2004年06月26日

現代ギリシア語

大修館書店の『月刊言語』7月号の特集は「現代ギリシアのことばと文化」。オリンピック関連企画という感じが微笑ましい(笑)。中世思想史などをやるなら、当然古典ギリシア語は必要だが、多少現代のギリシア語への目配せがあってもよいかもしれない……なんて思ったりもする。この特集に寄せられた橘孝司氏の小論にもあるように、現代のギリシアの学生たちは現代語風の発音・読み方で古典語を学んでしまうのだというし。そういえば、前に取り上げた河野与一『学問の曲り角』(岩波文庫)にも、ギリシア人教師から、いわゆるインターナショナルではなく、現代語風の読み方で古典語を教えるよう提言を受けたなんていう話があったっけ。現代語への影響関係としてはトルコ語とイタリア語からの借用語が多いのだという。なるほど、ギリシアは1453年以来オスマン朝トルコの支配下にあって、独立をなすのは1821年。イタリアは地理的なつながりが顕著。フランスのAssimilが出しているSANS PEINE語学シリーズの現代ギリシア語テキスト(なんとこのシリーズから、今年2月に古典ギリシア語テキストも出た!)にも小さく記されているが、この独立戦争にはフランスからも多くの援軍が出兵しトルコとの戦いで命を落としているという。ギリシアの独立記念日は3月25日で、この日は盛大なパレードが行われたりするという。

余談だが、サッカーEuro 2004では、アテネオリンピックへの余勢なのかギリシアがフランスを下した。うーん、なんかすごいな、この勢い(笑)。

投稿者 Masaki : 11:42

2004年06月24日

通訳者の受難

イラクで殺害された韓国人の人質は通訳者だったという。この通訳者の殺害が報じられた23日、英国軍の通訳をしていたイラク人女性2人が、やはりテロの巻き添えで亡くなった話も報じられている(バスラ)。先の日本人ジャーナリストの殺害の歳には、同行のイラク人通訳は逃走して一命を取り留めた。意思疎通の現場に臨もうとする仲介者が殺害されていることには、もはや意思疎通を図ろうとすらしないテロリスト側の姿勢が見てとれるのかもしれない……。

殺害された韓国人の通訳者は貿易会社所属とされていたけれど、大学院でアラビア語を勉強するための資金稼ぎに行っていたという話も伝えられていたから、おそらくは正規の社員ではなかったのだろう。うーん、韓国あたりでは本当のところどうなのかわからないけれど、少なくとも日本では、どうも通訳という技術職(本来的にはそう)にはどこまでいっても契約社員・非常勤で賄うものという認識がついて回る。たぶんこれは広く行き渡った認識なのではないかと思う。で、当然、戦地に連れて行くからといって訓練を施すわけでもない。通訳や末端の技術者は、まさに無防備だ。現場で何か事が起きれば、真っ先にそういう人材が切り捨てられる。テロリスト側も、どこかそういう切り捨てられる立場の人間を優先的に狙っているようにすら見える。虐げられた者は自分たちが虐げうる弱い獲物を狙うのか。そこに大義は介在しなくなっていくだろう。この、暴力が常に弱い方、弱い方へと流れていく逆スパイラルをどこかで食い止めるためにも、韓国で一部巻き起こっているという報復を求める声なんぞに、具体的な形が与えられては困るのだ。

投稿者 Masaki : 22:13

2004年06月17日

欧州議会選……

仏独あたりのマスコミが事前に予想していた通り、各国で棄権率の高さと現政権への批判票が目立った欧州議会選挙。トップダウンで進められた欧州の統合に、一般の市民はかなり冷ややかだということを改めて感じさせた。

この、欧州をめぐる為政者と一般市民の認識の差は、これから従来にもまして大きな問題になっていきそうな感じもある。例えば『ヨーロッパ学事始め』(マンフレート・ブール他編著、而立書房)(シンポジウムの記録)所収のブールの論考「諸文化のヨーロッパのために」では、経済的利害によって決定された欧州統合を真に民衆のものにしていくために重要なのは、その文化概念を国家的な次元から解放して、互いに他を疎外しない連帯のもとに位置づけ直すことだと説いている。けれども問題なのは、文化例外の件で問題になるような、文化活動が経済活動に下支えされている状況だ。ジンドリチ・フィリペタというチェコの報告者は、「経済はユートピアを殺す」と断じたブルデューに対して、「経済と哲学との独特な結合」を弁護していたルカーチが重要だと述べている。なるほどルカーチか。まともに読んだことがなけれど、言われてみればなんだか面白そうだ。なにかヒントが転がっているかしら?

