2004年05月27日

現場の論理?

23日以来、France2などの報道はシャルル・ドゴール空港のターミナル崩落を大きく取り上げている。日本では最初、「屋根が崩落した」みたいに報道されていたけれど、Le Mondeの速報では「passerelle(ブリッジ)が崩落」とされていて、起点で見るか全体で見るかといった報道の差が表れていて興味深かった。また、それとは別に、今回の事故、設計者はポール・アンドルーという有名な建築家で、パリの新凱旋門やら関西国際空港などにも関係している人物とのこと。北京のオペラ座も建設中だったという。原因調査は始まったばかりのようだけれど、まさか強度計算とかをミスっているとも思えないし、結局、設計と現場という古くからある対立がまたしてもクローズアップされることになりそうな感じ。パニック映画の古典『タワーリングインフェルノ』とか思い出してしまう(確か、建設会社がコスト削減のためにスペック以下の配線を用いていた、という設定だった)。

けれどももっと昔の事例もある。例えば16世紀初頭のルネサンス期。ダ・ヴィンチとマキアヴェッリが共同で画策したアル川の水路変更計画(敵対するピサ軍に勝ち、ひいてはフィレンツェを海港にしようという壮大な計画だったという)は、レオナルドの周到な労働力計算にもかかわらず、現場を担当したコロンビーノという治水技術者が土砂運搬の困難を過小評価し、計画を変えてしまったことを主因として頓挫してしまう。堀の掘削深度が不十分で、水が十分に流れこんでこないという始末だ(マスターズ『ダ・ヴィンチとマキアヴェッリ』参照)。うーん、この設計対現場という図式、分業化や専門化という過程も絡んで、技術哲学的(といってよければだが)にとても興味深い問題かもしれない、と思ったりもする。

投稿者 Masaki : 22:57

2004年05月25日

社会への同化

小泉訪朝のほとんど唯一といっていい成果は拉致被害者の子どもたちの帰国。国籍の概念が血統主義であるからこそ「帰国」ということになるのだけれど、問題はやはり、それら子どもたちの社会への同化。自治体が日本語教育などの便宜を図るという話だけれど、これは一筋縄ではいかないような気がするのだがどうだろう?日本に入ってくる外国人全般に対して、欧州がやっているような言語・文化教育の受け入れ施設があれば、それが有効な枠組みになったろうに、と思うのだけれど、残念ながらそういう枠組みはない。血統主義に立っていた従来の国籍概念からすれば、外国にいて、ほぼまったくといってよいほど日本語・日本文化と接することのなかった「自国民」が存在する事態など、ほとんど想定外だったのだろう。考えてみると、この話に限らず、これだけグローバル化が進んで人や物の行き来が盛んになる時、血統主義的な概念の再考というのも、もしかしたらあってしかるべきかもしれない。

岩波の『世界』6月号には、フランスの政治学者パトリック・ヴェイユと立教大教授宮島喬との対談が掲載されている。欧州の二大国として、フランスは生地主義、ドイツが血統主義というのが通念になっているけれど、実は血統主義はフランスのナポレオン法典で発明されたものなのだという。このモデルをプロイセンが導入したのが、今に続くドイツの血統主義なのだそうで、対するフランスは、外部から労働力を受け入れる必要に迫られ、1889年に制度を変えている。で、ドイツも今や労働力としての移民受け入れを余儀なくされているのだそうで、最近の法改正で生地主義へと大きく傾く要因になった。日本も状況は構図的にはほどんど一緒か。確かに規制が強いから外国人数は少ないものの、かつての「3K」労働のような経済の下支えを一部になっているのも事実だし、これからももっとそれは拡大していくはず。国籍概念の血統主義も見直されていかざるをえないんではないか……と。

投稿者 Masaki : 22:57

2004年05月20日

野田マクベス

昨日は久々の観劇(というか、オペラだけれど)。野田秀樹演出の新国の『マクベス』。新聞の音楽評の欄などに見られるように、「ヴェルディのオペラ」と思って観る人には評判が悪いようだが、野田的演出を多少とも観たことがある向きにはなかなか楽しい、ニヤリとするような小細工(いい意味で)が満載だ。というか、ビジュアルに押されてか、音楽そのものはさっぱり響いてこなかったぞ。そもそもヴェルディのこの音楽、あまり面白くはない(暴言だけど)。シェークスピアのどこか不気味で禍々しい物語を、ヴェルディは魔女の予言に翻弄される悲劇的人間という総じてファンタジックな方向に解釈した感じで、音楽はかなり脳天気だ。これにシェークスピア的なものを再導入するという試みを、おそらく野田は意図的にやってるんじゃないかな、という気がした。ま、夢の遊民社時代から野田演劇では「黒子芝居」とモブシーンがお得意だったけれど、今回も実にうまく絡めている。嫌いな人は嫌いだろうなあ、こういうの。特に歌手一人一人の歌唱をひたすら聴きたがるオペラファンには抵抗あるでしょうね。とはいえ、そのスタイリッシュな演出はカーテンコールまで統制されていて、よくある歌手たちがダラダラと手をつないでお辞儀するだけ、というのとちょっと違っている。演劇的にはこうじゃなくちゃ。次回(あればだけれど)にも期待。

