2008年02月27日

No.121

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.121 2008/02/23


------新刊情報--------------------------------
春を前に足踏み状態の天候ですが、新刊もちょっと小休止というところで
しょうか。

『ベーダ英国民教会史』
高橋博訳、講談社学術文庫
ISBN:978406159862、1,207yen

尊者ベーダ(673年頃〜735年)の有名な『英国民教会史』の新訳とのこ
と。ベーダは実は膨大な著作を残していますが、やはり一番有名なのはこ
の主著ですね。アルフレッド大王版と紹介されています。この書、もとも
とは731年にセオウルフに捧げられたものですが、今回の底本は後代のア
ルフレッド大王(9世紀)の所有していた写本ということでしょうか
(?)。どういう異同があるのでしょうね。余談ながら、昨年9月にジェ
フリー・オブ・マンモス(12世紀)の『ブリタニア列王史』の邦訳も出
ていますが(瀬谷幸男訳、南雲堂フェニックス)、ベーダはそのソースの
一つにもなっているのでした。

"Medieval Jewish Philosophical Writings"
Charles Manekin編、Cambridge University Press
ISBN:9780521549516、29.99 dollars

ケンブリッジ哲学史テキストシリーズの一冊で、中世のユダヤ哲学が出ま
した。イブン・ガビロル(アヴィチェブロン)やマイモニデス、ナルボン
ヌのモーゼス、ゲルソニデスなど、7人の主要著者の英訳アンソロジーの
ようです。いずれも新訳とのこと。まだまだ認知度が高いとはいえない中
世ユダヤ思想ですが、少しばかりかじっただけでもなかなか奥深い世界で
あることがわかります。こういう普及版はある意味とても有意義です。

"Maimonides after 800 Years : Essays on Mimonides and his
Influence"

Jay M. Harris編、Harvard University Center for Jewish Studies
ISBN:9780674025905、65.00 dollars

こちらはマイモニデス没後800年にあたる2004年の記念論集ですね。
ハードカバー版です。紹介文によると、当代切ってのスカラーたちによ
る、マイモニデスの著作と影響全般をカバーする論集ということになって
います。最新の知見が見られるかもしれないという点で、ちょっとこれは
個人的にも期待大です。


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その4)

前回触れたアル・ビトリークらの翻訳テキストは、アル・キンディとその
一派によって使われることになりました。アル・キンディは9世紀に今の
イランで活躍したアラビア哲学者です。アリストテレス思想を取り込み、
諸学に通じた嚆矢的存在とされます。気象論としてはまとまった著作は残
していないようですが、個々の議論が書簡などの形で残っているようで
す。今回もレッティンクのまとめに即して見ておきましょう。

レッティンクが特に取り上げているのは、雨と風の原因についての議論で
す。基本的にはアリストテレスの蒸発の理論を踏まえた形で雨や風の形成
を説明しているようですね。まずは風ですが、これは蒸発物が太陽の熱に
よって膨張し、水平方向、つまり南から北、北から南といった運動が生じ
たものなのだ、とアル・キンディは説明します。また、その運動に際し
て、蒸発物が低温の地域(たとえば山岳地帯など)を通るときに凝結が生
じ、それが雨になるとされています。一方、これとは別に垂直方向の動き
もあるとされ、蒸発物が大地から上昇し、上空の空気の冷たい層にまで上
るとそこで凝結するとされます。ここで蒸発物が湿気をもっている場合に
は水滴となり、乾いている場合にはそれが土となって空気を押し、かくし
て風が生じるというのです。こうした二重の説明をアル・キンディは加え
ています。

この垂直方向の動きによる雨の形成についてはアリストテレスに典拠があ
りますが(2巻4章)、水平方向の動きへの言及はありません。また、風
の形成についてはどちらの説明もアリストテレスには見られません。レッ
ティンクは、蒸発物が山岳地帯を通ることによって雨になるとの説明はテ
オフラストスの説明に呼応するとした上で、「だからといってテオフラス
トスの影響とする説は受け入れがたい」と異議を唱えています。テオフラ
ストスは蒸発物が凝結するのは山地に押しつけられ圧縮することによって
だと説明するのに対し、アル・キンディの場合には山地は一例にすぎず、
冷却が起きるところではどこでも凝結は生じうると考えているのですね。
風の形成についても、テオフラストスは圧縮が生じる場所から密度の低い
場所に空気は流れると考えていますが、アル・キンディはむしろ、暖めら
れ膨張する場所から密度の高い場所に向かって流れると考えているようで
す。

