2004年10月30日

ミッション!

発行元がFayardに移って2冊目の"Cahier de Médiologie - no.17"にようやく目を通す。5月に出るはずだったのがなぜか大幅に遅れ、出たのは8月だった。特集はミッション……宗教的には伝道を意味するし、外交的には使節団、さらには使命という一般的な意味もあるこの「mission」なる語。興味深い論考を挙げておくと、まずは語義の変遷(Pierre-Marc de Biasi)。もとはラテン語のmissioで、これは送ること、放置することなどの意味(そこから休みを取るなどの意味にもなったし、中世には出費の意味にもなった)で、宗教的なキリストの代理人の意味が登場するのは14世紀になってからだという。この意味は1500年ごろまで続き、これが伝道の意味で使われるようになったのは17世紀だという(それまではevangélisationが普通だった)。なるほど、以外と宗教用語としてのミッションは古くない。一方の外交使節の用例はmissi dominiciiという形でカロリング朝からあったという。聖王ルイが異端審問の担当者をcommissaireと呼んだのが、現代のフランスの「警察署長」「役人」「監視人」を意味するその語のもとらしい(Michel Biard)。

さらにJean-Francois Clémentの論考「地中海:伝道なき伝達」は、13世紀カラロニアの神学者ライムンドゥス・ルルスのチュニスでの伝道の失敗に言及していて興味深い。論駁だけで伝道は可能だというその信念は、伝道の失敗についての反省の契機を失わせるのだという。続くフランシスコ会も、ドミニコ会も、やはり抜本的な戦略を見直せない……そのあたりの歴史的な検証は面白いかもしれないなあ、と。また、なぜキリスト教ばかりが拡張政策に乗り出していったのかといった問題も刺激的だが、全体的に帝国的なものに絡む論点が意外に少ない。イスラム教の布教についての報告や、アメリカ流メシアニズムについての小論も収録されているが、このあたりは紹介記事的なのが物足りないか?

次号は個人的には待ってましたという感じの音楽論特集。11月刊行予定らしい。Cahiersのサイトによれば、それ以後は年1冊ペースになるんだとか。ん?新たにドブレがMediumという雑誌を刊行するとあるけれど、これって会員制なのね……小部数で手っ取り早い方法だが……。おっ、日本でメディオロジーをいち早く(最初でしょうね)紹介した東大の石田英敬氏が執筆陣に加わっているぞ。表題は「天皇の肖像」?内容は知らないけれど、日本の学者が向こうの雑誌に寄稿したり発表したりするような場合、まずもって日本に固有の状況の紹介・分析を期待されるのは仕方のないところか……。そんでもって、サイード的オリエンタリズムの目線をどう回避するかは思案のしどころ、か……

投稿者 Masaki : 23:10

2004年10月26日

暴力論?

新潟中越地震の波が関東に押し寄せる直前、レンタルビデオの返却が迫っていた『リリィ・シュシュのすべて』(岩井俊二監督作品、2001)を観ていた。これ、かなりキワモノの暴力映画(ネットとかで検索しても完全に評価が二分されているみたい)。舞台となっているのは栃木県らしい(現実の栃木県は地域ネットワークが緻密で、少年たちがやり放題というのはありえない、という話だが)が、雰囲気はゲットー化した東京の郊外という風。その中で繰り広げられる中学生たちの犯罪行為の数々。ロングショットと淡い光線、カメラの手ぶれなどを多用することによって、少年らの表情はひたすら排され、それだけにいっそう犯罪行為の無目的性が浮き彫りになる。昔の不良少年たちのような体制への反撃という目的もなく、他人がもつ異質な部分をひたすら否定しようとして暴力行為が繰り返される。

ここで描かれているのはまさに、マジョリティ(を自認する側)がマイノリティを敵視するという構造のミクロ版。この構造については、例えば酒井隆史『暴力の哲学』(河出書房新社)ではロドニー・キングの事件の絡みで取り上げ、人種差別の構造として論じていたりするけれど、人種差別などに収斂していかない「いじめ」などであっても、同書が示唆する「境界の不安」(自分の領域が侵される不安)がそうした暴力を下支えしていることは十分に窺える。クラスのような小さな集団であっても、その集団の均質性を脅かすものは攻撃対象になり、一方、もともとその集団から突出して均質性を破っているはずのボスは、自分が均質性を破っていることを見えなくするため、均質性のほころびを他の対象に転嫁し恐怖政治を定着させる。うーん、問題なのは均質性、というか均質幻想の一般化か。バラバラな個が、不安をともなう孤独を是認できない場合、一番手っ取り早い解消法は「皆同じ」と無理にでも言って群れること。それは同時に異質なものの暴力的な排除を抱え込んでしまう……。

中学といえば、昔は教室で集団行動を学ぶという目的で「班」を作らされたものだが、ある意味でそうした下位ユニットが、様々な異質なものを混在させ性急な均質化を食い止める調整役を果たしていた気がする。この別のユニット、別の組織化というのは、より大きな問題についても(例えば上の人種差別のようなものについても)有効でありえるだろうか?どういう形で、何を根拠に別の組織化ができるだろうか?……こうしてみると、いろいろ考えることが出てくるかも。

