2004年04月27日

「欧州への」人類学

キプロス島の統一ならず……。うーん、ここには民族的対立というよりも、下手をするともっと根の深い欧州対アジア的な線引きの微妙な問題が露呈しているのかも……と考えると、ヨーロッパの「臨界」はまさに波乱含みだ。こういう問題を見ていく上で、森明子編『ヨーロッパ人類学』(新曜社、2004)などのアプローチはこれからいっそう有意義になるかも。「ヨーロッパについての人類学?それって地域研究とかが昔からやってきたことじゃないの?」なんて野暮なことは言いっこなし。西欧出自の人類学のアプローチを西欧自身に意図的に向ける……その反転の構図から「西欧」の輪郭が浮かび上がってきたら儲けもの、というところだ。

今回のキプロス問題との関連では、トルコのEU加盟問題の絡みも当然出てくるだろうし、そうなると、特にドイツなどに大量に入っているトルコ系移民の問題がまたクローズアップされるかもしれない。同書所収の石川真作「ヨーロッパのムスリム」でも言及されているように、歴史的にフランスがまず国家ありきの国民化を図ったのに対して、ドイツはまず民族ありきとして、文化一体性を国民の基礎に置く。そうした大きく二種類にわかれるナショナリズムが錯綜しながら移民問題が織りなされているわけで、とりわけ「ムスリム」の問題は難しい。上の論文では、日常的に潜在的「他者」として暮らすイスラム教徒の事例研究が必要だと説いているが、例えばアガンベン的に言うなら(『ホモ・サケル』、邦訳は高桑和己訳、以文社)、宗教的身なりなどの彼らのあからさまな「しるし」に、実は西欧人自らが置かれていながらそれとは認識されていない一般化した例外状態(むき出しの(=なまの)生を国家的・共同体的なものに絡め取られてしか存在できない状態)への批判を読みとることもできる、と。けれども「そうか、俺たちも実は立場は同じかもしれない」などと西欧人は容易に反省したりはしないだけに、その批判はまさに茨の道か。

投稿者 Masaki : 14:20

2004年04月22日

言論と自由?

バンコクのAsia Timesの16日付けの記事は、いわゆる「ジハード・サイト」の増大について伝えている。要するにイスラムの「聖戦」プロパガンダのサイトで、ニュースポータルを装っていたりするらしい。問題はそれらがイスラムのイメージを大幅にゆがめていることだという。一方フランスでは、原理主義系のイスラム教宗教指導者が「夫に忠実でない妻を殴ってよい」と発言して国外追放になっている。これらの事例から再浮上するのは、一つには言論の自由をどこまで認めるかという議論。上のAsia Timesの記事の末尾にもあるように、「言論の自由は、民主主義ないし人為的に定められた法に従う場合のみ認められるらしい」というのは、西欧世界を中心に広く認められたスタンスだけれど、政教分離ですらないイスラム世界の場合には、そういった「民主主義的スタンス」に立脚する価値は、そもそも有効になりえないのかもしれないのだ。このあたりの話については、井筒俊彦『イスラーム文化』(岩波書店)が重要な視点をもたらしてくれる。もちろん、現行の問題の多くは原理主義的な誇張によって突きつけられているのだろうけれど、そもそもの根底に、西欧が作り上げた民主主義的なものへのまったくのアンチテーゼがあるのだとすると、それは言論の自由に関わる議論も含めて、もっと微妙な問題を開くかもしれない……うーん、イスラムはやはり探求に値するような大きな謎だ。

投稿者 Masaki : 11:59

2004年04月17日

人質をめぐるディスクール

先に解放された日本人3人に続いて、夕方には残る2人も解放の報。いずれもイスラム聖職者協会の尽力だというが、イスラム社会での聖職者の影響力は相当なものだということを改めて認識させられる。それにしても今回の人質事件、被害者の実家への嫌がらせのせいで、外国人記者団の前に立った時に歯切れが悪くなってしまっていた家族らの反応に、ドイツの記者が「(脅されて)発言できないなんて、自由な国ではないみたいだ」と述べていたのが妙に印象的だった。人質を取って脅すのが野蛮なら、嫌がらせをして脅すのも十分に野蛮だ。「イラクに行きたいなら自己責任でどうぞ」などと言っている政治家も、「国のやり方に反するな、乱すな」と暗に脅している意味では大して違わない。

今回の事件では「自作自演説」まで出たが、大体、自作自演かどうかの検証など、本来後から行えばすむこと。救出のために手を打つことの妨げになどならないはずなのだが……。そんな説まで出るのは、一つには人質という行為そのものが、きわめて「物語」的な行為としてあるからかもしれない。「人質の考古学」というわけではないけれど、ホメロスの『イーリアス』から始まって、中世の武勲詩、伝承、昔話、民間説話など、様々な物語に「人質」は事欠かない。物語を駆動するのが「喪失したものの奪回」であるとするならば、人質はまさに最も一般的なその具体例であり、下手をするとそれは物語の本質に関わっている形象かもしれない。今回、為政者たちまでがそういう自作自演説に振り回されたのが本当だとするなら、それは彼らがそういう「作り物としての物語性」に敏感に反応したことの証拠だ。で、さらに言えば、普段からなんらかの物語の産出に関わっていなければ、その種の反応は出てきにくいはず。彼らが作っている「物語」とは、つまり広義の情報操作、ということにもなる(情報を操作する側は意外と情報に操作されやすい)。その場合の「物語」が恐ろしいのは、上の被害者家族への嫌がらせのように、それに感化され同調した一般人らが、野蛮な行為に及ぶ可能性があるから。そしてますます自由の余地が狭まってしまうからだ。

