2004年08月31日

オリンピック雑感

今回のオリンピックは個人的に忙しい時期と重なって、断片的に情報を追っていただけ。開会式だけはある程度見たが、古代から現在の彫像パレードの行き着く先は機械仕掛けで下りてくる聖火台か……という、なんだかもはや肉体の先にはテクノロジーしかないような妙な印象を与えたイベントだったなあ(ビョークの歌はちょっと面白かったりしたが)。閉会式でも、女の子が息をふくと、機械的に聖火台が消えるという演出があったようだが、素朴に見えて、中身は人為的装置であることを誰もが知っているわけで……うーん、なんなのだろう、この見え透いた演出は。でも考えてみると、いいか悪いかはともかく、ある意味でこれは完成形なのかもしれないなあ、と。ドーピングも含めて、人為的な装置・環境の中に競技者は完全に取り込まれているわけで。アガンベンじゃないけれど(笑)、生は人為的装置に取り込まれ例外状態に置かれて……か?(NHKが昨日いいタイミングで放映した『オイディプス王』の、生のさだめに逆らい盲いてしまう王の姿が重なってきてしまう)

そんな中で、ギリシアの反米運動と、室伏選手が引用したピンダロス(前5世紀ごろのギリシア最大の合唱歌作者)の詩がとても印象的だ。メダルの裏には「ΜΑΤΕΡ Ω ΧΡΥΣΟΣΤΕΦΑΝΩΝ ΑΕΘΛΩΝ, ΟΛΥΜΠΙΑ,ΔΕΣΠΟΙΝ' ΑΛΑΘΕΙΑΣ」(黄金の冠を戴いた競技者たちの母、オリュンピア、真実の女王よ」と書かれているのだそうだが(解説がこちらにある)前者も後者も、アレーテイア(=アラテイア)をめぐる動きだと考えると興味深い。生の奪回、真実の奪回か。うん、ピンダロスの祝勝歌もそのうち読んでみよう。

投稿者 Masaki : 00:28

2004年08月26日

倫理の要?

オスロの美術館から盗まれたというムンクの『叫び』。このところ仕事の合間に読んでいる今道友信『ダンテ「神曲」講義』(みすず書房)に、ムンクの『叫び』がこの世の地獄を描いたものだという解釈もあるという話がちらっと紹介されていた。同書では、地獄という概念が教育的・倫理的な拠り所となっていたことが再三示されている(仏教の場合の地獄観は相当違うとはいえ、寺山修司じゃないけれど、昔は例えば地方の寺なんかにも地獄絵図はあって、子ども心に結構異様なものを感じ取っていたものだ)。現代においては、地獄はもはや誰も信じなくなったわけだけれど、その地獄に変わる教育的・倫理的な拠り所の概念が必要だと、これまた再三説いている。うーん、なんらかの恐怖がなければそもそも倫理は築けないのか、という問題もある。考えようによっては、かつての恐怖は不安という形で薄まりつつ一般化してしまったのかもしれない、と。現代世界そのものの袋小路ぶりがまさにその薄まって広まった恐怖かも。このところの石油価格の高騰なんかも、じわじわと言いしれぬ不安を高めたり……。そんな薄く伸びた不安から、倫理の芽をもたげさせるにはどうすりゃいいのかしら。ムンクの『叫び』が地獄絵なのかどうかはともかく、美術品の窃盗のそもそも背景をなしている資本主義の暴政こそ、地獄絵をなしてたりとか……。

投稿者 Masaki : 01:04

2004年08月20日

セコさの舞台化

このところ真っ昼間に田宮二郎版の『白い巨塔』(1978)をダイジェストで放映している。うーん、最近の唐沢版よりも、やっぱりこっちだなあ。本当は、66年に山本薩夫が監督し、やはり田宮が主演した白黒の映画版がもっといいんだけどね。でもこのテレビ版も、中村伸郎とか佐分利信(ちょい役だが)とか最後のころの小津映画を思わせる配役がまたよかったり。今見てもこれ、登場人物たちのセコさが炸裂しているし、舞台は医学界のくせして、料亭の宴会場面がやたらに多いのがとても可笑しい(笑)。まさに密談ドラマ。けれどもこの作品、視聴者の誰もが抱えているはずのセコさを巧みに使っていて、考えようによってはとても意地の悪い作品かもしれない。