アル・キンディのこうした説明、とくにこの風の説明については、その学
派もしくは影響圏(アル・キンディ・サークルなどと言われます)を中心
に流布していったようですが、テオフラストスの広範な影響があったとい
う考え方をレッティンクは斥けています。また、こうしたアル・キンディ
の説も、次の世代に相当するアヴィセンナ(イブン・シーナー)あたりに
なるとまた違った受け止め方をされていくようです。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その7:間接文1)

今回は間接文です。「〜と言う」「〜と思う」というような場合の、
「〜」の部分の表し方ですが、ギリシア語の場合には節を使って表現する
方法と、不定詞句にする方法とがあります。

まずは節の場合ですが、作り方はhoti、ho^sなどの後に文を入れるだけ
です。ここでやはり気になるのは、節に用いる動詞の話法と時制です。と
ころがギリシア語の場合、結論から言うと間接文の時制は「直接文のとき
と同じ」でオッケーなのですね。つまり直説法の時制はそのまま変更しな
くてよいのです。話法については、事実関係の場合は直説法で、話者の考
えが込められているような場合は希求法で表すというのがルールです。

例文を見ていきましょう(ギリシア語表記はこちら→http://
www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.7.html
)。「キュロスが
いる、と彼らは言った」「キュロスはいるさ、と彼は答えた」「キュロス
はいるだろう、と彼は言った」

1. legousin hoti ho Kuros paresti.
2. apekrinato hoti ho kuros pareie^ (parestiも可)
3. eipen hoti paresoito(parestaiも可)

続いて不定詞句の場合です。不定詞句の主語は対格で表されます(ラテン
語の場合と同じですね)。ただし不定詞句の主語と文の主語が一致する場
合、不定詞句の主語は省略されます(強調する場合を除く)。時制はやは
り直接文での時制のままとし、未完了過去は現在形で、過去完了は完了形
で代用します。上の節の場合もそうですが、否定辞はouをとります。

「敵は去った、と報告されている)」を両方の書き方で書くと次のように
なります。

4. aggeletai hoi hoi polemioi pephugasin.
5. aggeletai tous polemious pephugenai.

もう一つ、「デモステネスは、フィロポスはアテネ人を打ち負かせないと
言った」を両方の書き方で。動詞が違っているところ(phe^miは不定詞
とともにのみ用い、eiponはどちらかというと節を取る)と、否定辞の使
い方に注意が必要ですね。

6. ho De^mosthene^s eipen hoti ho Filippos ou dunatai nikan tous
Athe^naios.
7. ho De^mosthene^s ouk ephe^ ton Filoppon dunasthai vikan
tous Athe^naios.

間接文にはまだ注意点がありますが、それはまた次回に(笑)。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その19)

いよいよこのテキストも、今回と次回を残すのみとなりました。ではさっ
そく見ていきたいと思います。

# # #
Avicebron autem in Fonte vitae specialem sibi fingens
philosophiam dicit, quod post unitatem primi principii, quod
omnia penetrare dicit, binaris est, forma scilicet et materia. Dicit
enim, quod prima forma intelligentia est et prima materia ea quae
fundat et sustentat formam, quae dicitur intelligentia; et quod
forma nec ictu oculi fuit umquam sine materia vel materia sine
forma. Prima enim forma, ut dicit, et deternimans materiae
potentiam, quae capax est omnium, est intelligentia. Secunda
vero corporeitas, quae claudit materiae primae capacitatem.
Corporea enim materia non capax omnium est. Tertiam vero dicit
contrarietatem, quae est materia et forma elementorum, quae
minoris est comprehensionis quam materia corporea. Quartum
vero dicit formam comixtionis. Et sic ex primo producit universa.
Unde autem veniat intelligentia vel corporeitas vel contrarietas vel
commixtio, per causam rationabilem non determinat eo quod
sophismata sequitur et topicas quasdam rationes adducit, sicut in
antehabitis diximus.

