuor malleis, quae est modo in
quattuor litteris .A.D.E.a. Denique si .A. habeat XII et .D. IX, sintque
quattuor ternarii pro passu, habebit .A. in XII ternarios quattuor, et .D. in IX
ternarios tres. Ecce diatessaron. Rursus cum habeat .A. XII, si .E. teneat
VIII, quaternarios passus tres habebit .A., duos vero .E., et diapente patet.
Sint iterum XII in .A. et VI in alteram .a., senarius medietas est duodenarii,
sicut .a. acuta alterius .A. medietate colligitur. Adest ergo diapason. Ita
ipsa .A. ad .D. diatessaron, ad .E. diapente, alteri vero .a. diapason reddit. .
D. quoque ad .E. tonum, ad utrumque .A.a. diatessaron et diapente sonat.
Et .E. etiam ad .D. tonum, utrique .A.a. diapente vel diatessaron mandat; .
a. vero acuta cum .A. diapason, cum .D. diapente, cum .E. diatessaron
sonat. Quae cuncta in supradictis numeris curiosus perscrutator inveniet.

 こうして彼は、音楽の学知が、均整と数の比率にあることを知ったのである。
4つの金槌が作り出していたその構成は、A、D、E、aの4文字で表されているも
のに等しい。つまり、Aが12単位でDが9単位であるとすれば、3単位で4分割で
き、3単位を4つ取れば12単位でAになるし、3単位を3つ取とれば9単位でDとな
る。これはつまりディアテサロンの関係にあるということだ。また、Aが12単位
でEが8単位であるなら、4単位を3つ取ればA、4単位を2つ取ればEとなり、
ディアペンテの関係ということになる。さらにAが12単位、高いaが6単位であ
れば、6は12の半分であることから、高いaはAの半分ほどの高さになる。つま
りそれはディアパソンの関係である。このようにAから見ると、Dまでがディア
テサロン、Eまでがディアペンテ、高いaはディアパソンとなる。Dから見ると、
Eまではトヌス、Aとaまではディアテサロンとディアペンテとなる。Eから見る
と、Dまではトヌス、Aとaまではディアペンテ、ディアテサロンとなる。高いa
はAとはディアパソンの関係となり、Dとはディアペンテ、Eとはディアテサロン
である。以上を綿密に探求したい向きは、前述の数において検証すればよい。

Hinc enim incipiens Boetius panditor huius artis, multam miramque et
difficillimam huius artis cum numerorum proportione concordiam
demonstravit.
Quid plura? Per supradictas species voces ordinans monochordum
primus ille Pythagoras composuit, in quo quia non est lascivia sed diligenter
aperta artis notitia, sapientibus in commune placuit, atque usque in hunc
diem ars paulatim crescendo convaluit, ipso doctore semper humanas
tenebras illustrante, cuius summa sapientia per cuncta viget saecula.
Amen.

 この技芸を広めたボエティウスは、そこから始めて、その技芸が数の比に合致
するという驚くべき、また難しい事象を論証してみせた。
 それ以上言うべきことがあるだろうか?上で述べた音の種類を並べることで、
ピュタゴラスは始めてモノコルドを作り上げた。単なる興のためでなく、熱心に
その技芸の明晰な知を求めたがゆえに、賢者らの間で評価を得、その技芸は今日
にいたるまで徐々に発展することとなった。その博学の者は、みずから人間の闇
を照らしたのであり、その知の全体は、数々の時代を経てなお健在なのである。
アーメン。
# # #

金槌の重さが数の比になっていたというこの話、実は金槌の重さは関係ないので
正しくないのですが、いずれにしても音楽理論の発見者をピュタゴラスに帰して
いるところが面白いですね。このピュタゴラスの逸話、もとはボエティウスが
『音楽提要』で紹介したものですが、さらにそれ以前にはマクロビウスの『「ス
ピキオの夢」注解』にも見られるものです。またグイドの後も、たとえば13世
紀末のグロケイオの『音楽論』にも見られます。こちらは邦訳がありますね(中
世ルネサンス音楽史研究会訳、春秋社、2001)。

