2004年11月28日

正書法とか

最近4年ぶりに携帯の機種を変えた。緑のバックライトが点灯する白黒液晶だったのだけれど、このたび晴れてカラーに(笑)。メニューの操作性などもだいぶ改善されている気がする。とはいえ文字入力の面倒さは相変わらずで、一向に慣れない。

日本の携帯事情が西欧の数歩先を行っているのは周知の事実。アメリカでも欧州でも、流行はショートメッセージサービス(SMS)。これって、5年以上前のPHSでも実装されていたよなあ。顔文字の複雑さほどではないにしろ、外国でもいろいろな表現方法を駆使しているらしい。Qu'est-ce que c'est ? は Kesk C ? なのだとか。オンライン版Le Mondeのニューズレターにも取り上げられていたかれど、最近フランスで、このSMS表記による対訳(笑)本が出版されて話題なのだとか。1789年の人権宣言(D'klara'6 dê droa 2 l'omm É du 6'toay'1 26 out 1789)やマルセイエーズなどのSMS表記を掲載している「Prof SMS」というページは、一種のパロディサイトとして可笑しい。中世の写字生が各種の省略記号を考案していたように、これもまあ一種の省略記号。本来の正書法をかいくぐる簡略表記だけれど、こういう部分からも言葉は当然変わっていくだろうなあ。

これに関連して、というわけでもないけれど、日本語での音声表記にも変化の兆しが?映画『ミシェル・ヴァイヨン』って、Vaillantの綴りでヴァイヨンと読ませている。従来の書きかたならヴァイアンとかヴァイヤンとかだったろうけれど、なるほど鼻母音のanは「オン」みたく聞こえる(南仏だと違うが)。けれどそれではジャンはジョンになって英語っぽいし、パスカルの『パンセ』は『ポンセ』なんて表記になるのかしら。誤表記なのか意図的なのか、たまに某公式仏語教育機関の文化イベント紹介ページなんかにも、ジョンなんたらという人名表記があったりするが、うーん、ま、定着するしないはともかく、原音表記への指向性だけは感じ取れるかな。ついでにいうと、古典ギリシア語なんかも、表記のせいでアクセントが正しく反映されなかったりする。アイステーシス(感覚)なんて書くと、テーの部分が長母音なもんだから、ここにアクセントを置いて読んだりする人がいるようだけれど、それは間違い。この語は本当はイの上にアクセントが来るわけで。確かにそんなことまで表記しようとしたら大変だけれど、間違って平然と読まれても困るよなあ、と……。

投稿者 Masaki : 23:38

2004年11月24日

モルゴン

ワイン関係の通訳仕事の話が来たかと思ったら、その後すぐにキャンセル。まったく失礼しちゃうぜよ。そんな半端な仕事の回し方してんじゃねえぞ>某エージェント。ま、それはともかく。折しも先週はボジョレーヌーヴォーの解禁。「ボジョレーヌーヴォーはやはり欠かせない」なんてほざいているのはバブル期の自己決着をいまだにつけ損ねている輩に多い気がするが、本来は今年の出来を計る指標でしかなく、いずれにしても個人的にはあまり興味はなかったものの、今年は某経済新聞の購読申し込みがキャンペーン時期と重なり、タダで一本もらってしまった。で、これがモルゴン村(ヴィリエ・モルゴン)のもので、個人的にはちょっと嬉しい。モルゴンのワインは近所のひいきの飲み屋(最近行っていないのだけれど)で出していて、全体的に重くてコクがあって、味も複雑……うん、なかなか悪くないと思う。畑(climat)により多少当たりはずれはあるみたいだけれど、ものによっては一般の酒屋で結構安く買えるのも嬉しい。ヴィリエ・モルゴンの紹介ページを見ると、ブドウ栽培は中世から行われていたのだというが、残念ながらその文献史料については詳しく触れられていない。うん、ちょっとこの辺りの話も調べてみたい。

