2004年07月29日

外からの眼

イラクでの邦人人質事件解決に貢献したイラクの聖職者協会。訪日中のその代表団が外相との会談をドタキャンした話が伝わったけれど、京都のシンポジウムでは、人質事件の最中も日本政府からの接触はなかったという話をしたという(京都新聞のサイト)。なんだか現政府への不信感が国際化している感じを与えなくもない。そういえば岩波『世界』の8月号でも、『「日本」の現実』と題した特集の中で、寄稿した諸外国のジャーナリストがほぼ例外なく政府への不信を口にしているのが妙に印象的だ(メディア批判もだけどね)。「正直むかつくのは、日本経済の足を引っ張ってきた政府が、自分たちの政策で景気が好転したと言っていること」(B. フルフォード)とか、「(小泉は)韓国や中国の反対にもかかわらず、忠臣蔵のイメージに向かって日本を導こうとしている」(キム・チェンシク)とか。

サッカーW杯を戯画的に振り返るアンジェロ・イシは、それが寛大なホスト国という自画自賛のために織り込まれた内向きなイベントであったことを改めて総括してみせ、「日本が国際社会に対して好印象を残したと勘違いされてはこまる」と述べる。日本人の、日本人による、日本人のためのイベントに、他国が巻き込まれるんじゃ、さぞたまらなかったろうね。イラク派遣の自衛隊も、何をやっているのかまったく伝えられず、返ってきた隊員たちは公式見解で自画自賛ばかりをする。いったい何なんでしょうね、この国は。自画自賛……内弁慶……ってまさに体裁だけ。「国連常任理事国入りには、時に軍事力の行使も必要だ」みたいなことをアーミテージが言ったというけれど、そんな迷い事によもや乗ったりしないでよね。なんといっても愚かしく悲惨なのは、「自画自賛」で武力行使まで行ってしまうことなんだから。

投稿者 Masaki : 23:45

2004年07月24日

映画と哲学

去る5月に日仏学院で詩人で映画監督のピエール・アルフェリと女優のジャンヌ・バリバールのティーチインがあったそうだ(行けなかったのだけれど)。アルフェリはデリダの息子だしバリバールもまたエティエンヌ・バリバールの娘。ドゥルーズの娘(エミリ・ドゥルーズ)以来、フランスの哲学者の子どもたちは映画を目指すのかしらん?そういえばランシエールなんかも『カイエ・デュ・シネマ』に寄稿しているし、スティグレールも大著『哲学と時間』の第3巻は副題が「映画の時間」(2001年刊。未読だけれどね)。皆こぞって映画を問題にしている感じがある。これはどういう動きなんだろうか?当然、一つには現象学への回帰みたいなものがあるのだろうけれど……。日本でも最近では、映画関係者や美術・建築関係者(学生も含めて)が思想書の購買層に占める割合は高いそうだから、知的な生産の舞台もやはり変わりつつあるんだろうなあ。

最近ようやくスティグレールの『象徴的貧困について』第1巻("De la misère symbolique", Galilée, 2004)に目を通したのだけれど、これでも盛んに自著の「映画の時間」に言及している。2巻本だそうで、2巻目は今年秋の刊行らしいが、これなども現象学的な問題を扱おうとしているようにも見える。特に「感覚器官の組織学」という意味で美学を考え直そうとしているところ。これはかなり面白そうな問題だけれど、1巻目では詳しく取り上げられていない(2巻目に期待)。

この本で言及されるアラン・レネの『恋するシャンソン』(On connaît la chanson)も、ベルトラン・ボテロの『ティレジア』(これも去る1月に日仏学院で上映会+トークショーがあったらしい)も、個人的には見ていないのがちょっと不甲斐ないか。そういえばスティグレールはIRCAM(現代音楽・音響研究所)の所長になってたんだっけ。音楽については論じないの?ちなみにレヴィナスの息子ミシェル・レヴィナスも作曲家・演奏家だ(これまた未聴だが(笑))。