しかしながら、『生命の泉』の中で特殊な哲学を作り上げているアヴィ
チェブロンは、すべてのものに入っていくと言われる第一原理の一性に続
くのは二性、すなわち形相と質料であると述べている。というのも、第一
の形相は知性であり、形相を支え維持する第一の質料もまた知性と称され
るからである。また、視線に晒される形相は一時たりとも質料を伴わな
かったことはなく、質料も形相を伴わないことはないとも述べている。彼
が述べているように、第一の形相、つまり質料の潜在態を定め、あらゆる
ものの力能をなすそれは、知性である。第二の形相は物体性であり、それ
が第一質料の力能を完成させる。というのも、物体的な質料はあらゆるも
のの力能をなしてはいないからだ。第三の形相は対立である。それは元素
の質料と形相であり、その結合力は物体的な質料よりも小さい。第四の形
相は混成である。このように、第一のもの(知性)からすべては生まれ
る。しかしながら、知性、物質性、反目、混成がどこからもたらされるの
かは、理性的な原因では決定できない。というのも、すでに述べたよう
に、それでは詭弁が続き、なにがしかの常套句が議論を導くことになるか
らだ。
# # #

アヴィチェブロンの『生命の泉』は前にも出てきました(前はアヴィセブ
ロンとしましたが、ちょっと表記を変えたいと思います)。イタリアはボ
ンピアーニから羅伊対訳本が出ています。この書、5書から成る師匠と弟
子の対話編で、宇宙開闢論的に質料形相論が展開していきます。上のアル
ベルトゥスのテキスト(羅独対訳本)の注によれば、第一原理の一性に二
性が続くという箇所は『生命の泉』第4書6〜7節、第5書12節および
23〜25節を参照とあります。実際に当たってみると、たとえば第5書23
節には、「質料は保持するものであり、形相は保持されるものである。質
料は隠されているが、形相は目に見える。質料は形相によって完成され、
形相は質料の本質を完成するものである」というふうに、質料と形相との
対立関係・相補関係が言及されています。

質料形相論へと展開する、この「一」の次に「二」が続くという考え方
は、より古くはイアンブリコスが伝えるピュタゴラス思想に見いだされる
ものです。イアンブリコスの『ピュタゴラス大全』も、やはりボンピアー
ニから出ていますが、その中の一論考『算術神学』などが、とりわけそう
した問題を扱っています。一の次にどう二が分離するのかは明確に示され
てはいないものの、いずれにしても事物が具体的な形象を取るためには
「一」だけではだめで、必ずや双数がなくてはならない、といったことが
述べられています。アヴィチェブロンも、上のアルベルトゥスのテキスト
も、そうした思想的な流れの残響を留めていることが窺えます。

また前回、アルベルトゥスによる自然学注解に形相の二重化議論があると
いう話を紹介しましたが、原理としての形相と個体の具体化のための形相
とを分けるという話は、文脈こそ異なるものの、初期注解者のアフロディ
シアスのアレクサンドロスにすでに見られる議論のようです(マルヴァ
ン・ラシドという研究者が、最近の著書でそのあたりについての論考を記
しています)。上のテキストではそれとは別の4つに形相が区分されてい
ますね。アヴィチェブロンの書のどの部分に対応するのかちょっとまだ特
定できていないのですが、ちょっとこれは変わった区分のように思われま
す。うーん、悩ましいですね。いずれにしても、「形相」概念一つとって
みても多様な思想的流れを遡っていくことができそうで、興味は尽きませ
ん。アルベルトゥスを読む楽しみというのは、やはりそういうところに見
いだせそうです。

次回はこのテキストの最終回ということで、全体的なまとめも含めて振り
返ってみたいと思います。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は03月08日の予定です。

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投稿者 Masaki : 23:46

2008年02月14日

No.120

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.120 2008/02/09


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その3)

引き続きレッティンク本に即した概要のまとめです。ギリシア語圏の注解
者に続き、『気象論』の注解を精力的に進めたのはアラブ世界の思想家た
ちでした。まず登場するのは、8世紀末から9世紀ごろに現在のイラクで
活躍していた翻訳者たちです。ギリシア語ないしシリア語、ペルシャ語か
らアラビア語への翻訳を行ったキリスト教徒たちで、そのテキストは9世
紀半ば以降のアル=キンディなどによって活用されていたといいます。
『気象論』の注解本を残している者としては、8世紀末のイブン・アル=
ビトリークと、9世紀のフナイン・イブン・イシャークです。ちなみに両
者の翻訳スタイルは対照的だと言われています(前者が逐語訳、後者が意
訳を重視したのだとか)。