投稿者 Masaki : 22:11

2004年11月21日

韓国映画と懐古趣味

先日、あまり間隔を置かずに韓国映画を2本、DVDで見る。『ラブストーリー』と『殺人の追憶』。前者のクァク・ジョエン監督には、前作『猟奇的な彼女』でその伏線に見事にしてやられたせいもあって、今回は最初から目を皿のようにして見ていたのだけれど……なんだかえらくストレートフォワードな展開で、その意味ではちょっと拍子抜け(笑)。ま、それはともかく。このDVDで特に面白いのは、特典映像みたいに収録されている韓国と日本のそれぞれの予告編とTVスポット映像。韓国のものがいかにも現代っ子という感じにポップな面を前面に押し出しているのに対し、日本公開時の予告編はかなりノスタルジックな感じにまとめている。おそらくターゲットとする観客層の違いが反映されているのだろうけれど、それにしてもこれでは印象が違いすぎるというもの。もう一本の『殺人の……』は予告編につられるようにして見たのだけれど、田舎の警察のバカ騒ぎみたいな部分が延々と続き、詩的な映像になるのは最後のごく短い部分だけ。ちょっと予告編にだまされた感じか。『猟奇的な……』もそうだったけど、『殺人の……』の方は詩的という点でも今ひとつ。こういう映画の作り方、パターンに、あるいは映画そのものの受容の温度差が透けて見えているようにも思えてくる。ある種のヨーロッパ映画が絶対輸入されないように、韓国の映画もまたどこか日本での受容と微妙にずれている感じがする。西欧の場合は一種スノッブな姿勢に回収されて、そういうズレが肯定されていったりするけれど(西欧での日本映画の扱いもそう)、韓国のようにあまりに距離的に近い文化圏については、なかなかそうもいかないのではないかと思う。そこで持ち出してくるのが懐古趣味というわけか。『殺人の……』の宣伝に、黒澤明に言及するキャッチコピーがあったと思ったけど、それと『ラブストーリー』の日本版予告編には通底するものがあるというわけだ。流行の韓流ブームにもどこか同じ姿勢が共有されていそうで、ブームといいつつ、必ずしも隣国の文化的理解へと向かっていきそうにないのが歯がゆい感じもしなくない。

投稿者 Masaki : 21:23

2004年11月17日

紙と書籍と

書籍の歴史はいろいろな意味で面白い。最近読んだ箕輪成男『紙と羊皮紙・写本の社会史』(出版ニュース社)は古代文明の地域別に紙と写本の歴史をまとめた一冊で、なかなかの労作だ。紙という媒体の浸透を決めるものは、結局土地ごとの需要、すなわち市場だという視点で一貫している。それはそれで一見説得力はあるように見えるのだが、ベースのデータは仮説的・推測的な数字でしかなかったり。著者みずからがそういう部分に批判を述べる一方で、時に完全にそれに準拠してしまうのはちょっと問題か。それと記述が時にエッセイ的に流れていくのが難点といえば難点か。文献的情報は手堅くまとめているだけに、ちょっと勿体ない気もしなくない。

これとはうって変わって、近代の、それも日本を扱ったものにも多少は目を通さないと……というわけで、今さらながらだけれど前田愛『近代読者の成立』(岩波現代文庫)。もともと1973年の刊行というから、フランスのアナール派などの動きとの並行現象として、同書それ自体に興味深いものがあるかも(笑)。天保の改革が作家に与えた影響とか、明治初期の貸本屋の凋落とか、立身出世主義の系譜など、各章ともそれぞれに面白いのだけれど、通底する考え方は、人間の能力・適応性(この場合で言えば読み書きの能力)が他を率いていくという、ある意味で至極まっとうなスタンス。上の書籍もそうだが、安易な技術決定論を斥ければ、代わって浮上するのは人の能力や、それに密接に絡んでくる経済関係だが、両者のダイナミズムを下支えするという観点から、再び技術や技法といったものを復権させられるかもしれないなあ、なんてことをツラツラと思ったり。