(補足):
上のスティグレール本、1巻目の主眼はシモンドンの個体化論を検討し直そうとしている部分かしらん。そもそもシモンドンの個体化論では、かなり大雑把にいえば、受容体(レセプター)に応力のようなもの(情報)がかかることによって、あるシェーマ(形)、つまり周りよりもエネルギーが高い状態ができることを一般的に個体化といっていて("L'individuation psychique et collective", Editions Aubier, 1989、を参照。アリストレテス流の質料と形相に通じるものがあるぞ)、人間個人や社会までをも包括する理論が模索されていたんだっけ。その意味では、スティグレールがあえて主体(私、われわれ)の話だけに限定してしまっているのに対して、当のシモンドンの論の射程はもっと長い気がする。確かに、そうした応力をめぐる(環境も含めた)質的・量的変化が個体化にどういう影響を与えるか見ていこうというのなら刺激的だけど、この本ではgrammatisation(文法化?)なんていう概念を出してきて、余計に話を複雑にしているような気も……(笑)。うーん、ちょっと全体図が見えにくい。繰り返し言われる「原初的ナルシシズムの破綻」と「現代人の不満(mal-être)」の詳細についても……やはり2巻目ってか。このあたりの問題もまたすこぶる現象学的。

投稿者 Masaki : 20:19

2004年07月22日

哲学の二つの文化

このところ読んでいた本の一つがサイモン・クリッチリー『ヨーロッパ大陸の哲学』(佐藤透訳、岩波書店)。分析哲学と大陸哲学(すごい呼び名だけど)をイングランド対ヨーロッパ大陸という地理的図式に還元せず、むしろ文化的な二つの流れと捉え、双方の和解のための道を示唆するというなかなかに野心的(?)な一冊。前者が諸学説の真偽を問い直すのに対して、後者はその意味を考え直すというわけだが、下手をすると後者は前者から「テキストの注釈をしているだけ」と見なさがちになってしまうという。実際には、そうした間接的アプローチも重要なのだけれど(著者もそう述べているが)、場合によりそれは大陸の伝統に息づく(とされる)反科学主義と合わさって、漠とした非明晰主義に陥る危険もあるのだという(著者は神の意思から始まって、フロイトの衝動やらユングの元型やら、さらにはラカンの現実界、フーコーの権力、デリダの差延、レヴィナスの神の痕跡などもそういう非明晰主義的説明の候補になっているという。こりゃ手厳しい)。

一方その対極にある科学主義もまた批判されなくてはならない。そんでもって、著者の説く和解案は現象学的課題の中にある。「反省に先立つもの、前理論的基体に関する反省」こそが現象学だという著者は、まさにその暗黙知を整理し直し、生活世界を捉え直すことが第三の道を探ることになるのだと提言している。なるほどね。でもこれって確かに今進行しつつある動きのような気もするのだけど……まだいろいろな問題が手つかずなのも事実か。そういえば著者は、デリダの近年の仕事を「興味をそそるような現象学的革新がある」としながら、「人はそれらのいずれも、本当に世界に火を灯すことはないという印象を持っている」とも付け足している。それはなぜなのか。「人がすでに反省的意識を獲得してしまったとき、どのようにして人は知覚的信念の素朴さを取り戻すのだろうか」(p.150)というメルロ=ポンティ的問いは、まずもってそのあたりに向けられるべきかもしれないなあと(笑)。いや本当に。

(追記):
科学主義の批判という点で興味深い別の本として、落合仁司『トマス・アクィナスの言語ゲーム』(勁草書房)がある。そこでは、合理的な知識のみを真理とするのが科学主義であり、理性が把握しえない世界を否定するものと定義されている。ところが科学主義での真理の決定基準を掘り下げると、その決定基準自体が真かどうか決定しえない事態が生じるというのだ。科学主義はおのれが真理であることを決定できないのだ。