投稿者 Masaki : 23:12

2004年10月24日

震災報道に思う

新潟の震災。今年の夏に訪れたばかりなので、ことさらに胸が痛む。火災による二次災害がそれほどなかったのが不幸中の幸いか。地震の後、テレビの各局はすべて震災報道に切り替わった。そんな中、NHKの教育チャンネルは、視聴者からのメッセージを預かって、それをひたすら流すという、きわめて珍しい対応を行っている。うーん、なるほど誠意はわかるのだが、そもそも時間軸でどんどん流れていく媒体で、そうした掲示板的機能をもたせることには無理があるんじゃないかなあと。双方向チャンネルでもないかぎり、一度流れて画面から消えてしまった情報は再度走査できない。また、罹災者はそもそもそういった番組を見ることができないわけだから、有用性という面でははなはだ疑問だ。一応NHKのWebではメッセージの検索できるようなのだけれど、それだって罹災者は使えないだろう。一見誠意ある対応のように見えるのだけれど(実際誠意もあるだろうが)、その実、これでいいのかは疑問だ。全部をメモって、現地に張り出すとかするのでもない限り、罹災者の役には立たない。また、もしそうするなら、延々とメッセージを流す必要はないのではないか。なんでもやらないよりはやった方がよい、という意見もあるだろうが、教育チャンネルにはもっと別の利用法があるのではないか、という気がするのだ。例えば断水・停電情報、現地の物資の状況などに特化して流すとか。そうすれば支援として今何が必要かがわかり、支援のための行動だって起こせる。

誠意だけでも、形だけでも見せればとりあえず納得、というのがこの国のこれまでの慣行だが(そうでなければ、みずから初心者を名乗るような人が法相になったりするわけない。あれは謙遜ではなく、温情に訴えて逃げを打っているだけで卑怯でもある)、今や求められているのは中身だ。それがしっかりしないと、もはや立ち行かないというところまで来てるんじゃないか、と。

投稿者 Masaki : 23:13

2004年10月20日

ルーマンの宗教論って……

このところ忙しかったのだけれど、ようやく少し息継ぎ。そんな中、合間にちょこちょこと目を通しているのが、ニクラス・ルーマンの『社会の宗教』("Die Religion der Gesellshaft", Suhrkamp Verlag, 2000)。組織論的な観点から宗教にアプローチするというのが興味をひく。本当はもう一冊の『宗教の機能』を先に読むべきなのだろうけれど、あわよくばシステム論の骨子も一緒にかじっちゃえ、という感じで、こちらを優先した……つもりなのだけれど、うーん、この判断はどうだったのか(笑)。まだ3分の1しか進んでいないものの、やたらに抽象論で、具体的な事象への言及があまりないせいか、決してややこしい話ではないように思うのだけれど、進みが遅い。こういう理解でいいかどうかわからないけれど、簡単に言えば、他から自己を隔てる意味論的な差異が、二項対立的なコード化によって、再投入されて強化・拡大されていくもの、というのがシステム論的な集団組織の定義。で、宗教にもそれはあてはまるという話。そうすると集団組織としての宗教はコードの特殊性に帰着するということになる。ならばそれを掘り下げていけばよい……うーん、ただそうなると、ちょっと身も蓋もない定義になってしまう感じもするのだけれど、どうなのだろう?こうした組織論的な宗教の捉え方は、どこか乾燥した砂漠の風景を思わせるのだけれど……。まだ途中だし、別の著書もあるけれど、果たしてその先に、豊かな緑地を切り開いているのかしら?

久々のLiveCamシリーズ:ミュンヘン、2004年6月7日:
0607Munsch.jpg

投稿者 Masaki : 23:37

2004年10月11日

制度的希釈化……

巨星逝く……。さすがにフランス各紙は大きく取り上げていたデリダ死去のニュース。当然、これからしばらくは様々にオマージュが捧げられるだろう。特に日本では、弟子筋って感じで書きたい人も多いだろうし。11日付けのLiberation紙は、1面からデリダの写真。現代思想系の書き手ロベール・マッジョーリの追悼文など、いくつかのオマージュを掲載している。マッジョーリのそれは、その生涯を大まかに振り返りながら、制度や機構には到底回収しきれないその屹立したスタンスをまとめ上げている。

それを読んでみても改めて思うのだけれど、デリダのような人物の輩出は、逆説的ながら、そうした突出ぶりが一種の対立項として浮かび上がるような、厳粛な制度的伝統があってはじめて成立するように思える。デリダ以後の世代に、これぞといった特異な人物がさほど見当たらないのは、一つにはそうした制度の側が対外的に開かれ、全体として徐々に緩んで行かざるをえなかったせいかもしれないなあ、と(フランスも80年代以降、学生数の増加や改革の施行でずいぶん様変わりしたという)。もちろん開かれた学問的制度はある種の理想。ただしそれは全体的な希釈化・縮小化が伴うのではないという条件つきだ。前回のアーティクルで取り上げたオンフレは「哲学の教師がいなくなっても、哲学の営みそのものには何の影響もない」と楽観視しているが、社会集団的な面から考えると、そうもいっていられないかも。拡大再生産か、縮小再生産かを決定づける上で、そうした媒介役(この場合は教師か)の役割は重大だ。ん?対する日本は……そりゃ、言わずもがなってものでんがな。

投稿者 Masaki : 23:38

2004年10月08日

崇高なヨタ話?