[シリーズ、LiveCamめぐり] その1
eiffel0329.jpg
(今年3月29日の某LiveCam映像でのエッフェル塔。ほとんど絵はがきだな、こりゃ。この周りに何もない開放感こそが、エッフェル塔の強みか)

投稿者 Masaki : 11:47

2004年06月14日

ジャーナリズムと用語と

ある放送関係者が、まるで鬼の首を取ったように「フランスのニュースはなんだか核のない肉の塊のようだ」などとコメントしているのを聞いた。France 2の報道を見ての感想らしいが、ここから最近目を通した二つの書籍が連想として浮かぶ。

一つはフェリックス・ガタリ『カオスモーズ』(河出書房新社)。相変わらず晦渋。二項対立などの図式化で括ってしまう安易な分析を批判するのは結構だが、その代わりに出してくる「詩的」キーワードには、どのようなコノテーションが付されているのか、捉えにくい。明示的な定義を避けているからだけれど(明示的定義は、上の図式化の最たるものというわけだ)、それだけに読むのは大変だ。例えばリトルネロ(リトルネッロの方がよいと思うけど)概念。本来のリトルネッロはイタリア語でいうリフレイン。それが転じて、「独奏部を挟んで反復される総奏部」の意味になったわけだけれど、ガタリはそれを一つの機械的反復に見立てている。鳥の歌が性行動の誘惑や闖入者の追い出しなど「特定の機能空間を確立する」のと同様に、人の原始的な儀式の踊りや歌は「集合的実存の領土」を画定した、という一節からもわかるように、これは人の身体表現にまつわる反復作用のことのようだ。こういう感じで、別の文脈に組み入れられた用語の理解を、本文から寄り集めて作り上げなくてはならないところに、現代思想のある種の書籍の、読者に対する高い要求がある(そういえば、現代思想でいう「ポリフォニー」も「テキストの文面から隠された別の声を聞く」みたいな意味で使われるけれど、音楽でいう多声音楽(ポリフォニー)は、複数の声部が構造的に曲の全体を織りなすわけで、別の声を聞くというようなものでは到底ないのだけれど(笑))。そうした読者の関わり方の要求も、つきつめていけばスコラ哲学あたりに端を発するような気がするけれども(検証が必要だが)、もう一つのその末裔であるジャーナリズム(特に知識人的な文脈での)にも、同じように読み手や視聴者にそれなりの応力を求める傾向があるような気がする。

もう一つの連想は、ピーター・P・トリフォナスなる著者の解説本『エーコとサッカー』(岩波書店)。こちらはサッカー嫌いを標榜するエーコのテキストを紹介しながら、その問題を紹介していくというもの。エーコの本文をそのまま訳してくたほうがよっぽど面白いと思うのだけど、どうやらエーコは、現代のスポーツがスポーツジャーナリズムに回収され、しかも権力から返報の及ばないところでくっちゃべっているところが、まさに無知の場だと痛烈に批判しているらしい。考えてみると、これはスポーツに限った話ではない。無駄話、ミスコミュニケーション、無用の言説、記号の過剰なコード化などというのはいたるところにある。これってガタリ的に言うと、一種のリトルネッロということになるのかしら。ジャーナリズムの語りがどこか肉の塊のようなのは、そういう部分の問題があるからかも。願わくば放送関係者は、「フランスの放送は……」なんて言い放って終わらずに、自己反省もしていってほしいものだと思う。

投稿者 Masaki : 00:47

2004年06月08日

Dデイ

ノルマンディ上陸作戦の60周年式典にわいたフランス。今回はドイツも初の出席で、まさに戦後が終結したことを印象づけようとしているかのよう。拡大EUの舵取りを念頭に置いていることは明らかだ。で、米国も米国で、タイミング的にイラクに関する国連決議の調整を図るようにもってくるところが絶妙。こんなわけで、政治ショーとしての側面(狭義の)もずいぶんと強調されていたように思う(とはいえ、「戦後」からの脱却が様々な形で進んでいる西欧は、アジアの状況となんと大きなコントラストをなしていることか……)。