アル=ビトリークのテキストは、もとのアリストテレスのテキストをかな
り雑然と翻案したものらしく、アリストテレスには見られないパッセージ
などもあるようです(蒸発物の種類を2種類ではなく3種類としたりと
か)。準拠した元のテキスト(アリストテレスのテキストではなく、逸名
のギリシア語著者がいて、そのテキストがシリア語訳からアラビア語に重
訳されたらしいのですが)がすでにアリストテレスを変形したものだった
という説をレッティンクは紹介しています。また、単純に誤解している点
などもあるのだそうですが、その一方でこのビトリークの本は、後のア
ヴェロエスやイブン=ティボンなども参照しているといい、重要なテキス
トになっているようです。

一方のフナインが残している『Compendium』は、レッティンクによれ
ば、上のアル=ビトリークの注解の概要のように見えるものの、それでも
内容的には様々な異同があり、どうやらアル=ビトリークがベースとして
いたギリシア語テキストの別の短縮版をベースにしているのではないか、
ということです。

また、アラブ世界の『気象論』注解に大きな影響をもたらしたものとし
て、偽オリュンピオドロスの気象論も挙げられています。これもフナイン
がアラビア語に訳したものなのですね。こちらはオリュンピオドロスの注
解を抜粋し、より体系的にしたもの、とされています、オリュンピオドロ
スやもとのアリストテレスにはない部分も散見されるといい、レッティン
クは、フナインが訳したのはオリュンピオドロスほかをまとめたギリシア
語もしくはシリア語のテキストだったのではないか、と述べています。こ
のように、どうやらアラビア語に流入する前の段階で、アリストテレス、
あるいはその注解本の要約・解説テキストのようなものが、いろいろ出
回っていた可能性があるのですね。それらはいずれも失われてしまってい
るのだそうですが、将来、ひょっこり見つかったりしないとも限りません
ね。
(続く)

------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その6:代名詞)

ノース&ヒリアード本にもとづくこのシリーズ、今回は代名詞についての
まとめです。代名詞でまず代表的なものといえば、autosがありますね。
単独で斜格(主格以外)に用いられる場合に三人称を表します。名詞とと
もに用いられる場合には「〜自身、〜そのもの、同じ〜」の意になり、単
独で主格に使われる場合(ho autosなど)には、「同じもの、同じこ
と」の意味になります。例文を挙げましょう(ギリシア語表記はこちら
http://www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.6.html)。「王
みずからが私に金銭をくださった」「私は彼らに同じ報酬を授けた」

1. autos ho basileus edo^ke moi to argyurion.
2. edo^ka autois ton auton misthon.

指示代名詞としては、houtos(これ、あれ)、hode([空間的に近接す
る]これ)、ekeinos([空間的に離れた]それ、あれ)などがあります。そ
れぞれの格変化は確認しておいてください。ギリシア語の冠詞はもともと
指示代名詞だったという経緯があり、その名残として、men〜de(一方
は〜他方は)と合わせた慣用句もあります。例文です。「残る者もあれ
ば、去る者もあった」

3. hoi men emenon hoi de ape^lthon.

所有代名詞については、一人称、二人称はそれぞれ冠詞+emos(複数は
he^meteros)、sos(humeteros)を使いますが、三人称は上のautos
の属格autouか、あるいは再帰代名詞heautosの属格heautouを用いま
す。両者はちょっとニュアンスが違って、前者が「彼の」、後者が「彼自
身の」となるのですね。例文です。「私は自分の家に戻った」「彼は自分
の家に戻った」「彼らは彼の家に行った」

4. ape^lthon eis te^n eme^n oikian.
5. ape^lthen eis te^n heautou oikian.
6. e^lthon eis te^n oikian autou.

注意すべき点は、heautouなどは冠詞と名詞の間に置きますが、autouは
間には置かないということ。autosが名詞とともに用いられる場合や、指
示代名詞が名詞とともに用いられる場合も、それらは冠詞と名詞の間には
置かれないのですね。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その18)

このテキストも大詰めです。今回を含めあと3回くらいですね。では、
さっそう見ていきます。

# # #
Quanto enim producitur commixtio ad aequaliorem complexionem
et aequalitati caeli magis convenientem, tanto ab intelligentiae
lumine accipit formam nobiliorem; et quanto remanet citra hoc,
formam accipit ignobiliorem eo quod necesse est in tali intellectus
lumen magis occumbere, ita scilicet quod in omnibus his forma ad
lumen intelligentiae referatir, virtus autem ad generans proximum,
quod est formativa ipsius habens virtutes caelestium immissas et
commixtas in materiam et qualitates elementorum. Motus autem
et operationes distinguuntur secundum virtutes eorum. Et in tali
commixtione necesse est, quod elementum ad elementum
moveatur et elementum ab elemento comprehendatur et teneatur,
sicut in naturalibus a nobis determinatum est. Et dissolutio talium
virtutum et comprehensionum causa corruptionis est. Hic igitur
modus est, quod Peripatetici omnia dicunt produci ex primo.

