2004年09月27日

人間の境界

最近は映画を劇場で観る機会はずいぶん減ってしまい、もっぱらビデオやDVDでのリリースを待ったりしている。そんなわけで押井守『イノセンス』も最近ようやく見たばかり。映像は格段に精密化してはいるものの、国際マーケットを意識しすぎのような中国的色づかいなどはちょっとなあ、という気も(笑)。内容も引用の洪水がちょっと鼻につく感じもしないでもないし、テーマの「人形」も、なんだか根源の呪術的なものの言及や取り込みがないのが物足りないかと……。とはいえ、何が人間を他から区別しているのか(人形から、動物から)という問題設定そのものは、作品が全体として収斂していく合理的な説明の枠にはおさまりきらない……。

……なんてことを思ったのは、ちょうどジョルジョ・アガンベンの『開かれ』(岡田温司、多賀健太郎訳、平凡社)にずらずらっと目を通したばかりだからか。体裁は小著ながら、扱う内容は人間というものの動物からの分割が、決定的な分断をなしえない宙づりのまま、政治や学問などに影を落としている様を、13世紀のヘブライ語聖書からリンネの分類、ハイデガーなどをもとに通観しようという刺激的な一冊だ。人間概念のこれからとしてアガンベンは、より有効な分節化を考えるのではなく、中心の空虚(人間の中にあって動物と人間を分断する断絶)を見据えることを説いている。上の『イノセンス』などがある程度近づきながら、いいところで戻ってきてしまうのは、そういう空虚の凄みの部分かもしれないなあ、と。

ところで、この『開かれ』19章で、ティツィアーノの2枚の絵に言及される。エジンバラのスコットランド国立美術館所蔵の『人間の3段階』と、ウィーン美術史美術館の『ニュンフと牧童』。同書では、後者が前者への反駁として、「動物的でも人間的でもない新たな至福の生を享受する」至高の段階を指し示しているのだと説かれている。うーん、こうした図像学的な解釈、ちょっと唸ってしまうよなあ。以下がその2枚。

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投稿者 Masaki : 22:28

2004年09月23日

モバイル

長年(といっても4年ほどだが)出先で愛用してきたsigmarion II、このところスピンドル部分がちょっと危うい感じになってきた。液晶画面が特定の角度で安定しない。まだ壊れたわけではないものの、かなりほころんできた感じがする。というわけで代替品を探しはじめたはいいものの、しばらくモバイルものを追っていない間に、キーボードものは激減している事実に直面した。sigmarion IIIは在庫切れのようだし、昔はいろいろあったメール端末も軒並み消えてしまっている。ザウルスなどに親指入力のものはあるけれど、こちらが必要なのはやはり普通に打てるキーボードだったりする。ノート型PCは重いので出来れば避けたい……。出先で例えば翻訳の打ち込みをする、なんてのはある意味で特殊用途だが、それにしても選択肢が狭まっているのは困りものだ。「優劣は市場の論理にまかせておけばよい」という自由主義的な主張に反対なのは、最大公約数的な括りで製品開発がなされ、そういう特殊用途の製品が追いやられてしまうからだ。自由競争といえば聞こえはいいが、ニッチを蹴散らすことになるのは明らか。主要な製品はどれも似通い、斬新なものは大手に取り込まれ、市場は均質化していく。製品サイクルも短命化し、いよいよ飽和状態は色濃くなる。なんだかパソコンショップって、行っても面白くなくなっているし。今の自由主義が思い描く未来像って、なんだかそういうところに行き着くしかないようで空恐ろしい……。

投稿者 Masaki : 19:27

2004年09月19日

スト

あまり野球には興味がないのだけれど、今回のスト騒ぎで一つ注目できるのは、長らく忘れられていたストという実力行使を、国内の多くの人々が思い出したということかもしれない。ストライキって、ざっと30年くらい前は決して珍しいことじゃなかったが(私なんかはガキの時分だけれど)、全般的な生活水準の上昇とともに、ひいてはバブル経済を通じて、そもそも実力を行使する必要がなくなって(?)衰退し忘れ去れていた。英語のstrikeは、オンライン語源辞典によると、1768年ごろからあるらしい。フランス語のgrèveになると、警察調書に「増額のために仕事をやめる」の意味で登場するのが1805年とのことで、近代的な意味での同盟罷業は1844-48年ごろからだという(Grand Robertより)。ストもまた時代のメディアと手を携えてきたことは明らか。今や報道によって大々的に伝えられるだけに、その威力はもしかしたら昔よりも増しているのかも。