投稿者 Masaki : 23:13

2004年07月19日

資本主義の猛威

絵柄が生理的にダメという人は除き、いろんな人が褒めていた岡崎京子のコミック『ヘルタースケルター』(祥伝社)をようやく読むことができた。連載は95年から96年、作者の交通事故のため単行本化は初版が2003年で今や8刷になっている。うーん、この底知れぬ迫力、ただものではない。資本主義の行き着く先は、こうした模倣の欲望と一種の自己喪失と騒乱だということか。日本は一度、その終末的な状況に足をかけていたことがあったっけなあ。いわゆるバブル期だ。この作品も、そういう意味では、今の時代というよりもバブル期の雰囲気を色濃く刻印されている気がする。逆に言えば今なお、ポスト・バブルというか、バブルの精算後でしかないのかもしれないなあ、と。何も不良債権に限らない。粉飾された表面的繁栄の下で、生体的・身体的なものが著しく損傷する……そのツケを払っていくのが今、そしてこれからなのかもしれない。一方でその後追いのように、グローバル化した資本主義はごくわずかな囲い地をも呑み込む勢いだ。

France 2のニュースでやっていたけれど、イスラエルの社会主義的実験共同体(農場)として知られる「キブツ」が今、風前の灯火なのだそうだ。農地の多くはすでに私有財産となり売買までされているという。うーん、なんてこと。オルタナティブの可能性がまた一つ失われつつあるのか。地域通貨の運動とかは大丈夫?

投稿者 Masaki : 22:14

2004年07月17日

書店の受難……

昨夜いきなり伝えられた青山ブックセンター(ABC)の営業停止のニュース。えらく驚いてしまった。ちょうど昨日の朝、新宿南口の店舗に行ったばかりだったし。まさかABCでの最後の買い物になるとはなあ……購入したのは今道友信著『ダンテ「神曲」講義・改訂普及版』(みすず書房)。あまり時間をかけて店内を見たわけではないのだけれど、今から思うと、店内にちょっと微妙な違和感があったのも確かだ。新刊がちょっとそろっていない感じで、ちくま新書などの新刊として立てかけてあるのが先月のものだったり、文芸誌なども最新のものではなかったり。

ABCの六本木店は学生時代からよくお世話になった。今はなき六本木WAVEやその地下の映画館に行けば、ほぼ必ずといってよいほど立ち寄った。営業停止の一報には、このところハードカバーなどの売れ行きが落ちていたなどと言われているけれど、やはり書店経営は大変なのだろう。近所でも、割と品揃えのよかった書店が「移転」という名目で店を閉じてからずいぶん経ち、ついに最近、「再開する暁にはここで発表します」みたいに書いていたWebページまで消えてしまった。雑誌とベストセラー本ばかりを扱う小さな本屋はそれでもそこそこ残っていたりするけれど、急速に減ってきているのは、大型店には及ばないけれど小さな本屋よりは品揃えのよい中規模店だという気がする。なるほど中規模店は、店舗面積が広く維持費もかさむものの、売れ筋だけでは棚を埋められないからどうしても多少はマイナーな本を置くことになり、一種の余剰在庫を抱え込むことになるというわけか。コストはかさみパフォーマンスは落ちる。これは「特徴ある本屋作り」みたいなものを安易に持ち込んで解決できることではないようにも思える(そもそも、そういう本屋作りは大型店の店内のコーナーでしかできないんじゃないかと……)。売れ筋ばかりに特化して機動力を増すか、徹底的に大型化してスケールメリットに訴えるか……するとまた二極分化が加速していく。小規模店は小規模店同士、大型店は大型店同士で似通ってくる。その先にはあるのは、どちらもまったく特徴を失い競争力も失い、共倒れ状態になることだ。うーん、なにかこの、大型店と小規模店を結ぶ別の形態とかってないものかしらん?「特色ある本屋作り」みたいなことを小型店に持ち込むなら、例えば小さな店が出店となるデパ地下みたいなものとか……?そうしたら各店が特色を出さなくてはならなくなるし、ある程度のスケールメリットも出るだろうし。そう、常設ブックフェアというか、ブックショップコンプレックスみたいなものがあればいいのになあ、と。利用者としてもそういうのは歓迎したいのだけれどね。

投稿者 Masaki : 22:57

2004年07月14日

既視感の危険?