均質な結合に向けて、また天空の均質性にいっそう相応しくなるよう混成
が生じるほどに、それは知性の光からいっそう高貴な形相を受け取り、逆
にこちら側(下界側)にとどまるほどに、いっそう低位の形相を受け取
る。というのは、かかる結合には知性の光が降り注がなくてはならず、つ
まりあらゆるものにおいてその形相が知性の光を参照し、一方でその力が
近接する生成者を参照する必要があるからだ。生成者は、そのものを形成
する力のことであり、質料に送り込まれ混成した天空の力を宿し、諸元素
の性質をも併せ持つ。運動と作用はそれらの力によって異なるのである。
また、かかる混成においては、私たちが『自然について』で論じたよう
に、ある元素は別の元素に向けて動かされ、ある元素は別の元素によって
包摂され保持されなくてはならない。かかる力と包摂との解体が、消滅の
原因をなすのである。以上は、第一原因からすべてのものが生み出される
とする逍遙学派の説明である。
# # #

前回触れたヘレン・ラング『アリストテレス「自然学」とその中世の異
本』
は、アルベルトゥスにも一章を割いて論じています。ちょうどそこ
で、上のテキストにも出てくる「生成者」(generans)の話が出てくる
ので、少しだけ紹介しておきましょう。

よく知られているように、アリストテレス思想の根幹には世界は永続する
というテーゼがあり、『自然学』8巻で展開されるような運動の永遠性と
いった話もその中に位置づけられます。ところがアルベルトゥスは、運動
の永続そのものは認めるにしても、根幹においては神による世界の創造と
いう反アリストテレス的テーゼを手放すわけにいきません。そのため、運
動の永続をめぐる議論一つとっても、議論はすでにして逸脱していきま
す。

前回も触れたように、ラングによれば、アリストテレスの議論では元素に
おける動因とは潜在の現実化にあります。ところがアルベルトゥスはこれ
をまったく別様の議論にしていきます。アリストテレスの場合、潜在は形
相を指向する質料に存するとされるのに対し、アルベルトゥスでは「動か
されるものの中にある、動かすものの萌芽的形相」にあるとされます。こ
の違いにより、運動における形相の役割も変わってきます。アリストテレ
スはそもそも「現実態」としての一種類の形相しか認めませんが、アルベ
ルトゥスは、動かされる側の形相、動かす側の形相というふうに、形相を
二重化して考えています。動かすもの(動因)が第二の形相を第一の形相
(萌芽的形相)に重ねることによって、潜在態としての動かされるものは
現実態になるのですね。これがすなわち運動ということになります。

これら二重の形相は創造と生成の違いに対応します。被造物はまず質料と
第一の形相から構成され、それが第二の形相を取ることによって完成する
という図式です。そしてこの第二の形相をもたらすのが、いわゆる「生成
者」というわけです。事物に「存在」が与えられるのはこの第二の形相に
よってであり、それを与えるのが「生成者」なのですね。元素は一番はじ
めに創造されるものですが、最初に第一の形相と質料によって創造された
後に、第二の形相が「天球と場所(位置)」によって与えられるとアルベ
ルトゥスは考えています。天球からの一定の距離が生じると火が生成さ
れ、また別の距離が生じると空気が生成され……というふうにして四元素
が現実態になっていくわけです。アリストテレスが、「本来の場所へ向か
う」という意味での現実態を元素の動因としていたのに対し、アルベル
トゥスは、天球からの距離こそが元素の「自然の中で作用する」形相(す
なわち動因)だとします。ということは、元素の完成をもたらす生成者は
天球ということになりそうですね。

以上は『自然学』がらみでのラングによる読解の大筋です。アルベルトゥ
スの『自然について』は、今読んでいる『原因および世界の発出につい
て』よりも前に書かれています。自然学の注解書は1251年から52年ご
ろ、後者が1264年から67年とされているので、おそらくその間に、アル
ベルトゥス自身の思想的にも少ならず変化が生じていると思われます。そ
の意味で、ラングの「生成者」解釈がそのままこちらに適用できるかどう
かは微妙なところでしょうね(実際、上のテキストでは、形相の種類は
もっと細分化されているような印象も受けます)。そのあたりを詰めるに
は、やはりアルベルトゥス思想の変遷の全体像が検討される必要がありそ
うです。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は02月23日の予定です。