グイドの著書にはプラトン主義的な伝統が散見されましたが、グロケイオの著書
になると、これにプラスされる形でアリストテレス思想が顔を出してきます。こ
の逸話についても、ピュタゴラスが発見したのは原理であるとともに質料でも
あって、音楽家はその質料(マテリア)に形相を入れるのだ、などと解説されて
います。面白いのは、自然の事物では形相を吹き込むこと(作り出す)が原理と
されているのに対し、人為的事物では質料の側を原理と呼んで差し支えない、人
為的な事物では、素材は現実態を欠いていて、技芸の形相は偶有的だから、と説
明されていることです。このあたりの解釈は、13世紀において生じた「質料
因」の再評価を思わせるところがあります(13世紀以降、質料の側になんらか
の力があって、形相を導く、あるいは形相の受け入れを促すといった言説が多用
されていくようです)。

さて、19章は割愛しましたが、『ミクロログス』はいちおう以上で読了です。
本当ならこの『ミクロログス』と並行して、アウグスティヌスの音楽論やら、マ
ルティアヌス・カペラの『メルクリウスとフィロロギアの結婚』の最終章の音楽
論などにも目配せしたかったのですが、本文を追うだけで結構たいへんで、そう
いった余裕がありませんでした。また今後改めて、形を変えてそれらも取り上げ
ることができたらと思っています。いずれにしても、ここまで稚拙な訳におつき
合いいただき、ありがとうございました。

この文献講読シリーズ、次号は1回お休みをいただき、その後、今度は天空論の
問題をアルベルトゥス・マグヌスの論から拾って読んでみることにしたいと思い
ます。天空の運動に関する諸説を検討した箇所を見て、スコラ学的な議論の裁き
方に触れてみることにしたいと考えています。またおつき合いいただければ幸い
です。


*本マガジンは隔週の発行ですが、4月始めは春休みをいただき、次号は一週遅
れの4月14日の予定です。

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投稿者 Masaki : 00:14

2007年03月12日

No. 99

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.99 2006/03/10

*今号は出先からの送信のため、やや短縮版です。

------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その7)

『アベラールとエロイーズ』でお馴染み(?)のアベラール(ペトルス・アベラ
ルドゥス:1079-1142)は、神学者としてもとても重要な人物ですね。『イサ
ゴーゲー』の仏訳本は「sic et non」のシリーズの一冊として刊行されています
が、この「sic et non」(然りと否)という方法論を一躍有名にしたのは、ほか
ならぬアベラールです。その中庸的・弁証法的なスタンスは三位一体論などにま
で及び、そのために異端的な危険思想扱いもされました。ある意味、知的な自由
人という感じでしょうか。そのアベラールによる「イサゴーゲー」の注解です
が、1102年から1104年頃に書かれたとされる初期の著作に3種類あるといいま
すが、ここでは最も名の知られた"Logica ingredientibus(入門論理学)"とい
う著書の一部を取り上げます("Readings in Medieval Philosophy"という英訳ア
ンソロジーがなかなか簡明な訳になっているので、そちらを参照しています)。

アベラールが掲げるテーマを一言でいうと、「種」「類」などの「普遍概念」と
されるものの特質を、抽象化の作用から考えるということです。そのため注解
も、ポルピュリオスのテクストの逐語解というよりも、それに触発された議論の
展開という形になっているようです。アベラールはまず、アリストテレスによる
「普遍概念」の定義、つまり「多くの言葉の述語となりうるもの」という定義を
取り上げ、それが事物の名前として機能することを確認します。次に「ではそれ
はどういう名前なのか」という問題を掲げ、こうして知覚から知解へのプロセス
を問うていきます。

