2008年03月29日

No.123

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.123 2008/03/22

*お知らせ
いつもご購読ありがとうございます。本マガジンは原則隔週での発行です
が、次号は都合により1週ずれて、4月12日の発行といたします。よろし
くお願い申し上げます。

------新刊情報--------------------------------
まだときおり寒さも戻りますが、いよいよ暖かいシーズンになってきまし
たね。書籍も春のにぎわいになってくれるとよいのですが(笑)。

『中世における理性と霊性』
クラウス・リーゼンフーバー著、村井則夫訳、知泉書館
ISBN:9784862850287、

上智大学の中世思想研究所による叢書の一つ。おなじみリーゼンフーバー
氏の新作ですね。11世紀の初期スコラから15世紀の初期ルネサンスま
で、人名で言うならカンタベリーのアンセルムスからトマス、フライブル
クのディートリヒ、ジャン・ビュリダンを経由してクザーヌス、フィチー
ノにいたるまで、理性論の多様な流れを追ったもののようです。ちょっと
値段は張りますが、取り上げられる項目のラインナップに食指がそそられ
る感じもします。

『自然の諸原理について--兄弟シルヴェストルに』
トマス・アクィナス著、長倉久子ほか訳、知泉書館
ISBN:9784862850270、3,150yen

これも知泉書館からですが、久々のラテン語対訳本ですね。アリストテレ
スの4原因説とアナロギアについて記した初期のごく小さなテキストで
す。『存在と本質について』と同じころに書かれたものだといい、ある意
味とても重要なものなので、個人的にはぜひ目を通したいと思っていま
す。こういった重要なテキストの対訳本はもっと増えてほしい気がしま
す。

『ドイツ中世美術1』
岡野Heinrich圭一著、専修大学出版局
ISBN:9784881252000、9,450yen

ドイツの中世美術の主要作品を様式・形態面から詳述していくという美術
書のようです。シリーズ刊行ということのようですね。第1巻はゲルマン
の民族大移動からロマネスク時代までとなっています。これまた大分の書
籍ですが、図版とかどれくらい入っているのかも気になります。


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その6)

レッティンク本をベースにしたまとめも6回目となります。今回はアヴェ
ロエス(イブン・ルシュド)です。一般にアヴェロエスのアリストテレス
注解は長さの違うものが複数ありますが、『気象論』についても同様で、
「小注解」と「中注解」があります。後者のほうが後から書かれたもの
で、レッティンクによれば、最初の「小注解」は、アヴェンパーチェ(イ
ブン・バージャー)の『気象論注解』に酷似しているといいます。注解と
いうよりはパラフレーズで、アリストテレスの議論をかなり自由に言い換
えたものになっているようです。ただしアヴェンパーチェのものよりも、
アヴェロエスの「注解」のほうがより体系的なのだとか。

注目される議論は「銀河(天の川)」をめぐる議論でしょうか。アリスト
テレスは銀河を気象現象と見なしているのですが、アヴェンパーチェはこ
れを天空と地上世界の原因とが相まった結果と考えます。つまり銀河の光
は天空の星から発せられ、それが伸ばされたような形状をしているのは、
火と煙が混成した上空の大気に反射した現象だからだというわけです。ア
ヴェロエスもこれを「小注解」で採用しているのですね。アヴェンパー
チェがベースにしているのはイブン・アル=ビトリークのテキストのよう
で、イブン・アル=ビトリークは、銀河は燃焼によるのではなく、星の光
の反射による現象だとしているようです。アヴェロエスはまた、アフロ
ディシアスのアレクサンドロス、偽オリュンピオドロス、アヴィセンナな
どの気象論も批判のために参照しています。

「中注解」は「小注解」とは違い、逐語的な注解という体裁になります。
レッティンクは、注解される当のテキストはイブン・アル=ビトリーク訳
のテキストだろうとしています。「中注解」では内容的にも「小注解」の
いくつかの見解が修正されるようですが、銀河の話については基本線は変
わりません。「小注解」でも、アレクサンドロスの説だとして(本来はア
リストテレスなのですが)、混成的な蒸発物が星雲によって引き上げら
れ、そこで燃焼することによって生じるという説が紹介され、その上で批
判されるのですが、「中注解」でもこれは蹈襲されているのですね。