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投稿者 Masaki : 23:50

2008年02月05日

No.119

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.119 2008/01/26

------新刊情報--------------------------------
寒さが続いていますが、こういう季節こそ身が締まって読書向きかもしれ
ませんね。

『修道院文化事典』
ペーター・ディンツェルバッハーほか著、朝倉文市監訳、八坂書店
ISBN:9784896949001、8,190yen

それぞれオーストリアとロンドン出身の二人の歴史学者による修道院事典
ですね。そのうちの一人ディンツェルバッハーは『Mediaevistik』とい
う中世研究誌の編集主幹でもあるそうです。各修道会の歴史や文化を網羅
的に解説しているようです。こういうのは手元にあると便利な一冊かも。

『哲学の歴史−−第3巻<中世>:神との対話』
中川純男編、中央公論新社
ISBN:9784124035209、3,780yen

月一冊のペースで刊行されている『哲学の歴史』もいよいよ大詰めです
が、やっと3巻目の中世編が出ましたね。これまでに出ている4巻のルネ
サンス編や、2巻のヘレニズム編、5巻の近世編などは、多少記述の内容
の濃さにばらつきがあるとか、項目の立て方が一般的でないとかいろいろ
批判の声も聞かれるようですが、全体的にはそれでも良くできた教科書と
いう気がします。さてこの中世編、どんな感じでしょうか。期待しましょ
う。

『時間の思想史』
瀬戸一夫著、勁草書房
ISBN:9784326101764、7,875yen

同著者の『神学と科学』に続くアンセルムス論ということで、これはまさ
に期待大です。神学思想に織り込まれた時間の捉え方の変貌と政治的なも
のの連関を、巧みに浮き彫りにするというのが同著者一連の著作の真骨頂
です。「時間の〜」というタイトルも、これまでグレゴリウス改革以後の
ベレンガリウスからランフランクスまでを論じた『時間の政治史』、同じ
時代の民族国家の誕生を扱った『時間の民族史』が刊行されています。そ
れらにつづく新作ということで、著者のいつもながらの精緻な議論を再び
味わえるのが楽しみです。


------短期連載シリーズ-----------------------
アリストテレス『気象論』の行方(その2)

前回は『気象論』の概要を見たので、次に今度はその変遷をレッティンク
本(Paul Lettinck, "Aristotle's Meteorology and its Reception in
the Arab World", Brill, 1999
)をもとにまとめていきたいと思います。
まずはアリストテレス後の初期注解者たちからです。注解者といえば、ま
ずはアフロディシアスのアレクサンドロス(2世紀)が挙げられます。ア
レクサンドロスの『気象論』注解はアリストテレスのテキストにかなり忠
実な内容説明になっているといいますが、風がなぜ水平に吹くか、降水が
いかにして作られるかといった問題については、アリストテレスの説を批
判的に捉え、テオプラストス(アリストテレスの協力者・継承者で、一部
批判者でもあった人物ですね)の説を引き合いに出しています。

風の水平方向への動きについて取り上げておくと、アリストテレスは、風
の動きは天空の動きに伴う循環運動なので、その天空の運動に従うのだと
説明しています(2巻4章)。これに対してアレクサンドロスは、それで
は風向きは一方向だけになってしまうではないか、と反論し、テオプラス
トスの見解だとして、風が水平方向に吹くのは、それが単なる暖・乾の蒸
発物なのではないからだと述べています。ですが、これについてはそれ以
上は説明されていません。なんだか尻切れトンボのようですが、後の時代
の注解者オリュンピオドロス(6世紀)がこれについて詳しく述べていま
す。

オリュンピオドロスの注解は、アリストテレスの考え方の体系化を図って
いるとされます。そのため、やや特殊な解釈になっているところとか、批
判的な部分とかがあるようです。実際にテキストにあたってみると、確か
に書き出しからしてそうした体系指向が感じられます。で、その「風はな
ぜ水平に吹くか」という問いですが、オリュンピオドロスはテオプラスト
スの見解として、煙の蒸発物が火と土の混成物であり(それが風なのです
ね)、分離すれば上方向と下方向に動いていくのに、混成状態なので水平
に動くのだという説を紹介しています。レッティンクの注によると、これ
はオピュンピオドロスの誤解で、テオプラストスが本来述べているのは、
風は「細かいものと厚みのあるものから成る蒸発物」で、「そのうち細か
いほうが優位にある」ということのようです。オピュンピオドロスはこれ
をそれぞれ火と土と見ているわけですね。