投稿者 Masaki : 21:03

2004年11月12日

老害問題

この間、映画『Casshern(キャシャーン)』をDVDで観た。ゲームのグラフィックを見せられている感じで最初はのれなかったけれど、映像的なセンスはなかなかに見事で、山場などは圧巻でもあったり。プロット的な破綻やよく分からない部分を力業で振り切っている。若さってそういうもんだよね。原作とは設定が違うというので、旧来のファンは失望しているらしいのだが、一度もかぶることなくヘルメットが床に転がってしまった時点で、ファンはこれを「原作へのオマージュでしかない作品」と割り切り、あらためて作品に没入し直すべきなのだろう。内容的にはむしろ『エヴァンゲリオン』と『風の谷のナウシカ』(アニメ版ではなく原作漫画の方)、それに大正末期から昭和初期の通俗イメージ(ゲームでよく取り上げられている)と北朝鮮あたりの専制国家、さらに昨今の戦争が重ね合わせられているという感じだ。

戦争や生命についてのテーマはいやというほど明示的に示されるが、作品の大きな枠組みとしては、これはある種の老害から若者が自由になろうとする物語になっている。主人公もそうなら、背景にある巨大な帝国もそう。老いた人や組織が突きつけてくる諸問題は、いつも若い世代に傷を負わせ絶望に追いやる。その世代が老いてくれば、また同じことの繰り返しだ。時には若者の反応は過激にならざるをえない。そうした連鎖・スパイラルをどうたち切るのか。その切実な問いかけは、この映画の「若さ」それ自体が突きつけている問題そのものだ。その難しさは、老いつつある(?)世代の観客の反発こそが、雄弁に物語っているのかもしれない。

ちょうどパレスチナのアラファト議長が亡くなった。入院から死に至るまでの経緯のゴタゴタは、なんだか妙に象徴的だ。誤報、夫人の管理・隠蔽主義、財産問題……。かつての解放の戦士も老いて、組織自体も硬直化していった。利権が絡めば、組織はみずからの若返りを阻んでしまう。難しい問題への答えは現実世界でも(でこそ)求められている……。

投稿者 Masaki : 17:33

2004年11月08日

セム語族

中世思想をやろうと思えば、ラテン語ギリシア語はもちろん、アラビア語やヘブライ語といったいわゆるセム語族もかじらざるをえない。古代ギリシアの思想がアラビア経由で入ってきたことと、その翻訳過程にユダヤ人が少なからず関わっているのがその大きな理由だ。中世哲学会が出している紀要『中世思想研究』46号などにも、前年に開かれたシンポジウムでイスラム哲学の問題を始めて取り上げている。いずれにしてもイスラムまでをも視野におさめることは、西欧思想を探ろうとする場合には少なからず必要になってきている。なかなか面白そう。

とはいえ、セム語系はなかなか一筋縄ではいかないもの。例えば辞書を引くのにも語根引きが一般的で、定番といわれるHans WehrのDictionary of Modern Written Arabicもその方式。語根が分からないとちゃんと引けないので、なかなか初級者にはつらいところだ。けれどもポケット辞書ながら、結構役立ちそうなものがアルファベットで引けるAl-Mawrid, Al-Quareeb Pocket Dictionary。ポケット版は今ならAmazon.comのマーケットプレイスとかで買える(価格の幅が大きいので注意が必要かも)。語根引きに慣れるまでは当分こっちで、アヴェロエス(イブン・ルシュド)なんかと格闘できるかしら?それにしても、これだけ中東が関心の裾野を広げているのだから、ぜひ日本語で引ける辞書やまっとうな学習書も拡充してほしいものだと思う。一方のヘブライ語は、キリスト聖書塾が出している『現代ヘブライ語辞典』と版元が変わった(?)『ヘブライ語入門』が定番。学習者にとってはとてもありがたい配慮と充実ぶりに感謝(笑)。マイモニデスとかぜひ原典購読したいなあ、と。