新潟の洪水の映像は、一見してまるで近年の欧州の水害を見ているかのようだった。けれども、そういう既視感と同時に、細部の屋根や看板などからより身近な国内の映像であることへと認識が連れ戻されて、あたらめて驚かされたりもした。考えてみるとこの既視感という奴はクセモノだ。環境災害のグローバル化が久しく言われ、メディアを通じて欧州など各地の水害の映像が繰り返し流されると、初めのうちこそ危機感をもって眺めても、徐々にそういう光景に感覚が慣れていき、しまいにはこういう、より身近なところでの似たような光景に、「またどっかの国のこと?」という逆転した感覚で接してしまうようになる……。うーん、なんてことだろう。おびただしい映像の記憶に対して常に「醒めている」というのは、実はとても難しいことなのかもしれない。

13世紀の終わりから14世紀初頭にかけて活躍したドイツの神秘主義者エックハルトの説教に、「魂の内にあるひとつの力について」という一文がある(『エックハルト説教集』(田島照久訳、岩波文庫)所収)。マルタという女性(処女)がイエスを迎える話を引いて、エックハルトは「処女とは、外から来るすべての像にとらわれることのない人」と定義し、あらゆる像に「とらわれず、自由で、行為を選択せず、時間的前後にも縛られず、けっしてそれらの像をわがものとすることがなければ」、その人は「真に処女」だ述べている。一方で、「人が実り豊かであるためには、女であることがどうしても必要なのである」とも述べ、「『女』とは魂に付けることのできる最も高貴な名前である」とも述べている。うーん、この像と処女性・女性性との関係、いまひとつはっきりと見えてこないが、かつてフィリップ・ケオー(工学系の思想家だ)なども指摘していたように、何かこのあたりに、映像文化への本源的なアンチテーゼが読みとれるかもしれない、とも思う。エックハルトも今後検討すべき課題だ。

投稿者 Masaki : 13:16

2004年07月10日

技術への問い?

アンドリュー・フィーンバーグ『技術への問い』(直江清隆訳、岩波書店)をななめ読み。「テクノクラシーと戦う」という旗印の下で、ニューレフトっぽい技術論を展開しようというのがスタンスで、そのための問い直しの過程で技術決定論が批判され、構成主義的な見方が擁護されていく、というのがメインストーリーか。技術をそれ自体で閉じたものとして見るのではなく、社会的な関わりに開いていくべきだ、というのは割と聞く話で、今や珍しくもないけれど(科学技術時代の話ではないけれどヘンリー・ペトロスキー『本棚の歴史』(池田栄一訳、白水社)なども、手工業時代の工芸品にそうした視点をきっちり合わせていて興味深い)、ま、ハイデガーやらマルクーゼやらハーバーマスやらと、多少とも技術と関わってきた哲学者のスタンスをめぐる見取り図としては悪くないか。けれどやっぱり、対象物についてのもっと具体的な話とか読みたいよなあ。科学技術時代の大がかりな技術産品について、例えば同書が決定論として批判する(評価もしているみたいだったけど)シモンドンが描いたようなダイナミックな記述を、社会との関わりの文脈で描くような大著って、あんまり見かけない気がする。技術分野に限らず、権力批判はやはりそういうある程度具体的な話から出てこないと……という気がするのだけれど。