投稿者 Masaki : 23:33

2004年04月13日

媒体は壁のごとくに

イラクで起きた日本人の人質事件。彼らが脅される映像の最も危機的な場面は、BBCもF2も流したものの、日本では「人道的配慮から」ということで完全に自粛。あるいはこんな映像が流れては、自衛隊撤退議論がもっと大きくなるとの判断があったのかもしれないが、いずれにしてもこの自己検閲は、日本の報道が他国の報道に比べて、映像のインパクトを殺ぎやすい土壌にあることを改めて思わせる。無害な映像ばかりを流す日本のテレビは、事なかれ主義をいっそう助長するばかりだ。アルジャジーラに映像を送ったテロリストたちも、よもや当の日本でその映像が完全には伝えられないなどとは、思ってもみなかったろう。もちろん、BBCのニュース報道などはネットで見ることができる。けれどもテレビとは社会的影響力が違いすぎるし、ネットで見る際のコーデックのフォーマットは、これまた別の意味で映像のインパクトを殺いでしまう……。

外相がアルジャジーラで流したという解放を訴える映像も、日本のテレビでは満足に流されなかった。断片的に放映された部分はまるでプロモーションビデオのようだったが、解放(あるいは交渉?)を訴える映像はそれでいいのか?アルジャジーラが何をどう伝えているのかもさっぱり見えない。その報道スタイル、傾向、実質的な影響関係(資金元、圧力団体、政治的影響力)など、この媒体をめぐる総合的な分析とか、誰かやっているのだろうか?狭義の「メディア論」は本来そういう具体的な問題に関わるもののはず。メディアをめぐる「実学」も、やはりどうしても必要なのだが……。

投稿者 Masaki : 17:19

2004年04月07日

指輪物語の譜

3部作として完結した映画『ロード・オブ・ザ・リング』では、指輪をはめると姿が消えるというモチーフがあったが、これはプラトンの『国家』にあるリュディア王ギュゲスの逸話にまで遡る物語素だ。最近読んだ岩波文庫版の河野与一『学問の曲り角』に所収の「貨幣と独裁者」という一文によると、このギュゲスは、後代に暴君を表す「ティランノス」という言葉(当時は絶対君主ほどの意味)で初めて呼ばれた王だという。ギュゲスは一方で貨幣の鋳造でも知られていて、最初それは合金(エレクトロン:琥珀の意味もあって「電子」の語源)であり、ここに「貨幣、エレクトロン、独裁者」の悩ましい関係が、指輪を介して浮かび上がってくる……。思わずうなってしまうほどの意味的な連関だ。

同じく所収の「ギリシア哲学の盲点」では、自然(ピュシケー)をめぐるギリシア思想が「形」にばかりこだわり「もの」それ自体を捉えないという話が披露されている。本は「形」として捉えれば個体として存在するけれども、読むという行為があって初めて「もの」として成立する。家もまた同じ。そういったヒトとのインタラクションやら意味論やらを含めた「もの」という視点は、中沢新一言うところの「雑色のまだら色をしめした」東洋的な「もの」(『緑の資本主義』、集英社、2002)へと道を開く、再考への鍵をなしていて、これまた実に興味深い。

投稿者 Masaki : 21:13

2004年04月04日

模倣と高低差

先週後半からちょっと用事で田舎に帰省。地方都市(県庁所在地)の駅前は再開発がさらに進み、幹線道路や橋、高層マンションの建設が相次いでいるという。なんだかミニバブルみたいな感じもしなくない。駅ビルなども含めた一帯の再開発が露骨に目指しているのは、大都市圏の「模倣」。そんなに「ミニ都心」みたいなものばかり作り出してどうするんだろうなあ、と思ったりもする。地方暮らしの長かったさる友人の記者はこの間、「田舎で食い物がマズいのは競争がないからだ」と語っていたが、そうした「ミニ都心化」で食の環境などが多少とも良くなっている感じも確かにあるから複雑だ。

なるほど競争というのは基本的に「模倣」から始まるもの。改善がなされない直接的な理由は、模倣に足る情報がないからかもしれない。食の加工方法など、一度練り上げられパターン化したものはなかなか変えられない。パターンを揺さぶるには、なんらかのせっぱ詰まった状況がなければならないわけだけれど、最も容易にその駆動力となるのは、模倣しうる程度の高低差(埋められうる高低差)だ(圧倒的な高低差があると、模倣しようという気さえ起きなくなってしまう)。けれども模倣によって、結局は高低差が縮まり全体は均質化する。均質化が進みすぎれば再び差異化の動きも出てくるかもしれないが、いずれにしてもそれもまた模倣を促し、かくしてそうしたプロセスは無限の運動を導いていく……。思うにヤバイのは、そういう上昇圧力となりうる高低差の幅が徐々に小さくなってしまうことかもしれない。高低差がちょっと大きいために、埋める努力を放棄してしまえば、無為の状態で投げ出されてしまうかもしれないからだ。こうして均質化する上の層と、停滞したままの下の層が分かれてしまう。もちろん、オルタナティブが生まれる可能性は、上層の均質化の中よりは下層のカオスの中の方が高いと思うけれど、安易に無為な形で投げ出された場所で、創造的な力が果たしてどれほどあり得るのかが気になるところだ。県庁所在地でもない地方都市が疲弊している状況からして、「別の模倣対象」を末端から創っていくのは並大抵の事ではないかもしれない……。とすると、高低差を埋める努力はそのままに、別の対象へと模倣をシフトさせていくことはできないものだろうか?

投稿者 Masaki : 19:58