アベラールは、知覚も知解も魂の働きであるとした上で、魂が外部の事物の似姿
を心的に作り上げることが基本なのだといい、したがって知覚される事物、知解
される事物は、外在する当の事物とイコールではない、と述べています(言語学
でいう聴覚映像を思い出しますね)。心がみずから作り上げた像または構築物に
知性が差し向かうことを、アベラールは知解と考えています。

「普遍概念」と「個別概念」はどう違ってくるのかというと、「普遍概念」は事
物に共通する概念(common conception)なのだと説明されます。アベラール
はプリスキアヌスやポルピュリオス、ボエティウスなどを引き合いに出しながら
そのあたりを論じていきます。とりわけ、ボエティウスの指摘によるとされる、
プラトンとアリストテレスの違いが重要です。アリストテレスが共通概念を「多
くの語の述語になれる」と定義するのに対して、プラトンはそれを「多くの事物
に共通する共通の類似」と定義している、というのですね。アリストテレスが普
遍概念をあくまで知覚したものの中に見いだしているのに対し、プラトンは普遍
概念の実在を共通特性として想定し、知覚したものはその実在の証拠だと見てい
るというわけです。

アベラールは、外在する当の事物とそれらを知る行為(知解)との間に、「名
前」の意味作用を考えなくてはならない、としています。つまり、両者をつなぐ
第三の項を加えて、三項関係で考えようというのです。語が一般的な事物・事象
(たとえば「人間」「四角」「高さ」などなど)を指し示せるのは、そうした語
を立てるだけの共通の事由が実際に見いだされるからなのか、それとも純粋に共
通概念としてあるからなのか、という問いに対し、アベラールは、その両方で
あっていけない理由はないとしつつ、前者の「共通の事由」を事物の本性
(nature)に関わるものと解するなら、その前者の説ほうが優勢になるだろう
と述べています。普遍概念(を表す語)は、事物に内在する「共通の」本性を指
すものだということで、実在論的な考え方に比較上の軍配を上げているのです
ね。そしてその事物の共通本性を取り出すことが、魂の機能としての抽象化だと
いう次第です。

「普遍概念を表す語が、事物の本性にないものを表しているときにのみ、その語
は指示対象のない、空疎な語となる」。「事物に内在する本性を、それが分離し
て存在するわけではないにせよ、分離的に理解することが理解なのだ」。このよ
うに、アベラールの「実在論」は、事物に内在する本質を知的な働きが取り出す
という意味での実在論であり、いわば実在論・唯名論の中庸を貫く立場を取って
います。これがアベラールの「普遍概念」論の外枠あるいは大筋ですが、この中
庸思想から逆に、当時の普遍論争の一端がほの見えてきたりはしないでしょう
か?そのあたりもふくめて、より俯瞰的にまとめることはできないでしょうか?
(続く)
(*都合により、次号の文献探訪シリーズは1回お休みします)。


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その25

さて、今回は18章の残りです。一気に見ていくことにしましょう。

# # #
Item cum occursus fit tono diutinus fit tenor finis, ut ei et partim
subsequatur et partim concinatur; cum vero ditono diutior, ut saepe per
intermissam vocem dum vel parva sit subsecutio, etiam toni non desit
occursio. Quod quia tunc fit cum harmonia finitur deutero; si cantus non
speratur ultra ad tritum descendere, utile tunc erit proto vim organi
occupare, subsequentibus subsequi, finique per tonum decenter occurrere.
Item cum plus diatessaron seiungi non liceat, opus est, cum plus se
cantor intenderit, subsecutor ascendat, ut videlicet .C. sequatur .F., et .D.
.G., et .E. .a. et reliqua.