投稿者 Masaki : 22:44

2004年07月06日

ウリクセース

去る6月16日は、ジョイスの『ユリシーズ』が描いた1904年6月16日からちょうど百年ということで、アイルランドほかジョイスゆかりの地では、主人公ブルームの名を冠した「ブルームズ・デー」を祝ったらしい。ダブリンの公式サイト(www.rejoycedublin2004.com)もできていたが、面白かったのは先月のルモンドの特集記事。ダブリンでのガイド付きツアー同行記という風なのだけれど、いくつか興味深い話も紹介されている。例えば『ユリシーズ』の仏訳が出た1931年、ジョイスと友人たちがパリで祝ったのが「ブルームズデー」の始まりなのだそうだ。ジョイスには日時と場所へのフェティシズムがあるのだという指摘も面白い。が、なんといっても最高なのは、このガイドツアーに同行したうちの数名が「『ユリシーズ』は読み通したことがない」と語ったという下り。「なぜ読まれないのに、ジョイスは人気なんだろう?」とのジャーナリストの問いかけに、読んでないと語ったオーストラリアの婦人は、「そういう作品が作られたことを、凄いことに違いないと感じるからよ」と答えたのだという。この言い訳、なんとも見事ですな(笑)。でもこれって、作品そのものの評価の力学と、文化的事象の伝播の力学とがまったく違うことを改めて教えてくれる好例の一つ。「ブルームズデー」に限らず、一種の古典化した文化の継承は、「便乗的」にしか行えないのか……なんて思ったり(これは突き詰めていくとちょっと面白い問題かもね)。

『ユリシーズ』はもちろんオデュッセウスの物語が下敷きになっているわけだけれど(個人的には後者の方がいろいろな意味で興味深いが)、考えてみればこれだって一種の便乗。ギリシアがらみでいえば、先の映画『トロイ』(さんざんに言われているみたいだけれど、未見だ)もそうだし、アテネオリンピックも、文化的スペクタクル、文化的イベントはみんな便乗の織物だ(笑)。でもやはり、一過性の便乗ではない、原典へのアプローチこそが大事にされてほしいものだと思う。本当に面白いのは便乗から下りた先だったりするからだ。うん、ホメーロスもちゃんと読もうっと。

LiveCamめぐりシリーズその2
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5月31日のジュネーヴ。ソフトフォーカスになっているのはなぜ?

投稿者 Masaki : 20:48

2004年07月01日

物語論

白水社の文庫クセジュから出たジャン=ミッシェル・アダンの『物語論』(末松寿ほか訳)。プロップ以来の60年代〜70年代の物語論をまとめて紹介した一冊。あー、ついにこういうのが出るようになったんだなあ、と感慨深かったりもする(笑)。ブレモンやグレマスの物語分析はもう古いけれど、全体的な流れをここでいったん掴み直しておくのはよいかも。これらの話を眺めてみると、やはり改めて思うのは中世のスコラ学の変遷との類似かしら……物語論の出立点にはどこかオッカムの『大論理学』の微細なディスクールの分析に通じるものがある(もちろん中身は大違いなのだけれどね)。その後のスコラ学がたどった精緻化・自己目的化は、グレマスとその一派の意味論の展開(その形骸化なども含めて)と実にパラレルだ。ところでこの小著の著者アダンは、グレマスの一派に対しては距離を置いていて、言表作用からの分析を提唱する立場を取っている。グレマスが物語のジャンル性をいきなり意味論一般に拡大するのに対して、あくまで物語を特殊な一事象と見なしている(言表作用から見ればごく当然なのだけれど)。物語の特殊性をまとめた箇所では、アリストテレスの『詩学』に戻っているところが印象的(?)。80年代や90年代の動向が扱われてないのが残念だが(それもそのはずで、原書は1984年刊)、一つの見取り図としては興味深いかも。やはり記号論の関係領域は、中世や古代への遡及が鍵になりそうだと改めて思う。

投稿者 Masaki : 11:07