ミシェル・オンフレ初来日。フランスの思想界の次世代を担う一人……なのかしら、でも邦訳は『哲学者の食卓』(幸田礼雅訳、新評論)のみなので、日本での知名度はまださっぱり。古代ギリシアのキュレネ派から68年の5月革命まで、快楽主義的な系譜を大きく取り上げている。ちなみに拙訳で『<反>哲学教科書』というのが年内に刊行予定。長く技術系リセの教師だったというが、2002年からはカーン民衆大学(市民大学)というのを主宰している。

さて今回の来日公演、初日と2日目を聴いた。初日は日本の若手研究者との対話。いきなり紹介のイントロが長すぎた感じもあったけれど、まあ仕方ないか(笑)。ただ、書いてきたレジュメを読み上げるスタイルのプレゼンは日本の悪癖だ、といつもながら思う(それじゃレジュメじゃなくて原稿そのものだよなあ。ゼミの発表の悪癖ですな)。対するオンフレ本人は、特に準備した風もなく、ずらずらっと多岐にわたり「ヨタ話」を早口でまくし立てる。同時通訳は大変だったろうと思うけど、講演ってやっぱりこういう「ヨタ話」(いい意味での)が楽しいよね。ま、内容的には、いろいろ事例が取り上げられる割には「哲学はつまるところ自叙伝的」「現代のミクロ化した権力にはミクロ化した抵抗を」「個人の尊厳が認められる社会を」といったいくつかのテーゼに集約される感じだったけれど……。2日目もそれは同じ。フランス人翻訳家との対話を通じてブルデューについて論じたのだけれど、ブルデューの著作を秘められた自叙伝という視点で読む(実存的精神分析のアプローチ)というのはそれほど斬新でもないか。ただ、哲学者には、どこにでも赴くキツネと、一つにこだわり掘り下げるイノシシの2タイプがあるというミシェル・セールの言葉を引いて、みずからをキツネでありたいとの自己規定を述べている述べているあたり、どういう思想的な飛翔を遂げていくのか注目したいところでもある。

ちなみに、オンフレはLe Monde diplomatiqueの10月号にも寄稿していて、よく取り沙汰される哲学の貧困に対し、左翼系知識人の散発的・メディア戦略的な取り組みと、カーン民衆大学の実践とを紹介している。

投稿者 Masaki : 13:50

2004年10月05日

海の怪物

ナチスへの加担で評判の悪かったカール・シュミットだが、最近はアガンベンの例外状態の議論などで、ちょっと注目が高まっている(のかなあ?)。その政治論の一つで、ホッブズを論じた『リヴァイアサン』("Der Leviathan", Kkett-Cotta 1938-2003)を読んでみる。ホッブズの国家論を、中世以来の伝統と17世紀ごろからの世俗化プロセスとの両方にまたがるものとして解釈しているあたり、なかなか正統派な議論のよう。面白いのは、冒頭から続き各所にちりばめられているリヴァイアサンの神話的系譜への言及だったり。なるほどこの海の怪物、ヘビや悪魔などの表象を経て、17世紀にはクジラのイメージに到達する、というわけだ。ホッブズが暴力から身を守る強力な国家像として描いたリヴァイアサンに、海洋国家イギリスではなく、大陸の方で呼応していく点は確かに興味深いかも。

投稿者 Masaki : 00:13

2004年10月02日

秋口の雑感

夏の疲れが今頃になって出てきたのか、軽く腰に来ている。うーん、だんだん歳とともに、秋口に休むというのがいいような気がしてきた。夏の盛りに休みをとって遊ぶのも結構だが、体力回復のためには秋口に何もしない休みを取るのも一興かもしれない。実際、最近は「秋休み」を取る人も増えているそうだ。休みの取り方も当然個人差があってしかるべき。盆や正月に一斉に、というのも考え直す頃合いなのかもしれない……。

そんなわけでとりあえず外出を控えたりすると、どうしてもネットを見る時間が長くなってしまう。けれども最近は、Googleの検索などがどうもあまりよくない。キーワードの検索で、重要なファイルよりも先にBlogが来るのはどうなんだろう。同社の広告戦略にはそちらの方がよいのだろうけれど、なんだかなあという気がする。Googleが始めたニュースポータルも、時間系列が基本なのか、大きなニュースであってもすぐに下の方に行ってしまい、トップページには表示されなかったりする。うーん、しょせんは商売だからなあ。マイナーな情報へのアクセスはだんだんと難しくなっていくのかしら。こうなると、むしろ個別化・専門化したポータルが(もちろん使い勝手や検索効率の問題もあるけれど)重要になっていくようにも思える。

投稿者 Masaki : 22:16