 また、音の収斂がトヌスでなされる場合、終音部の保持を長くし、部分的には
伴奏がつき部分的にはユニゾンになるようにする。ディトヌス(長3度)でなさ
れる場合にはさらに長くし、大抵は間に音を入れて、伴奏部分は短いながら、や
はりトヌスで収斂させるようにする。デウテルス(第二旋法)で曲が終わるとき
にこういう状況が起きる。主旋律が高い音からトリトゥスに下降することが期待
されない場合、代わりにプロトゥスを用いてオルガヌムとするのがよい。続く音
に随伴し、トヌスでもって適切に収斂させて終えるようにする。
 また、ディアテサロンから離れることができなくなった場合、主旋律がさらに
高い音になったなら、伴奏もまた上昇させ、FにCが、GにDが、aにEがなどと随
伴するようにする。

Denique praeter .[sqb]. quadratam singulis vocibus diatessaron subest,
unde in quibus distinctionibus illa fuerit, .G. vim organi possidebit. Quod
cum fit, si aut cantus ad .F. descendat, aut in .G. distinctionem faciat, ad .
G. et .a. congruis locis .F. subsequitur; si in .G. vero cantus non terminet, .F.
cum cantu vim organi admittit.
Cum vero .b. mollis versatur in cantu, .F. organalis erit. Cum ergo tritus
adeo diaphoniae obtineat principatum ut aptissimum supra caeteros
obtineat locum, videmus eum a Gregorio non immerito plus caeteris
vocibus adamatum. Ei enim multa melorum principia et plurimas
repercussiones dedit, ut saepe si de eius cantu triti .F. et .C. subtrahas,
prope medietatem tulisse videaris.
Diaphoniae praecepta donata sunt, quae si exemplis probes, perfecte
cognosces.

 さらに、各音には4度下の音を置くことができるが、#は除く。どこかのフ
レーズで#が使われる場合、Gがオルガヌムになるようにする。その際、主旋律
がFへと下降するかあるいはGでフレーズを終えるのであれば、Gおよびaに対し
て、適宜Fが随伴となるようにする。主旋律がGで終わらない場合、Fはオルガヌ
ムとしては許容されない。
 主旋律でbモルが使われる場合、Fをオルガヌムとする。トリトゥスはディア
フォニーにおいて主要な地位を占めており、ほかに比べて最も適切なものとされ
ている。したがって、グレゴリウスがほかの音にもましてそれを好んだのはもっ
ともである。そのため、それは多くの歌の始まりに使われ、最大級の響きをもた
らしてきた。トリトゥスの歌からFやCを省いてしまうと、ほとんど半分はなく
なってしまうほどである。
 ディアフォニーの規則は以上である。実例を見ればその理解も完全なものにな
るだろう。
# # #

今回も19章に挙げられている実例を参照しておきたいと思います。まず、フ
レージングの終わりをトヌスで伴奏するという1段落目の例は、たとえば譜面4
(前回を参照)や6が挙げられます(http://www.medieviste.org/blog/
archives/19-4.html
)。2段落目の主旋律の上昇に合わせる例は譜面2などです
ね。3段落目の#に対するG、あるいはGやaに対するFの使用例は、譜面10と11
を見てください(http://www.medieviste.org/archives/19-10.html
http://www.medieviste.org/archives/19-11.html)。

4段落目でいうrepercussioは、連打音的な音のことを言うようです(伊語訳
注)。また、仏訳の注によれば、トリトゥスはグイドにとってとても重要で、譜
面上でCとFのところに線を入れるようにしたのはグイドの考案だとされていま
す。また11世紀初頭から、北部・東部地域では、EとGを半音上げたFとCにそれ
ぞれ変える傾向があったのだとか。さらに最近の研究で明らかになったことだと
して、ローマ地方ではトリトゥスが支配的な旋法だったという話も紹介されてい
ます。このあたりの専門的な話は詳しくはわかりませんが、いずれにしても、ト
リトゥスはグレゴリオ聖歌全般のメインの旋法となっているのですね。

19章はほとんど譜面だけ(これまでに挙げた11枚)ですので、前回も言いまし
たように、ここでは訳出は省きます。というわけで、次回は20章、いよいよこ
の音楽教程の最後の章に入ります。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は3月24日の予定です(いよいよ100号で
す)。

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投稿者 Masaki : 23:53