『天空論』の注解者にはもう一人、ピロポノス(6世紀)もいます。ただ
しピロポノスの『気象論』注解は1巻の1章から12章までしかカバーして
いません。そのため残念ながら、1巻3章と2巻4章で触れられる風の議論
には絡んできません。ピロポノスでよく知られているのは、アリストテレ
スの「太陽は熱くはなく、月下世界は天球の運動から熱を得ている」とい
うテーゼ(1巻3章)を批判した点です。アリストテレスは、運動の結果
として空気が分解され燃やされ熱が生じるのであり、太陽の運動はそれだ
けで熱をもたらすのに十分であるとしています。で、上のアレクサンドロ
スなどもこの考え方を蹈襲しています。これに対してピロポノスは、そう
いう部分もあるだろうが、熱の原因はもう一つあり、太陽自体が熱をもっ
ていて、太陽光線が空気を暖め、それが循環することで地上に熱が届くの
だとも述べています。

こうしてみると、注解者たちのそれぞれの立場もかなり興味深いものに思
えてきますね。アリストテレスのテキストは、すでにして注解と批判とい
う形で、それぞれの方向に引っ張られていくような感じです。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その5:比較と絶対属格)

このシリーズでベースとしている本はノース&ヒラードの"Greek Prose
Composition"(Duckworth)ですが、これ、例文がことごとくペルシア
戦争関連の記述になっていて、ときおり若干血なまぐさいです(笑)。そ
ういえば先日、映画『300(スリーハンドレッド)』をDVDで観たので
すけれど、この作品、やはり歴史家などから史実と違うといった声が上
がっていたようですね。個人的には、CG多用の映像そのものにやはりど
こか違和感が……首が飛んだりするし(笑)。

さて今回は比較級の表現と絶対属格の表現のポイントです。まず比較です
が、これは基本的に形容詞の比較級を使うわけですが、二つを直接比較す
る場合、「〜よりも」にはラテン語なら奪格を使いましたが、ギリシア語
では属格を使うのでした。また、それ以外の比較では、「〜よりも」はラ
テン語ならquamですが、ギリシア語ではe^を用いるのですね。言わずも
がなですが、後に続く名詞の格は、比較する当の名詞の格と一致させま
す。ではノース&ヒラード本から例文を挙げましょう(アクセント記号つ
きの例文はこちらをどうぞ→http://www.medieviste.org/blog/
archives/GC_No.5.html
)。「ギリシア人はペルシア人よりも勇敢だ」
と「ペルシア人はギリシア人よりも大きな軍隊をもっている」。

1. hoi Helle^nes andreioteroi eisi to^n Perso^n.
2. hoi Persai echousi meizon strateuma e^ hoi Helle^nes.

ラテン語の奪格表現の多くはギリシア語の属格表現に対応します。絶対用
法も同様で、ラテン語には絶対奪格がありましたが、ギリシア語では絶対
属格になりますね(これは独立した分詞句の形を取り、理由や前後関係そ
の他を表すものです)。「壁が取り払われたので、市民は逃げだそうとし
た」「アテナイ人が到着すると、軍隊はさらに勇敢に戦った」。

3. le^phthenton to^n teicho^n oi politai eksepheugon.
4. to^n Athe^naio^n proselthonto^n oi stratio^tai andreioteron
emachonto.

ただし、分詞が主語や目的語に一致できる場合には、それぞれ主格・対格
に一致させ、絶対属格は使われません。「敵の手に落ち、アテナイ人たち
は逃れた」「彼らは少数だったが、敵を攻撃した」。

5. nike^thentes oi Athe^naioi ephugon.
6. epethento tois polemiois oligoi ontes.

いずれにしても分詞句は、ギリシア語では実に多用されますね。英語その
他の言語が節でもって表すものの相当数は、分詞句で表されてしまいま
す。作文のためには、分詞句に習熟するというのがポイントになりそうで
すね。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その17)

# # #
Si vero mobile rectum per motum luminis caelestis ad aliud mobile
rectum comparetur, per comparationem quidem ignis ad terram
producetur id quod vocatur fumus secundum omnes sui
differentias, qui si sit in forma imperfecta ignis, erit ventus
secundum omnes differentias ventorum.