アヴェロエスは銀河についての説明を二種類示します。一つはそれを反射
による視覚効果にすぎないとする立場、もう一つはそれを空気の燃焼によ
る発光現象と見る立場です(こちらがアレクサンドロスの説です)。ア
ヴェロエスはこの後者を観察的事実を理由に斥けます。その上で前者の説
を採用し、練り上げようとするのですが、そこでもまた多少の問題点が残
ります。たとえば、反射は密度の高い層で起こるのであって、火の層(ア
リストテレス説にもとづくと、上空は火の元素の層となっているのでし
た)では起こらないはずだといった矛盾です。アヴェロエスはこのあたり
の微妙な点を踏まえ、3つほどの仮説を用意します。1つは、星との距離
がありすぎるために視力が及ばず、それゆえに反射的な状態が生じている
のかもしれないというもの、2つめは、何らかの理由で銀河のある天空は
密度が増しているのかもしれないという説、3つめは、そもそも銀河が見
られる天球では多数の小さな星が密集しているために、光が重なって分別
できなくなっているのかもしれないという説。ただしそれらはあくまで可
能性としての話でしかなく、アヴェロエスはそのどれかに断定することを
避けるのですね。アヴィセンナがそうであったように、アヴェロエスもま
た、明確な答えはわからないことを潔く認めるのです。こうした知的誠実
さは、アラビア思想圏の特徴のような気もします。

それにしても、アヴィセンナやアヴェロエスにまで及ぶイブン・アル=ビ
トリークのアラブ世界での影響力は壮観ですね。このシリーズでもこの
後、西欧世界への気象論の紹介について見ていきたいと思っていますが、
それに類する大きな影響を後世に与えた注解・訳本はちょっと見あたらな
い気がします。もちろん、だからといってアリストテレスの議論が変形・
歪曲されずに伝わったわけでもないようなのですけれど。そのあたり、次
回から眺めていくことにします。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その9:間接疑問文)

間接文の続きです。間接疑問文も基本的には平常文と同じ処理でよく、あ
とは疑問詞を用いればオーケーです。疑問詞を伴わない疑問文はどうする
かというと、英語ならifを用いるのと同じで、ギリシア語のifに相当する
eiを用います。注意点は、仮定の場合に用いるeanは疑問文の場合には使
わないということです。また、否定辞は間接疑問文の中でもouでよいの
ですが、eiに続く場合にはouとme^のいずれも可です。

例文です(アクセント付き表記はこちら→http://www.medieviste.org/
blog/archives/GC_No.9.html
)。「彼は私に本がどう作られるのか教
えてくれた」「何人来ているのか彼は知りたがっている」「私は誰も来な
かったかと尋ねた」
1. edidaksen eme hopo^s biblos poieitai.
2. bouletai gno^nai hoposoi pareisi.
3. e^rom^en ei me^deis he^kei.

選択疑問文の場合はpoteronを用います。もう一つ、いわゆる自問形の間
接疑問文(英語ならwonderなどを用いますね)の場合には、希求法を用
います。希求法は直接疑問文では用いられないのですね。

再び例文です。「戦うほうがよいのか逃げるほうがよいのか知るのは簡単
ではない」「私たちは彼がどうやって助かったのかと訝しんだ」「彼は何
をすべきか途方に暮れていた」
4. ou raidion estin eidenai poteron ameinon esti machesthai e^
apopheugein.
5. ethaumazomen po^s dunainto so^izesthai.
6. e^porei hoti poie^se^i.

次回は間接命令文と間接文内の節の処理を見ていきましょう。


*本マガジンは隔週の発行ですが、次号はイレギュラーで04月12日の予
定です。

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投稿者 Masaki : 20:27

2008年03月13日

No.122

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.122 2008/03/08


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その5)

8世紀末のイブン・アル=ビトリークによる訳業の影響はさらに後代にま
で続き、11世紀初頭に活躍したアヴィセンナ(イブン・シーナー)など
もそれを参照していたといいます。と同時に、アヴィセンナは偽オリュン
ピオドロスなども活用していたようで、レッティンク本によれば、そのた
め気象現象に関するアヴィセンナの記述は、アリストテレスをベースとし
つつも、個々の議論ではそこから逸脱していくことになります。アヴィセ
ンナは大著『治癒の書』で気象現象について取り上げているのですが、
レッティンクはそこでの議論全般を、「独立心をもち、自分自身で行った
観察を述べ、あり得ないと思った見解に従うよりも現象の説明がつかない
ことをあえて認めようとする」学者像の印象を受けると評価しています。

この最後の、説明がつかないことを率直に認めようとする潔い態度の例と
して、暈輪や虹の色をめぐる議論が挙げられています。アリストテレスは
それらの現象を反射現象とし、雲が鏡のような働きをして太陽などの光線
を反射するのが虹で、雲と太陽が逆の位置になければ虹は生じないと述べ
ています(『気象論』第3巻第4章)。つまり太陽を背にして前方に雲が
あり、その手前に虹が生じるような場面を考えていて、虹は雲が太陽光線
を反射したもので、色の変化は雲の密度の差に由来するというのですね。
逍遙学派は総じてこの説明を継承するようなのですが、これに対しアヴィ
センナは、雲のない状況で虹が出ることがあるといった観察をもとに、そ
うした逍遙学派の説明を不十分だと断じているというのです。基本的にア
ヴィセンナは、虹は雲による反射ではなく、多量の水滴を含んだ湿度の高
い空気による反射ではないかと考えているようです。まだ屈折の考え方に
は至っていないのですね。