作戦に実際に参加した退役軍人の年齢からして、これほどの式典はもうないだろうとされているが、ルモンドのニューズレターで紹介されていたSt.Peterburg Timesの4日付けの社説では、若い人にとってはもはや過去の「歴史」でしかないノルマンディ上陸作戦を、今回これほどの式典で祝ったのは、新たな区切りとしてのゼロ年を必要としているからではないか、と論じている("If we want to preserve those institutions, to give them the popular support and appeal that they need in order to flourish, we need a new legitimacy, and it is not entirely obvious where it will be found. Perhaps we need a new Year Zero against which we can define our political progress and our new ambitions. ")。なるほど、式典には元来、時間的区切りの機能、「リセット」の機能がある。けれどもそれがことさらに強調されていたとしたら、やはりそこに、ある種の政治的作為を疑わざるをえない。この場合の作為とは何だろう?英国のSun紙の論評は、「今のわれわれは当時ほどの勇気を持てるか」との問いを発しているが、あるいは繁栄を守るための行動(軍事的?)を鼓舞することが、裏の意図としてあるのかもしれない。正義や自由のための信念の行動は確かに奨励されてしかるべきだけれど、ちょっと気をつけていないと、すぐにそこに米国的な新自由主義の色合いが加えられて、足を掬われかねない……。今回で言えば、「西欧の戦後の民主主義的繁栄は尊い犠牲の上に成り立っているのだ」という感じのメッセージになっていたように思えるが(それ自体はきちんと認識すべきだけれど)、信念による行動がどこかで国家奉仕型の行動にすり替わっていきそうな危うさが感じられるのもまた事実だ。

若い世代はどう思ったのだろう?式典に参加したというある若者は、France 2のインタビューに答えて「イベントそのものは感動的だった。レーガンの死も重なったし、忘れられない思い出になった」という感じで答えていた(7日、13時のニュース)。イベント性そのものを感覚的に捉えているところが、為政者の意図をどこかはぐらかしているようで小気味よい……か(?)。

投稿者 Masaki : 15:50

2004年06月03日

カメラを持った男

映画音楽で知られるマイケル・ナイマンの「フィルムコンサート」に行く(昨日)。前半は「ピアノ・レッスン」(ピアノソロ)「英国式庭園殺人事件」「プロスペローの本」の挿入曲のコンサート。いやー、やっぱり管楽器が低音をブイブイ唸らせるのがいかにもナイマンって感じだ。後半が生演奏つきの無声映画上映で、作品はなんとロシアの記録映画作家ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929年)。革命後のロシアの様々な断片を、それを記録する男=カメラに寄り添う形でモンタージュした超有名な作品。それにナイマンが曲を付けているのだけれど、うーん、これは『コヤスカッティ』(そういえばフィリップ・グラスも昨秋同じようなフィルムコンサートをやったんだっけね)プラス『メトロポリス』という風だ。自然的・身体的な映像にスローの曲を、都市文明的・機械的な映像にブヒブヒいわすアップテンポな曲を付けているため、本来多義的であっただろう映像が、音楽に引っ張られて、『メトロポリス』的な二元論の対比という形で解釈を強要されてしまう。うーん、解釈を引っ張ってしまう音楽って、ある意味かなり暴力的かもしれないが……。

このセミ・ドキュメンタリーの映像を見て、ヴェルトフの一義的な目的は、やはり記録することそれ自体にあったのではないかと思えてならない。映像のジャーナリズムの根源……。先にイラクで殺害されたジャーナリストも含めて、中東にいるジャーナリストらのことを少しだけ思った。彼らは本来記録のために現地に入っているのだろうけれど、彼ら自身がテレビの前に立たされてレポートするわりに、彼らが日々記録しているであろう映像はきわめて乏しくしか放映されない。本当に重要なのは、彼らが記録したものの方だろうに……。機構としてのメディアがそうした記録をいじったり隠蔽したりするのは、作曲家が行う解釈の方向付けなどとは比べものにならないくらい横暴だ。

camera.jpg
(『カメラを持った男』の一場面)

投稿者 Masaki : 14:27