Si vero formam ignis accipiat et non perfectam naturae
subtilitatem et raritatem, erunt ignes in caelo micantes sicut stella
cadens, cometes, lanceae et dracones volantes. Secundum
comparationem autem ignis ad aquam erit exhalatio, quae vocatur
vapor secundum omnes sui differentias, pluviarum scilicet, roris et
nivium et grandinum et aliorum, quae in De meteoris determinata
sunt.

Si vero elementum in elementum agat sub forma caelestium
corporum et virtute, hoc est quod elementa in se agant et a se
invicem patiantur non secundum qualitates proprias, sed
secundum quod qualitas suae sunt informatae virtutibus calestium
et luminibus et figuris, erunt motus commixtionum secundum
omnes differentias, mineralium scilicet, vegetabilium et sensibilium.

しかるに、天空の光の動きを通じて直線運動する可動体が、直線運動する
他の可動体に結びつく場合、たとえば火と土との結びつきからは、様々な
種類の「煙」と呼ばれるものが生み出される。それが火の不完全な形相を
取る場合には様々な種類の風がもたらされる。

しかるに、(可動体が)火の形象を受け取りつつも、本来の完全な細やか
さ・粗さを受け取らないならば、それは流星、彗星、上空に舞う槍やヘビ
のような発光体となる。火の水との結びつきによって生じるのは蒸発物
で、それは様々な種類の「蒸気」と呼ばれるものとなる。すなわち雨、
露、雪、雹、その他『気象論』で論じているものである。

しかるに、天体の形相と力のもとで元素が元素に働きかける場合、すなわ
ち元素同士が働きかけ互いに作用を被るということだが、それは固有の性
質にもとづいてなされるのではなく、そうした性質が天空の力や光、形象
によって形成されているかぎりでなされるのであり、様々な種類の運動の
混成が生まれ、鉱物、植物、感覚的動物がもたらされる。
# # #

多用されるsecundumの訳出にはちょっと手を焼き、その都度訳し変えて
いますので、語義的な正確さはあまりありませんが、まあ、だいだいの意
味ということでご勘弁いただきたいと思います(苦笑)。さて、本文中に
もあるように、今回の部分は主に『気象論』がらみの話になっています。
さながらこの天空論・発出論は、アリストテレス思想のエッセンスが幅広
く織り込まれた布地のような感じさえします。煙に関しては、ちょうど上
の「短期連載シリーズ」で触れたように(今回は見事なシンクロです
ね!)、もとはオリュンピオドロスが述べるテオプラストスの見解にある
ようです。

少し前の回でも、火には上昇、土には下降の性質があるといった話が出て
きました。これに関し、ヘレン・S・ラング『アリストテレス「自然学」
とその中世の異本』(Helen S. Lang, "Aristotle's Physics and its
Medieval Varieties", State University of New York Press, 1992)
に、典拠となっているアリストテレスの見解のまとめがあります。アリス
トテレスはそれらの元素の上昇・下降を、それらが本来ある場所へと向か
う性質的な運動だとしているのですね。ですがアリストテレスによれば、
生命なきものは必ず他の動因によって動かされるとされるのですから、元
素は生命なきものである以上、何か外の動因があることになるのですが、
この点についてアリストテレスははっきりとした説明を付けていないとい
います。

ラングによるテキストの整理(『自然学』8巻4章)によると、アリスト
テレスはその「本来の場所へ向かう性質」を、潜在態が現実態へと移行す
る現実化のプロセスとして考えているようです。軽いものは本来重いもの
から分離し、障害となるものがない限りすぐさま(直接的に)軽いものと
して現実化するとされます。この意味で、軽いものの本来の場所は上方
で、それこそが軽いものの現実態にほかならないとされ、そしてその現実
態こそが、軽いものの動き(つまり現実化)をもたらす動因なのだ、とア
リストテレスは考えているらしいのです。

8巻4章についてのそうした理解は、ピロポノス、シンプリキオス、テミ
スティオスといった注解者も共有していたようで、ほかの部分ではアリス
トテレスの自然や元素、場所、真空などの説明に異を唱えているピロポノ
スですら、この元素の動因という部分はそのまま受け入れているといいま
す。どうやらこれは、アリストテレスの運動の説明の中で、特に「浮いて
いる」というわけではないようです。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は02月09日の予定です。

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投稿者 Masaki : 10:56