アヴィセンナの弟子筋の代になると、今度はアヴィセンナ自身とも見解を
異にするようになっていくようですが、そこでも援用されるのはやはりア
リストテレスです。レッティンクの挙げているアブー・ル=バラカット
(この人物の詳細はちょっと不明なのですが)は、暈輪や虹といった現象
の原因は地上のみにあらずとし、これまたアリストテレスの論を下敷き
に、ある種の天空の力を想定していたらしいのです。流星などと同じ括り
にしていたわけですね。こうして見ると、アリストテレス思想は一種の縛
りとして機能していたような感じにすらなってきます。たとえば、光学論
で有名な11世紀初めのアルハーゼン(イブン・アル=ハイタム)にしても
そうで、屈折概念を盛んに研究していながらも、暈輪や虹の原因について
はアリストテレスの反射説を蹈襲してしまっているのですね(もちろんか
なり精緻化されてはいるようですが)。そうなると、時代が下っていくに
つれてアリストテレス説の縛りがどう脱却・克服されていくのかという問
題も気になってきます。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その8:間接文2)

間接文についての続きとして、注意点を挙げておきましょう。それはつま
り、動詞によって、どういった形の句を取るかが規則として決まっている
ものがある、ということです。まず、希望や約束、誓約などを表す動詞
(elpizo^、hupischneomai、omnumi)は、その動詞の性質上、未来形
の不定詞を取ります。例文を見てみましょう(ギリシア語表記はこちら
http://www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.8.html)。「彼
らはそれを行わないと約束した」「彼らは誰にも見られないことを望ん
だ」

1. hupeschonto me^ touto poie^sein.
2. e^lpizon me^dena sphas idein.

知覚や認識などを表す動詞(oida、gigno^sko^、aisthanomaiなど)の
場合には、分詞ではなく不定詞を取ります。分詞の主語は対格で表します
(目的語になるので)。ほかにも、aggelo^、punthanomaiなど、この
ように分詞を取る動詞は結構あるみたいですね。「私は彼が到着したこと
を知っている」「私は自分が間違ったことを自覚している」「彼らは門が
開いていたのを見てとった」

3. oida auton aphikomenon.
4. sunoida emautoi hamarto^n.
5. e^isthonto tas pulas aneo^igmenas.

間接文の話はまだ間接疑問文や間接文内部での従属節など、いろいろト
ピックがありますので、あと何回か続けましょう(笑)。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その20)

いよいよこのテキストも最終回です。さっそく見ていきましょう。

# # #
Si quis autem nobis obiciat, quod istum fluxum rerum etiam
sequitur, quod non unum ab uno est tantum, quia intelligentia,
quae primum effectum est a primo principio, non simpliciter unum
est, sed tria quodammodo, ut diximus, dicemus ad hoc, quod
intelligentia quidem unum est secundum substantiam et esse, sed
ad hoc quod facta est, tira habet consequentia et concomitantia;
scilicet intelligere se, secundum quod a primo est; et intelligere se
secundum ‘id quod est’; et intelligere se, secundum quod in
potentia est. Et haec non variant substantiam, sed virtutes eius, et
concomitantur ipsam, in quantum ipsa secundum est. Propter
quod haec tria inveniuntur in omni ea comparatione qua
secundum comparatur ad prius.

もし誰かが私たちに反対して、「そうした事物の流出の結果、一からは一
が生ずるのではない、なぜなら第一原理から最初に生じる知性は純粋に一
つなのではなく、なんらかの形で三層であるからだ」と、先に私たちが述
べたようなことを持ち出すならば、私たちはそれに対しこう述べよう。確
かに知性は実体および存在においては一つなのだが、それが創られたもの
であるという点に関して、結果的・随伴的に三をなすのである。すなわ
ち、第一のものから生じたものとして自己を知解し、「本質」において自
己を知解し、潜在態であるものとして自己を知解するのだ。それらは、そ
の知性の実体ではなく力能のほうを変化させ、その知性が二番目である限
りにおいてその知性そのものに随伴する。そのため、それら三層は、二番
目のものが一番目のものに結びつくあらゆる関係に見い出されるのであ
る。

Ordines autem intelligentiarum, quas nos determinavimus, quidem
dicunt esse ordines angelorum et intelligentias vocant angelos. Et
hoc quidem dicunt Isaac et Rabi Moyses et ceteri phisophi
Iudaeorum. Sed nos hoc verum esse non credimus. Ordines enim
angelorum distinguuntur secundum differentias illuminationum et
theophaniarum, quae revelatione accipiuntur et fide creduntur et
ad perfectionem regni caelestis ordinantur in gratia et
beatitudine. De quibus philosophia nihil potest per rationem
philosophicam determinare.