投稿者 Masaki : 23:27

2004年09月17日

関節外し

先に死刑が執行された池田小児童殺傷事件の宅間死刑囚。この件は、なんだか制度の根幹を揺るがしているような気がする。この執行は、極刑としての死刑というものの関節を外してしまったように見えるのだ。犯罪に見合った処罰という面から見ても(死刑を是認する立場の根拠だ)、人道的見地から言われる更生主義(死刑反対の根拠だ)で見ても、あるいは犯罪の事実関係解明(それは類似の事件の再発防止のためにも重要だ)という裁判手続きから見ても、この執行はまったく意味をなしておらず、まったくもって宙に浮いてしまった形だ。いわば法の執行に見られる制度的な権力が完全にはぐらかされてしまっている。こうなると狭義の人道的配慮などからの議論とはまったく別の見地から、死刑のあり方が見直されなくてはならないのではないか、と思われてくる。死刑囚本人が、ヤケを起こしたのかどうかはともかく執行を望み、制度がそれを追認する形を取ってしまうのでは、それは刑としては意味をなさない。究極の要望を受け入れてしまうことは、処罰の側面からは是認されえない。そういう場合には、むしろ本人の意に反してでも生きながらえさせることが重要になるのではないか、全面的な事件の解明や、悔恨と償いにいたらしめる形での刑の組織化が必要なのではないか、と。極悪人がいなくなればそれで完了、というように事は単純ではない。

投稿者 Masaki : 20:44

2004年09月15日

モナド……

このところ、中世もののテキストで何度かモナドの話に出くわし、かなり気になっている。Scriptorium 2で読んでいるサン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン』もそうなら、エックハルトの説教(アンソロジーものをちびちび読んでいるのだけれど)、世界を映し出す鏡といった比喩などで登場する。神を意味する一者とそれに準じる魂との関連という話には生成論的な部分などもあって、なかなかに興味深いものではある。直接的な関連はあまりないが、少し前に清水高志『セール、創造のモナド』(冬弓舎)をずらずらっと読んだのだけれど、それによるとミシェル・セールのライプニッツ解釈(あの分厚い本、昔途中で放りだしてしまったっけ(苦笑))は、「神によって選ばれた世界は可能性の最大量となるような世界である」という命題の「最大量」を、アルゴリズム的な組み合わせの最大量として理解しているのだという。うーん、そうした解釈の是非については言うべき言葉をもたないけれど、いずれにしてもモナド概念の究極の到達点がライプニッツだとすれば、思想史的にはそこにいたるまでの概念の変遷というか、いろいろな流れが気になるところだ。それはまさにセリーですな(笑)。

投稿者 Masaki : 23:17

2004年09月12日

異人の名

昨日は東京シティ・フィルによるワグナー『ローエングリン』を観に。ほとんど前奏曲と有名すぎる結婚行進曲くらいしか知らなかったのだけれど、なるほど通して観ると実に面白い異人来訪の話になっている。うん、演奏も、シンプルな舞台装置と演出もなかなか素晴らしい。舞台は10世紀のハイリンヒ1世(オットーの息子でザクセン朝の初代国王)の治下のブラバント。内紛が持ち上がっているブラバントへ異国の騎士がやって来る。ちょうどゲルト・アルトホフ『中世人と権力』(柳井尚子訳、八坂書房)を読んだばかりだったせいもあって、なるほど私戦(フェーデ)を王が仲裁するという図式が用いられていて興味深い。

物語の軸をなす、名前も素性も聞いてはいけないという禁忌は、父親パルツィヴァルの逸話(クレチアン・ド・トロワの物語では、ペルスヴァルは漁夫王への問いかけをしないばかりに王を救えない)の逆転形だけれど、ここで思い出されるのはむしろ「まれびと」信仰だったり(笑)。共同体の外にある異人がその内部に取り込まれることの徴が、ここでは名前の欠落にあるというのが面白い。名前をめぐるタブーみたいなものって、ゲルマンの方とかにあるのかしら?うーん、このあたりはさっぱり知らないのだけれど、ワーグナー版のもとになっているらしい各種のもとのローエングリン伝説にもぜひ当たってみたい。

投稿者 Masaki : 17:22

2004年09月06日

テロル……

北オセチア共和国の人質立てこもりの悲劇。突入が開始された先週金曜はちょうど放送局での仕事があって、転送されていたBBCの特番の中継を途中から見ていたのだけれど、まさかこれほどの惨事になっていたとは……。情報操作があったとかいろいろ言われているけれど、それ以前の基本的な事実を改めて目の当たりにした思いだ。つまりテロが暴力的なら国家もまた暴力のかたまりだという単純なこと。ちょうど先月号の『現代思想』(青土社)が「国家」の特集を組んでいて、そこでも暴力の問題は濃淡様々な形で論じられていたけれど、例えば萱野稔人「国家を思考するための理論的基礎」では、ドゥルーズ=ガタリとかを引いて、国家を暴力の社会機能に即した組織化と定義している。その注では、同じドゥルーズ=ガタリの「戦争機械」をその対抗概念として紹介しているけれど、これって抵抗するゲリラのことだよね。今必要なのはむしろそのあたりの全面的な再考かも。で、柄谷行人がインタビューで述べている「受動的ではない非・暴力」がそこに重なってこないといけない気がする。テロはメディアを大いに利用した戦術だけれど(これほどメディア化されていないなら、人質をとって立てこもる戦術はまったく意味をなさない)、徹底た非・暴力だって、メディアをテコに暴力の抑制をなしうるものかもしれない、と。とにかく関係のない子どもが多数殺害されて、独立のために戦うのだとか、テロとの戦いでございなどと大義ばかりほざいいていてよいわけがない。仮に犯人がチェチェンの武装勢力だとして、こんなことを続けている彼らが将来作る国家(作れたとして)も、すでにしてお里が知れている気がするのだが、どうだろう。

投稿者 Masaki : 10:24