投稿者 Masaki : 23:30

2004年11月06日

アメリカ……

アメリカ大統領選。France 2までもがキャスターをニューヨークに派遣して報道する過熱ぶりだったが、直前予想の通りにブッシュが勝利。ブッシュにしてみれば、なんだかビン・ラディン様々という感じかもしれないけれど、いずれにしてもアメリカが世界全体への影響力を増せば増すほど、その大統領が限定されたアメリカ国民だけで選ばれることの不合理さが際立ってくるのは確実だ。アメリカの大統領選が全世界的な制限選挙にならないよう(それが全世界的な普通選挙になってしまうのはまた別の意味での悪夢だが)、やはりその権能の分散化を促す必要は出てくるのではないかと思う(ただし、だからといってイラクへの進駐に加担せよということではないけれど)。

もう一つ重要なのは、現代人の内側に取り込まれてしまった(血肉化した)「アメリカなるもの」をどうするか、という問題。私たちは少なからず、アメリカ的なものの見方の影響を受けている。これについて、情報学の先鋒、西垣通氏が新著の小説で、虚構という形を借りて考察しているらしい。朝日新聞のインタビューでは、「ポストモダニストたちは相手を甘く見ている」と喝を飛ばしている。うーん、進歩主義をどうするかというのは確かに大きな問題。フランスなどでは、政府関係者も含めて、アンチグローバリゼーションの代わりにオルターグローバリゼーションという言い方を始めて久しい。グローバリゼーションの流れは(利点も含めて)是認しつつ、そこに彼らなりの代替案を探ろうという姿勢だ。では日本は?相手の考えに乗っかるのは得意でも、代替的価値を簡単に示せないお国柄だけに、これは難しいところだが……外なるアメリカと内なるアメリカの猛威に二重に翻弄されるだけの存在から、脱却する道は探れるか……?

投稿者 Masaki : 01:26

2004年11月01日

旅と情報

日本の青年がイラクで人質になり殺害された事件では、戦地へ赴いたその動機についていろいろと言われているようだけれども、こうなってしまった以上、その真意はもはやわからずじまい……。ワーキングホリデーの滞在先から直接中東に赴いたらしいので、現地の状況について事前の情報・認識が不足していたのではないかという話も出ているようだ。

現代社会は移動手段が発達したおかげで、人的移動はすこぶる簡単になってはいるけれども、旅というものの根底には、やはり基本的に「先が見えない」というリスクが横たわっている。そのリスクを低減させるのは、やはり広い意味での情報だ。状況判断はまずもって情報がないことにはどうしようもない。情報が不足している場合には、それを補うための方法も考えなくてはならない(例えば中世の旅人にしても、現代人はつい彼らが結構無防備に旅していたように錯覚してしまいがちだが、ノルマン人の移動にせよ十字軍にせよ、あるいは少人数での巡礼にせよ、彼らは彼らなりに最大限の情報を活用し、周到な準備をして移動していたはずなのだ。それに、決して一部の文学作品(クレティアン・ド・トロワとか)に描かれるような単独行動ではないよう思われる。『薔薇の名前』などに描かれたような、師匠と弟子だけがほぼ単独で移動するなどということが現実にどれだけありえたのか、そのあたりも再検討する必要があるかもしれないのだが……)。

いずれにしても、危険を予測して状況判断を可能にするものでなければ、情報の意味がない。個人がそういう広義の情報に対応しなければならないのは当然だけれども、行政の側にも、もっと別の対応はありえなかったのかしら、とつい思ってしまう。国外にいたらどこで手に入れられるのかもわからない日本の渡航情報などでお茶を濁されては困るのだ。それで「最善の努力をした」というのではあまりに安易すぎる(拉致の一報を受けていきなり「自衛隊は撤退しない。人質救出に向けて最善をつくす」と言ってのけ、あとは人任せで自分はどこぞの結婚式に出ていたというどアホウな指揮官がトップにいるのでは、望むべくもないのだが……)。

投稿者 Masaki : 23:07