Explicit liber primus de causis.

私たちが論じてきた知性の秩序を、ある人々は天使の秩序だといい、知性
を天使と呼んでいる。イサクやラビ・モーゼスほかユダヤ教の哲学者たち
は確かにそう述べている。けれども私たちは、それが正しいとは考えな
い。というのも、天使の序列は照明と神の顕現の度合いに即して区分さ
れ、啓示を通じて受け入れられ、信として仰がれ、恩寵と至福のうちに天
の支配の完成に向けて秩序づけられるからだ。そのような叡智について
は、哲学の議論ではなんら論じることができないのである。

原因論第1書、了
# # #

上に出てたイサクとは10世紀半ばごろケルアン(チュニジア)のカリフ
の宮殿で医師として活躍したイサク・イスラエリのことです。ラビ・モー
ゼスはご存じマイモニデスですね。

今回のところはいかにもまとめに相応しく、再び「知性」の三種の自己認
識が取り上げられています。この三種の自己認識は、知性が階層として形
作られていく上での原理をなしているのでした。実はこれも原型はアヴィ
センナの流出論に見いだされるものです。フランスのイスラム学の大家と
されるアンリ・コルバンは、『アヴィセンナと幻視譚』という論考の中
で、その流出論を三層から成るものとして描いています。自己の原理の理
解、自己の必然性の理解、自己の非必然性の理解という三種の「次元」
が、第一知性以下のいわば原中心柱をなしていて、それが「反復」される
ことによってすべての序列が成立するというわけです(ただしそれは同時
的になされるものだとされます)。

アヴィセンナのこうした知性の序列は、天使の序列とイコールだとされて
います。ですが上のテキストからもわかるように、アルベルトゥスは知性
の流出論自体ではアヴィセンナに即していても、それを天使の序列と同一
視することは受け入れていません。このあたりは、コルバンの述べる東方
と西欧とでのアヴィセンナ思想の受容の違いを反映していそうです。西欧
キリスト教の世界では、創造はあくまで神の所産とされ、中間的な存在が
下位の存在を生じさせるといった話は受け入れられず、アヴィセンナ思想
のその部分には、たとえばオーベルニュのギヨームなどによる批判が浴び
せられてきたのでした。ギヨームのほぼ同時代人であるアルベルトゥス
も、そうした批判的な部分を蹈襲していると見ることができそうです。

少し脱線になりますが、コルバンの指摘によると、このような分離知性の
自己認識的な流出論に対して異を唱えるのがアヴェロエスです。流出論は
基本的に「一からは一しか生じない」という原理の縛りがあるため、一連
の知性は上から下へトップダウンで創造されるしかなく、上位の知性は下
位の知性の実質因になるわけですが、アヴェロエスはその従属関係・因果
関係を逆転させた体系を考えます。各天球が動くのは固有の知性に同化し
ようと欲するからだというアリストテレスのテーゼを敷衍し、各天球の動
因となる知性は最高位の天球の動因である知性を欲する(指向する)と考
えるのですね。これにより、作用因だった第一知性は目的因となり、かく
して内包されるものが内包するものの原因となって、一から多が生じる契
機が生まれるというわけです(ちょっとそのあたりの理屈は端折っていま
すが)。一と多の関係性は大きな問題ですが、アヴェロエスのこの解決策
はちょっと興味をそそられますね。そちらも影響関係などを含めて辿って
みたい気がしますが、それはまた別の機会に取っておきましょう。

さて、20回にわたり、アルベルトゥス・マグヌスの「原因論」注解をご
く一部ですが見てきました。少し訳出の不備もありましたが、13世紀の
コスモロジーの一端に触れることはできたかなと思います。それにしても
これはきわめて形而上学的な世界ですね。そのあたりの壮大な世界観につ
いては引き続き探っていきたいところです。で、それとの関連もあって、
次はアルベルトゥスの弟子筋でもあるトマス・アクィナスをかじってみた
いと思います。『神学大全』から、存在論がらみのごく小さな部分を読ん
でみましょう。エティエンヌ・ジルソンがハイデガーのはるか源流のごと
く位置づけた存在神学の問題を、多少とも復習できたらと思っています。
次回は一回お休みし、4月からスタートしたいと思います。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は03月22日の予定です。

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投稿者 Masaki : 00:56