現実世界においても、集団の中でのパワーポリティクスみたいなものは、集団内の当事者にとっては時に切実なこともあるんだろうけれど、端で見ている分には可笑しく、嘲りの対象にしかならない。だから視聴者も、まずはこの作品に描かれるパワーポリティクスの馬鹿さ加減、セコさ加減を下馬評的に楽しむ。この作品世界の構図でいくと、その視聴者の位相が、ちょうど主人公との対称をなす里見や、財前の愛人あたりの立場に重なってくるという仕組みになっている。で、もとより自己肯定したい視聴者は、愛人の斜に構えたスタンスよりは、むしろ里見の清廉潔白さに、多少嘘くさいと感じても、感情移入していくよう誘導されるのだ。パワーポリティクスの胡散臭さを人ごととして楽しみながら、自分の卑下たのぞき見主義そのものは浄化されるという、なかなか見事な作りになっているわけだ。うーん、やるなあ、山崎豊子。映画版の最後は里見が病院を辞するところで終わりだったと思うけど(原作も本来はそこで終わりだったそうな)後から「新白い巨塔」が書かれて、テレビ版はそちらまで取り込んでいるため、「デウス・エクス・マキナ」よろしく、財前がガンになってしまう。これはドラマツルギー的にはちょっと反則、という気がしないでもない。新しい唐沢版も最終回の視聴率はすごかったそうだけれど、やはり個人的には映画版に準拠して脚色してほしかった気も……(笑)。

投稿者 Masaki : 17:32

2004年08月14日

デイヴィッドソン

先日とある大型書店で、季刊雑誌『哲学』(哲学書房刊)の11号(1990年)を見つけた。特集はなんと「オッカム」。オッカムのウィリアムといえば、やはり「オッカムの剃刀」が有名だ(必然性がない限り、複数の物事を立ててはならない、というもの)が、冒頭の清水哲朗による論考では、その綿密な方法論ゆえに、少しでもなしですませるものは切り捨ててしまうという印象だけが残り、後世において「剃刀」と言われるようになったのではないかと述べている。けれどもそれは、本来的にはオッカムの推論上の方法論であって、切り出しという有用性の側から見返すこともできるのだ。

そんなオッカムの剃刀の現代版を思わせるのは、デイヴィッドソンの議論かもしれない、なんてことを思わせてくれるのが、「シリーズ・哲学のエッセンス」の一冊、『デイヴィッドソン:「言語」なんて存在するのだろうか』(森本浩一、NHK出版)だ。この小著による限り、デイヴィッドソンのコミュニケーションの捉え方では、共有する前提など仮構されず、ただ単に、その都度の解釈とその修正があるだけなのだ。うーん、この切り取り方の徹底ぶり。けれどもこれは、ある意味での卓見だ。デイヴィッドソンの著者そのものもちゃんと読んでみたい。分析哲学(最近、『現代思想』とかも特集を組んだし、何か注目が集まっている感じ)の中にオッカム的な方法論がどう息づいているのか、なんてことを考えるのも案外興味深いかもしれない。

投稿者 Masaki : 16:58

2004年08月12日

イスラム銀行

F2でも取上げていたが、英国で初のイスラム銀行が年内にも操業開始するらしい(BBCのWeb記事)。イスラム法に従い、金が金を生んではいけないということで、金利はいっさい設定しない。また不正な所作による利益は禁じられているということで、タバコやアルコール、ポルノ産業などへの投資は行わない。かならず物品が介在しなければならないということで、クレジットの考え方も、金を貸す・借りるというのではなく、あくまで商品の転売だという考え方を強く押し出す……(同じくBBCの解説記事を参照)。中沢新一の『緑の資本主義』が触れていたが、こうした利子の禁止という考え方は、中世盛期以前にはヨーロッパにも存在していた。というか、ニコル・オレーム(14世紀)の『貨幣論(貨幣の変更について)』にも受け継がれているように、金貨などの実際の価値と、その名目上の価値とが相違する事態(まさにそれが資本主義的な流れの始まりだけれど)はなるべく避けよとされている。そしてそういう事態にならないように見守るのはコミュニティの義務なのだ、とも。この、ある種の「アンチ資本主義」の背景には、やはり金が金を生んではいけないという「縛り」があるように思える(『緑の……』によると、三位一体的思想は、まさにそうした縛りを切り崩すものなのだということだが……)。いずれにしても英国という資本主義の一つの極に、異質な論理に支えられた(?)銀行が誕生するというのは興味深い出来事かもしれない。これがきっかけで、将来的に、宗教そのものとは切り離されたところでの何か新しい動きにつながっていかないもんだろうか……。

投稿者 Masaki : 12:41

2004年08月10日

集団的論理

難民認定を求めて国連大学前で座り込みを続けているクルド人家族の身元を、トルコ当局に告げてしまったという法務省の失態(yahooによる読売のニュースクリップ)。いつぞやの在中国大使館での脱北者駆け込み事件を彷彿とさせる。しかも今回は法務省。司法に携わる当局がこのありさまとは、なんとも悪い冗談だ。人権について行政レベルでこれほど配慮がなされないのは(というか、配慮という意味での想像力が働かないのは)、やはり組織を支えるべき理念そのものに欠落があるとしか思えない。あるいは行政は、国民やら外国人やらを一つの「マス(集団)」として捉えて処理しようとすることにあまりに慣れすぎてしまっていて、個人が問題になるような場面での対応が満足に出来ないのか。そんでもって、余所の国で「マス」が問題になると過敏に反応したりする(サッカーの中国人サポーターの振舞いを必要以上に政治問題化させようとしているのは、むしろ日本の側かもしれない)のかも。