投稿者 Masaki : 13:23

2004年05月15日

コーラ

少し前から読んでいるプラトンの『ティマイオス』。テキストをちびちび読んでいるため、まだ当分かかりそう(苦笑)だが、これは言わずと知れた宇宙開闢論。世の姿の成り立ちを百科全書的に述べていて、カルキディウスの注解で中世の宇宙観に多大な影響を及ぼしたことから、中世の思想史関係をやるなら、やっぱり避けては通れない一冊だ。で、そんな折りも折り、邦訳でデリダ『コーラ - プラトンの場』(守中高明訳、未來社)が出た。

コーラ(Χώρα)は「場」というか、限定空間、容れもの、「間」「隙間」などを意味する語だが、『ティマイオス』では、世界の成立に関わったものとして、知解可能な「モデル」と感覚的な「モデルを模倣したもの」のほかに、言葉で示すのが難しい第三の種(ジャンル)として取り上げられる(49a)。これをめぐっては、アリストテレスが『自然学』4巻で「質料」として解釈したのを始めとし、ハイデガーの『形而上学入門』に至るまで、連綿たる注解の流れがある。そのそも注解というのは哲学的営為の根本にある行為だけれど(フランスのバカロレアなんかでも小論文の選択肢の一つはテキストの注解だ)、さすがにデリダの「注解」はまた異色な刺激に満ちている。

そこでの「コーラ」はまさしく構造的に開かれたジャンルの裂け目だ。デリダはそれを、メタファーと本来的意味といった対立、神話的次元とロゴス的次元といった対立をも越えて、それらを無化するようなものとして取り上げている。世界の成立(『ティマイオス』が語る)に与るこの明示されないもの……ここには、ディオニュシオス・アレオパギタ(偽)などへといたる新プラトン主義的な神秘神学の遠い残響ももちろん感じ取れるし、同時に、河野与一が指摘していた「形ばかりを見て<もの>を見ない」という西欧の形而上学的盲点(ものの形は、ものを使う際には意識から消されてしまう)への足がかりも感じ取れる。「哲学素ではなく、それでいて、神話的タイプの架空の物語の対象でも形式でもないとすれば、この図式の中のいったいどこに、それを位置づければよいのか」(p.36)というデリダの問いは、不可知の存在すら仮構できない現代の知の、まさに極北へといたる道か……。それにしても、コーラの話だけに限らず『ティマイオス』は面白いぞ。

投稿者 Masaki : 23:18

2004年05月10日

式典と神話

8日はフランスでは第二次大戦の対独勝利の記念日。今年は直前にユダヤ人兵士の記念碑が落書きで荒らされるなどの事件もあって、むしろいつになく8日の式典がクローズアップされる形になったのが皮肉といえば皮肉か。一方で、7日にはフランスが歴史的な敗北を喫した「ディエン・ビエン・フー(Dien Bien Phu)の戦い」50周年記念で、大統領はその地での戦没者を、「『ロランの歌』にも匹敵する新たな叙事詩をその血でもって記した("les hommes de Dien Bien Phu ont écrit avec leur sang une nouvelle geste qui renoue, par-delà les siècles, avec l'héroïsme de la Chanson de Roland")」と讃えた(Yahoo! Franceの記事)。

実際にはディエン・ビエン・フー平原の戦いは、ベトナム統治の立て直しを図ろうとするフランスと、独立を目指すベトミンとの壮絶な戦いだったようで、フランス側はこの惨敗でインドシナからの撤退を余儀なくされている。大統領は「ロランの歌」に言及してまで、犠牲になった兵を美談に仕立て上げたわけだが、こうした神話化は物事をある側面から整理し均質化することにほかならない。なぜ今、あえてそういう姿勢を押し出したのだろう?節目の50年ということも当然あるだろうけれど、なんだかこの式典自体に虚構的な色合いを帯びさせ、侵略戦争という記憶が突きつけるはずのアクチャルな重み(それはイラク問題などで増幅されうる)を逸らそうということなのかもしれない。うーん、記憶を風化させないという機能をもつモニュメントやセレモニーは、同時にそれをフィクションの領域に押しやる機能も担っているのか……。その意味では、やはり対独勝利を祝っていたチェチェンの式典会場で起きたテロは、国家の神話に回収されてしまいそうになった民族の記憶を、現実に引き戻す動きなのかもしれない(だからといって無差別テロが正当化されはしないのだが)。