「個を確立するのが大事」とか「個性を磨け」なんてスローガンが少し前まで盛んに吹聴されていたように思うけれど(今も教育現場などではあるのかもしれないが)、例えばテレビの画面に登場する政治家やコメンテータは、やたらに「私は、私は」と自分をアピールして、一見個が前面に出てきたという風に見えたりもする。ところが実際には、それはエゴイスティックな姿勢を蔓延するだけだったりする(なにせ、誰が語っても同じような話や事実関係を、さも自分の意見のように「私は〜思う」を付けて、いわば衣を着せて垂れ流すんだから)。テレビのそういうしゃべりは、いろいろなところで模倣されて、視聴者へと浸透していく。ところがそうやって蔓延するエゴイスティックな姿勢にあっては、自分以外の他人はマスとして扱うしかない。そこにあるのは「顔の見える」他者ではなくて、漠然としていてどうでもよい、輪郭のぼけた他者だ。こうしてエゴとマスは手を携えて共に進んでいく……。うーん、テレビ時代が作り出す集団的論理の一端って、そんなものかもしれない。こうなると今広範囲に必要なのは、人権の教育や再考も含めて、人が個人であることをきちんと認識するためのレッスンかもしれないなあと。

投稿者 Masaki : 12:31

2004年08月06日

写真の凄み

「人間が行うすべてにおいて、眼と心とは関係していなくてはならない」("Bei allem was man tut, es muss eine Beziehung zwischen Auge und Herz geben".)。もとの仏語は不明だけれど、訃報が伝えられたアンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉だそうで、シュピーゲル掲載の記事に紹介されている。また、フランクフルター・アルゲマイネの記事にもいろいろ発言が引用されていて、末尾の語録には「決定的瞬間を持たないものなど、世界には何一つない」なんてのもある。うーん、こういう語録からも、HCB(こう略すんだね)の写真世界に通底するものが感じられるかも。彼のルポルタージュ写真、時になんだか異質な(異様な)時間を思わせる感じがあって、形容しがたい凄みを覚えることがある。ありふれた光景を写し出したものなんだけど、改めてよく考えてみると、どこでも見られるような光景でもなく、一体どこから、そういう「ありふれた」なんて感覚が出るのかがわからなくなるような揺さぶり。流れから切り出すこと、というか、言葉の世界では何気なく行っている捨象という行為の一端を、あからさまに見せつけられるというか。そういう部分で、写真が時間認識などの変化にどう影響してきたかなんて話なども、改めて思い返してしまったりする。「写真について語ることは何もない。眺めればよいのだ」とHCBは言うのだけれど……。

投稿者 Masaki : 19:46

2004年08月03日

荒れる中国?

長岡でやっているルーヴルの中世秘宝展を見に(この話はそのうちメルマガで)、新潟に遊びに行く。ちょうど長岡はお祭りで、町のあちこちでその準備がなされていた。ちょっと駅前から遠のくと、昔懐かしい軒の張り出した商店があちこちに見られ、なんだか30年くらいタイムスリップした感覚を与えてくれる。一方、新幹線で長岡の次の燕三条などは、包丁や工具といった金属加工品が地場産業となっているらしい。もとは江戸の頃の和釘で知られた一角なのだという。職人の長い伝統があって今に至っているのだというが、それを脅かしているのはやはり中国製の廉価な製品なのだという。

その中国で開催中のサッカー・アジア杯では、中国のサポーターらが露骨に反日的な応援で盛り上がっている模様だけれど、ワルシャワ蜂起60周年の式典にシュレーダー首相が出席したのと実に対照的だ。国連の常任理事国入りをめぐっても、中国はドイツをよしとし日本には難色を示しているという……和解の西欧と分断の東アジアという感じはいよいよもって濃厚だ。もちろん日本も対外的な配慮を欠いていたりするわけだけれど(靖国参拝問題など)けれど、中国も、国全体の結束をイデオロギー的に支えるため、仮想敵国などを据えずにはいられない事情もあるらしい。

それにしても中国の躍進はすさまじい。ル・モンド・ディプロマティック8月号のラモネ編集長の論説から一部の数字を拾っておくと、アメリカの2003年度の対中国貿易赤字は1300億ドル、経済成長は年率9パーセント台、輸入も各種原材料で世界一(セメントは世界生産の55パーセント、石炭は40パーセントを輸入)になり、石油の輸入も米国について第2位だという(なるほど尖閣諸島の資源は中国にとっての死活問題なわけだ)。当然、そうした大量消費・大量生産の負の側面が危惧されるわけだけれど、政治的にも不安定要素はある(周辺部の火種など)し。仮想敵国というレッテルはそう簡単には外れないだろうけれど、やはり東アジアの不安定化を避ける方向で協働する道を探っていかないと。

投稿者 Masaki : 12:47