投稿者 Masaki : 17:14

2004年05月07日

ネットと書籍

Le MondeのDossierのコーナーで「インターネット:書籍の新たな機会」という特集記事を掲載している。有料の部分なので、とりあえず簡単に内容を紹介しておく。「当初の予想とは逆にe-bookはほとんど失敗し、一方でネットでの書籍販売は好調になっている。結局辞書や百科事典などの電子化にはメリットがあったが、文学的テクストや論考など全体として読まれるものは電子化に馴染んでいない。小説などの書き方には直線的なものでない新しい形も出てきているが、それでもなお文学といえるのか、という問題もある。一方で図書館では電子アーカイブが盛んになるなどの現象もある。結局、技術革新と実際の利用との時間的格差ということに尽きる……」。なんだか電子テクストを論じたいのか書籍を論じたいのか、この特集は今ひとつ論点を絞り切れていない気がするが、松下やソニーが出している読書端末などは確かに、都市生活者にとっては野暮ったいだけで(大都市の電車の中でノートパソコンを開く行為があっという間に廃れたのもそのあたりに理由がありそうだ)、ニッチな需要以上に定着するとは思えない。時間的格差などというよりも、もっと深いところに起因する問題があるんじゃないのかしら。

上の特殊の関連記事ではロジェ・シャルティエのインタビューもあって、シャルティエは次のような論点を示している。「読まれるテクストで考えれば今ほど多くの文字が読まれている時代はないが、書籍という形式には大きな挑戦が突きつけられている。とはいえ一方で電子テクストは『言説の有効性の認証』に問題があり、剽窃や著作権の問題、さらには読者の側がテクストをどう階級づけるかという問題もある」。なるほど、これは見逃せない部分だ。

投稿者 Masaki : 13:53

2004年05月05日

内発

米英軍によるイラク人捕虜の拷問・虐待写真の公開は、戦争の現実というのを改めて思わせる事件。英軍の方はフェイクではないかという話もあるけれど、仮にそうだとしても、そうした写真を「作って流す」という行為そのものが、すでにして厭戦気分の蔓延を物語っている……。例えばYemen Timesの記事では、捕虜の虐待を敷衍する形で米国の蛮行を批判し、今回の件についても独立機関による調査と、しかるべき法廷での審議が必要だと訴えている。もはやどう転んでも親米政権が誕生する見込みはまったくないのだから、外国勢力はいったん全面的に手を引くのが賢明かもしれない。もちろん、そのように放置すれば内戦状態になる可能性もあるだろうし、別の形の専制国家が誕生しないとも限らないだろう。けれども、そもそも内発的な自治の動きが出てこなければ、先に進むことはできないのではないか、という気もする。それがあってこそ、国連主導でその調停にあたるという大枠のシナリオも生きてくるはず。危険な賭だけれど、あえてそうする以外にないほど、状況はせっぱ詰まっているんじゃないのか?

投稿者 Masaki : 17:14

2004年05月01日

EUの拡大、反ユダヤ主義も拡大?

EUは5月1日から25カ国体制へ。各地で祝賀ムードいっぱいという感じだが、そんな中気になるのは、このところまたクローズアップされてきている反ユダヤ主義。30日にはフランス東部のオー・ラン県では、ユダヤ人墓地が落書きで荒らされる事件が発生。その前にはフランスのサルコジ経済相が「社会党政権のせいでフランスは米国に反ユダヤ国家だと思われた」などと発言して大騒ぎになっている。ベルリンではOSCE(欧州安全保障協力機構)主催の反ユダヤ主義に関する国際会議が29日に開かれている。エリ・ヴィーゼルがいまだにユダヤ人が脅威を感じている点を指摘したり、元欧州議会議長のシモーヌ・ヴェイユが「フランスでは不寛容が定着している」と述べるなど、もはやこの問題は社会全体の脅威だとの認識で一致している(Tagesspielの記事"Mode der Intoleranz")。また、EU拡大で反ユダヤの空気がさらに助長されるのではと危惧していたドイツのユダヤ人中央評議会副議長に対し、ポーランドのクワシニエフスキ大統領はTagesspielの別の記事で「反ユダヤ主義が東欧でいっそう顕著だということはない」とし、「EU拡大は問題ももららすだろうが、機会や期待の方がもっと大きい」と強調している。とはいえ、欧州にとってイスラムが外の他者ならユダヤは内なる他者。重要なのは全体の空気であり、祝賀ムードが去った後が問題なのだが……。

投稿者 Masaki : 19:38